征夷大将軍と幕府



一.はじめに

 征夷大将軍。幕府。
 どちらも歴史用語としてはとてもメジャーなものです。こんな言葉初めて聞いた、っていう人は、普通に小学校や中学校で社会を教わった人ならまずいないでしょう。
 しかし。これら言葉は知っていても、その本当に大事なポイントをみんながみんな抑えているかといえばそうではないと思います。現に私自身があまりちゃんと理解できていませんでした。そこでここでは、その本当に大事なポイントを説明していきたいと思います。



二.征夷大将軍について

 征夷大将軍というのはもともと、「狄」を「伐」する「大将軍」という意味です。「夷狄」というのは、「野蛮人」とか「原始人」とかいう意味で、日本が中国から輸入した思想に基いています。その輸入した思想というのは中華思想。すなわち我こそは世界の中心であるという考え方であります。
 中国は、自分の国を世界の中心と考え、周りの国はすべて未開の野蛮な国であるとして、東を「東夷(トウイ)」、西を「西戎(セイジュウ)」、南を「南蛮(ナンバン)」、北を「北狄(ホクテキ)」とそれぞれ呼んでいました。意味は東西南北みんな同じようなもんで、とにかく野蛮であるということです。
 これは余談になりますが、57年に倭の奴国の王が後漢に使いを送って金印を授かったという話が記載されているのは『後漢書』の『東夷伝』という部分です。これは中国から見て東にある日本は「東夷」だからです。
 で、この「征夷大将軍」という名称は、奈良時代末期や平安時代初期に、東北地方にいた「蝦夷(エミシ)」を征伐するために派遣された軍団の大将に使われたのが最初です。坂上田村麻呂が有名だと思います。奈良や京都からみて東北地方は「東夷」にあたった訳で、だから東北にいた勢力を「蝦夷」と名づけ、征伐しようとした訳です。ちなみにこの「蝦夷:エミシ」っていう名称がずっと残って、明治の頭ぐらいまで北海道の事を同じ漢字を書いて「エゾ」って呼んでいたのですからいかにずっと北海道の人たちが差別され続けていたのかがよくわかります。
 またまた話がそれてしまいましたが、「征夷大将軍」というのはそういう意味の名称でした。では、源頼朝以後、征夷大将軍になったら「幕府をひらく」ことになるのはどういうことでしょう?書いてきたとおり、「征夷大将軍」にはもともと「東北の野蛮人を征伐する将軍」という意味しかありません。
 そもそも「幕府」ってなんなんでしょう。次でそれを見ていきます。



三.幕府について

 幕府・・・当たり前の歴史用語のように使っていますが、いったい幕府とはなんなんでしょうか。「源頼朝は1192年に征夷大将軍に任命され、幕府をひらいた」というような言い方がされますが、幕府をひらくというのはどういうことなのか、当然の事ながらお店を開くように「ひらく」事が出来るものではないわけです。
 まず結論から先に言うと、幕府というのはもともと、幕(マク)の府、すなわち幕でつくられた政府ということでした。それはいったいどういうものかといえば、モンゴルの遊牧民が住んでるようなちょっと大掛かりなテントのようなものを想像してください。それかあるいは、戦国時代の合戦の時に大将がいるところの周りをぐるっと幕で囲んだようなところと考えてもいいです。
 初めて征夷大将軍という役職が設けられたのはさっきも書いたとおり奈良末期〜平安初期のころのことです。で、征夷大将軍は東北地方を平定しに行ってた訳ですけれども、戦争する際に、ある程度将軍が自分の判断で行動できなければ戦争に勝つ事はできません。携帯電話もメールもない時代、いちいち東北の最前線から近畿にいる天皇の所までお伺いをたてて戦争していては臨機応変に対応する事ができないからです。そこで、征夷大将軍には軍事行動に関することを自由に決めてもいいという権限が与えられました。統帥権が与えられたと言ったほうがわかりやすいでしょうか。そして、もともと幕府というのはその征夷大将軍が作戦やら何やらを決める時に使った、幕で作られた臨時の政府(というか参謀府)だった訳なのです。だから、平安時代の征夷大将軍、坂上田村麻呂だって幕府をひらいていた、と、言葉のもともとの意味から考えれば当然のごとく言えるはずです。
 しかし、歴史的に重要なのはやはり源頼朝以後です。頼朝は、全国に守護と地頭を置く、という事を行いました。そのことによって全国に直接的な支配権を獲得していった訳です。ただし、ここでポイントなのはその守護と地頭も、それを置く名目としては、源義経を捜しだすためということになっていた点です。このとき、義経は朝敵になっていて、後白河法皇が義経追討の院宣を出していました(これは頼朝に半ば脅されての事ではあったのですけれども)。ですから名目的にはあくまで天皇(この場合は法皇やけど)の命令を聞いた上での軍事行動の一環という事になるわけなんです。
 で、そういう流れなので、1221年の承久の乱もまた歴史的に大きな意味がある事件です。承久の乱っていうのは後鳥羽上皇と、北条泰時を総大将とする鎌倉武士が戦って、後鳥羽上皇側が負け、上皇らが島流しになった事件ですけど、この事件によって決定的に征夷大将軍と天皇の力関係が逆転したのです。まだ頼朝が守護地頭をおいた時期には気をつかっていた天皇の存在を、力で否定したかなり画期的な事件なのです。
 これ以後、鎌倉時代を通じて天皇の政治権力は北条氏によって奪われます。そして鎌倉幕府が倒れた後、一旦は後醍醐天皇によって建武の親政が行われるものの、またすぐに足利氏によって権力を奪われて、天皇家は南朝と北朝に分かれて戦ったりしてさらに力をおとすことになり、そのあと室町幕府が倒れ戦国時代を経て江戸時代になってもその権力が回復されることはありませんでした。



四.幕末になって

 しかし幕末、すなわち江戸時代末期になって、将軍と天皇の力関係はまた微妙なものになってきます。その原因はペリーの来航以後の外国船の来航とそれにともなう開国です。ペリーがやってきたときの天皇は孝明天皇。この孝明天皇が大の外国嫌いでした。で、幕府が脅しに負けて開国することに許可を与えなかったんです。
 上で書いたように、征夷大将軍のもともとの意味は、夷狄を征伐する将軍、で、それを任命するのは 天皇でした。夷狄というのは最初の頃には東北地方に住む人たちの事を指していましたが、基本的には「野蛮人」という意味です。で、中華思想(我が国こそが世界の中心)という考えによれば、どんなに自分たちの方の文明が遅れていようが外国はすべて「野蛮人」の国ということになります。だから、日本人にとってはアメリカ人だろうがイギリス人だろうが、彼らは「野蛮人」すなわち「夷狄」になるわけです。戦国期にオランダ人やポルトガル人の事を「南蛮人」とよんで「南蛮貿易」を行っていたのも、彼らが南からやってくる「野蛮人」という発想からくるネーミングに他なりません。
 だから、幕末の開国というのは、天皇に夷狄を征伐する為に任命された征夷大将軍が、天皇の意に反して自分の職務を遂行しなかったということになるわけです。いままで見てきたように、権力は途中から将軍に奪われていきましたが、正当性はずっと一貫して天皇の側にあったのです。
 こうして、幕末期に日本国内では天の意思を重し、狄を討ちえという運動がおこるわけです。これが即ち「尊皇攘夷」運動(攘=払)で、そこから、いつまでたっても外国(夷狄)のいいなりになって仕事をしない将軍、幕府なんて潰してしまえという倒幕運動につながっていく訳であります。
 その後の幕末の動乱から明治にかけては色々と面白く私が一番好きな時代ですがそれはまた別の機会に書きたいと思います。
 ただ一つだけ、今回のテーマに関する興味深い話をしておきます。
 幕府が倒れて明治になっても「攘夷」というのは実行されていませんよね。じゃんじゃん貿易し、富国強兵の名のもと近代化を図ったのですから。もともと幕府を倒す口実は、天皇の意に反して開国した、というところにあったというのは上記の通りですが、じゃあなんで明治になったら開国してんの?っちゅう話になりますやんか。この辺が陰謀渦巻くっていう感じなのですが、最初は攘夷を考えてた薩摩や長州も、途中からは攘夷は無理ってあきらめて、単に倒幕の口実にのみ使う事にして実際には攘夷はやめます。で、自分らが幕府倒したときにはそのまま開国していく訳ですが、あくまで開国には反対してる孝明天皇は薩長にしたら邪魔な存在です。幕府倒したあと孝明天皇が天皇のままやったら今度は自分らが攘夷を実行しないといけなくなってしまうからです。
 で結局どうなったかといえば、孝明天皇は急逝します。天然痘にかかって突然、崩御したのです。ここで、もちろん実際の所はどうだったかはわからないけど、暗殺説があるのです。それも結構具体的で、薩長と組んでいた公家の岩倉具視が、医師に命じて孝明天皇の傷口に天然痘の菌をすりこまさせたというようなもの。もし本当に暗殺されたなら、薩長や岩倉は一方で尊皇を唱えながら裏で天皇を暗殺した事になります。自分らが幕府を倒してそのあと自分らで政権を握る為に。
 まあ、あくまでも孝明天皇の死の本当のところは謎なのですが、孝明天皇が死んだあとは幼い明治天皇が立てられて、明治をむかえます。

・・・おしまい・・・


【参考文献】
 司馬遼太郎『義経』『燃えよ剣』『最後の将軍』などなど。
 井沢元彦『逆説の日本史』シリーズ。
 海音寺潮五郎『武将列伝』『悪人列伝』シリーズ。  他

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