14.山上憶良の『貧窮問答歌』  

2003.9.27
 

 持統天皇の御製、
「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天香具山」(万葉集)

 天香具山の麓で、白妙を衣を干しているのは貴族ではあるまい。付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは私には感動的でさえある。この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。決して農民を虫けらのごとく扱っていない。そして農民たちの生活がますます豊かになることを、和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。

 このような農民観は、日本の古代社会を通じて共有された農民観だったのではなかろうか。そう考えないと、日本最古の歌集である「万葉集」に、農民兵である防人の歌があれほど取り入れられるはずはないと思うのだ。

 山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)にしてもそうである。ところがこれは高校の日本史では奈良時代の農民の悲惨さを詠んだものだととらえられている。そこから、ややもすると貴族たちは農民を虫けらの如く扱い、それを当然視していたかのような印象を与える。しかし、この歌の主題はそういうところにはないのである。

 この時代一般の農民が、豊かなことなど普通は考えられないことであって、それを言い出せば、貴族以外のすべての人間たちの生活の悲惨さを言わねばならなくなる。

 問題の本質はそういうところにはないのであって、貴族社会の中に生きる人々の中にも、自分たちが支配する農民たちの生活の貧しさに心を砕くものが居たということの方が、重要なのではないかと思う。その貧しさを一人の貴族がいたわりの目で見ているということが大事なのだと思う。
 そしてそれは単に山上憶良だけに限られるものではなく、上にあげた持統天皇の御製歌にも見られるように、多くの貴族たちの共通した農民観だったのではないかと思うのである。

 本当はそこから古代の政治家たちの農民観ひいては政治観を導き出すことが重要なのではあるまいか。それがうまく行われずに、ただ農民の悲惨さだけを訴える史料として使われているところが何とも残念なことである。

 ヨーロッパ社会に、例えばギリシアやローマの時代、もっと下ってヨーロッパ中世の時代や、古代オリエント社会に、このような農民たちの生活の悲惨さに心を砕いた支配者が居たのかどうか、私は寡聞にしてそういう話を聞いたことがない。

 中世社会の徳政令にしても、私は古代から受け継がれた農民観の延長線上で考えるべきではないかと思うのである。本来、「仁政」を意味するものが「徳政」令なのであるが、それが現在では曲解されて、徳政といえば悪政の代名詞になっている。

 江戸時代の「慶安の御触書」(現在は御という文字はつけないことになっていて、それはそれで問題点をはらむのだが)にしても、農民への指導書と受け取れば、もっと素直に読めるはずなのだ。

 江戸時代には「撫民」という思想があり、貧しい農民たちに、芋がゆなどの施しをするのは、為政者としてのあるべき姿だと考えられていた。そのような観点に立って「慶安の御触書」を素直に読めば、

「年貢さへすまし候へば、百姓ほど心易きものはこれなく、よくよくこの趣を心がけ、子々孫々まで申し伝え、よくよく身持をかせぎ申すべきものなり。」

という言葉も、年貢さえ支払っていれば、あとは干渉しないということを述べているのであって、これは税金さえ払えば、農民の私的所有権を認めるということなのである。こういう社会は決して奴隷制社会ではない。そして私的財産を貯めていくためのいろいろな心がけを教えている。これを幕府の「愚民観」の表れだと捉えるのは、行きすぎではないかと思う。

 私は、もし武士階級が百姓に対して、よくいわれるような愚民観を持っていたとすれば、明治になって、武士の子も百姓の子も机を並べて同じ小学校で勉強することなど不可能だったと思う。しかしそこに混乱があったという話は聞かない。武士階級も農民の子供たちと一緒に勉強することをすんなり受け入れていったのである。そのことをどう説明すべきなのか。
 そこが従来の日本史を流れる「愚民観」では説明がつかないのである。

 そしてそのことは親が子供を愛でる気持ちの豊かさとつながっている。

 山上憶良にはもう一つの有名な歌がある。
「しろがねも くがねも玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」

 このような親の子に対する情愛の深さは、決して自分の子供に対してだけ生まれるものではなく、社会生活全般の情愛の深さの中で育まれていくのである。



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