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このページは「煙姫」という名の、野地海月の持つNULLです。
トップはここではなくhttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/6143/index.htmlです。
・<長い読み物はこちら>
連絡先はnojikurage「@」hotmail.comです。なお、このページはリンクフリーです。
今日の一行。
携帯をandroid 携帯に変えました。色々試してますが、生活が変わるわけでもなし、更新量は変わらなそうです。(2012/02/05)
より更新頻度の高い一言としてTwitterアカウントがあります。
○生き方について 〜わがまま〜(2011/10/28 2012/01/09加筆)
「見ていたい人」と「見られたい人」が一致していない(だけ)という可能性に気付く。これだけは命題にしてはいけなかった気もする。もっとも、私自身の「意志に価値無し(だから自由)」という意志では当たり前の議論なので、解決もクソもない。さ、見ていたい人とお酒飲まなきゃ。
○ジャスティスについて 〜こんな時、どうしたらいいのだろう?〜(2011/09/08)
ロールプレイング・ゲームによる思考実験として。
貴方のロールは、2つの特徴をもつ。一つは、「優しい人」だ。これは、あまりにも大ざっぱなロールだが、貴方の判断に委ねる事でこのロールプレイを面白くしたい。もう一つは、「取り分ける前のから揚げ全体に(他の人への断りなく)レモンを振ってしまうヤツを許せない人」だ。そのこだわりは細かく言えば、「上等なから揚げはそもそもそんなに油っこくないのでレモンは不要かもしれない」し、「いずれにせよレモンがない方が好きな人がいるかもしれない」し「大体が自分の取り皿の上で振ればいいのに全員に振る理由が分らない」し、「かけなきゃいけないものなら店が事前にかけて出すはずだ」し、「例えば刺身が来た時に、勝手にわさびを醤油で溶いて全体にかける事はしない」し、まぁ色々あるのだが、最後には「人それぞれの好みがある事を自分の物差しでやるな」「人には自由があり、多様性は確保されるべきだ」と思っている。
貴方に関する情報は以上の二つで終了だ。
続いて、状況を説明する。飲み会にて貴方の後輩(面白いから女の子にしよう。しかも美人だ)がから揚げにドバッと、それはもう力の限り、レモンの掛かってない所がないようにレモンを絞ってしまった。カラッとしていたから揚げの表面がレモンの汁でテカテカしているほど。咥え方によっては酸っぱさに口をすぼませるかもしれない。その子は下座に座っていたが、店員から大皿を受け取ったまま、それを机の真ん中に持ってくる間もなく自分の手元でレモンをかけてしまった。言わずもがな、他の人への断りもない。是非もないとはまさにこの事だ。
状況説明の続き。貴方は「優しい人」なのだが、以前貴方ほど優しくない人たちが彼女にこの点を指摘した事がある(つまり、この現象はこれまでに何度も起きている)。その時のやり取りをいくつか抜粋する
Q1:から揚げにレモンをかける事を好まない人もいるのではないか
A1:でもから揚げにレモンかけると美味しいですよね
Q2:俺はから揚げにレモンかけない方が好きなんだよね。
A2:えー!(非難の声ではない)油っこいじゃないですか
Q3:自分の分だけかけたら?
A3:え、でもみなさん召し上がりますよね?
以上で、貴方のロールと、状況の説明は終わりだ。さて、こんな時どうすればいいのだろう?
忘れていた補足を。「多様性は確保されるべきだ」という信念も、「多様性なんてなくていいじゃん」という意見を殺している、そういう指摘はありうるが、この際だ、あなたのロールではこの指摘に気づいていない事にする。
○ここについて 〜身体性を失う〜(2011/06/19)
Twitterやmixiに比べてここを見ている人が少なく、また見る頻度も少ない事が一つの救いに感じられたという事は、多分私にとってもここは「外部」になりつつあるのだろう。ピエール・マッコルランの言葉がよぎる。もうここは、私ではないのかもしれない。
○献身について 〜clean well lighted place〜(2011/06/19)
食事を作る事(当然の前提として味は良く作れたとして)と食事を楽しむ事は全く違う。サーブする側に立った者は、味に出会いや発見が無いという意味でも、その空間において労働者側でありかつ採点される側になるという意味でも、食事を、享受を楽しむ事は出来ない。そうした理由で、私は時として食事を作る事がひどく億劫に感じられる時がある。手を動かし始めればそれはそれ作業は楽しめるが、食事はやはり美味しくない(上手く出来たとしても)。
飲み屋における、レストランにおける、客が受けるサービス、それはまさしく献身であり、手間も冷蔵庫の残りの食材も何もかもを無視して食べたいものを食べさせてもらえる、それはまさしく王であり、気持ちの良い事だ。あるいは、人が作ってくれたものを食べる時の、味をはじめとした様々な発見や「待っている所へやってきてくれる」という愛・甘やかしの気持ちよさ。それゆえ、享受する側は自らのペースにまかせ楽しむ事が出来、その時は店の清潔さすら心地よい。
毎日食事を作っていると、時として猛烈に焦がれる。そうしたときは大抵、あのヘミングウェイの書く老人のように、何かnadaを感じながら。
○一つの前提と成果について 〜クロニクル〜(2011/05/05)
※この文章は煙姫の大型更新を休止する旨を発表した際の文章です。
ふと気が付くと「煙姫」が始まって10年が経過している(「空気を綺麗に」時代を入れれば13年目ではないか)。昔の文章はほとんど残ってなく、今ある最古の文は多分2003年のものでそれ以前はリニューアル大熱波でやられていたりするが、ともかく「煙姫」になってから10年は経過している。「浮き沈みのある風景」や「流星の広場」も10年を越えているのではないか。月日は百代の過客にして行き交うウェブもまた旅人なり、個人的に一定の成果を上げたと思える「煙姫」についてはそろそろ去るもありやと思ったが、成果報告をして更新をほぼ止めてしまう方がよいかと思ったのでそうする。消さない理由としては、個人的経験であるが、知り合いのサイトやお気に入りのサイトがリンク切れしたときの寂しさは時の残酷さに通じている事を挙げる。それに私が「煙姫」で得た成果を考えても、私は「いる」のだから消さない方が理に適っている。
さて、成果を報告しなければならない。読者が(実際にはいなかったとしても)いる前提で書き続けたことで得られた成果なのだから。
細かく分けて二つあるが、結果としてそれはセットであるともいえる。ともあれ、一つには、私の思考パターンの作成とそれに伴う私の戦い方/語り方としての定石の発見がある。「いつか見た事への復讐」という概念、ポストモダン的日和見(敢えて否定的な書き方をしているが、それはそう言われることが多いから掲げているだけで、私にとっては大切な道だ)、グレイッシュ(水樹先生より)である事。もとより私の中にあった理念ではあったはずだが、煙姫で文章を書いていく中で、あるいは煙姫に書けるかと自分の中で問答する時に、思考は整理され一部は結論付いて定石となった。人格の輪郭がスッキリしたように自分で思う。悪く言えば年をとって頭が固くなっただけなのかも知れないが。
二つ目は、そうしてスタイルの固まった(ルサンチマンの)私の仲間が見つかった事である。10年戦士(変換候補が先史、戦死、の順だった事は今こうして文を書いている私にとって驚くべきジョークだった)の人ならある程度分かると思うが、ブログ・SNSの無かった頃のウェブは掲示板・チャット(スカイプのようなクローズのものだけでなく、オープンなものを指す)が今より多く、もとよりウェブの中には書き手と読者以上の関係(直接対話者、ひいてはオフラインでの交流)につながりやすい面が今よりあったように思う。これはウェブ人口の要因もあるとは言え、煙姫設立時には重要な事態だったと言っていい。要するに、ウェブは入り口として機能すればいいのだ。オフラインの知り合いが煙姫を起点として私をより深く理解してくれた事、あるいは煙姫を起点に私に興味を持ってくれた人がいた事。結果、一つの結社とも言っていい友人達を見つけた。嫌な言い方だが、類は友を呼ぶ。煙姫を読んで面白いと思った貴方がた私の友人は言いようのない何かを抱えていて、私達は一つの共同幻想を持っている。いわゆる「友人」の多くがそうであるとしても、敢えて私はそれを結社と呼びたい。
そうであれば、もう煙姫は「一つの看板」としてあれば十分だと思う。私、あるいはこれを読む貴方を含めた私達が認めたい一つのアイドル、煙姫。王子様が、救いが来ないと森の奥で煙草片手にやさぐれる姫。私と私の友達を知るためのシンボル。ここを初めて訪れて興味を持った人が私を訪ねることがあれば、あるいは、私を文で知り一つの何かになるのであれば。私を知る人が私の中の何かを求めて、あるいは何かを確認するためにここを訪れるのであれば。それでいい。そんな事が起こらなくても構わない。それでも、あるいは。そう、そういえば、「それでも、あるいは」と思うために続けてきていたような気もする。
○絵とかの感想について 〜なんか多い〜(2011/05/05)
煙姫休止を思って読み返してみると、なんとまぁと思うくらい絵の話をしている。なんとまぁというのは、素人のくせに書きすぎだと言うこと。整理が付いてない証拠だし。それ自体はまぁ仕方がないとしても、最近書いてないのは結果的によいことだと思う。写真とか見に行ったりしてますが(買っちゃったよ遂に)書いてないだけで、会って話すときはベラベラその辺喋りますのでよろしくです。
○夜の神田について 〜BLバー「Miracle Jump」、男の娘バー「NEWTYPE」体験記〜(2010/2/14)
まず前提として、神田・秋葉原について少し書く。
広域神田において、チェーンでない土日夜営業店というのは少ない。深夜営業店となれば殊更に少ない。この事をまず頭に入れておいていただきたい。神田という街自体の歴史を考えれば当たり前のことなのだが、秋葉原においてはこれがネックとなっているように個人的には感じている。
つまり、(歩行者天国に見られるように)休日昼間の爆発的な集客力に比べて、その後の食事・飲酒・娯楽その他サービスの提供があまりにも少なく、夕方以降のキャパシティー不足がキャッシュインフローを下げている。はっきり言えば勿体ない。特にコンテンツ産業やサブカルチャーを求めて秋葉原にくるカスタマーに対して、たとえば深夜営業のゲームセンターが無い事(これは風営法の問題だが)や、オールができるカラオケ店の不足(これは大型の建造物をこれ以上建てにくい事や、昼間のキャッシュインがそこまで見込めない中夜間に賭けた店舗展開が難しい事などが問題か)、客単価が時間比例するコンテンツ飲食(いわゆる「メイド喫茶」等)の夜間展開の少なさ等が目立つように私には思われていた。しかし調べれば風営法やテナント代の壁にぶつからない、小規模な(もっと言えば秋葉原から末広町の間の雑居ビルを用いた)娯楽を伴うバーの類がいくつか存在する事が発覚した。言うならば私が「やればいいのに」と思っていた事である。
そこで、実際に行ってみた。
さて、そのサブカルチャーとしての実態を書く前に前提を書く必要があったのは、特に「NEWTYPE」において、サブカルチャーを意識させない地元(少なくとも徒歩圏内)の客がいた事に驚いたからである。彼らは店員が女装した若い男性である事にあまり頓着せず、世間話をしながらただただ飲んでいる。言うならば「神田で休日深夜飲みたいだけの人」が少なからず流入している訳で、秋葉原の事象がアキハバラに限定されていなかったという事なのだが、これを説明するためにはそもそもの街自体の構造を解く必要があった。
「NEWTYPE」においては、はじめからその事(単に飲みに来る人がいる事)を意識していたのか、あるいは単に店の趣味かは定かでないが、アルコールのラインナップが秀逸であった。なにせラムですら3種類、ダークラムまである。ウィスキーにバーボンとスコッチの表記分けまである。おそらく「男の娘バー」と聞いて人が想像するレベルではない。
店員は、つまり女装した若い男性は、当たり前なのだが常連という「その格好である事に違和感をもはや覚えない人たち」に囲まれて過ごしており、自らの特殊性を忘れている。ある程度の愛嬌や店員同士の絡みもチラホラ見えるのだが、もはや自然感覚なのか、少なくとも特異な気配を本人たちから感じる事はない。この辺も、おそらくメディアで騒がれる「メイド喫茶」の類とはむしろ一線を画している(いわゆる「おまじない」などのわざとらしいコンテンツが無いことにも起因しているかもしれない)。それで良いのかは知らないし、本分は「Miracle Jump」程度にはコンテンツに寄っている必要があったのかもしれないが、もはや判明しない。
ざっくり言ってしまえば、「アキハバラらしくもあるけれど、店員が女装しているだけの、普通の、居心地のいいバー」なのだ。もっともこれは、「店員が女装しているだけの」について、私は訓練が必要ないタイプであっただけで、客側に相応の訓練/慣れが必要な部分かもしれない。
そうした意味で、「コンテンツを期待する者」にもう少し迎合している・・・正確には、そうしたサービスを前面に押し出しているのは「Miracle Jump」であった。
「Miracle Jump」はタイムチャージがかかり、店員同士の寸劇(「絡み」と言った方が正しいが)を有料で頼む事も可能で、そういう意味で「コンテンツ」をサービスとしている。一方で、彼らはオーダーが取られない限り狭い店内に待機しており、彼らに声を掛けて普通の会話をする事は無料で行われ、そして彼らは純粋に愛想が良い(個人の生い立ちや特徴を触れなければいけないので、個別のエピソードについて言及は避ける)。言うならば女性に気遣いができる(この店が女性向けの店である事を忘れてはいけない)男子校のテンションで酒を飲める店であり、居心地は男性にも良い。そして悔しい事に、この店はつまみが旨い。大体BLバーを銘打っておきながら一番人気のつまみが蒸かしたジャガイモに松前漬けを乗せたものとはどういう事だ。
総じて、「悪くないバー」なのである。おそらくはニッチな投資を行うオーナーの趣味が活きている事がそうした風土を産んでいるのだろうが、「メイド喫茶にガッカリした」人にも是非挑んでいただきたいと思う次第。そして、そもそもの話に戻るならば、私が思いつくことをすでに実践し、一定の顧客を得ている商売を目の当たりにし、世間の懐の広さを知った次第である。
○邪暗剣について 〜こういうテイストも書いてみたくなる〜(2011/02/08)
人が、「敵を、あるいは対峙した相手を、運任せに見せかけて完膚なまでに負かせてやりたい」という邪で暗い心を抱く時、己が手を武器と変え、決闘の最中相手を砕く手段となる。この決闘の勝敗は一瞬であり、覆せない摂理<ルール>によって己が、あるいは相手が勝者となり、他方は絶対的敗者となる。それは一つの暴力であり、剣であり、すなわち邪暗剣と呼ばれる儀式である。忘れてはいけない、邪暗剣は人の悪しき心を根幹に発生し、覆せない摂理、すなわち暴君に身を委ねる狂気の沙汰であることを。
邪暗剣を行う者の心は三つに分類される。愚有、覇亜、超己である。愚有(ぐう)は愚かさを自分に見つけ、世界に見つけ、憎しみ故全てを否定する。その手は堅く握られ、全ての握手を否定し、全てを破壊せんとする拳である。覇亜(ぱあ)は、世は全て己の物と信じて疑わぬ覇王の驕りであり、その手は今にも物を掴まんとしっかりと広げられている。覇亜の手にかかれば、愚有など子供が拗ねているようなもので、己の世界を愛する力の前に批判や憎しみなど何の力もない。超己(ちょうき)は、世界を越えるだけの力を求める意志であり、覇亜が愛しく思う世界、その思い故に、その愛故に世界を囲い込む覇亜の力を越えたところに世界を見出す。理想と夢と信念が現実的な居心地の良さを否定するのに似ている。しかし超己の夢が現実の力の前に屈する事もまた歴史の中で繰り返されてきた事であり、超己が愚有に適わぬのもまた道理である。
邪暗剣は世界を憎む者、世界を愛し迎え入れる者、新しい世界を願う者の野心を賭けた闇の決闘である。決闘者たちは戦いの中で自らを磨耗し、自らを失い、愚有であった者が超己に、そして覇亜になっていく。その先に待つものが闇とも知らずに…。
…ああ、こういう勢いで文章書くの楽しいなぁ。ジャンケンで一ネタでした。
○キネクトについて 〜新感覚〜(2011/02/04)
楽しいです。まずその一言。今年はZuneも含めてX-box360を使い切ろうと決心。合わせて、キネクト目当てでもうちに来る人を大歓迎!
○神について 〜アデューその後〜(2010/10/24)
「アデューについて」で書いたとおり、友人に久方に会ってきた。ものの10分程度だったが、充実した時間だった。だが結局、分かったことは「応答性は楽しい」「更新可能性はやはり夢である」という、すでに知っていたことの再確認だった。その再確認がいかに重要だったかはこのページが証拠たるとは言え、それ以上に問題なのは結局僕は友人の死を相変わらずよく分かってないという事だ。
分からない前提で、アデュー、つまり「神の下で」という言葉を見る。去ってしまったことだけを少し認識する。分からなくなってしまったのだ、と。そういう意味では、少し寂しい。回りくどい道だった。
○負けんグミについて 〜勝ち組ではなく〜(2010/10/23)
負けなければ勝ちである、は普遍的な事項ではない。だが、負けなければ負けないのは言うまでもなく、目標に合わせて戦術を選択することは重要である。その意味のおいて、「負けんグミ」は凄い明確な主張・戦術を示した駄菓子であり、これを「駄」などというのは愚かである。
駄菓子菓子、それだけである。いや、求めていた者ならばこれだけで十分ではないか。最近「リスクマネージメントをして戦術練ろよ」という事を何人かの友人からの相談で言ったが、そんな事は駄菓子でも知っているのだと思った次第。
○萌え絵について 〜日本文化キタコレ〜(2010/10/06)
上村松園展に行ってきた。随分と気楽に見に行けたと思う。
結論から言えば随分と様式美というか、いわゆる「萌え」、あるいはポスターアートの亜種であるなぁと感じた。注意しなければならないのは、松園は明治大正の作家であり、異国の作品も目にしてきたという意味で「あえて選択した」日本画家であり、その意味でわざとらしい。狙いがわかりやすく書かれている。たとえば彼女は掛け軸作品と額縁作品で書き方が異なり、空間の使い方が違う。掛け軸には余白を設けることで空間を作り、「間続きの部屋」のようにしてある。勿論とうの昔に確立された技法だ。二次元に落とし込むことではなく、空間と対象を抽出し、「そこにいさせる」事。そのため、静的に絵になるものは静的に、「のどかなワンシーン」として動きが絵になるものは動的に書き込まれている。かなりわかりやすい。ちなみにこうした技法で見事なのは「花がたみ」で、絵の下の方、ハラハラと散る紅葉が絵の飾られている空間と絵を分け、「異界」を物語っている。ちなみに絵の上の方に紅葉は少なく、キャラを活かす構図となっている。
静的な絵も、着物の帯に細かい皺を書いてから模様を書いているにも関わらず、模様を皺にあわせて乱したりはしない。「○○の着物に△△の帯をしめた良い女がいましてね」と言いたいだけだと分かるように出来ていて、明らかにイメージを優先させており、もっと言えばそれは妄想用の絵である(写実的西洋画の「目の前の絵の女を観ろ」的なイメージとは違うということ)。
それゆえに、妄想をかき立てる「いい女」にはポイントがあり、かなり明確にそこを意識して書いている。「待月」なんて、肩のラインで誘っているとしか思えない。そして(当然ながら)こちらを見ない。こっちが自由にのぞき見て、こっちが自由に「おっ」と思えるようにしか書かれていない。総合するとやはり、ただの「萌え絵」であった。
○アデューについて 〜一人相撲〜(2010/08/17)
友人の一人が亡くなった。葬儀と称して…文字通り、葬る儀式として…あの人に会ってこようかとおもう。10月が良いか。10月ならば金曜・月曜と休みくらい取れるだろう。
何を言ってるんだと思う人が多いと思う。自分でもこれは注釈なしでは言葉では無いと思う。友人の好きだったデリダが、エマニュエル・レヴィナスが死んだときの弔辞「アデュー」に思いを馳せつつ注釈をしていく。
死は…端的に言えば…「非−応答」だと思う。「非−存在」ではない様に思う。思う、というかアデューに書いてあったし、同意できる。われわれは死後も思いを馳せる事はできるし、その時は確実に「自我」を超えることがある…つまり、無限の中で引き取り手が「いる」。一人遊び、お人形遊び、ごっこ遊び、シャドウボクシングは一種の社会性を持たなければならず、「自我」を超えた所に存在する何かを作っている…あるいは用意できている。記憶の中の誰かを合成して出来たお人形であり、キャラクターであり、対戦相手だ。「もとより存在しない」ならともかく、「死ぬ」事で我々が当人を(1)われわれの中で(2)われわれの「自我」とは別に練成できなくなるという事はありえない。要するに死とは「(1)の制限」であり、われわれはわれわれの外に元からいる(すでに「いた」だが)当人からの刺激を、責任を、引き受けを得ることが出来ないという事であり、言うならば「更新不可能」なだけなのだ。その人はその瞬間で止まり、それ以上は(想像の練成は出来ても)更新できない。だが、バージョンアップがされないからといってプログラムが使えなくなるわけではないように、サポートが終わることがそのソフト・サービスの最後を示すわけではないように、われわれは死んでいないし、われわれの中で練成される当人はわれわれとは別である。何も難しい話ではなく、「天」で語られる「アカギ」の最期のようなものだ。あれは良い。
ただ、これはつまり、一定の諦めを得ることによってわれわれにとって都合が良くなってしまう可能性も示している。断っておくと、通常、われわれはもはや更新されない当人を「騙す」事に意味を感じられず(騙された当人という更新情報を以って当人との関係性を再構築することは不可能なのだから)、われわれの中の「当人」に対して素直に接するようになる。弔辞はその代表であり、言えなかった事が言え、その廉直さが人を感動させることがある。だが、例えば自分を騙すために、死者の仮面をかぶせて都合のいい存在を練成する…「自我」ではないが、「当人」でもないものを作り出す…事は可能だし、あるいはそこまで悪意は無くとも、更新されない存在に対して自分が変わっていく事を肯定するためか、そのうち記憶は半ば恣意的に削られたり強調されたりする事がある。
ここまでの話は「死人に口無し」だが「死人に顔/目無し」ではないこと、という一言で済んでしまうかもしれない。ともかく、そういう状態になってしまったのだ。だが、それがどこまで悲しみを引き起こすものなのか、私には良く分からない。何せ顔/目は存在しているのだから。一つの契約を結んでしまった事、かの人に対しての距離感が決まってしまうことが、かの人を否定することではない。それは、「もう会えなくなった(けれど生きている)人」と変わらないかもしれないし、そうであるなら必ずしも悲しいことではない様に思う。寂しい気はするが、寂しさは他の感情を必ずしも覆いつくすものではない。私に関して言えば、こうした時は少し疲れてしまう感じがするが、何か神妙になるようなことは少ない。この事について、人からあまり褒められない事は認識している。しめやかな会でも、大体浮いている(周りと溶け込めていないし、自分自身がフワフワしている)。
さて、もうお分かりの人もいるかもしれない。僕は、このフワフワとした自分の疲れが、どこかあの人に会えないで(会わないで)あの人を死んだようにしている事やもっと言うと都合よくしている事を思い起こしているからではないかと少し疑っている。またあの人に会う事が怖いと思っている。今まで都合よく練成してきて、精神的な慰み人形にしてきていた事を、会った瞬間に一目で見抜かれるような恐怖がある。応答されあの人が更新されることで都合の良い人形は練成できなくなるかもしれない。だが、この可能性が、この応答可能性が、この更新可能性が、まさしくあの人が生きている事に由来していることを忘れてはいけない。そしてそうした中で、おそらく会うことで、私は友人の死という「非−応答」という事についてももう少し認識を深められる気がする。友人に限らず、私の人生の中で去っていった人全ての(死に限らず)「応答可能性がなくなったこと」を認識できる気がする。だからまさしく「葬儀」なのだ。友人のためではないかもしれない。だが、友人を私の中で残すためには必要だと思う。アデュー、つまり神の元へ、私がいる無限の中へ。友人そのものではなくても、私が認識できる友人のために。
○ロリコンについて 〜コンプレックス〜(2010/07/27)
吉野朔実「少年は荒野をめざす」の日夏さんが好きだ、というのは僕と付き合いの長い人なら一度は聞かされていると思う。先日、「少年は〜」を嫁に読ませたところ「ロリコン・・・?」の一言だった。的確である。というのも、僕はロリコンが好きだ。僕自身がロリコンかどうか、というのは後で考察するが、とりあえず「年下の少女」が必ずしも好きかというとそうでもない事が分かっている(「おませさん」は嫌いなので)。「少年は〜」の話に戻すと、狩野の成長物語と言えばそれまでであるが、もっとざっくり言うと「ようやく女子になった遅咲きの子」である(生理の描写も含めて、それは作者の狙いであることは言うまでもない)。そういう「悩んで少女になれない女の子」というのは、悩んでいるというその姿だけで面白いし、愛すべき対象だと思う。作品として日夏さんはそうした女の子の「面白さ」を味わおうとする…失礼、手助けもしつつ観察するわけだが、これははっきり言えば「ロリコン」だ。精神的ロリコンともいえる。こういうロリコンのオジサンがいる作品はたいてい面白い。だから僕はロリコンが好きだ。少なくとも一般的なロリータが好きなわけではない(ナボコフのローなんて、「ただの娼婦やん」の一言だし、ナルミヤを着ておませしてる子供は大抵イラッとする)。「精神的ロリコン」かどうかはここでは判断しない。
ここまでの段落で、前提として「少女」あるいは「女」になってしまった子に対して「強い」だの「(ある意味)面白くない」だの、要するに芯が通ってしまって残念という要素が共感されていないと話が進まないので一応断っておく(下記「四半世紀について 〜失語症〜」のカウンターだが、要するに芯が通った子との会話には「ゆらぎ」がなさそうなのだ。別に無いからつまらないというわけではない事は十分に断っておきたいが、「ゆらぎ」「悩み」は面白いものだ。)。断ったついでで本論の主題というか問題提起分を言うわけだが、そういう風になっていない「ゆらぐ女の子」は当たり前だが年を重ねるごとに減っていく。
そうなのだ、減っていくのだ。僕は大学時代それなりに女の子にモテた。サシで飲んで悩みを聞くことも多かった。高校時代は、出会いは少なかったがそういう意味では深い付き合いをした子も多い。最近そういう相手はめっきり減った。恐ろしいほど減った。結構モテなくなったのかと本気で心配していたのだが、(もうここまで読めばお分かりだろうが)要するに僕自身が先の「精神的ロリコン」であるにもかかわらず年を重ね対象になる「ゆらぎ」を持つ女の子が周りに減っている、あるいはそうでなくても、僕は「精神的ロリータ」「ゆらぎを持つ女の子」にモテるタイプだったのではないかという疑惑が僕を捕らえている。もしそうだとするなら、どうしたものか。結婚していてよかった、というオチでは済まされないように思う。不安だ。
誰か手ほどきしてください。
○記憶の彼方について 〜誰だっけ〜(2010/07/13)
姿形がよく分からない状態で「あ、お前か」と思う夢を2日連続で見ました。良い感じに現実感がなくなって神話化しているように思います。都合良いなぁ。
○拡散について 〜押し売っちゃだめだ〜(2010/07/13)
後輩を教育する立場になったり、引継ぎという業務をこなしたりしている。まぁ働き出して既に4年で、(出向していたために)今までなかったのが異常だったというほうが正しいかもしれない。例えば、大学のサークルで4年といったら責任者だ。ともかく、そういう時、教える相手がこちらの教えた事しかやらないというスタンスでは困るなぁとよく思う。考えてもらわないとこいつである意味がない、という事を切に感じる。「お前が俺のやるとおりにしかやらないなら、教える時間も惜しいし、教えたことを確認する時間も惜しいし、トラブルにだって俺のほうが経験があるんだし、わざわざ交代する理由なんかないんだよ」と言いたくなる気持ちを抑える事がある。
断っておくがこれは愚痴ではない。教える側として、考えてもらえるように教える…いや、もっと言うと教えず、気付いてもらう装置を作ることが一番いい。装置は(こうした研修なら)不十分でもいい。不十分ならそれはそれ不自然さが質問を喚起してくれるかもしれないからだ(やや優秀な相手を想定した甘えだが)。「ここを分かってくれ」と質問の余地なく並べられた資料は、大抵は(大人の対応をしてくれる人でない限り)伝わらない。当たり前だ。面白くもないし。
そういう視点でこのサイトの文章を見ると、そういう意味で一番「伝えられた装置」だったのはボードゲーム「好き好きセブン」だったように思う。結局、気づいてもらうこと、主題を可能性の中に落としこみ、あるいは新しい要素を可能性から引き出すこと。あとはまぁ、なんとなく読めるものがおいてあるだけだ。
というわけで過去作品の並び替えを行いました。そもそも、過去とか言ってるけどもうこの先何かを書くことがあるのかなぁ…可能性を感じさせるもの…うーん。。。
○タッチャブルについて 〜再評価〜(2010/04/22)
1年前と同様、寒い国に出張に行っていたので、人恋しくなったりもした。その時に過去を振り返ってみたわけである。
セックスだとかキスだとかではなく、手を触れるとか、頭を撫でるとか、乾杯をするとか、その程度の事があるとする。その程度である一方、「会話」(電話でも出来る事)から「目の前に相手がいて、触れて確認した」瞬間であり、僕はこれにとても弱い。馬鹿で単純だ。かの友人はそういう「ライトだが垣根を越える瞬間」が多く、結果心に残っている。
思い返すと、僕とうまく行かなかった女性は、この点で過剰だったり少なかったり、あるいは流儀が違ったように思う。それはそれで、仕方がないことなのかもしれない。
○ビュフェについて 〜リアリティ〜(2010/04/22)
先日、ベルナール・ビュフェ展(目黒美術館)に行った。
あまり絵を語る知識も技術も持ち合わせていないが、その時感じたことをメモしておく。
ビュフェと言えば背景の壁の陰湿なリアリティ、一度塗った絵に上塗りでシミやキズを描いていくあの手法が有名と認識していたが、実際に見てみると他の部分も含めて実に「実在的」という感を受けた。モネの大聖堂を私の姉は「こんなんド近眼で見えたものを真面目に起こせばこうなる(まともに絵に起こすのが難しいのは分かるが)」とこきおろしたが、似たようなイメージだ。「目に見える通りにキャンバスに起こす」事。ただし、方法論は異なるし、個人的にはビュフェの絵は「絵画」というより「(キャンバスの上に乗るほど)非常に薄い立体に仕上げる」イメージだった(だからこその「目に見える通り」なのだが。)
始めにこの件について目が行ったのは「肘をつく男」の髪の分け目だ。七三分けのこの男の髪の毛は、一応実際の髪の流れを模したペイントのあと、釘のような細いもので油絵の具が削られることで分け目を作られていたのだ。これはまさしく「paint」ではない。
似たようなこととしては、「部屋」という絵のミシンのロゴや「アトリエの娼婦」のパイプの照りが挙げられる。足踏みミシンのペダルにロゴが入っているのだが、これも一度ペダルを全部(やや厚めに)黒く塗った後に針か釘でこの絵の具を削ることでロゴを見せている。事実として本物のペダルは同じ素材でできていて色が違うことはないのだからこの方が道理だが、これは厳密な意味での2Dではない(別にそれが問題なわけではない)。「アトリエの娼婦」のパイプも、輪郭の少し内側に絵の具を盛り陰影をつけている。これら本来なら「色」で処理すべき所に思えるのだが、実際モノの色は変わっていないのが真実だ。合理的と言える。
逆に、真に迫った壁を書く一方で、よく見えないものをちゃんと描く気はないらしく、「ある街角」では遠くの机に置いてある(恐らくチェス盤と思われる)ものが単なる線でグシャグシャと「何かあるがよく見えない」ものとして描かれている。確かに周辺の状況からチェス盤か何かと想像はつくが、実際に見えるかと言われたら細かくて見えないだろう。
要するに繰り返すが、「見たままに描いている」のである。その「見たまま」とは、見えなくても見えているもの(例えば、布のかかった机の輪郭が分かるように、あるいは手前にあるものによって奥のものが見えなくても)それが分かるように書くこと。当たり前のように風景画で手前の山を重ね塗りすること、机を書いてから布を上に書くこと。絵がただの平面ではない事を当たり前だと信じきっているかのようだ。
その割に人は、あるいはある目的を以て描くものは、平然とリアリティからずらしていること、それでいて圧倒的に「人」であったりすること、これは何か。多分それは逆に人が人をそう見ているからではないだろうか。存在感で見て、別に細部を見ているわけではないこと。これは的を射ていると思う。別にまつげの一本一本まで見ていないのは当たり前なのだから。「何かを感じる所以」を突き詰めると、かえってモノは(「ポイント」が無いため)細部が見えていたと分かるが、人は(動くものだし)印象の方が強い、というのは言われてみれば当たり前のように思う。
さてでは、この展覧会の目玉でもあった「赤い鳥」はどう見るべきなのか。言うまでもなくこの「赤い鳥」は想像の絵だ。想像の絵ならキリスト関係の絵や戦争の絵にも見られたが、あくまでリアルな想像を起こしたものという感がある一方で、この「赤い鳥」は完全に創作だ。女が横たわる「床」は背景の奥を見ることで刈り取った後の畑と化し、赤い鳥と女と(二種の)背景の関係は不透明になる。大体そもそもこんな大きな鳥は存在せず、何もかもが想像なのは明らかだ。そのうえでこの「赤い鳥」を凝視する。翼はリアルに描かれ、一本一本の羽は重ね塗りでその存在感を強く出している。その割にやたらと黒い線が目立つ。胸の辺りなど真っ黒に近く、どう見ても実際の陰影以上に黒い。「黒い、赤い鳥」だ。結果的に圧倒的な存在感ではある。それが何だったのかは、よく分からない。
もうひとつ分からない絵が、「ブルターニュの港」だ。これは、デッサンの段階(「純粋の探究」の挿絵)では普通の絵なのだが、油絵で起こしたときに手前の円形と思われる塔の輪郭が明らかにややおかしな風に起こしてある。それが何故かは分からない。これだけ「見たまま」の人が「見たまま」でない絵を描いていると思うとやたらに気になる。
こうしたメモとは関係がないが、「ナンスの農場」は欲しいと思った。
○下世話について 〜なにこの経験談。〜(2010/01/17)
昨今若干話題になっている催眠オナニーについて、サンプルを1作購入して聞いてみた。面白いと思ったし、来るものもあったが、その障害(催眠の障害)になったのはあの友人ではなく奥さんだった。まっとうになったものだな、と思ったが、この文章をアップしている時点でまっとうじゃなかった。
○為す事について 〜達成感〜(2010/01/17)
アラン・ムーア「フロム・ヘル」(みすず書房)を読み終え一晩グチャグチャした後、次の日はダラダラと「マン・オン・ワイヤー」をDVDで見た。まったくもって何がしたいのか分からない週末だった(また言うまでもなく、酒は飲んでいる)
「フロム・ヘル」も「マン・オン・ワイヤー」も素晴らしかった。そしてこの2作は、偶然にも本人には狂気に思えない「理性的過ぎる熱意」によって何かを為す(「成す」でも良いのだが、完成させることだけでなく、その最中のDoing自体にも力があるように思うので、「為す」という表記を用いる)。正直言ってそのレベルに達するなんていうおこがましい考えはもっていない(長い注:かと言ってそうやって何かを諦めてはいけないとフィリップ・プティは述べているし、僕自身熱意をもって生きようとは思っている。ただ僕の場合、社会学なんぞを大学で学んだりしている時に、どれだけ外界がクソッタレでもそれ自身が「面白いモノ」であることには変わりがなさそうだと感じたので、あまり自分の行為/道/理想について深く追い求めすぎることは無いと感じている。挑戦をする、のではなく、何でも受け入れる事に刺激を求めるといったニュアンスで理解してもらえればと思う。)。いずれにせよ思うのは、そうした情熱・passionが、受難としてのpassionとして「為る」事について(語源は知らないが、恐らくこの二つがつながっている事を人間が認識してきたことについて)。何故何かが変ってしまうという恐ろしい事が待っているのか(いや、変る事をもって為すとするにしても)。下劣な質問をすれば、何かが見えればそれでいいのか、「何も変えずに見てくる」事は不可能なのか。見るということが、知るということが何を変えてしまうのか。
○本性について 〜新婚旅行だったけど〜(2009/9/23)
台湾行ってきました。旅日記。新婚旅行だったそうですが、飯食って酒飲んでばかり。台湾エステ?なんですかそれ。
○調子について 〜鏡としての夢〜(2009/09/13)
大学に居た頃感じていた自分の嫌な所を…この表現は性格じゃないが、一度そう表現しそうになったことは大事なので残しておこう。
ともかく。大学生時代感じていた自分の中の妙な特性がある。どうでもいいと思う他人への応答を「適当」(かつ「テキトー」)にこなす事が、かえってまさに「適していて正しい」と評価されるため、その応答を求められ続け、結果僕自身は「テキトー」な自分を目の当たりにし続けるという特性。はっきり言って楽しいとは言いがたい。社会人になってから幸いなことに感じていなかったこの特性を最近思い起こされる事態が起きた。その次の日、大学時代によく見ていていた夢に似た夢を見た。特定の友人に出会い、そして、何かしらの拍子に逃してしまう夢。僕はその人を下記「遠く、妄想について」で外部になってしまった人と表現しており、その「外部になったこと」を今小説で書こうとしている最中であった。それでも、そういう夢を見る(今は遠いと思っている人を、近いと思っていた頃のように感じ、夢に出している)らしい。僕の中で、自分の調子や状態がまるで地層のように自分の過去年代の事象とリンクしているのかもしれない。面白いと思う。
○練習不足について 〜いい事なんだろうけどね〜(2009/9/13)
「孤独のグルメ」を読み返したりする度に思うけど、食事中に自分と向き合えるのは貴重な時間だと思う。食事は、店の空気から始まり様々なものが「生きている(ために食べている)自分」を説明し、結果自分が今どういう状況にあるのかを端的にまとめた情報にもなっているからだ。妙に仕事中に澄ましている時よりよっぽど明朗な思想がまとまることがある。
頭が悪くなってきてる実感がある。昔よりピリッとした考えをまとめる力に欠けている。多分だが、結婚してからそういう能力があまり必要じゃなくなってきたせいであろう。そして上記のような食事が減ってきている事もあると思う。昼食は自作の弁当を本を読みながらダラダラ食べるし、朝夜は夫婦で食べている。いわゆる幸せボケなのでいい事なのだろうし、それゆえ「別々に食べよう」なんていう気もサラサラ無く、ただ「あははー頭悪くなってきてるわー」と思っているだけだ。そういう訳で皆さんにはその点ご了解いただき、「あいつはますますしょうがなくなったなぁ」と思っていただきたいというお願いをする次第である。私の事、捨てないで!
○秋について 〜季節感を大事に〜(2009/8/31)
マツタケ食べました。ホイル焼きすれば安いのでも香りが楽しめます。うめー。っていうか俺料理うめー。
○愚かしい行為について 〜二度寝〜(2009/08/16)
例えば日曜みたいにいつもより少し長めに寝た時、夢を見やすい。結果結構しんどい悪夢を見て9時ぐらいに起きた時、横に寝ている人の顔を見て安心し、日曜だからともう一度寝直してみようと思う。しかし、お気づきの通り、これで見る夢は大抵悪夢だ(夢がつながっているのか?)。二回目に起きた10時ごろは、大抵もうクタクタだ。
隣の人は早くて12時にしか起きないので、こうしてホームページの更新でもしつつ一人で夢と対峙しているうちに、落ち着いてくる。多分10時に同時に起きられたら却って息苦しいだろうなと想像する。そして悪夢を見ずに回避するより、一個一個見てから自分と向かい合えるのも、悪いことじゃないだろう。
○ゲームについて 〜リゾート〜(2009/07/29)
今更になってマリオ64を引っ張り出している。
最近ゲームをやらなくて禁断症状的になってたのだが、そんな自分の感覚が温泉に行きたい時の感覚に似ていたのだ。しかしすぐにそれは当たり前で、「ゲームはリゾートなのだ」という結論に落ち着く。
観光ではなく保養の旅行で、あるいは家で居心地良く、昼からビールなど飲みつつ窓から射す光や雨音を楽しむのは、「(精神的な)リゾート」としての最低限必要な要素だろう。場所柄が良くても慌ただしくては意味が無い。「ゆったり過ごす」事。もちろん、そうしてそこで一人でする事はぼーっとするか読書かチェスなどの遊び程度のものだ。「時間を贅沢に使っている」とはそういう事だろう。
WizでもPSOでもタクティクスオウガでも無双でもぷよぷよでもマリオでも、行き着く先はここにしかない。「ぼーっと、あるいはストレスにならない程度に頭を使いつつ」時間を使う贅沢。苦行ではない作業の中に、時間が溶け込んでいくこと。ゲームはその見た目の派手さとは裏腹にリゾート的なものなのだ。
その上で探索型、一回のプレイが短い、どうせならリゾート的に風景の綺麗なゲーム 、という条件で脳内検索した結果のマリオ64だったわけだ。デイトナUSAでもよかったのだが、要するに、ポリゴンで書かれた底抜けに青い空を見たかったのである。
○飯について 〜自分メモ〜(2009/07/12)
・好きな店のリスト作りました。パッと書いただけで暫定公開(まだホンの一部)ですが、いかに自分が食い意地張っているかを物語る気がします。
○味覚外の食事について 〜「あーいいねぇ」〜(2009/06/14)
先日後輩に「孤独のグルメ」という漫画を薦められて買ったところ、大当たりであった。これは僕の好きな「美味そうなグルメ」ではなく「よさそうなグルメ」なのである。例えばその漫画では、炎天下の神宮球場でカレーを食べる。これは「とても良い」。また、メインとして紹介されているわけではないが、西部池袋の屋上で昼食にうどんを食べる回で、食後屋上をふらつきながらアメリカンドッグをほおばっている(たった1コマだ)。これは、「美味い飯」では決して無い。だが「良い」。「あーいいねぇ」。マズイと分かっていても縁日で粉モノを買ってしまう気持ち。「孤独のグルメ」の主人公は下戸だが、これらは要するにビールのCMと一緒なのだ。夏、太陽、タフな食事(カレーとか、肉とか)、グビッ!という音。これはもう、その瞬間のビールの味なんざはっきり言って分からないが、「いい」のだ、「たまらない」のだ。そうとしか言いようが無い。それは味覚の問題ではなくて、そういう「イベント」であり、そういう「様式」であり、そういう「システム」なのだ。
食事にはどうやっても「美味いのに美味くない」「美味くないけど美味い」、という事が存在すると思う。期限の良し悪しや、食べている空間(店など)の雰囲気、体調、そもそも何が食べたかったのか、等の要素が「美味いのに美味くない」「美味くないけど美味い」を作り出すと思う。それは本質的に、味のガイドをするグルメ本の範囲外のところにある。「これこれの店はこういうソースで味付けしている」という情報は、先に挙げたコンディションの類ではカバーしきれない所に存在する。逆に言うと、そうした部分をカバーした本というのは、フィーリングが合えば大変参考になる。「この人の感覚、分かる」という著者による、そうした「コンディションを左右するちょっとした事」を書かれている本というのは、参考になるばかりでなく、味以外のところではまるでその店に行った様な気持ちになり純粋に話として面白い。
例えば、僕は鳥すきについて「ぼたん」と「末げん」のどちらが美味いか知らない。「末げん」に関しては行った事も無い。しかし、J.C.オカザワが「文豪の味を食べる」で「末げん」を批判している文章を読んだ時に、「末げん」には行かなくていいだろうな、と結論付けた。鳥すき鍋が煮え立った状態でそのまま(つまり、机の上で煮るのではなく、いうならば「火から下ろした状態で」)出てガッカリした、という内容の一文があり、それは味が美味かろうとも「体験」としては満足できなさそうだなぁと思ったのだ。また、「末げん」のぐるなびページを今見ている限りでは、三島の最後の晩餐として知られる「わのコース」では刺身が出るという。「ぼたん」の鳥尽くしな様相から考えると、少しなんというか、「いっそ奮発して高級な鳥を味わいつくしてやりたい」と(自分の収入から考えれば)高額の金を払うには僕の期待通りのシナリオではなさそうだ。これは「ぼたん」に行った体験が僕の「高級鳥すき」イメージを作ってしまったからではある。夏の暑い日だったのだが、炭火の鍋が近くてビールすらすぐに温くなる状態で、仕方なしにと常温の日本酒で熱々の鳥を食べきったと思ったら、暑さと日本酒の酔いで完全に体の中で熱が渦巻いている所に美味そうな白米が来た。美味そうと思うも先の状況なのでなかなかガツガツと食べれる状況ではない。だが上司(それも役員だ)はしっかりとそれを平らげ、さらにはデザートのミカンまでぺろりと平らげてしまった。「ぼたん」は間違いなく高級の部類に入る食事だが、そのコースを食べきるにはなかなかスタミナが要る。そういうものなのだ、仕事をこなしステップアップしていく男が美味いと思って食べる肉とはそうした「パワフル」な代物なのだ、その時にそう感じた。なので奮発して鳥を食いに行くとしたら、前日から食事量を調整して完全なコンディションで挑みたい、鳥を丸ごと食べつくすような気持ち、ほとんどケンタッキーのチキンを7・8本食べるような気合で食事(と酒)をスペクタクルにまでしたい。それは「末げん」ではなく「ぼたん」なのだ。これはもう、味ではない。だが店内の雰囲気と味の評価そのものでこの差を説明するのは難しいと思う。それは「グルメガイド」の仕事ではない。そもそも、味に特化した説明文のグルメガイドを買う人と僕のような「食べる事はイベントだ」と思っている人間とでは住み分けが生じている、そういう事だ。
話が長くなってきた。要するに味のレベルとコストパフォーマンスだけでは測れない世界が食事には、グルメには存在すると思うし、それを分かってくれる本が嬉しいという事だ。そして出来れば、僕と飲む人とはそういう観点で店を選び、大いに楽しみたいと思うわけだ。よろしくお願いします。
○最近について 〜3ヶ月ほど。〜(2009/07/12)
仕事の嫌な夢を結構見ます。まともといえばまともな気もします。
○ランチについて 〜くしゃみで性格が変わる〜(2009/04/28)
久々に自作の弁当ではなく、外で昼食をとることにした。虎ノ門でそこそこ有名で混んでいる中華に行き、五目焼きそばと半チャーハンのセットを食べる。焼きそば自体は美味しかったが、チャーハンやスープ、ギョーザなどにいかにも「昼時の捌き用なんです」というオーラを感じ、ガッカリしてしまった。
食事を日常的に作っていると、技うんぬんではなく「手の抜き方」というのは分かってしまう(自分がやっている事でもある、という意味だが)。世間で言う「主婦はランチにうるさい」というのは、女性だからということではなく、料理を分かっているからだという事は言えそうだと思う(この場合の「分かっている」とは、いい味が分かる、とか、料理が上手い、とかそういう事ではない。手作業としての「あるある」が分かってしまう、という意味だ。)。そしてこの文章にタイトルを付けた瞬間、焼きそばではなく天津飯にすれば良かったと思った。ギョーザも付いていたのだし。
○逃げ場について 〜正直な自分の夢〜(2009/04/19)
かつて手中にあったもの、あるいは、確かに本来なら自分のものであるはずのが現実として今現在は手元にない時、それがあればと思い出す事は慰めというよりは苦痛にも似た感覚を呼び起こす事がある。「ああ、あれさえここにあればいいなぁ。」の後には、「そう、あるはずなのになぁ」がやって来る事がある。結果、その事には目をつぶってしまった方が楽だとすら思いかねない。
一方、そもそも自分のものではないものをあればと願うのは、ただの妄想であり、これは何の痛みももたらさない。
異国に2週間ほど出張に行きそれなりに孤独を感じたのだが、その時自分が何を思ったのかを思い出すと、修練が足りないと感じる。
○遠く、妄想について 〜都合の良さ〜(2009/04/19)
2週間ほど家を空けて孤独に出張をしていたら、とかく多くの夢を見た。例を一つ。
友人のお父さんがなぜか友人のお母さんを殺した、という事件を追って、いろいろな所へ電話をかける。もちろん最終的には、その友人に何かを言うために。ただ僕は料理をしている最中でもあるらしく、折り返しかかってくる電話を粉まみれの手で取るなど、混乱を極めていた。
この人とは最近全然連絡を取っておらず、僕にとって外部なものになり、都合がよくなりつつある。この例に限らず、そうした外部になってしまったものを夢でたくさん見た。煙姫本体の「逃げ場について」という文でも書いたが、「夢見る頃の人生は優しいけれど」(「Ma Vie」より)、という甘さが思考の逃げ道を用意してしまったのではないだろうか。本当はそれではいけないのではないかと思う。
○言霊について 〜宿るって、何が?〜(2009/04/03)
暗黒が過ぎて書けない事が二つある。正確には、一つは書いた後消去した。一角獣の乙女に怒られそうだったからである(事実だ)。一つは、まだ文にしてないし、結局「いつか見たことへの復讐」の例の如くのパターンである。
「いつか見たことへの復讐」と同じくらい僕の口からよく出る言葉「お城の裏の穴ぼこ」は、誰にも聞かれないことがその「穴ぼこ」たる最低条件だと思う。煙姫は僕の「穴ぼこ」ではない、よね。
○祝福について 〜+2〜(2009/03/14)
色々な人にお祝いをされると、段々当人の思っていた以上の事だと分かる。「お祝い」を「心配」とか「恨み言」とかに変えてもいいが、要するに台風みたいなもので、中心に居るとどういうことなのか判らない事というのはある。
思った以上に、今回の事で色々な人からお祝いを受けた。当人達は準備して粛々と進めてようやくという感じなのであまり劇的な感じはなかったのだが、こうしてお祝いを受けるとなかなか思い切ったのかしらんという気持ちになってくる。演出を受けている。ありがとうございます。
ところで今日のタイトルはローグライクファンじゃないと分からないよね。
○ピンクゲーについて2 〜補足〜(2009/03/10)
過日の「ピンクゲーについて」に色々足すことがあったので。
まず、「エロゲー」と一括りにしていることについて、まぁ批判がありそうなので予防線を。僕も全てのゲームをやった事があるわけではないので、全てのエロゲーがエロくないとは思っていない。さすがにそれはそうだ。ただ、感覚として、エロゲーにプレイヤーを喜ばせるための視点での絵(女性を故意に大写しにしたもの)が多いのは事実だと思う。
もう一つは、エロマンガ、エロ小説について。率直に言ってこれも一括りにできるわけではないのだが、これらに関しても、ストーリー性やキャラクターを差し置いて受けて(読者)のために表現が尽くされているものは多いと思う。率直に言って、僕自身そうした作品はあまり好きではない。どちらかというと、例えば男性向け作品であろうとも男性キャラクターがそれなりに扱われている作品の方が個人的には好きだ。
結局の所、僕がエロくないと思う類のエロゲー・エロマンガ等は、多分「テレビで見るグルメ番組」に近い。どれだけコメンテーターに美味しそうに食べてもらった所で、こちらは少しも美味しくはない。それなら、どちらかといえば料理と食べる人を対等に映している映像の中での方が、自然に「美味しいものを食べている図」としては楽しめる。そういうことなんじゃないだろうか。
○手を取りあうについて 〜加速装置〜(2009/03/06)
「ミスをする」のではなく「誤った道に進む」事は二人以上でない限りできない、というのが持論だ。「善意」という言葉の示すとおり、知らずにやった事に欠陥があったり、方策が間違っていたとしても、それはミスである。指摘によっていくらでも修正は可能だろう。最後まで指摘に反論してくるという可能性もあるが、それは先に言う「二人以上」の状況となる。なぜなら指摘をしない限り「最後まで指摘に反論する(ミスではなく、自らの道をそれと信じ行動することを表明する」事は観測されないのであり、好意的に解釈すればミスのままである(シュレーディンガーの猫を参照)。
問題は、その一人に対して、上段のように指摘したり、承認や同調をする人がいる場合である。指摘の例の結果修正されればそれはミスとして終わる。これが、先のように刺激の結果強固なものになったり、あるいは承認や同調によってそれを「正しい」と認識する根拠が出来た時、それは誤った道への進行となる。承認によってミスが誤った道へ進む例としては、例えば会社運営に見られるかもしれない。知らずに間違いを犯した事に関して、上司の承認が下りてしまったり、あるいは相手先や外部監査などのチェックでも引っ掛からず通ってしまった場合、上司や相手先や外部監査もたまたまミスをしていただけだとしてもそれは「不正」と言われるだろう。報道のされ方にも寄るが、ここまで来たものを善意とのみ受け取られることは少ない。
ところで少し脱線するが、僕がこの「二人以上でなければただのミス、二人以上なら不正である」という概念を提唱したのは、とある恋愛相談からだ。喧嘩をしているカップルの片方から愚痴を聞いている際、「なんであんなのと付き合ってるのだろう。ミスをしたものだ」といった内容の言葉が出た時だった。相手方もそう思っているのだろうか、もしそうだとして、そういえばどちらから付き合おうと言い出したのだろうか、という想像を頭の中でしているときに、「後に悔いることになる告白」と「後に悔いることになる承認」の両方が無ければただ所謂「振った」だけだったのだろうな、と思ったことがきっかけである。話を聞いている限り喧嘩両成敗と言うか、もうグズグズの関係になってしまっているという内容だったので、「誤ったものだ。もうミスというレベルではあるまい」という感想とともにアイディアが湧いたと言える。
そういった背景もあり、「二人以上だからこそ、加速してしまう」というコンセプトがこの論の中にはある。つまり、ひとたびもう一人がOKを出したが最後、何かきっかけが無い限りは、この二人の間で確認をすればするほど二人の自信が強固になっていくのが普通だからだ。「OK?」「OKOK」「だよねー」。加速装置。そうして加速した風景の中で見逃してきたものが、煙姫風にいえば「いつか見た(そして見逃した)ものが」、ある時急に眼前に現れる。その時には「ミスの指摘」などという甘いものではないだろう、それはもはや二人の選択への真向からの否定である。そうした否定が眼前に現れずに加速しきってどこかへ消え去っていく集団に関しては、何も言う必要はない。それはもう、誰にも追い付けないのだから(極端な例は無理心中だが、そこまでいかなくてもまぁ、ライトな意味では「キモいペアルックの不細工カップル」もそうなのではないか)。
二人以上である時、これが問題だ。その中で加速しないこと。しかし「信じる者は救われる」という言葉もあり、疑いとは一度始まると際限が無いものであり、半信半疑とは辛い選択だ。「間違えない」というのが唯一の解法に見えるが、そんな事は可能なのか。バランスはどこにあるのか。
○景気対策について 〜昔ながらの戯言〜(2009/03/03)
大昔、狩名と「血税」という話で盛り上がった事がある。システムとしてキャッシュフローが倒壊しつつある医療保険制度への新たなる歳入として、また(国家機関ではなくあくまでも法人ではあるが)赤十字が苦心している慢性的献血用血液不足を解決するため、健康な成人は納税をするか献血をするかを迫られる、というものであった。これは「献血を出来ない人はたとえ健康と言われていても鉄分不足などが否めず、結果医療機関にかかる可能性が高い」という前提に立ち、負担金比率をやや現実的にするとともに先に挙げたとおり新たなる歳入、そして医療血液不足を解決できるという意味で画期的と言えなくもなかった。画期的というよりかは、夢見がちと言った方が良いかもしれない。
さて、先日の「オワタ組」の飲み会においては因幡氏がイケメン草食系男子であるという話で盛り上がっていたのだが、その際に議題から漏れた事がある。それは「因幡氏はイケメンでありしかもとてもバランスのとれた(癖っ毛でもなく、直毛過ぎない)いい具合のカーブの髪の毛を持ちながら、髪の毛をいじったオシャレをしない」という事である。これは直毛に悩む僕や、髪の毛や服装に気を配りながらも女性関係に苦心しているジンに対する挑戦的態度とも受け取れる由々しき事態であり、こんな奴からは税金でも取ってしまえ、と言いたくなる。しかしワックスを使うだけが髪の毛をいじる事では無い(きれいに櫛を入れることは大事だが、これは費用がかからない)し、何より髪の毛をいじる/いじらないで税金を取られてはかなわない。やるならせめてもっと包括的にオシャレをしない事に税金をかけるべきではないかという事になるが、さらに言えばそもそもオシャレをしなくてもいいという信念の人もいるに相違ない。
そこで考えたのが、所得申告時に一定要件を満たしたオシャレへの支出を損金算入できるという方法である。これならば「オシャレへの優遇」であり「オシャレしない人への冷遇」にならず、また消費の拡大につながる。服飾、化粧品に限らず、一部の車・バイクにも認めていい。折しも「婚活」や「草食系男子に見られる恋愛的熱意の低下」、あるいは(直接関係を見出すのは難しいが)オタク化の中の対人関係性の問題などが叫ばれる中、見た目からでも門戸が広がっていくこうした試みは景気対策以上の効果をもたらすかもしれない。かなり画期的である。画期的すぎて、夢見がちであると言った方が良いかもしれない。
○安定と再生について 〜繰り返し〜(2009/02/27)
「部屋片付けについて」でも触れたが、去年の今頃に比べると、生活が安定してきた。気を病むことも少ない。つつがない、いいことだ。余裕が出てきたので、また本を買おうかと思う。実際には昨年末こっそり買ったのだが、正月休み中に読み終えるという愚かな事をして、今手元に読む本が無い。
そしてお気づきの通り、また本が増えることで部屋が一杯になるのだ。
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