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このページは「煙姫」という名の、野地海月の持つNULLです。
トップはここではなくhttp://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/6143/index.htmlです。
・<過去作品はこちら>
・新作。はもう過去作品送りしました。
<次作の予定>
一本ネタが飛んだので、酒について何かを語る機会を設けたいと思います。
連絡先はnojikurage「@」hotmail.comです。なお、このページはリンクフリーです。
今日の一行。
3ヶ月更新してなかった。。。スイマセン。。。結構充実していたのですが、文章にする感じではなくて…。
○遊びについて 〜目標〜(2010/01/17)
今年は、大相撲を見に行きたい(五月場所が良いか)、「ぼたん」に行きたい、河津桜を見に行きたい(もう宿は予約した)、駄楽器で何かしらは録音がしたい(Tosh・kAzz・Sthane辺りと相談か)、暑い地方に夏行きたい、ぐらいの目標は達成しよう。仕事については考えないことにする(どうせ考えすぎるので)
○為す事について 〜達成感〜(2010/01/17)
アラン・ムーア「フロム・ヘル」(みすず書房)を読み終え一晩グチャグチャした後、次の日はダラダラと「マン・オン・ワイヤー」をDVDで見た。まったくもって何がしたいのか分からない週末だった(また言うまでもなく、酒は飲んでいる)
「フロム・ヘル」も「マン・オン・ワイヤー」も素晴らしかった。そしてこの2作は、偶然にも本人には狂気に思えない「理性的過ぎる熱意」によって何かを為す(「成す」でも良いのだが、完成させることだけでなく、その最中のDoing自体にも力があるように思うので、「為す」という表記を用いる)。正直言ってそのレベルに達するなんていうおこがましい考えはもっていない(長い注:かと言ってそうやって何かを諦めてはいけないとフィリップ・プティは述べているし、僕自身熱意をもって生きようとは思っている。ただ僕の場合、社会学なんぞを大学で学んだりしている時に、どれだけ外界がクソッタレでもそれ自身が「面白いモノ」であることには変わりがなさそうだと感じたので、あまり自分の行為/道/理想について深く追い求めすぎることは無いと感じている。挑戦をする、のではなく、何でも受け入れる事に刺激を求めるといったニュアンスで理解してもらえればと思う。)。いずれにせよ思うのは、そうした情熱・passionが、受難としてのpassionとして「為る」事について(語源は知らないが、恐らくこの二つがつながっている事を人間が認識してきたことについて)。何故何かが変ってしまうという恐ろしい事が待っているのか(いや、変る事をもって為すとするにしても)。下劣な質問をすれば、何かが見えればそれでいいのか、「何も変えずに見てくる」事は不可能なのか。見るということが、知るということが何を変えてしまうのか。
○お知らせについて 〜お誘い〜(2009/10/15)
「萬月」さん、営業再開してました。行くぜ野郎ども!
○本性について 〜新婚旅行だったけど〜(2009/9/23)
台湾行ってきました。旅日記。新婚旅行だったそうですが、飯食って酒飲んでばかり。台湾エステ?なんですかそれ。
○練習不足について 〜いい事なんだろうけどね〜(2009/9/13)
「孤独のグルメ」を読み返したりする度に思うけど、食事中に自分と向き合えるのは貴重な時間だと思う。食事は、店の空気から始まり様々なものが「生きている(ために食べている)自分」を説明し、結果自分が今どういう状況にあるのかを端的にまとめた情報にもなっているからだ。妙に仕事中に澄ましている時よりよっぽど明朗な思想がまとまることがある。
頭が悪くなってきてる実感がある。昔よりピリッとした考えをまとめる力に欠けている。多分だが、結婚してからそういう能力があまり必要じゃなくなってきたせいであろう。そして上記のような食事が減ってきている事もあると思う。昼食は自作の弁当を本を読みながらダラダラ食べるし、朝夜は夫婦で食べている。いわゆる幸せボケなのでいい事なのだろうし、それゆえ「別々に食べよう」なんていう気もサラサラ無く、ただ「あははー頭悪くなってきてるわー」と思っているだけだ。そういう訳で皆さんにはその点ご了解いただき、「あいつはますますしょうがなくなったなぁ」と思っていただきたいというお願いをする次第である。私の事、捨てないで!
○秋について 〜季節感を大事に〜(2009/8/31)
マツタケ食べました。ホイル焼きすれば安いのでも香りが楽しめます。うめー。っていうか俺料理うめー。
○ゲームについて 〜リゾート〜(2009/07/29)
今更になってマリオ64を引っ張り出している。
最近ゲームをやらなくて禁断症状的になってたのだが、そんな自分の感覚が温泉に行きたい時の感覚に似ていたのだ。しかしすぐにそれは当たり前で、「ゲームはリゾートなのだ」という結論に落ち着く。
観光ではなく保養の旅行で、あるいは家で居心地良く、昼からビールなど飲みつつ窓から射す光や雨音を楽しむのは、「(精神的な)リゾート」としての最低限必要な要素だろう。場所柄が良くても慌ただしくては意味が無い。「ゆったり過ごす」事。もちろん、そうしてそこで一人でする事はぼーっとするか読書かチェスなどの遊び程度のものだ。「時間を贅沢に使っている」とはそういう事だろう。
WizでもPSOでもタクティクスオウガでも無双でもぷよぷよでもマリオでも、行き着く先はここにしかない。「ぼーっと、あるいはストレスにならない程度に頭を使いつつ」時間を使う贅沢。苦行ではない作業の中に、時間が溶け込んでいくこと。ゲームはその見た目の派手さとは裏腹にリゾート的なものなのだ。
その上で探索型、一回のプレイが短い、どうせならリゾート的に風景の綺麗なゲーム 、という条件で脳内検索した結果のマリオ64だったわけだ。デイトナUSAでもよかったのだが、要するに、ポリゴンで書かれた底抜けに青い空を見たかったのである。
○飯について 〜自分メモ〜(2009/07/12)
・好きな店のリスト作りました。パッと書いただけで暫定公開(まだホンの一部)ですが、いかに自分が食い意地張っているかを物語る気がします。
○味覚外の食事について 〜「あーいいねぇ」〜(2009/06/14)
先日後輩に「孤独のグルメ」という漫画を薦められて買ったところ、大当たりであった。これは僕の好きな「美味そうなグルメ」ではなく「よさそうなグルメ」なのである。例えばその漫画では、炎天下の神宮球場でカレーを食べる。これは「とても良い」。また、メインとして紹介されているわけではないが、西部池袋の屋上で昼食にうどんを食べる回で、食後屋上をふらつきながらアメリカンドッグをほおばっている(たった1コマだ)。これは、「美味い飯」では決して無い。だが「良い」。「あーいいねぇ」。マズイと分かっていても縁日で粉モノを買ってしまう気持ち。「孤独のグルメ」の主人公は下戸だが、これらは要するにビールのCMと一緒なのだ。夏、太陽、タフな食事(カレーとか、肉とか)、グビッ!という音。これはもう、その瞬間のビールの味なんざはっきり言って分からないが、「いい」のだ、「たまらない」のだ。そうとしか言いようが無い。それは味覚の問題ではなくて、そういう「イベント」であり、そういう「様式」であり、そういう「システム」なのだ。
食事にはどうやっても「美味いのに美味くない」「美味くないけど美味い」、という事が存在すると思う。期限の良し悪しや、食べている空間(店など)の雰囲気、体調、そもそも何が食べたかったのか、等の要素が「美味いのに美味くない」「美味くないけど美味い」を作り出すと思う。それは本質的に、味のガイドをするグルメ本の範囲外のところにある。「これこれの店はこういうソースで味付けしている」という情報は、先に挙げたコンディションの類ではカバーしきれない所に存在する。逆に言うと、そうした部分をカバーした本というのは、フィーリングが合えば大変参考になる。「この人の感覚、分かる」という著者による、そうした「コンディションを左右するちょっとした事」を書かれている本というのは、参考になるばかりでなく、味以外のところではまるでその店に行った様な気持ちになり純粋に話として面白い。
例えば、僕は鳥すきについて「ぼたん」と「末げん」のどちらが美味いか知らない。「末げん」に関しては行った事も無い。しかし、J.C.オカザワが「文豪の味を食べる」で「末げん」を批判している文章を読んだ時に、「末げん」には行かなくていいだろうな、と結論付けた。鳥すき鍋が煮え立った状態でそのまま(つまり、机の上で煮るのではなく、いうならば「火から下ろした状態で」)出てガッカリした、という内容の一文があり、それは味が美味かろうとも「体験」としては満足できなさそうだなぁと思ったのだ。また、「末げん」のぐるなびページを今見ている限りでは、三島の最後の晩餐として知られる「わのコース」では刺身が出るという。「ぼたん」の鳥尽くしな様相から考えると、少しなんというか、「いっそ奮発して高級な鳥を味わいつくしてやりたい」と(自分の収入から考えれば)高額の金を払うには僕の期待通りのシナリオではなさそうだ。これは「ぼたん」に行った体験が僕の「高級鳥すき」イメージを作ってしまったからではある。夏の暑い日だったのだが、炭火の鍋が近くてビールすらすぐに温くなる状態で、仕方なしにと常温の日本酒で熱々の鳥を食べきったと思ったら、暑さと日本酒の酔いで完全に体の中で熱が渦巻いている所に美味そうな白米が来た。美味そうと思うも先の状況なのでなかなかガツガツと食べれる状況ではない。だが上司(それも役員だ)はしっかりとそれを平らげ、さらにはデザートのミカンまでぺろりと平らげてしまった。「ぼたん」は間違いなく高級の部類に入る食事だが、そのコースを食べきるにはなかなかスタミナが要る。そういうものなのだ、仕事をこなしステップアップしていく男が美味いと思って食べる肉とはそうした「パワフル」な代物なのだ、その時にそう感じた。なので奮発して鳥を食いに行くとしたら、前日から食事量を調整して完全なコンディションで挑みたい、鳥を丸ごと食べつくすような気持ち、ほとんどケンタッキーのチキンを7・8本食べるような気合で食事(と酒)をスペクタクルにまでしたい。それは「末げん」ではなく「ぼたん」なのだ。これはもう、味ではない。だが店内の雰囲気と味の評価そのものでこの差を説明するのは難しいと思う。それは「グルメガイド」の仕事ではない。そもそも、味に特化した説明文のグルメガイドを買う人と僕のような「食べる事はイベントだ」と思っている人間とでは住み分けが生じている、そういう事だ。
話が長くなってきた。要するに味のレベルとコストパフォーマンスだけでは測れない世界が食事には、グルメには存在すると思うし、それを分かってくれる本が嬉しいという事だ。そして出来れば、僕と飲む人とはそういう観点で店を選び、大いに楽しみたいと思うわけだ。よろしくお願いします。
○ランチについて 〜くしゃみで性格が変わる〜(2009/04/28)
久々に自作の弁当ではなく、外で昼食をとることにした。虎ノ門でそこそこ有名で込んでいる中華に行き、五目焼きそばと半チャーハンのセットを食べる。焼きそば自体は美味しかったが、チャーハンやスープ、ギョーザなどにいかにも「昼時の捌き用なんです」というオーラを感じ、ガッカリしてしまった。
食事を日常的に作っていると、技うんぬんではなく「手の抜き方」というのは分かってしまう(自分がやっている事でもある、という意味だが)。世間で言う「主婦はランチにうるさい」というのは、女性だからということではなく、料理を分かっているからだという事は言えそうだと思う(この場合の「分かっている」とは、いい味が分かる、とか、料理が上手い、とかそういう事ではない。手作業としての「あるある」が分かってしまう、という意味だ。)。そしてこの文章にタイトルを付けた瞬間、焼きそばではなく天津飯にすれば良かったと思った。ギョーザも付いていたのだし。
○逃げ場について 〜正直な自分の夢〜(2009/04/19)
かつて手中にあったもの、あるいは、確かに本来なら自分のものであるはずのが現実として今現在は手元にない時、それがあればと思い出す事は慰めというよりは苦痛にも似た感覚を呼び起こす事がある。「ああ、あれさえここにあればいいなぁ。」の後には、「そう、あるはずなのになぁ」がやって来る事がある。結果、その事には目をつぶってしまった方が楽だとすら思いかねない。
一方、そもそも自分のものではないものをあればと願うのは、ただの妄想であり、これは何の痛みももたらさない。
異国に2週間ほど出張に行きそれなりに孤独を感じたのだが、その時自分が何を思ったのかを思い出すと、修練が足りないと感じる。
○言霊について 〜宿るって、何が?〜(2009/04/03)
暗黒が過ぎて書けない事が二つある。正確には、一つは書いた後消去した。一角獣の乙女に怒られそうだったからである(事実だ)。一つは、まだ文にしてないし、結局「いつか見たことへの復讐」の例の如くのパターンである。
「いつか見たことへの復讐」と同じくらい僕の口からよく出る言葉「お城の裏の穴ぼこ」は、誰にも聞かれないことがその「穴ぼこ」たる最低条件だと思う。煙姫は僕の「穴ぼこ」ではない、よね。
○祝福について 〜+2〜(2009/03/14)
色々な人にお祝いをされると、段々当人の思っていた以上の事だと分かる。「お祝い」を「心配」とか「恨み言」とかに変えてもいいが、要するに台風みたいなもので、中心に居るとどういうことなのか判らない事というのはある。
思った以上に、今回の事で色々な人からお祝いを受けた。当人達は準備して粛々と進めてようやくという感じなのであまり劇的な感じはなかったのだが、こうしてお祝いを受けるとなかなか思い切ったのかしらんという気持ちになってくる。演出を受けている。ありがとうございます。
ところで今日のタイトルはローグライクファンじゃないと分からないよね。
○ピンクゲーについて2 〜補足〜(2009/03/10)
過日の「ピンクゲーについて」に色々足すことがあったので。
まず、「エロゲー」と一括りにしていることについて、まぁ批判がありそうなので予防線を。僕も全てのゲームをやった事があるわけではないので、全てのエロゲーがエロくないとは思っていない。さすがにそれはそうだ。ただ、感覚として、エロゲーにプレイヤーを喜ばせるための視点での絵(女性を故意に大写しにしたもの)が多いのは事実だと思う。
もう一つは、エロマンガ、エロ小説について。率直に言ってこれも一括りにできるわけではないのだが、これらに関しても、ストーリー性やキャラクターを差し置いて受けて(読者)のために表現が尽くされているものは多いと思う。率直に言って、僕自身そうした作品はあまり好きではない。どちらかというと、例えば男性向け作品であろうとも男性キャラクターがそれなりに扱われている作品の方が個人的には好きだ。
結局の所、僕がエロくないと思う類のエロゲー・エロマンガ等は、多分「テレビで見るグルメ番組」に近い。どれだけコメンテーターに美味しそうに食べてもらった所で、こちらは少しも美味しくはない。それなら、どちらかといえば料理と食べる人を対等に映している映像の中での方が、自然に「美味しいものを食べている図」としては楽しめる。そういうことなんじゃないだろうか。
○手を取りあうについて 〜加速装置〜(2009/03/06)
「ミスをする」のではなく「誤った道に進む」事は二人以上でない限りできない、というのが持論だ。「善意」という言葉の示すとおり、知らずにやった事に欠陥があったり、方策が間違っていたとしても、それはミスである。指摘によっていくらでも修正は可能だろう。最後まで指摘に反論してくるという可能性もあるが、それは先に言う「二人以上」の状況となる。なぜなら指摘をしない限り「最後まで指摘に反論する(ミスではなく、自らの道をそれと信じ行動することを表明する」事は観測されないのであり、好意的に解釈すればミスのままである(シュレーディンガーの猫を参照)。
問題は、その一人に対して、上段のように指摘したり、承認や同調をする人がいる場合である。指摘の例の結果修正されればそれはミスとして終わる。これが、先のように刺激の結果強固なものになったり、あるいは承認や同調によってそれを「正しい」と認識する根拠が出来た時、それは誤った道への進行となる。承認によってミスが誤った道へ進む例としては、例えば会社運営に見られるかもしれない。知らずに間違いを犯した事に関して、上司の承認が下りてしまったり、あるいは相手先や外部監査などのチェックでも引っ掛からず通ってしまった場合、上司や相手先や外部監査もたまたまミスをしていただけだとしてもそれは「不正」と言われるだろう。報道のされ方にも寄るが、ここまで来たものを善意とのみ受け取られることは少ない。
ところで少し脱線するが、僕がこの「二人以上でなければただのミス、二人以上なら不正である」という概念を提唱したのは、とある恋愛相談からだ。喧嘩をしているカップルの片方から愚痴を聞いている際、「なんであんなのと付き合ってるのだろう。ミスをしたものだ」といった内容の言葉が出た時だった。相手方もそう思っているのだろうか、もしそうだとして、そういえばどちらから付き合おうと言い出したのだろうか、という想像を頭の中でしているときに、「後に悔いることになる告白」と「後に悔いることになる承認」の両方が無ければただ所謂「振った」だけだったのだろうな、と思ったことがきっかけである。話を聞いている限り喧嘩両成敗と言うか、もうグズグズの関係になってしまっているという内容だったので、「誤ったものだ。もうミスというレベルではあるまい」という感想とともにアイディアが湧いたと言える。
そういった背景もあり、「二人以上だからこそ、加速してしまう」というコンセプトがこの論の中にはある。つまり、ひとたびもう一人がOKを出したが最後、何かきっかけが無い限りは、この二人の間で確認をすればするほど二人の自信が強固になっていくのが普通だからだ。「OK?」「OKOK」「だよねー」。加速装置。そうして加速した風景の中で見逃してきたものが、煙姫風にいえば「いつか見た(そして見逃した)ものが」、ある時急に眼前に現れる。その時には「ミスの指摘」などという甘いものではないだろう、それはもはや二人の選択への真向からの否定である。そうした否定が眼前に現れずに加速しきってどこかへ消え去っていく集団に関しては、何も言う必要はない。それはもう、誰にも追い付けないのだから(極端な例は無理心中だが、そこまでいかなくてもまぁ、ライトな意味では「キモいペアルックの不細工カップル」もそうなのではないか)。
二人以上である時、これが問題だ。その中で加速しないこと。しかし「信じる者は救われる」という言葉もあり、疑いとは一度始まると際限が無いものであり、半信半疑とは辛い選択だ。「間違えない」というのが唯一の解法に見えるが、そんな事は可能なのか。バランスはどこにあるのか。
○景気対策について 〜昔ながらの戯言〜(2009/03/03)
大昔、狩名と「血税」という話で盛り上がった事がある。システムとしてキャッシュフローが倒壊しつつある医療保険制度への新たなる歳入として、また(国家機関ではなくあくまでも法人ではあるが)赤十字が苦心している慢性的献血用血液不足を解決するため、健康な成人は納税をするか献血をするかを迫られる、というものであった。これは「献血を出来ない人はたとえ健康と言われていても鉄分不足などが否めず、結果医療機関にかかる可能性が高い」という前提に立ち、負担金比率をやや現実的にするとともに先に挙げたとおり新たなる歳入、そして医療血液不足を解決できるという意味で画期的と言えなくもなかった。画期的というよりかは、夢見がちと言った方が良いかもしれない。
さて、先日の「オワタ組」の飲み会においては因幡氏がイケメン草食系男子であるという話で盛り上がっていたのだが、その際に議題から漏れた事がある。それは「因幡氏はイケメンでありしかもとてもバランスのとれた(癖っ毛でもなく、直毛過ぎない)いい具合のカーブの髪の毛を持ちながら、髪の毛をいじったオシャレをしない」という事である。これは直毛に悩む僕や、髪の毛や服装に気を配りながらも女性関係に苦心しているジンに対する挑戦的態度とも受け取れる由々しき事態であり、こんな奴からは税金でも取ってしまえ、と言いたくなる。しかしワックスを使うだけが髪の毛をいじる事では無い(きれいに櫛を入れることは大事だが、これは費用がかからない)し、何より髪の毛をいじる/いじらないで税金を取られてはかなわない。やるならせめてもっと包括的にオシャレをしない事に税金をかけるべきではないかという事になるが、さらに言えばそもそもオシャレをしなくてもいいという信念の人もいるに相違ない。
そこで考えたのが、所得申告時に一定要件を満たしたオシャレへの支出を損金算入できるという方法である。これならば「オシャレへの優遇」であり「オシャレしない人への冷遇」にならず、また消費の拡大につながる。服飾、化粧品に限らず、一部の車・バイクにも認めていい。折しも「婚活」や「草食系男子に見られる恋愛的熱意の低下」、あるいは(直接関係を見出すのは難しいが)オタク化の中の対人関係性の問題などが叫ばれる中、見た目からでも門戸が広がっていくこうした試みは景気対策以上の効果をもたらすかもしれない。かなり画期的である。画期的すぎて、夢見がちであると言った方が良いかもしれない。
○安定と再生について 〜繰り返し〜(2009/02/27)
「部屋片付けについて」でも触れたが、去年の今頃に比べると、生活が安定してきた。気を病むことも少ない。つつがない、いいことだ。余裕が出てきたので、また本を買おうかと思う。実際には昨年末こっそり買ったのだが、正月休み中に読み終えるという愚かな事をして、今手元に読む本が無い。
そしてお気づきの通り、また本が増えることで部屋が一杯になるのだ。
○出会いについて 〜ジン生劇場〜(2009/02/24)
いい奴なんだが、しかも案外話も面白い奴なんだが、女性との付き合いとなるとヘタクソな奴がいる。ヘタクソな理由は、一つには所謂「奥手」、女性慣れをしていないという事。もう一つの理由は、結果女性と話す機会が少ないため、多少話が弾んだりした女の子に過度の期待をしてしまう事。言うまでも無く、この過度の期待が彼を緊張へいざない、結果彼は更にコミュニケーションをとるのが下手になり、女性慣れできない。
こうした状況への解決の手段は気持ちの切り替えや根性論になりがちだが、一つ理想的な解法を考えた。「良き理解者たる女性の友人」を見つける、というものである。気楽に喋れて、且つ女性の視点からアドヴァイスを出来る女性さえいれば、彼も次第次第に何かをつかんでいけるのではないだろうか。しかしここで問題となるのは、そんな良き理解者たる女性に彼が過度の期待をする、或いは彼が惚れてしまう問題である。そこで受け入れてもらえればまぁ問題は無いのだが、そんな都合良くは行かない気がする。
現状、彼の友人が「友人の友人」として女性を連れてきて複数人で彼と喋る、というのがリハビリテーションとしては最も有効化と考えているが、なかなかそういう機会も多くは無い。どうしたものか。
○部屋片付けについて 〜何かを置いていくことに関して〜(2009/2/23)
先日予告も書いたが、2008年2月17日、2009年2月17日と部屋片付けをしている。まぁ、1年ぴったしなのは偶然にしても、なかなか僕の状況を表していると思う。
そして去年の記事でも書いたが、僕は「部屋片付け」を定期的にしている。つまり、生活に密着させるモノの再配置だ。それが必要になると言うことは、僕は生活に必要なモノが変化していっているということなのだと思う。そして、その結果、必ず「不必要なモノ」が整理・淘汰されていく。そうして、不必要なモノを部屋から追い出して、新しい生活になるのである。去年は要するに、淘汰すべきモノがあったという事になる。
では今年は?不必要なモノは無かった。この1年間は我ながらナカナカ頑張った年で、結果狩名にしか分からないかもしれない古い表現を使えば、「両手は充足していた」。それなのに部屋を片付けた。それも恐らく、今まで過去に例の無い規模だった。
種明かしをすれば簡単で、つまりはその部屋自体が僕の生活に密着しなくなったのだ。僕は希望に満ちた新生活を始めた。引越しである。部屋自体を生活から追い出した、と強がりを言うか、部屋から僕自身が追い出された、というかは趣味の問題だろう。そうして、20年間居た部屋は、見事に片付いてしまったのであった。
○ファーストライフについて 〜数値的なレベルの概念が生活に欲しい気もする〜(2009/02/17)
(例えば)オンラインゲーム。冒険を市民化し、日常化すること。(例えば)SNS、ブログ、ウェブ管理。日常をメディア化すること。あるいは「メディア化を前提に」日常を過ごすこと。(例えば)R25で盛り上がること。一部メディアをブランド化すること。それでもなお、美徳でもない平凡の中に多様と言われる人間が生きていて、それが個人であること。
思想的プレイヤーキルは多様化する事の過程、とでも言えばよいのだろうか。いわゆる多様化は全ての絶滅危惧種を救うロジックだと考えている「優しい」人がいる(「優」は「優れた」に通じているかもしれない)が、多様な様の中に他人を淘汰する様があってもいいという事を、あるいは古くさくも脱構築とは常に有り続ける変化と淘汰の再構築である事を忘れないで欲しい。プレイヤーキルの話に戻れば、「自由度が高く職業が多すぎて何をやるか決められずスタート画面を前に固まる」人はゲームをプレイできてすらおらず、プレイヤーキラー(PK)やPKキラーやアンチPKの辻ヒーラーやその他多くのプレイヤーのいる世界に飛び込めていない。飛び込めていないうちから肯定しているなんて主張するのは愚かしく思われる。
いや、単に知人が何かを考えているようだったから柄にもなくエールが送りたいだけなのだ。スケールを一般論から個人の趣向に落とすことは確かに学にも話にもならないが、代わりに堅牢で(それが時と共にフラフラとあるいは玉虫色に変化していく様すら)絶対と言い切ってしまえる土壌になる。多分それでいいんだろう。えーと、頑張らなくても、君は素敵です。ゲームみたいにプレイヤーである自分を楽しんで下さい。
○ピンクゲームについて 〜トレーダーとソフマップが近くにあるよね〜(2009/01/29)
西新宿ウェンディーズで夕食を食べていると、そばにいた男性二人組がエロゲーの話をしている。あぁ、言葉も見つからないが、肉食ってる最中にすごいなぁとぼんやり思っていて、ふと
「っていうかエロゲーはエロくねぇ」
という発想がよぎる。なんというか、見せ物が過ぎる。ゲームの性質上当たり前だが画面の向こうの彼・彼女は最終的にはプレイヤーへのエンターテイメントに奉仕するよう出来ている。「迫力派」は「第三者から見ても分かるSVOC」をモットーとするが、いわばこれは「主体なき迫力派」だ。だが、だからと言ってプレイヤーがそのシーンに…上手い表現が見当たらないので陳腐に言うならば「己の全てを捧げて相手とぶつかる」ような興奮を求めている、あるいは得られるかと言うと、僕はそうでもなさそうだと思う。プレイヤーがゲームの選択肢を超えて行動自体に相手を意識しての行動が取れないことや、あるいはそもそもエロゲーをエロ目的だけではなく性的描写も含んだ述べるゲームあるいはアドベンチャーゲームとして見ている人たちはそういう情熱的興奮を以ってあたってはいないだろう。それはなんというか、(一部にはその性的描写に重きを置いている人もいると言う意味で)ピンク映画館に似ている気がする。根本的に「自分に関係ない性的行為を、その事を前提に見ている」という意味で、エロゲーは「エロ」というよりは「ピンク」だと思う。
じゃぁ世のエロゲーがその実「ピンクゲー」なのだとしたら、「エロゲー」とは何か。エロの、遊戯。…ゴム付けてセックスすること…には限らないが、まぁ、そういう、方向なんじゃないだろうか。何分、ハンバーガーを食べながらの考え事だけに、歯切れが悪い。
※そう言えば彼の「迫力派」宣言から既に4年は経っている。月日が経つのは早いことだ。
○レオナール・フジタについて 〜酒飲んでみたい人だ〜(2008/11/26)
先週、有休を取って上野の森にレオナール・フジタ展を見に行った。色々と勉強になった気がする。
まずは線のあり方について。写実として言いたい事を最低限の線で表現する事に恐ろしく長けていたように感じた。明確に一線一線に意味があり(重要性に関しては、線によってバラバラな気もする。これは後述)、何かの痕跡として存在し、結果線は…正確な表現ではないが…必要十分になっている。だがそうなると気になるのは、7年の時を経て同じ痕跡を絵にし、しかも7年後には背景を付けたことだ(「腕を伸ばした大きな裸婦」と「仰臥裸婦」のこと)。何の痕跡なんだ?背景として付けられたわざとらしいまでの布。二人の友人のスケッチにも出てくるが、立体的に非常に説得力があるものの、「本当にそんな布あったのか?」と思わせるまでに派手なしわの布が出てくる。そういうものなのだろうか。そういう布があったのか、わざとだったのか、よく分からないが、いずれにしても描く対象としてその布があり、実在したかはともかくそれを痕跡としたこと。何かあるんだろう。
「ライオンのいる構図」「犬のいる構図」、「争闘」。見に行った目的。部屋に入って目に入った瞬間、「これは打ちのめされる、絶対時間がかかり、疲労する」と思い、周りの小物から見ようとしてユキへの手紙を発見し、失敗を知る。つまり、手紙にあるただ一つの文言。「私たちのもつ全てのもの」をこの大作においてきた、と言う。くそっ、その言葉に気付いた以上、僕の見方は唯一つとなり、結論は唯一つとなる。そして見る、ああ、くそ、やはりそうだ。ライオンのいる構図は服さえ着せればよくある日常風景の男女だけが切り取られている。日常の後ろ側。そして檻に入れられたライオンがいる。当たり前だが非日常だ。犬は日常だ(猫との関連は後述)。さて、それと「対をなす」と言われる作品が「争闘」。あーこんちくしょう、日常の後ろ側だと思いたくなるじゃないか。「私たちのもつ全てのもの」と言われて、この絵を見せられたら、単純にそう解釈してしまう。トラップな気がする。だが、そうだと思わされる。力強い。くそっ、捉われた。
その思いで「猫」を見て、完全に一杯食わされたと悟る。猫には「野獣性と家畜性がある」。犬は?ここまでは僕の解釈でもまだ通じる。その後だ。「猫はそうした動物で家におけるものだと思う。ライオンや豹の子供となると、これは大変だ」(正確な抽出ではない。メモを取り忘れた)。「これは」。そして絵自体の愛らしさ。くそっ、このジジイ、茶目っ気がありやがる。分かっててやりやがった。こいつ、人間が大好きだな!
第3章のフロアで子供の絵を描いて曰く、モデルはおらず、想像だけで描き、「私一人丈の子供だ」と宣言する。平野耕太みたいな事を言いやがって、明らかに冗談の通じるタイプの人間だ。お手玉されたとしか思えない。「フランスの富(48図)」ではモナリザの絵に勝手な背景を書き入れる。相当ジョークが上手い。ところでここになって気になりだしたのは模型でまで自分の絵を「2回」描いていることがあることだ。アトリエでの自画像や、アトリエの模型、あるいは「ライオンのいる構図」でも、「絵の中に自分の絵を入れる」事をする。何かあるのか?多分個人的な背景があるのだろう。よく分からない。
さて、ひとしきり打ちのめされた後に笑わされ(あるいは笑われ)、来た第4章での「あれ?」という気持ちに。キリストを書くときの線が、今までと全然違う。明らかに「必要十分」だった線の絵に、「それでも、まだ気持ちがこもってないんです」と言わんばかりに、線を書き足している(決して邪魔ではないが、最小限ではなくなっている)。聖母ではそういうことは無く、ただ、キリストのみ。あるいはこれは僕が感じただけのイメージかもしれない。だが、明らかに信仰心が絵に宿り、すがるように線が足されていたように思えた。
しかしそれでもイヴの絵は笑うしかなかった。いや、とてもとても美人なのだが、そして絵も素晴らしいのだが、それ以前にギャグだ。それまでの練習なのか、多くの同じ構図のエンピツ画やらリトグラフやらの絵があるのだが、完成品ただ一枚のみ髪をあげている。散々練習して、違う、違う、とやった挙句、「あ、髪アップにすればいいんだ」、と言った風だ(展示の並び順がそう思わせるところもあったが)。挙句イヴは「EVE59」と書かれたリンゴを持っている。1959年作だからとはいえ、何か急に鳥山明だ。本人作品の行き着き先に苦笑して、ちょっと照れ臭く雰囲気を変えてしまった感があり可愛らしい。
○いつか見たことへの復讐について 〜補問〜(2008/11/18)
「背が低い男が背の高い女性がタイプと公言するのは、付き合う=征服できている、事を前提にして、何かコンプレックスへの復讐に酔いしれてるんじゃないですか?」
その通り。この概念で嫌なことがたくさん説明できます。
○「明日の神話」について 〜どかーん〜(2008/11/18)
一般公開されて二日目の明日の神話を見てきた。写真。
これは、そう、HCEたる人類の神話。Here comes everywhere。いずれ克服・踏破されるための場所。
この絵は、確実に原爆炸裂の瞬間だと思う。壁画だと言うが、もしも一人の人間が散々歩いた末に薄暗く肌寒く風が吹くような所に着き、挙げ句この壁があったりしようものなら、泣くしかない。何も手元に残ってない、お手上げだ。この絵は、絵自体に悪意が無くとも、悪意を表現している。それらを含め諸々が溢れ漏れ出ている。怖い絵だ。
だが、渋谷マークシティは、それを内包してなお華やかだった。照明が、背景が、人が、もはやその恐怖を克服している。この絵と現実に対峙してなお人々は明るく、楽しんでいる。確かに存在した過去の痛み・怪我を「んなもん直ったら屁でもない」と言い切ってしまうのに似ている。どう贔屓目に見ても原爆が炸裂した事は歴史的なダメージだったはずなのに、もう治して受け入れて笑っているようだ。もちろん、ニュースを見れば原爆や広義の戦争が依然問題として存在しているし、ある意味で彼らは芸術的にあるいは政治的に無神経なだけなのかもしれない。しかし、いずれにせよこれだけの力が人間にあるのだという事だけは間違いない。恐ろしき絵を前にした集団のこの力強さ。
いずれ公開直後の、騒ぎも収まると、この絵の前は「絵なんかともかく」自分の日々をビビッドに生きる人たちが通り過ぎていくだけになるのだろう。その様は絵以上に「明日の神話」なのではないかと思わせる。
○いつか見た事への復讐について〜そのうち、どこかで、知らぬ間に〜(2008/10/15)
いい加減「煙姫」の中心を為すこの言葉について、差し支えない程度に語ろうと思う。
歴史的理解が必要かは分からないが、そもそもこの言葉は、フェチという概念を説明するために生まれ、そのうち人間の行動を説明するのに使えるのではないかという説を立てたものだ。
フェチについて考察をして始めに行き着いたのは、実は「フェチ」には主体性が無いのではないか、という疑念である。例えばいわゆる制服フェチには、当たり前だが「確たる理由」が無く恣意的なものではないこと、そして「ディスタンクシオン」の例を待つまでもなくそうであらば何か「引き金」がフェチを産む可能性があること。かつて美しい○○(看護婦、女子高生、婦警、なんでもいい)に会った/接した事がある、作品上で見た(魔法少女の類は確実にこの例か)、昨今では「既にフェチを前面に出した作品に触れた」、というのもありそうだ。ともかく何かしらの事例無しにフェチの目覚めはあり得ないのではないか。そしてそれは「いつか見たこと」として存在するのではないか。ここに自発性があるか、という当初の議題はさておく(フェチを考察していた時はちゃんと検証したのだが、今は必要ない。)
ではなぜ「復讐」なのか。後述するが、別に言葉として見る分には、やっている事は「いつか見た事への愛」でも大差は無かった。それは賭け札の表と裏でしかない。ただ補完しあう内容について、「好意を以て復讐する」か「敵意を以て愛する」かのどちらかの言葉を使う必要があった時、「敵意」より「復讐」の方が義の概念で注釈を入れやすかったに過ぎない。ともかくでは、こう言い換えて進めよう、「愛だったかもしれない復讐」とは何か。答えは簡単だ、「いつか見た事」はもはやその場には居ない場合には、本人の志向性の始粗たる「いつか見た事」とは違う相手に自身の志向性をさらし、ぶつける必要がある。模倣愛と言うべきか八つ当たりと言うべきかはケースによる評価の別れ所と思うし、それこそが「愛なのか復讐なのか」ていう表裏を生み出すが、ともかくこの「代替案でしかない行為」は実に世に蔓延していると思う。例に言うならば、「グラビアは何故下着ではなく水着なのか、そして何故常にこちらを見ているのか」という問いに対して、世に多くいるだろう「下着の女性を現実に見た事がないが、『こちらだけを見てはくれなかった水着美女』を見た事はある」男性へ、「こちらを見てくれている、水着の女性」を用意している、つまり「あの子ですよ」と喚起させるものがあるあるいは「あの子以上の、『アイドル』が貴方を見ていますよ」という勝利の状況を用意しているからだ、と言うのは可能なのではないか。そうしたささやかな「いつか見た事への復讐」(まさしくこれは相手を間違えてはいるが復讐には相違無い!)が人の心を満たしている可能性があるのではないか、こう考えたのが始まりである。「初恋の人が忘れられず、似た面影の人に惹かれてしまう」のも、この例に当てはまる可能性がある。こうした例は「復讐」というより「愛」とした方が良い気もするが、これについては段落冒頭で述べた。
さて、はじめは性癖やフェチへの考察でこうした可能性を考えたのだが、すぐに色々な事に応用できる事に気が付いた。「前付き合った恋人に似てるからあの人は苦手で、結果冷たくあたってしまう」、「昔酒癖の悪い人に嫌な目にあったから酒を飲む人は嫌い」、どちらも言われた当人は悪くない筋違いの八つ当たりだ。だが、世に付き物ではある。いや、理屈を並べられるだけマシかもしれない。世の中には当人も気づいていないこうした「いつか見た事への復讐」も多く存在するのではないか。後で気付く、好きになる異性の共通点。何故自分は周囲にとけ込めないのか。また言ってしまった言葉。どれもこれもが当人が意識していない「いつか見た事への復讐」だったなんて事がないとは言い切れない。もっと言えば、全ての事象は今後「いつか見た事」になる可能性を秘めている。
何も以て断罪すという訳ではない。「人はそういうものではないか」と言いたいだけだし、あるいはこれは「いつか見た事」が我々に復讐をしているのかもしれない。それがサガだと思う。だからこそ「煙姫」の文章は「いつか見た事」を喚起させるような文や、あるいは僕が堂々と行った復讐行為がパフォーマンス/ショーに見える文を目指している。そうした文が貴方達を打ちのめす事があれば、書き手としては幸せな事だし、貴方達も文で済んで良かった、と思う。
いいからとっとと新作書け、という話ではある。
○衝撃について〜可能性の完成〜(2008/09/20)
インタフェースの問題、というとあまりに広義で後述を要するが、ともかくいくつかの議題要素と言えばよいだろうか、そうした問題を抱えてはいるが、ともかくアンディーメンテ新作「君が忘れていった水槽」には煙姫が書きたかった文章(今煙姫上にある文章の失敗が克服された夢)や今後書きたくなるだろう文章が表すべきものを恐らく全て内包している。
「水槽」は一言で言えば、詩・ストーリーを無限に生成するシステムだ。様々な名前の付いたセル達が接触し交配し死んでゆくなか、時に補食し、寄生し、戦争し、増殖し、蹂躙される。セルの名前は人の記憶に呼びかける曖昧としたイメージ達であり、「水槽」の中は記憶の混線や不意に過去に圧倒された時の、一切のコメントを許さずただ風景に目をやる事しか出来ない瞬間をエミュレートする事がある(当たり前だが自動生成される詩はランダムな存在であり、意図的に何かをする訳ではない)。
これが何度目の説明になるか分からないが、煙姫の文章は皮肉であり説教節である。煙姫の文章が目指すのはそれそのままのインパクトというよりは何かを読み手に喚起させることである。僕が「いつか見たことへの復讐」をし、結果読み手がいつか見たことに復讐されることを目的としている。その為の「いつか見たこと」の応用として様々なパターンを用意するため、煙姫の文章は一つでなくまた書き足されていく。
だが「水槽」は自走する。「水槽」は巻き戻し及び一時停止不可能な時間軸の中で、数え切れないパターンを実践し、結果受け手に何かを喚起させる。打率は問題ではない。ジスカルド氏はそんなものは手放したのだ。何故なら「水槽」はある意味で全ての人を内包するのだから。可能性の淘汰が発生する事自体が「水槽」のシステムでもある。この事はジスカルド氏と交流があるポーン氏もロックマンのイラストの中で述べている、気がする。
話を戻そう、つまりは、インタフェースの問題さえ克服すれば煙姫の文章は「水槽」で代替可能などころか、むしろ「水槽」の方がハイペースな更新を約束している。インタフェースの問題とは、「水槽」には再現性が無いこと、だろう。その方がいい人もいるだろうが、応用されて出来上がった形式、つまり誰かに解析され完全にしとめられた形で打ちのめされたい人もいるはずだ。また、打率を無視していても展開される映像の面白さに本来衝撃を覚えるべきシーンの到来を玩具のように扱ってしまう可能性がある(文章と違って「復讐」のシーンに始まりも終わりも無いからか?)。それ以前に文と動画とは人によって浸透の仕方が違うのは言うまでもない。
であるから、煙姫が試走を止める理由にはならない。だが、しかし、あらためて、「水槽」は、凄い。
○エンタメについて 〜パワー〜(2008/08/26)
先日、「白籠」の新刊に載せてもらう文章を書いたのは先に書いたとおりだが、書いた後でいわゆる「そのジャンルのもの」を読ませてもらう(ちなみに書く前に読まなかったのは、あざとく真似をしてしまうおそれがあったからだ)。その時に思ったのは、思っている以上にストレートな表現でいいということ、逆にそのストレートさにパワーを乗せて観客を一気に乗せることがいわゆる「萌え」を喚起させる文章として王道であるということだった。ただ、それがチープではないこと、それがすごい。自分はまだ言葉が幼いという事を実感する。ならばまだそういうストレートさがあったほうが良かったのではないか。
そういう思いで、過去作品に2作掘り起こしました。読んでいただけると幸い。
○配慮について 〜うーん〜(2008/08/26)
薬局で歯ブラシと「かむかむレモン」とコンドームを買う。当たり前だが自宅に帰る途中、今日の予定は無い。その薬局は普段コンドームを買うと紙袋に入れてくれる店なのだが、会社帰りの僕を見た後、どうせ鞄に入れるんだろうと踏んだ店員は、ゾンザイな手つきで全てビニール袋に入れて手渡してきた。当然そうなると鞄にしまうしかないので、僕の仕事鞄の中は、薄いビニール越しに歯ブラシと「かむかむレモン」とコンドームが見える状態になっていた。
なにか、自分の生き方が雑だな、という感じがした。かと言って例えば、コンドームだけは別にそれも恋人に会いに行く直前に買うべしとか、そういうのはそれはそれで「丁寧」なわけでもないし「妥当」とも思えない。なんだろう、どうすればよかったのだろう。そしてこの悩みを自分のサイトだからといって書いていいのだろうか。もうよく分からない。
○逢魔が時について〜夏が終わろうとしている〜(2008/08/20)
涼しくなってきた。だからこそ今語れる夏を語ろう。ミクシィで書いているような恋人とのデート日記ではなく、煙姫として、何かを待ち続ける野地海月として。
かつて、冬だったが、逢魔が時を体験したことがある。夜でなく昼でなく、風も無く動くものが一切無く、音も匂いもしない坂道にいた。放り出された気分だった。まさしく「イリヤ」、「不眠」、「可能性」。
先日、別段何か目的があった訳でもなくコンビニに向かう桜並木で、不意に違和感に襲われた。どう考えても普段より周りの建物や桜が大きい。水平な距離感は普段と変わらず、ただただ縦にだけ自分が縮んだよう。風がある。日は落ちたがまだどことなく明るい。夕立を予感させる。近くの家からテレビの音がする。蝉も泣いている。何もかもが「ある」。認識を変えるだけで全ては始まる準備が出来ていながら、どれも主張はしていない。それゆえのプレス、縮んだよう。
冬にせよ、夏にせよ、あの時何に注目すれば良かったのか。分からないまま歩いた事をなんとなく気にしている。
○阿鼻叫喚について 〜一人遊び〜(2008/08/14)
「これは形になるかもしれない」という思い付きが湧く。それを文章にしていく為の道筋を定め、それに沿ってある程度順調に書いていくと、ふとした瞬間に何故か頓挫する。あっさりと言ってしまえば、思っていたほど面白くならない(なりそうにない)。誰も絡んでおらず、僕の遊びは僕の能力不足のみに起因して失敗する。この段階で捨てられた文章が既に数知れず。
続いてのパターン、「順調に書いていく」のがとても面白かった場合がある。この時、「書いている」時の面白さが尾を引く。思ったほど面白くなりそうに無い、あの時は面白かったのだが…これがよくない。能力不足だった部分は少なくとも全部ではない、そう思ってしまう。さて、如何。補うべき所はどこか、はじめに構築した道筋か、あるいはその道筋を歩く歩調か。どうする。グダグダと悩む。少し手直しする。良くなった所と、一向に良くならないところが出る。捨ててしまおうか、しかし楽しかった部分は、あるいは人が読んでも面白いと思ってもらえそうなところは、「少しはある」気がする。なら完成させて出したいではないか。何日間かかけてこの悩みと対峙する。そのうち直すべき所すら見つからなくなるのに、依然として「全体的に面白い」とはとても言えない文章のままであることに気付く。まぁ、読めないわけではないが、面白い、のか?さて、どうする。もう自分の手では直せない。僕の発想力では結局書けない話だったのだろう。しかし、しかし…結局自分が可愛くてアップする。これを以ってテンションの高い「祭」は終わる。こうした「祭」の文章ばかりが煙姫内に存在する。結局恥ずかしさに負けて消された文章のほうが多い。
今回、「白籠」というホームページが20万ヒットするようなサイト様の新刊でゲスト参加させていただく事になった。当然、件の「祭」が僕の中で行われ、バタバタとキーボードの前で悶絶する。今回はサークルに「お預け」する文章だ。いいのか、いいのか!?「祭」は要素を増して普段より派手に行われ、結果普段より楽しんだ僕がいた。うーん、人様の新刊を濁した上に一番楽しんでしまったなんていいのかと思いつつ、まぁ文章はやはり楽しいなぁと思った次第であった。セニ様ありがとうございます。
というわけで
イベントに参加する事になりました。コスプレもするんだとか。
○give upについて 〜カツレツ・フライ〜(2008/07/10)
先日、ある人から「努力していない」と評された。あまり努力してると主張したいとも思わないので結構なことなのだが、ふとその人について考えているうちに、一つの仮説に至った。もちろんこの仮説には、僕を評したその人が僕より「努力している」事が前提としてある。
「give up」は何故他動詞なのだろう。要するに、自分が何かを諦めた時、「give up」とは何を捧げているのだろう。格闘技のギブアップはこれ以上一方的に痛めつけられないよう、勝利を相手に捧げ、自分の敗北を捧げる。早い話がカツアゲだ。何か自分が立っていた舞台から降りる時、ゼロコストで済むというのはありえない、それはすごく理解しやすい話だろう。だとするなら、僕が例えば今嫌な事を辞められないとしたら、僕はまだその「事」にちゃんと足を突っ込んで舞台から降りるためのコストを稼ぐことすらできていないと言うことなのだろう。なるほど、僕は努力していない。世の中に蔓延する「○億円あったら会社なんか辞めてやるのに」みたいな発言も、結局は収入がなくなるというコストを払えないと言っているのと変りあるまいし、そうした「原資が無いので好きな事が出来ない」事は僕にも多い。
一方、件の「ある人」は最近お仕事を休職されているらしい。別に仕事をしていないから努力をしていないとはならないし、そこをgive upできたのなら何かに打ち込んでいるのだろう。頑張っていただきたい。僕は仕事を頑張ります。
○「空気を綺麗に」について 〜バートルビーできない〜(2008/06/26)
先日ある人のブログ読んですぐに私の頭には「バートルビー」という名前がよぎった。これは純粋に、彼は文学者なのだろうなぁという実感だった。「生き急いでいる」だとか、「不自由」なのではなく、私たちは(職についているだの云々以前に)既に「何か」なのだ。
「煙姫」の名を改めて考える。王子様が死んでいる事を知りながら煙草をふかして待っている「お姫様」(「ウテナ」的であることは大事なファクターだ。)。彼女の煙は何なのかと言えば、ただのイヤミに過ぎない。全くに煙姫の文章は二択で、何かへの皮肉(自分への皮肉も多いのは煙草の特性故だ)か、ツンデレである。私はどう見ても、このサイトの運営者である限り文字通り「お姫様」だった。バートルビーしてしまう文学者になれるはずもなかった。
○常闇・ブラックホールについて 〜もういっそ…〜(2008/06/14)
「どうか今は止めないでおくれ、我らが女王よ」の感想をいただく。全体褒めていただいて嬉しい限りなのだが、その中に
むかし、死んだあとに地獄はあるのかという話で、「危険に隣したとき時間が遅く進む気がすることがあるらしいから、死ぬときは時間の進む速さが0に近づいて、死の瞬間の苦しみが無限に続いたかのような感覚になるんじゃないの」とテキトウなことをぬかしたことがあります。
という文章があり戦慄が走る。到達不可能なブラックホールの話が絡んでいるのは彼が物理を得意とすることからも明らかだが、こういう恐ろしい事をさらりと言うあたり、もうそろそろ僕なんかより彼に文章を書いてもらったほうがいい気がする。
○歴史について 〜ぐ〜(2008/06/11)
心臓を掴まれた気がしたのは、僕が2度負けたからだ。恐らく、誰彼のせいではなく、そういう「カタチ」に僕は弱い。
○今回の文章について 〜何度でも失敗、何度でも蘇生。〜(2008/06/08)
「時刻表」は私の失敗を描いている。と言っても、私自身の失敗話ではなく、「私が過去失敗した事を空気に溶かしていったら出来た作品」ではあるが。
「どうか今は止めないでおくれ、我らが女王よ」は加筆修正だが、時間切れについての文章だ。
あとは、不死鳥についてだ。どうアプローチしたものか。
○過去について 〜視点の問題〜(2008/05/25)
昔の自分の文章に「無性に泣きたくなった。わおーん…鳴いてしまった」というのがあった。
朔太郎へのオマージュも感じられる。案外名文な気がした。
○マーフィーについて 〜まだ所詮B1〜(2008/04/30)
「想う人には想われず、想わぬ人にぞ想われん」って、「正面はイマイチだけど、横顔はイケてる」って可能性無い?テクとか相性とかを無視して、そういうヤツはいそうだ。
「髪を伸ばしている。結果、短い髪が好きな人を排除している。」なんて馬鹿げている、ではどんな髪ならいいんだ?
上二段につながりがあるとすれば、「この世は裏目」。マジ勘弁。ところで今回の「○○について〜△△〜」、ネタ分かる人いるのか?
○ぼんやりについて 〜ホーム下線路には色々なものが落ちている〜(2008/04/08)
ぼんやり考える電車内。結局、本は読めないのだ。物理的に読むことは可能だが、あれだけ体力を使って踏ん張りながらだと集中力が持たない。読めて情報誌かエッセイ。ともかく、朝と夜はぼんやり考える。
先日、ぽんず氏とヘッセの話になって、BLだが、BLでも主人公の青年が覚醒する…性的な意味ではなく…というのは、やはり特異な点なのだろうなぁと思う。
名作「BANANA FISH」(吉田秋生)に見られるような「相互的な導き」が少年二人あるいは少女二人の間柄で特別なものになっていく作品は、まぁ、見られる。だが、ヘッセの例えば「デミアン」のような、「導き」の結果片方が覚醒していく様を、少年ではなく少女を題材に書いた作品がすぐに思いつかない。あるなら教えて欲しい。思いつかない人が多いなら、それは、なんだろう、盲点なんだろうか、それとも、少女では現実味が無さ過ぎるのか。確かに、性的なものでならこうした「導きに応える覚醒」はよく見るのだが。僕は女性はよく分からない。
そんな事を朝考えてからの割には、仕事をなんとかミスらずにやっている。
○バブーシュカについて 〜all yours!〜(2008/04/02)
「クロエ オードパルファム(chloe eau de parfum)」という香水のサンプル(紙にしみこませてあるヤツ)をもらう。なんか、この香りは、凄く、………を思い出させる。捨てるわけにも行かず、部屋の中で香るとうろたえてしまう。世迷う香りだ。もう降参してしまいたい。
○虎の威について 〜あまりにも思いつきすぎるが〜(2008/03/17)
「え、野地海月の由来ですか?海原雄山に対抗したんですよ」
やっぱり、ちょっとあまりにも、かな。本当はなぜ思いついたんだかよく覚えてない。駿台の授業中だったのは覚えている。英語だ、英語の時間だった。
○アクティビティーについて 〜皮膚感覚で、体で、最先端を!〜(2008/03/08)
後輩と遊ぶ。
内容は多岐に渡ったが、一番感じたのは、時代は進歩しているということ。自分達の代ではどうしても越えられなかっただろう事を易々と超えてみせる。たったの5年間でこうも世代観は違うのか、あるいは、この15年間でこうも技術力は違うのか、驚くことばかりだ。青は藍より出でて、とは言うが、だからとてこのご時勢に「いやー、所詮私らは藍ですから」と言い逃れも出来ないだろうし、自分達にとって大きい5年はより上の代からしたら大した事のない差に見えるかもしれない。もっと多くを吸収していかないといけない。
○汗について 〜人生が楽しくて仕方ない〜(2008/03/07)
古臭い意味での「青春」の言説、血と汗と涙。苦労と戦いの象徴。
しかし思う、この3つ、戦いの象徴というには、あまりにも快楽を伴うことが多くないか?
○部屋片付けについて 〜部屋というライフスタイル〜(2008/02/17)
部屋を片付けた。また大分スリム化され、本をまた買う余裕も出来た。
割に定期的に、「掃除」ではなく部屋片づけをしている。逆に言うと、定期的に片づけをしないといけないほど僕は部屋にモノを散らかしてしまう。いらないモノを手にしすぎている。正確には、要ると思ったものが実際に要らなくなるまでの時間が早い。長くこの部屋に留まっているものと、すぐに消えていくものがある。その見極めがつかない。あるいは、ついたとしても「まぁ一瞬でもいいか」と思っている。ひどい話だ。
○記号について 〜あるいは手首のバーコードで人を管理するSFについて〜(2008/02/10)
刺青の「意味」を知る。ああ、これはエロくて素敵だ。これから機会があれば、前より愛したいと思う。
○再生について 〜時間が一方通行であること〜(2008/02/09)
それでもまた、「煙姫」はその由来である「王子様が来るまで森の奥で煙を吸うお姫様」の様を描こうとしている。と思う。自分の事はよく分からない。
○存在論的・音便的について 〜あるいはグレイッシュなものの自然さについて〜(2008/01/18)
タイトル以上に特に言う事はない。
○家族について 〜空間〜(2008/01/14)
飼い犬が死んだ。17歳8ヶ月という大往生だったので、全体悲しみながらも穏やかに私たちは家にいた。冗談も飛んだ。葬儀を行う段になりもうじき車が来るという段階になっても、それでもまだ、そうだった。
それが、玄関のチャイムが鳴った瞬間、雰囲気が変った。一変して暗くそして張り詰めた空気になり、頬を殴られた時に来る頭の痺れを思い出させた。
その後、葬儀も無事済み、また家族だけに戻った時、その時には悲しみはより強くなっていたが、また穏やかな雰囲気になっていた。
これが他人で、これが家族なのだ、そう感じた。犬に習う。
○「死ね」について 〜どこぞ「爆発しろ」が流行ってるらしいですが〜(2008/01/14)
冗談での使用でも本気の非難としての使用でも、「死ね」と言う事・言われる事の中に、実際の「死」を感じる事は少ない。いや、「少ない」というのは語弊があるので少し解説をする。最近は治安というか情勢も悪くなって「死ね」や「殺すぞ」が洒落にならない事もあるのだが、ただ、そういう洒落にならない使い方をする人は「死ね」や「殺すぞ」と言ってしまったから殺している・あるいは殺すために言わなければいけないから言っている・わけではないだろうとも思うので、ここでは「言葉として『死ね』と言う事自体を最終目的として」死ねと言う事・言われる事に限定したい。その言う・言われた「死ね」の中に、実際に誰かの心臓が停止することが想像できるか、という事では、あまり想像できない事の方が多いのではないかと思う。想像される様があるとしても「存在しなくなる」だけで、誰彼の死体がわざわざ転がっている情景ではないのではないか。
つまり、「死ね」と叫ぶ事は、生命活動の停止した無力な骸を呼び起こすのではなく、単に「その生き方は肯定できない」と叫ぶ事なのではないかという仮説が成り立つ。理屈込みの非難にして、結果(喚起するかは別として)要求としては最大限の破壊。かなりある意味で洗練されているかもしれない。
○日々について 〜ちょっとした事〜(2008/01/10)
思い出すことなどあり。涙が出そうになる。犬の頭を撫でてみる。
○新語について 〜今からでは流行語大賞まで遠すぎる。〜(2008/01/07)
「謎」と打とうとして打ち間違えて
「ねぞ」
と打ってしまったが、「ねぞ」の方が「謎」より「謎(「わかんねー」)」って感じがするので、「ねぞ」を流行らしたい。
何でこんな気持ちになったのかすら、ねぞだ。
○初夢について 〜年始早々〜(2008/01/03)
悪夢。悪夢を見た場合、初夢枕は川に流さなければならないが、紙ゴミを捨てていい川を僕は知らない。誰か教えてください。
○年末について 〜季節感を大事に。〜(2007/12/26)
年末なので大掃除してみました。
○ファミコンについて 〜あるいは綿密でない描写の中の物語について〜(2007/12/11)
名状しがたきもの、ああああ。これだけで話が通じれば楽だが、そうも行かないだろうからファミコンの話をしよう。
「もょもと」等の例外を除けば、RPGの主人公の名前と言うのは(デフォルトの、架空の、あるいは自分の、または友達その他の)名前、あるいはWizの「せんし1」のような職業、そして「ああああ」だと思う。「話の中心」たるものは、裏切り、とか、実話とか、愛とかではない。それはつねに、人そのものか、名も無き英雄であるか、あるいは彼らによる名状しがたき「ああああ」なのである。
あ…。
ああ!
あ、あ、あ・・・。
あーあ。
あああああああああ!
あー…。
世界の中心に、ああああ。
○内向について 〜次の有休を取るタイミングを考える〜(2007/10/30)
バラード「コンクリート・アイランド」。内向自閉バッチ来い(短絡的過ぎる説明なので本気にしないように。)。面白かったけど、なんか、凹んだ。読んではいけなかった気がする。
○非接触の障害について 〜たまにはこういうネタでも〜(2007/10/19)
駄目っ行かせないんだから!もっとちゃんとタッチしてくれなきゃ嫌!あんたに触ってもらって、あんたの事知らなきゃ駄目なの。だって、あたし、あんたの事分かんなくなったら、泣いちゃうよ…
Suica萌え疑惑
○帰国について 〜出張行ってきました〜(2007/09/24)
ただの出張でした。
○蛍について 〜何人も語ることなし〜(2007/09/09)
「失恋したので部屋片付けをして、髪をバッサリ切ってきました。」
嘘だと思う。
部屋片づけして、もう一度失恋するんだと思う。そして、その「二度目の失恋」をしないと、生ぬるい感覚が部屋を飛び跳ね、頭が割れそうになる時があるのだ。そのついでに髪も切るのだな。
○杯について 〜七英雄〜(2007/09/02)
酒を結構飲むと次の日軽く熱が出る。今日も昼間くったりしていた。昔から「疲れてるときに」酒をあおるとこうなっていたが、最近これが多い。まぁ大学の頃のようには行かないんだろう。羽目を外した飲酒は少し控えるか土曜日に限ろうかと思う。
「目は口ほどにものを言う」と言うが、「目よりも口」というタイプの人間もいる、と思う。「愛は口から」とも言うし。そう考える僕が、交わす杯を減らす事を考えている訳だ。情けない。
友人の送別会をした。今親しくしている「高校の同期」の中で、大学進級・卒業・入社という3ステップも「同期」なのは彼だけなので、少し寂しい。元気でやって欲しい。こちらも元気でやりたい。頑張らないといけない。
○とんでもないカップルについて 〜下ネタですよ〜(2007/08/27)
「ただいま」
「!!…あんた…どこ行ってたのよ…心配したんだからっ!」
「すまない。少しね。」
(その夜)
「え、あ、そんな…久しぶりなのに…」
「嫌?」
「嫌じゃないけど、そんな、後ろだなんて…」
「大丈夫だよ、始めは変だったりするかもしれないけど、すぐに気持ちよくなるよ」
「すぐに…?」
「ああ、すぐに」
「はぁー…」
「どうしたの?」
「座れ。」
「え?」
「いいから座れ」
「あ、ハイ…」
「すぐにだぁ?お前の『すぐ』がすぐだった試しがねえじゃねえか、ああ?金は返さない、他の女の家に行く、それで今度は、『すぐに気持ちよくなります』だぁ?」
「『なります』・・・って、そんな離れた言い方は・・・」
「うるせえんだよ、てめー。こっちがすぐ下手にでりゃあよぉ、ああ?今はてめえが全裸で正座してんだよ、女抱こうとしてたのに。もっと反省した顔ぐらいしろってんだよ。」
「あ、ハイ…」
真面目に、あの、肛姦について語られるときの「始めは変(とか、痛い、とか)だけど、すぐに気持ちよくなる」ってなんなんだろうと思う。結構な冒険だというのに、物凄いあいまいな口約束だ。「始めは少し目減りするかもしれませんが、すぐに元を取り戻して利益に転じますよ」なんて事ばかり言う投資なんて怪しくて仕方ないぞ。
○街角について 〜走り書きですよ、こんなの。〜(2007/06/24)
ところで、男が女の露出に弱いのは、ただ単にスーツが暑いからなんじゃないか?「いつか見た事への復讐」。グラビアが下着より水着な理由もここらへんにありそうだ。暑さ。
○更なる減退について 〜もっと歌えなくなっている!〜(2007/05/14)
今日送られたメッセージ
0:06 (笑)
0:06 今どこいるの?
いつの間にか僕は笑い者で、そして居場所が分からなくなっているらしい。そんな気もする。
○ツチノコについて 〜枯れ尾花〜(2007/05/06)
一昨日、5月の陽気の中で僕はぼぅっと線路沿いを歩いていた。しかも僕は親知らずが伸びてきて頭痛がしていた。近くの駐車場の茂みをイモリが走っているのが目に入ったが、僕はぼうっとしていた上に鈍痛に苦しんでいたので、さかさかとすばやく動く手足を上手く認識できず、ただ体の部分のみがくねくね動くのだけをかろうじて見ることが出来た。その僕が認識したくねくね動くだけのものは、小さくしたツチノコにそっくりだった。
…まさか、そういうことなんじゃないだろうな。
○気持ち悪さについて 〜そして作品へのモチベーションが久々に。〜(2007/04/24)
一人、中年女性がゆっくり歩きながら何かを喋っていた。携帯電話だろうと思っていたが近づくと両手とも荷物を持っているしマイクもイヤホンも無い。そうか、会話調の独り言をつぶやいていたのか。大して驚くことも無く僕は通り過ぎた。
携帯電話が普及し始めた頃は、道で携帯電話にて通話している人は気持ち悪かった。独り言をつぶやいているようで気持ち悪かった。それがいつの間にか慣れ、気持ち悪さの由来だった要素にすらもはや僕は驚かなくなった。これはなんだろう、「鈍感」とも「余裕」とも違う、変質を自分に見る。
○ゴールデンウィークについて 〜珍しく予定を立ててみた〜(2007/04/24)
はなまるマーケットを見たい。見るぞー。はなまるはこの1ヶ月見てない。家事は好きなので、ああいう番組を見ていると幸せなのだが、社会人では当然見れない。
○多様性について 〜地方都市で同じ服を着た女の子を三人見た〜(2007/04/22)
東京は多様性があって、素晴らしいと思う。何かをするときにそれに関して選択肢がある、という意味で。ハンバーガーを食べたいな、マックにしようかな、モスにしようかな、ロッテリアにしようかな。ここには既に嗜好が活きている。
○ナルについて 〜影〜(2007/04/03)
たまに昔自分が書いた文章の「一部」に嫉妬する。文章作品の総体(作品それ自体)に満足することはほぼ無いのだが。一文、その刹那。ああ畜生、たまに凄くいいぞ、僕の知らない昔の自分!
○絡みについて 〜さっぱり〜(2007/03/12)
昨日の飲みの席にて
「ナントカ君もまぁ飲みなよ」
初対面とはいえこれは凄い。むしろ「ナントカ君」要らない方が失礼じゃない気がする。現在している話とかの関連性は一切なしに、「飲め」という事だけが言われている。変に話に関連して「まぁそんなお前も飲めよ」となるのよりお酒に関してはフランクで、かえって「飲み」と「トーク」を別個にしている。それが面白い。結構飲まされたんですが、ああいう風にやられれば全然嫌じゃないな。
○直接・関節について 〜記憶?そこまでやるんですか?〜(2007/03/12)
梅の花は苦手ではないが、花だけではなく木全体の梅の匂いは香ってくると何かがこみ上げてくる。金木犀の匂いは、なんとなく切なくなる。空腹時の食事や、おいしいものを食べた時のの感動はちょっと言葉にはいえない。
聴覚と視覚は媒介物を通して行われる。つまり空気や光を。だからこそ、本物がその場になくても、空気や光さえ何とかできればいくらでも再現が出来る。匂いと味は、直接モノが感覚組織に当たることで起きるので、そうは行かない。これが現状のテレビ等の限界であり、この差は大きい。大きいが、テレビで味や匂いを喚起させるときの視覚・聴覚への訴え方はなかなか良くできている。ところで、考えるまでもなく言葉は媒介物なのだが、なかなか表現だけでテレビのようにうまくやれている人は見ない。
○隙について 〜一切の矛盾のない〜(2007/03/08)
ディフェンダーがオーバーラップしてオフェンスの作業を手伝うことは矛盾ではない。但し、的確な方法でなければアイデンティティーの崩壊だけでなく多大なる失策として多くの損害・損失を産みなす恐れがある。見るべきは隙。
○春について 〜卒業旅行〜(2007/03/02)
伊豆行ってきました
○メモについて 〜能動態への自己警告〜(2007/02/20)
メモに書くことで「これは重要だ!メモをしなくては」と思った事を「メモに書いてあるから大丈夫」と忘れている気がする。意識を高く持つには、メモをしない方がいいということなのだろうか。そうして意識の中にメモしなければならない事を保っておいて、最後にはごった煮となった意識の塊を作品にする…そうした方がいい気もする。サプライズにもなるし。
そう、現状はサプライズのまさに対極で、メモという「何らかの作品を作る前に行うコンセプトの確認」を煙姫内にアップすることで、これ自体を作品の一環として見なして甘えているからメモに書くと忘れてしまうのではないか、という疑惑。ちゃんとやれよ。
○制限について 〜ゲームの用意できる「スタイル」〜(2007/02/20)
制限はいると思う。それも結構ガチガチに。
タクティクスオウガを久々にやり直してプレイ日記的なものを身内公開していたら、一人に言われた。戦争というものを割にビビッドに描いているゲームが、ストーリーが終盤にまでやってきておきながら、そのあとグダグダと戦闘を続けるのか、と。確かに。空中庭園の連戦は仕方ないにしても、確かにジュヌーンイベントだのレンドルイベントだのうるさいのは事実だし、なにより死者の宮殿だ。50連戦を数回繰り返せって、今までの消化試合数をなんと心得ているのかと言われかねないと思う。だがこれは仕方ない。徐々に出来ることが開放されていくゲームにおいて、ようやくかなりの自由度を得た後半に差し掛かったと思ったらハイ終わり、というのはかなり寂しい。そうなると自由度の高まったプレイヤーにとって手ごたえのある問題(敵やマップや)をそれなりの数作る必要があり、ストーリーが伸ばせない以上、裏面を作るという解決策を取る羽目になる。つまるところはやりこみ。よくある悪循環。
徐々に出来ることが増えるというのはFF5などもそうだが、結局タクティクスオウガやFF5が名作なのは、やりこみが「高い自由度を逆手に、なるたけ弱い状況でクリアする」事が出来るからだ。TOは有名なデニム一人クリアやノートレーニングクリア、FF5なら低レベルクリアや使用ジョブ制限クリアなど。しかしこれらはあくまでもプレイヤーの勝手に行ったことでありシステムとして推奨されたことはなかった。
つまり…「強くなることが凄い」事を基幹としたゲームというものはあまりないんじゃないか?そもそもそういうゲームには「俺様最強!」という爽快感が容易には得られないのは事実だが、しかし「強くなることがゲームとして快感である」のは悪くないと思う。ロックマンはそれに近いとも思えるが、多少「弱点武器」の出番が少ないと思う。
じゃぁ「強くなることがゲームとして最たる快感である」ゲームとは何か。それは強くなれることに制限があって難しいことではないだろうか。例えば、プレイ時間・プレイターン制限やステータスの上昇制限(あるステータスそれ自体の制限でも、全体総和制限でも、なんでもいい)。とにかく、制限は必要なのだ。それをパズルのように解いて強くなることに快感、副次的にその強い自分でゲームを暴れまわる快感!(これには当然、強くなっていった過程を思い出す快感がついている)
○ギャンブルエンディングについて 〜ゲームオーバーじゃないんだよなぁ〜(2007/02/20)
ゲームには、プレイ自体を否定するエンディングというのが、欲を言えば欲しい。ゲームオーバーでは役不足なのだ。ギャンブルで負けたときの『「ああ、賭けなきゃよかった」と思う面白さ』のために。まぁ、無理なんですけど。半端なプレイには制裁を加えるというのが一番いいのですが。
○actについて 〜面白い!の話〜(2007/02/18)
舞台(芝居)を見る。久々。
結局、面白さの根幹は「目の前で人が動いていること」にある。新作なのに(なのに?)読め読めの展開、あるいは落ち着くべき流れ、それ自体が面白いかと言われるともはや怪しいレベルの事を、人が(わざわざ)今一度実践する。そこに面白さ。絶望に希望。面白い。脱線すると、その「実践」の味わい方として芝居や役者や舞台に精通する事は方法論としてはありだが、効果が上がる…という断定は決して出来ない。出来るようでは、「お友達作り」でしかない。キャラメイクされたゲームの「実践」。小説などの「(そっちから読む気がないだけで)既にどうあるかが決まっている」事が受け手に分かるインタフェースではなく。
客席からのフィードバックが役者にあることぐらい、観客は知っている。いくらでも舞台を操作できる。その緊張感が良い。要するに観客も「動いている」・「実践している」。そうか、「明らかに、観客の目の前で製作者が作っているという過程において、観客が見ている事を製作者が知っている」事を観客に教えるだけでもペイは成立するのか。まず蕎麦屋で蕎麦を食べていただき、そのあと蕎麦打ちを見学してもらい、「あの時見学してもらった蕎麦です」と再度食べてもらったら、なんとなく感想が変わる…気がする、気がするぞっ!
○分かりやすい嫉妬について 〜ああ、これは、そうか〜(2007/02/02)
今まで、あえてやるべきでないと思っていた「彼のページを過去から読む」を行ってしまった。ああ、やっぱり。知ってた。全部知ってた。結局、ザ・プロブレムは円環構造をしており、その構造は何かの力によって円環構造にされている(○○的要素がある、という意味)。彼の欲求も、手段も、全部そういう意味では「読めて」しまった。もう多分、彼の行うことは僕の予想から外れることはないだろう(それでもなお彼が僕を刺激してくれるかは別として)。だからこそ嫉妬する。そうして僕の眼前で僕の予想が現実化していくことに。
人は唯我論では動けない(少なくとも動きにくい)事だけが僕の人生設計なるものを支えている。すなわち、「こいつさえいてくれれば、多分、少なくともこいつが居続けて僕を見続けている事を根拠に、自我の変化というものを想定(=肯定)し続けれるだろう」。安全だと思う自信と、自信を持たないと危険だという危機感がある。やっぱり危ない気もする。もう多分僕は叫べないだろうし、歌えないだろう。2度目はない事が暴かれつつある。
僕なりのインタフェースを考え直す必要あり。エピタフが存続し続けないと「もう誰もそいつを知らなくて、そもそも死んでいるか、あるいは生きていたかすら分からないんだ」という事になりかねないのだから。
○エピタフについて 〜「馬鹿が、口に出しやがった」に負けない〜(2007/01/16)
煙姫は死んでいた。正確には眠り姫が起きて煙草を一服した時点で死んでいたから、煙姫とはつまりアンデッドだった。煙姫は煙草を吸いながら自分に向けた言葉を探していた。王子が来ない理由をもっとも正確に表す言葉を。そして4年を経て見付けた。2007年1月16日、「煙姫」が再び現れて4年。見付けた。
「まともに歌も歌えないくせに」
僕の理想は高すぎた。そして僕はミスも犯した。結果として僕の理想は叶っていない。
○電車について 〜つまり、その…僕より言いたい人もいるとは思うのですが。〜(2006/12/17)
半分は「環境」である事を自覚してないと思う。つまりは、「毎日うんざりさせられる」事すらありえるのだと言うことを。それで日々を生きていけると思うのか。それなのに平気で人を傷付けるダイヤを組む人がいる。その社会への功罪や測り知れず。
ダイヤとは関係ないが、中央線の「快速が赤文字、特快がオレンジ文字」はやめてもらえないのか。いつも遠目に見てて間違えそうになる。私鉄と逆なのだ。
○「彼」について 〜安心と危機感を与えてくれる存在〜(2006/12/06)
私より確実に手段を講じるのが上手い彼が、未だに私と同じ悩みを抱えている。ちょうど1周遅れで彼と同じようにサーキットを走っているのかもしれない。だとするなら、この問題はサーキットコースのように無限に円環する可能性がある。
○葡萄の一粒について 〜あるいは、シュール、という言葉を使いたくなった瞬間について〜(2006/12/06)
「シュルレアリスム宣言」においてアンドレ・ブルトンは、いわゆる人物や人物の描くストーリーを主題とした文学・小説というものを一蹴した。確か曰く、一房の葡萄の中の一粒一粒すら味が違うのにその一粒を取り上げて味について語ったところでなんになるのか、といった具合だったと思う。確かに。人物が綿密に描写され、「素晴らしい」出来だったとしても、そこに描かれた人物と、実在の誰でもいい手ごろな人物(たとえば貴方の友人)のどちらが素晴らしいということにはならないのだ(ならないと信じたい、他のいかなる「価値」も格差があったとしても)。そうなると文学・小説を読む意味とはなんだったのか、それは文章の力を学ぶ意外には意味が無いが、しかしその身に付けた文章力を文学・小説に還元することは馬鹿馬鹿しい。さらには、文章力の無い文章だったら?
僕が思うに、このアンドレ・ブルトンの指摘は近年のインターネット社会における「プライベートな文字」の爆発的増殖に対してシニカルなあるいは真っ向からの批判を可能にしている。その葡萄をわざわざ、よく知りもしないのにつまむのは何故なんだ?そこに費やされるお前の労力は何と等価交換できる?そもそもその葡萄は、食べられるのか?そしてお前もお前で、食べているのか?ただ目の前においてある葡萄を見つめているだけなんじゃないのか?いずれは、腐る…すでに妙に強烈なにおいがしてやしないか?
「対人関係」としては変な匂いがする、事がある。
○エロスについて 〜意思の絡まりあい、って奴か?〜(2006/10/30)
どこをどれだけ頑張っても、インディアンポーカーとハイ・アンド・ローとの間にゲーム性の違いは無い。違いは、分かっている数字の立場が違うこと、相手が(信じられるか信じられないかも含めて、まったく信用性と根拠を持たないことを踏まえても)何かしら発言してくること、この2点だけであり、共にゲーム性を変えるものではなく、「味気」の問題でしかない。だがこの「味気」によってインディアンポーカーはハイ・アンド・ローとは確実に違うゲームになっている。自分が分からないという闇の中で、自分を知っている人が語る、語ってくれる、たとえその中身が真実でなかろうとも。そしてまた自分も、己を知らない相手のために、相手を語る・騙る。物凄くエロティックだ。そしてロマンティックだ。
○捨てたことについて 〜あるいは、歴史について〜(2006/10/07)
忘れていいのかもしれない。
○表現について 〜可能性を削る〜(2006/09/20)
エネルギー・物質の保存関係、ではないが、可能性と表象の「濃さ」(←一時的な仮の表現)は保存の関係にあると思う。言い換えよう、自白を筆頭とする表現は自らの可能性を削るが、その代わり削られた可能性の分表現者は「濃くなっていく」。「僕はパンが嫌いだ」は、パンを好きな僕の可能性を多くの読み手から奪うし、おそらくはパンを食べている僕の可能性などをも結構奪っているだろうが、その代わりほかの可能性(僕がご飯を食べている可能性)とかは「濃くなる」し、そうして残された僕は「濃くなる」(明らかに読み手にとって僕は想像・創造しやすくなっている)。(特に、競馬のような)賭けは、金の可能性をものすごく削ることで物凄く濃密な(場合によってはもとの金に戻すときに金が増えるほどに濃密な、あるいは賭けが成立する瞬間のあの高揚感という濃密な)存在にしているのかもしれない。
もう消してしまった文章で、これを使って虚構を濃くする事を考えたことがあったし、おそらく悪くない発想だったとは思うのだが(肯定神学とか否定神学とか、そういう言葉まで引き出してこなくても良いです)、ではその濃くなる虚構のために削られているのは実は虚構ではないだろう、というのは問題だと思う。たとえば、僕の書くフィクションは僕がどんなことを考えている人間なのか読者に想像されてしまうかもしれない、という意味で。もう消してしまった文章に関しては、その点において投げやりすぎたと思う。自殺行為だった。
○身体性について 〜なんとかしたいのだが〜(2006/09/20)
やせてるから、鍛えてるくせに、ちゃんと習った経験が一切ないくせに、運動神経が、そういうものは一切関係なく、僕の体は人に響かない。生命としての僕は薄い。
○W杯サッカーについて 〜「おーおおっお、おー」はないだろう〜(2006/06/21)
結果的に順位や試合内容やサポーターの集まり方・統制力等々から国力の比較が行われる事は合っても、一応スポーツの祭典たるもの、目的は国際交流・親善である。その気になればメンバーの顔と名前を見ているだけでも地理学的な面白さすら感じられる(私はオーストラリア代表が白人ばっかりでビックリした。ラグビーとは事情が違うようだ)。そしてもちろん、純粋に各国のトップレベルの選手達による試合ゆえ、その内容は濃密でスポーツの真髄がよく分かるものが多く、単純に面白い。つまりは、綺麗事と言われようとも、私はW杯は各国平等に応援したいし、他の人も(自国を応援したい気持ちは分かるし、結構だが)他国の事もしっかりと興味を持って観るべきだと思う。それこそがスポーツの祭典の意義だろう。だから私は日本を贔屓したくないし、もっとニュートラルに、「応援で盛り上がろう!」という気概も無しに地理学的興味と「サッカー学」的興味のために観たい。
それなのにオレンジレンジだ。耳障りな音楽が、試合に対する私の(ある種学術的な)期待をしぼませていく。
そこで思ったのだ。「HNKスポーツのテーマ」は実にW杯向きではないか。ピンと来ない人のために言うと、いわゆる「甲子園のテーマ」であるが、あの曲はプロ野球にもJリーグにもフェンシングにもボートにもバレーボールにも使われる(大相撲と、大リーグ・NFL・NBLといった他国のスポーツが例外のようだ。後者は恐らく映像をそのまま買って放映しているからだろう)。オリンピック・Xゲーム・W杯等々、国際的祭典の際にはオリジナルのテーマソングを用意するようだが、こうした際にもあの曲でいいだろう。とても牧歌的で、ニュートラルな「スポーツの祭典」の応援となるだろう。良い、とても良い。
○美と継続について 〜いや、そういう話ではなくて〜(2006/03/27)
「花は散るから美しい」と言う気はないが、花火のように消えるから美しいものもあるだろう。もしも花火が、火花が生まれては消えるのではなく、蛇花火のように蛍光色で細かい物体を生産しそれが消えないで床に積もっていくものなのだとしたら、大分情緒は失われるだろう。クラッカーは紙ふぶきをあとで片付けなければならない事が問題だと言うし。
全ての美が永遠に耐えうるわけではない。むしろ一瞬の中に存在するからこそ美しいものも多いだろう。そういう物を永遠にしようとすれば、そこに生まれるひずみは計り知れない。私はこの間違いを何度か犯している。多分、もっと、一瞬で過ぎ去るべきものは多かったはずだ。くそ。
○リアルについて〜コメントはしにくい〜(2006/01/10)
一昨日・昨日のNHKBS1が特番でやっていた、昭和初期のフィルムは衝撃的だった。何が衝撃的だったかと言うと、私は始めて、B29が爆弾を投下してから着弾するまでを僚機から撮影した映像というのを見たのだ(よく爆弾投下のシーンは使われるが、そこから着弾までノーカットで見た事はなかった)。なんというか、戦慄したとしか言いようが無い。敵意が在るような無いような、イノセンスな映像なようなそうでないような、そういった判定は不可能だしする気も無いが、ともかくあれが、現実ということなのだろう。
○好きについて〜涙が出るような事言いやがって〜(2005/12/01)
通りを歩いていたら、母親の自転車の荷台に座っていた少女が
「人に嫌な事されたら嫌いになるでしょ?好きな人からでもそうでしょ?」
と言っていた。難しい。包容力への陶酔、思想を変えないことの安定感、そうしたもので自己を守っていく事が果たして「強くなる」事なのかを考えさせられた瞬間。即物的な良否を感じられなくなってきているかもしれない。