カワグチタケシ
詩人、pricilla labelプロデュ-サ-詩の教室講師、ポエトリーカレンダー東京スタッフ
「インターナショナル・クラインブルー」「クリスマス後の世界」他、詩作、詩集多数










Takeshi Kawaguchi talks about poem Vol.1

はじめまして、カワグチタケシです。詩をやっております。HP上で詩についてなにか話して欲しいとの発注がありました。それでまあこういった文章を書いているわけです。もう2年近く毎月2回ずつ下北沢の書店フィクショネスでワークショップの講師などやっておりますもので、多分、何か講座のようなものを期待しているのではないかと思いますが、どうにも僕は批評とか評価とかにはあんまり向いていないみたいです。だからこのコーナーでも、ただ好きな詩を取り上げて、どうして好きなのか書くということにします。一応毎月一篇を目標にしたいと思います。さてそれでは第一回目。


青い車

冷えた僕の手が 君の首すじに咬みついてはじけた朝
永遠に続くような掟に飽きたら
シャツを着替えて出かけよう

君の青い車で海へ行こう おいてきた何かを見に行こう
もう何も恐れないよ
そして輪廻の果てへ飛び下りよう 終わりなき夢に落ちて行こう
今 変わっていくよ

生きるということは 木々も水も火も同じことだと気付いたよ
愛で汚された ちゃちな飾りほど 美しく見える光

君の青い車で海へ行こう おいてきた何かを見に行こう
もう何も恐れないよ
つまらない宝物を眺めよう 偽物のかけらにキスしよう
今 変わっていくよ

潮のにおいがしみこんだ 真夏の風を吸いこめば
心の落描きも踊り出すかもね

君の青い車で海へ行こう おいてきた何かを見に行こう
もう何も恐れないよ
そして輪廻の果てへ飛び下りよう 終わりなき夢に落ちて行こう
今 変わっていくよ
今 変わっていくよ


「青い車」は、スピッツというロックバンドの歌で、1994年にリリースされました。歌詞を書いたのはボーカルの草野正宗氏です。僕がこの歌を初めてきいたのは、池袋のWAVEででした。『空の飛び方』というCDが出た直後、スピッツが「ロビンソン」でブレークする直前のことです。

スピッツというと、60年代以降のフォークソングをインディーズ・ロックの文脈で復活させたという評価がされていますが、確かにこの詩にも、昔のフォークソング〜ニューミュージックが持っていた最良の要素のいくつかを引き継いだ上で、彼等なりの現代的な解釈が加えられて、とても美しいものになっていると思います。

安保/反戦運動とその挫折、による無気力化、そしてその当然の帰結としての学生運動の自然消滅。これらを背景にして登場し衰退したフォークソング。無気力化の向かう先は、田中康夫がそのコンセプトを明確にし、現在まで続く、歪んだブランド信仰だったのですが、その狭間で咲いた仇花のようないくつかのフォークソング〜ニューミュージックには「死」のトーンが色濃くありました。伊勢正三の「なごり雪」、荒井由実の「海を見ていた午後」・・・。それらには、直接的な死の描写があるわけではありませんが、それでも拭いがたい死の匂いがしてしまうのはなぜなのでしょう。現実に1970年前後の東京の若者にとっては、今よりも少しだけ死が身近にあったということなのかもしれません。

人は必ず死ぬということ、それを見て見ぬ振りをしないこと、それはとても当たり前のことです。僕はスピリチュアルなことや霊的なことはよくわかりませんが、現実としてそうなのだと思います。でも、70年代後半から僕のまわりでは、そんな当たり前のことがしばらく失われていたような気がするのです。そして1990年代において、フォークソングの失われた伝統を復興させたのが、草野正宗と小沢健二というふたりの詩人でした(後者についてはこのコーナーでいずれ触れる予定です)。

さて「青い車」について。まず冒頭の一行は、簡単なメタファーにより、絞殺、または、絞殺未遂を示唆させます。何かに退屈して、その退屈が耐えがたく、そこから逃れるために選択される一つの非日常としての殺人。それは、現代の若者にとっては、新しいシャツに着替えることとほぼ等価なのです。そして「君の」青い車で海へ、おいてきた何かを見に。この「君の」が「君と」ではないことに注目したいと思います。つまり、恋人を殺した男が、殺した恋人の車に乗ってひとりで海へ向かう。「おいてきた何か」とは何か?それは四連で「つまらない宝物」と「偽物のかけら」という言葉で暗示されますが、結局最後まであくまでも「何か」であって明確な像を結ばないのです。そして「輪廻の果てに飛び下りよう」「終わりなき夢に落ちていこう」という自殺(あるいは自殺願望)を示唆する描写。こう読んでいくとなんだかとっても暗い気持ちになってきますが、この詩が歌われるときに感じる爽やかさは何なのでしょう。「青い車」の「青」のせいかもしれません。また、歌詞にありがちな安易な「体言止め」を最小限に抑制しているのもそういう効果を高めているのかもしれません。詩の教室的に一つだけ注文をつけるとしたら、一連の2〜3行目は一行に続けて書いたほうが形式が整う感じが出ていいような気もしますが、それはたいした問題ではありません。むしろ、ここでは詩を音声化することによって生まれるマジックについて考えてみたいと思います。

谷川俊太郎が「鉄腕アトム」の歌詞についてこんなことを言っています。「歌詞は詩よりも少し"間抜け"でなければいけない。きっちり書いちゃうと音楽が入り込む隙間がない」。この論に拠れば、こうも言えます。歌詞にあえてディテールを描かないことで、メロディやリズムでそれを補足させる、そのことによる新しい意味の拡がりが生まれるのではないか、と。「青い車」という歌を聴き、その聴くという行為には、メロディやリズム、ドラムやベースのビート、ギターの和音やギターソロも含めて聴くわけですが、その時にこの詩は別の意味を持って聞こえてきます。結局全部妄想で、殺しもしなければ、自殺もしない。真夏の海に二人で楽しくドライブして、夕暮にはちょっと切ない気持ちになって、でもそんな退屈な日常はやっぱり続いていくのです。

僕は1987年以降、8年間ほど詩作から離れていました。それは別に思うところがあってそうしていたわけではなく、ただなんとなくそうなってしまっただけなのですが、そんなインターバルを経て、もう一度詩を、それも自分が本当に読みたいような、また、人に読んでもらいたいような詩を書こう、と思った一つのきっかけがこの「青い車」でした。それは同時に、詩を音にする、僕の場合は朗読することによって、何かもう一つ先へ進めることができるのではないか、というヒントももたらしてくれたのです。

2001.9.10