19.『公地公民制と太閤検地』  公的な政治責任とは
 

2003.12.23
  

 
日本の歴史が不思議なのは、天皇と将軍の関係である。
朝廷が力を失ったあと武家政権が誕生するが、
その武家政権の頂点に立つ将軍とは正式には征夷大将軍であり、鎌倉将軍にしろ、室町将軍にしろ、徳川将軍にしろ、すべて天皇の家臣という立場を取っている。
なぜ朝廷を滅ぼして自ら国王の地位につかなかったのか。
この日本の歴史の二重構造は、日本史を勉強していく中で最後までつきまとう大きなテーマである。
このことを一言で説明することは非常に難しい。

もともと幕府とは将軍と御家人との主従関係で結ばれた私的組織である。
将軍の「御恩」という土地の安堵と、御家人の「奉公」という軍役とが相互に結びつけられた私的な関係である。
そのような「私的」関係にもかかわらず、
それに基づいて「公的」な権力が執行されるというのは、封建制に最後までつきまとう矛盾である。

古代末期の無秩序な地方社会の中で、時代を生き抜いてきた武士たちにとって、
自らの才覚によって自らの地位を築いていくことは当然のことであった。
土地を守るための私闘はたえず行われ、
自らの力によって自らを守るという自力救済の考え方は当然視された。
そのような意味では武士団というのは私的な暴力集団と変わらないが、
そのような集団が支配のための正当性を求めるときには公的なものに近づこうとした。
ここに武士団の二重性がある。

つまり集団の活動理念そのものは私的な活動を中心とし、
それに対しては自己責任を引き受け、
さらに社会面においてはたえず没落の危機にさらされる実力主義的な活動を営んだが、
それが一旦政治的な面に及ぶと、
公的な貴族社会に近づいていく中でその一翼を担っていこうとしたのである。

源頼朝は、自らの出自が清和天皇の末裔である清和源氏であることを利用しつつ、
朝廷との関係を密にし、朝廷の家臣の立場を手に入れることによって、
自分の私的武士団を朝廷の一翼を担う政治機構へと変質させることに成功した。

ここには表と裏の関係に似た集団原理の違いがある。
あるいはホンネとタテマエの関係といっても良いものがある。
武士たちは鎌倉幕府成立以後も、ホンネとしては従来通りの私的・自己責任・実力主義の社会を生き抜くが、
それは政治の表面の場では厳しく抑制され、
日本が一つの国として成立しうるための共通した政治原理を提供する機関であることを求められたのである。

ここに公的・表・タテマエの世界と、私的・裏・ホンネの世界が分離しつつ共存するという事態が武士たちの心の中に発生したのである。

武士はもともと草莽の武士であって、土地に根づいたものであった。
武士を社会制度の面から考えるとき、その主役は源頼朝ではなく、
あくまでも彼ら土地に根づいた武士たちを主役に考えなければならない。
そういう意味では源頼朝は朝廷とのパイプ役に過ぎないとも言える。
ある意味それはタテマエであり、表の世界の出来事である。
しかしその表の世界の出来事を自分には関係のないこととして考えるのではなく、
あるべき姿として当事者意識を持って捉えたのが日本の武士社会である。

しかも彼らの生活の実態が草莽の武士であったことは、日本の階級の幅を著しく縮める作用があった。
それ以降、豊臣秀吉に至るまで、どのような階層からでも出世の糸口は見つけられたのである。
そういう意味では日本はまさしく実力社会であった。

草莽の武士たちが歴史の表面に立った鎌倉時代は、日本の実力社会の到来であったともいえる。
それは武士社会だけの出来事ではない。
農民たちの自立化も進み農業生産が向上しただけでなく、
農業生産の向上は商品流通をも発達させ、鍛冶・鋳物師・紺屋などの手工業者を発生させていく。
中国からの輸入銭である宋銭が広く流通し、高利貸し業者さえ現れるようになった。
このようなことは古代社会にはなかったことである。

武士たちは確かに貴族社会に比べれば私的で自由競争の実力社会に生きていたが、
本当の意味での私的な自由競争社会は実はこのような貨幣経済の面においてより鮮明に現れる。
それは武士社会の自由競争社会を上回るほど徹底された実力社会であるのだが、
やがてそれが武士社会そのものに対立するものであることはまだはっきりとは意識されてはいなかった。

鎌倉時代は、この私的な実力主義的傾向をだんだんと強めていき、
それは朝廷を弱体化させていくだけでなく、
幕府そのものをも弱体化させていき、
ついに鎌倉幕府は滅んでしまう。

その後は南北朝の動乱が続き、室町幕府が成立したものの日本の政治構造は弱体化する。
その間、勢力を伸ばすのは各地に発生した様々な私的集団である。
惣村の成立しかり、
土一揆の発生しかり、
国人一揆の発生しかり、
座商人の発生しかり、
自治都市の発生しかりである。
このような私的集団が乱立し、互いにその勢力圏を地域的・社会的に争いあっていたのが中世社会である。

政治的には中央集権制は崩れ、地方分権型の政治構造がどんどん広がっていく。
その終着点ともいうべきものが、各地に独立政権が乱立し互いに覇を競い合う戦国時代である。
それは私的勢力が地方で抗争を繰り返していった結果、
淘汰され、生き残った代表者の全国大会的トーナメント戦ともいうべきものであり、
その生活原理は自己責任による私闘にあった。

しかしそれは同時に戦国大名の分国内では喧嘩両成敗法による私闘の禁止を生んでいく。
私的ルールの制限の方向に向かう。
戦国時代になって初めて中世社会を支配したルールの否定が行われる。

その後も分国内の私的ルールの否定から全国的な公的ルールの獲得へと向かうベクトルは、
信長・秀吉・家康と続けられ、天皇家への接近が行われた。
さらにそれ以前から武家社会は公家社会の文化を否定することなく、
ずっとその文化にあこがれ続けた。
そのような文化の受容は政治的にも生かされていき、やがて武士独自の政治理念を公的なものに変えていく。

そのような中で勧農政策として、初めて秀吉によって全国的な小農自立政策(太閤検地)がとられ、
それは近世社会を通じての大きな柱になっていく。
一方で家臣を城下町に主従させ、領地の農民たちとの結びつきを断ち切りながら、
その一方では農民たちに土地を与え、彼らの生活を保障し、農村の自治を認めた。
農民たちの生活の向上という点からは、非常に優れた政策である。

良く教科書にはこれに対して農民たちの一揆が起こったと書かれているが、
それは太閤検地と表裏一体の関係にある刀狩りに対して農民たちが反対したからであって、
決して土地をもらうことに対して一揆を起こしたのではない。

農民たちの心配は、
『土地をもらうのは良いが、もらった以上それを守るのは自分たちだ、刀がなくては守れない』ということにあった。

秀吉にしてみれば、
『そんな人の土地を奪うような行為はオレが許さない』と言おうとしたのだが、

それまで日本の社会の中で、自分の土地を人が守ってくれる社会など存在しなかったから、農民たちはそれを信用しなかったのである。
しかし日本の近世は本当に秀吉が言ったとおりの社会になるのである。
それによって農民たちの勤労意欲は向上した。

江戸時代の安定した社会はこのようにしてつくられたのである。
秀吉の太閤検地はそういう意味では、古代の公地公民制の再現ともいうべきものであり、
結果としては農民への口分田班給以上の効果をもたらしたといえる。


私はここに武士の公的な為政者としての政治理念の発生を感じる。
秀吉は一揆のような私的ルールの否定と同時に、日本全体の農民の生活保障を行ったのである。
立身出世の権化のように言われる秀吉であるが、
彼が競争型の社会よりも安定型の社会を選んだのは、単なる思いつきではなく、
出生から天下人になるまでの自己の半生をとおして形作られた強固な政治理念であったはずである。

天下さまと言われた秀吉は、
農民まで含めた全国に対する政治責任を、『天下』という包括概念で捉えた初めての武家政治家である。
秀吉の『天下』はそれ以前のどの武家政権よりも、地理的にも階層的にも広く、そして思想的に大きい概念である。
私はそういう意味で、『国民』という概念にたどり着いた日本で最初の政治家は秀吉ではなかったかと思う。

従来の幕府は武士に対してだけその政治責任を引き受けるものであり、
農民への政治責任という政治概念は従来の幕府にはなかった。
それは鎌倉幕府の発した永仁の徳政令が、武士への土地保障だけを念頭に置き、農民の土地保障は対象外であったことと比較してみると、その違いは明らかである。

秀吉ほど徹底した農民保護政策をとりえた武家政治家は、日本の歴史の中で他にいない。
太閤検地は瞬間芸ではない。秀吉の死まで続けられた気の遠くなるように巨大プロジェクトである。
そのプロジェクトにたいして秀吉は不退転の決意で望んだ。
そのような日本全体の農民の生活保障に対する責任を、時の為政者が不退転の決意を持って引き受けることによって、江戸時代の安定は築かれていくのである。

確かに秀吉は征夷大将軍になることはなかったが、
このような武家社会における農民全般に対する政治責任の発生は、武家社会が公的機関になろうと努めてきた長年の努力の結果であり、
農民に対する政治責任をも引き受けるという政策を実際に実施していくことによって、武士団という私的組織が公的な政治権力として広く国民全体から承認され、信頼されるようになるのである。

農民出身である秀吉にとって『天下』とはこのような『天下』でなければならず、そういう『天下』でなければ意味がなかったのである。


今の小泉政権の市場原理の無責任さと比べると、その違いがより分かりやすくなると思う。




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