Poetry report  詩人 ・安田倫子の朗読レポート

カワグチタケシのポエトリー・レポートvol.1

凹凸 ことばのかたち

2001年9月23日 18:30〜20:00
poet:安田倫子 music:スーマー
JAZZ SPOT 映画館(東京都文京区白山5-33-19 tel 03-3811-8932)


"ことばの意味は、辞書を引けば載っている。でも、聞こえてくることばそのものには音がある。「ことばのかたち」をイメージした時、意味だけでなく、何か者を叩けば音がするように、声やことばのリズムからその輪郭をなぞることができる。今回は、よくある詩の意味やイメージをよりわかりやすくするための「音楽」に合わせての朗読ではなく、音がぶつかったり交わったりしながらことばのかたちを想像してみよう・・そんなコンセプトから始まっています。聞こえるままに想像してみてください。"(リーフレットより)

がさつな言葉を使えば使うほど、生来の品の良さが強調されてしまう人がいる。その装いが質素であればあるほど逆に、その人自身の美しさが際立ってしまう人がいる。この日の主役である安田倫子さんも、間違いなくそういった種類の人間である。袖にネイビーとイエローのストライプが入ったベージュのジップアップ・ジャージに茶色のコーデュロイ・ジーンズ。ゆるくウェーブのかかった前髪にシルバーのヘアピンが一つだけ。それ以外には指輪もピアスも、アクセサリーはひとつもつけていない。化粧っ気もなし。それがかえって彼女の美しさ、表情の美しさ、肌の美しさを強調している。

オープンマイクのMCというのはタフな仕事だ。詩人だとか表現者だとかを自称する自分勝手な出演者たち、それも当日になって蓋を開けてみなければ誰が来るかもわからない。そんな人たちを仕切り、場の空気を作り、未熟な出演者の緊張を解きほぐし、観客との橋渡しをする。時にはセラピストのように、また、猛獣使いのように。安田倫子さんは、2年間に渡って"Through the Voice"というオープンマイクのMCを務めてきた。人が言葉を声に出す、それが別の人の耳に届く、そのありように対する純粋な興味。それが彼女にとってはMCという大役へのモチベーションだった。定期的にイベントを実現していくこと、しかも、その中身は主催者のコントロールが及ばない部分が大きい、というふたつの大きなストレスに勝る興味と楽しみがあったに違いない。

その安田倫子さんが朗読会を開催した。しかも意外なことに初めてのソロ朗読会だという。折りしも当日は、白山神社と根津神社の秋祭り。いくつもの神輿が行き交う通りから石段を降りて、会場のJAZZ SPOT 映画館へ。ここは普段"Through the Voice"が開催されている店でもあり、いわば彼女にとってのホームグラウンドである。客席はすでに一杯に埋まっている。いつものオープンマイクの出演者たちの顔もちらほら。今日ばかりは聴衆に戻っている。

定刻から30分程遅れてマイクに向かった倫子さんは、客席のざわめきもそのままに、最初の詩「ねむるいき」を静かな声で読み始める。ステージに近い側から波が引くように静寂が客席全体に拡がる。静かな声、しかし、細くて強い声なのだ。それも鍛えられた強さではなく、本人の意志とは無関係に、自然に身についてしまった強さが声に表れる、しかも静かに。簡単な挨拶に続いて「ドライバス」「川が海になる少し手前で」の2篇を一人で朗読する。壁に掛けられたいくつものアンティーク時計の振り子が繊細なポリリズムを奏で、それを縫って詩人の声が聞こえる。先週ひいた風邪がまだ直りきっていないという少しだけ鼻にかかったハスキーな声。心地よい緊張感が客席を包む。

4篇目の詩「再会」からは、スーマー氏が加わる。スーマー氏はゴブリンズ・ショート・ヘアというバンドのドラマー/ボーカル。今回のパフォーマンスでスーマー氏が出す音は、空き缶をこする金属棒であったり、プリキのブラシであったり、時にノスタルジックに、時にジャンクに空間を満たしていく。言葉の意味や雰囲気を補足し過ぎることなく、かといって、反発するわけでもなく空間を構築していく。彼の奏でる音が加わることで、声だけで始まった朗読会の客席の緊張感が、少しずつ和らいでいくのがわかる。"いつの頃からか/夢を噛む癖が直っていて/苦笑した"というフレーズが印象的な「ツメキリげんまん」。「かけはぎ」"私はふちをまたぎくたびれた/コートの穴にそっと指を入れた"。某元アナウンサーがこの詩を朗読したのを聞いて「自分の詩を読むことでは負けたくない」と思ったというエピソードに倫子さんの気の強さが思わずのぞきドキリする。そして、以前"Through the Voice"で配付している冊子に載せたが、自身で読むのが怖くて一度も朗読していなかったという「夜の歯」。"のびきったそら"や"ぷゆーぷゆーしたわたしじんのゆらぐおもい"という擬態語が効果的なエロティックな夏の詩「とけたひ」。めずらしくハイテンションで読み飛ばした「だましだま詩」で第一部は終了した。

約15分のインターバルを挟んで、第二部が始まった。もう一度、音楽を伴わずに一人だけで、今はアメリカにくらしている友達との間のやり取りを描いた詩「関係性」。再度音楽が加わって「沈黙に関するモノローグ」。スーマー氏はサックスのリードだけを口にくわえ、微妙な陰影のある音程を、言葉に添えていく。そして、生まれ故郷であり、少女時代を過ごした浅草を舞台にした自伝的抒情詩「商店街チルドレン(仮題)」。スーマー氏のハーモニカがチャルメラのような遠くから聞こえるチンドン屋のような懐かしい響きを付け加える。浅草という土地ほど「生まれ故郷」という言葉が似合わない土地もない。夕暮れ時の浅草の街の描写は郷愁を越えて、見世物小屋的な猥雑な猟奇性を子供の視点で描く。倫子さんは浅草の大店のお嬢様だ。毎日の幼稚園のお迎えにお店の従業員さんが母親の代わりに来るような。下町のお転婆なお嬢様なのだ。時にがさつに映るのも、それでも、品の良さが隠せないのも。その人となりは、自然にそのテキストに、朗読に表れる。等身大であることは、本当の意味で等身大であることは、稀有な才能を必要とするものなのだ。「商店街チルドレン(仮題)」は、この日の朗読で最もリアリティをもって響いた作品だった。

「後姿の女」"はがれて/はがれおち/て/はがれおちた葉を/自らの足で踏むために"という決意にも似た一行で終わる「後姿の女」。カウンターの上に設置された波長計(Through the Voiceのロゴにもなっている)にマイクロフォンを静かに震わせる詩人の声が増幅されてグラフィカルに表示され、声とともに消える。「「冬、入口」の看板」"瞳は蜂蜜の潤みを保ち"。「ふじゅんばいよう」"ぷるんぷるん""うすいまく""ねんえきしつ""ほかのだれもみていないからできること"。これらのワードがグラスハープの透明な響きとともに届くとき、エロティシズムは不思議と希薄になり、物理的な形質だけが像を結ぶ。柔らかさも一つの力学である。

ふたたびサックスのリード音に乗せて「行方不明」。呼吸音と楽器音の狭間を縫う、シンプルな言葉。"湿り気を帯びた路地裏を吹く風で私はできている"という「切り株」。「商店街街チルドレン(仮題)」のセルフアンサーともいえる浅草を舞台とした詩だ。「ベリーベリーベリー」はペニスのメタファーとして白いシーツの上のイチゴを描いたエロティックな詩。"ぷっくり""ぷちぷち""ぷかぷか"という擬態語が再び登場する。ここまでの朗読よりも1オクターブ低い声で読まれた「電源オフ」。そして、今夜のもう一つのハイライトとなった「三重詩2」。"立法メートル""天気予報""年末調整""システム手帳""感情欠落""終わりのない迷路の入り口"という細切れのフレーズが、MDの左右のチャンネルにそれぞれ録音された倫子さん自身の声と生の朗読、三つの声で、時に響きあいながら、また、乖離しあいながら、つっかえつっかえリズムが進んで行く。ことばの意味は、不規則な濃淡を描き、次第にサウンドに収斂されていく。その居心地の悪さはどこか心地良い。

そして、約90分の朗読は終了した。安田倫子の詩の最大の美質は「無理のなさ」ではないかとわたしは考える。それはそのまま「佇まいの美しさ」「表現としての礼儀正しさ」につながる。詩にエキセントリシティを期待する向きには物足りないものがあるかもしれない。しかし、彼女は彼女なりに極めて真剣に言葉を紡いでいる。それは何か自分というものを確認するための作業のようにも見える。その痛々しさが、ひとつのアクチュアリティであるということを、否定できる者はいないだろう。"Through the Voice"は2001年一杯をもって終了するという。その先彼女がどこへ向かうのか。私はあくまでも何気なく(何気なさを装って実は興味深々に)気にしていたい。