どうか今は止めないでおくれ、我らが女王よ


長いのでショートカット機能つけました→ §1「胎動」 §2「見解」 §3「発露」 §4「拡散」

§1「胎動」

---5月19日---
「キャップ、コデクスからです。日誌送られてきます。」
「ん。…今日も23時14分だな。はは、さすがだ。」

○ベーコン日誌 5月19日 航行18日目
 極めて順調な航行を続ける。但しかねてより懸念されていた刺激の無い生活というものにはならないでいる。デイブが精力的にキャサリンへのコンタクトを取っている事が起因しているといえよう。キャサリンが多少、地球帰還について言及し出したが、彼女の精神的負担は現実に関しての彼女の誤認識によるものであり、地球に帰還したから解決されるものではないように思われる。

「はは、まだデイブはキャシーを口説いてるみたいだな。いい調子だ。」
「そしてキャシーはそれにうんざりしてる。」
「ハーレクイン好きだからな。訓練時代から双方のドジ見てたら、王子様願望とは真逆の方向だ。」
「しかしベーコン船長もひどいなぁ。」
「誤認識だもんな。そこまで言うかねぇ、王子様願望に関して。…よし、コデクスが帰ってきたときの記者会見は美男子の記者だけしか入れないようにしろ。」
「ふふ、了解です。」

 宇宙ステーションコデクス担当の二人が言っていることは、まさしくコデクスの詳細を過不足なく表していた。コデクス内部ではデイブ・サイモン観測器担当が同じくキャサリン・パウエル観測器担当に熱烈なアピールをしていた。ケネス・ベーコン船長が意味も無くこの二人を観測器操作室にやるからである。キャサリンは当然、この二人行動に嫌気がさしていた。嫌気がさすと同時に、それが彼女のライフスタイルに適してもいた。端的に言えば彼女はストーリーに生きる女だった。宇宙ステーション内で「キャサリンは宇宙人と遭遇でもしない限り恋愛感情が芽生えない」と噂されるほど、彼女の恋愛観は特殊性に満ちていた。運命の出会いまでの過酷な人生、そうしたシンデレラストーリーに憧れる彼女にとって、デイブは自分の境遇を哀れむのに適した存在だった。もちろんベーコンもそれを分かっていてデイブを仕向けていた。デイブだけが何も知らずにヘラヘラとキャサリンをくどいていた。

 コデクスは、エーテルの実地観測を旨として、つまりかつては希薄な水素で満ちているとされていた領域、そして今では再びエーテルとしか表現できない何かの存在が感じられる領域の観測を旨として地球から飛び立った新式の宇宙船である。カプセルに近い形状に加え実際に現地で周囲状況を観測・記録するので、「聖書の写本」の意味を持つ「コデクス(codex)」という名を与えた。幾つかの大学が発見した新しい「波動としか表現できないもの」(極めて微量ながら、ある一定の周期で電波望遠鏡の電波に生じるジャミングのようなもの)が何かをある程度特定するために、ひたすらに周囲の星の位置とその「波動のようなもの:エーテル」の観測(といっても直接出来るわけではなく、電波にあるジャミングから逆算する)し続けることを使命とされた船、それがコデクスだった。電波を飛ばすことが数値に影響をもたらすことがありえたので人間を実地に送り込んだが、実験ではなく機械による自動観測を中心としたモニタリングだけなので、重要な科学的行為でありながらコデクス船内は暇の一言に尽きた。電波に影響が出るので地球のステーションとも通信を極力しない。通常はただ日に一度、ベーコンによる日誌が送られてくるだけである。短いながらに船内環境がよく分かる定期報告なので、多少の電波使用だが保安上送られてきている。

○ベーコン日誌 5月20日 航行19日目
 星々は美しく、食事も宇宙食とはいえ変化に富んだメニューなのでありがたい限りだ。日々の刺激としてはキャサリンのため息が多くなってきているが、仕事に関しての能力低下は見られない。予想通りの精神状態に移行しており、旅は安全性が強まった。


○ベーコン日誌 5月21日 航行20日目
 食事の際、デイブとキャサリンのチームワークを賞賛する。キャサリンがデイブと目を合わせずに私に礼を述べたことがなによりもチームワークの良さを示している。もうしばらくはキャサリンからのクレームは出ずに済みそうだ。デイブは賞賛に関して純粋に受け取ってくれたらしい。観測器操作室の空気は明日も新鮮さを保っているだろう。



---5月22日---
「キャップ、コデクスから来ます。」
「グリニッジで23時18分。昨日と同じで4分遅い…時計イカれたりしてないだろうな。とにかく。メインディスプレイに出せ。」

○ベーコン日誌 5月21日 航行20日目
 食事の際、デイブとキャサリンのチームワークを賞賛する。キャサリンがデイブと目を合わせずに私に礼を述べたことがなによりもチームワークの良さを示している。もうしばらくはキャサリンからのクレームは出ずに済みそうだ。デイブは賞賛に関して純粋に受け取ってくれたらしい。観測器操作室の空気は明日も新鮮さを保っているだろう。

「おっと…これ間違って送ってきてますね。」
「…送信ログに入った文を、送信用テキストにコピーできたか?」
「いや、送信ログは読み取り専用ですが?」
「ではベーコンはそれを一字一句写した、ということか?」
「コデクス(聖書写本)にかけたジョークでしょう。何もなかったという事だったんじゃないですか。」
「まぁ、実際、送信用テキストはいちいち打たねばならないからな。ミスでこういう事はありえまい…たちの悪いジョークだ。」


---5月23日---
「キャップ、コデクスから来ますよ。」
「ん・・・23時18分。また4分遅いな…。とりあえず出せ。」
ステーションコデクス担当キャップジョン・ケイジは、ふと自分が爪を噛んでいる事に気づいた。

○ベーコン日誌 5月21日 航行20日目
 食事の際、デイブとキャサリンのチームワークを賞賛する。キャサリンがデイブと目を合わせずに私に礼を述べたことがなによりもチームワークの良さを示している。もうしばらくはキャサリンからのクレームは出ずに済みそうだ。デイブは賞賛に関して純粋に受け取ってくれたらしい。観測器操作室の空気は明日も新鮮さを保っているだろう。

「…これは…」
ジョン・ケイジはすかさずキーボードに向かった。

コデクス、ベーコン船長。日誌が3日連続で同じ内容だ。どういう事なのか説明を求める。

「送信したんですか?分析班から後で苦情が来ますよ」
「非常事態かも知れない。責任は俺が取るよ」
「あ、コデクスから返信です」

ログで確認したが、日誌は毎日違うものを送っている。そちらで何が起きているかの説明を求める。

見るや否や、ジョン・ケイジは非常事態を宣言した。彼の親指の爪は早くもボロボロになっていた。


---5月25日---
 グリニッジ時間23日3日23時31分に指令を受けたテリー・ウォンは、2日後には自分は睡眠不足とコーヒーの飲み過ぎで頭がおかしくなったのかと自問せざるを得なくなっていた。23日にジョン・ケイジからの命令で開始したコデクスの位置観測(コデクスの観測に影響を与える電波を用いるので、これも通常は行なわれなかった。それほどコデクスは信頼されていたのだ)の結果は恐ろしいものだった。観測によると、コデクスは23日23時59分に地球から約85.72AUの位置をマークしたかと思うと、その一瞬後の24日0時には地球から約81.24AUの位置にあったのだ。約81.24AUといえば、計算上では21日0時にコデクスがいただろうとされる地点であり、そもそも23日23時半の時点で約85AUというのも航行計画では21日23時半頃に通過しているはずの地点だった。そしてコデクスは本来なら21日に通っただろう軌道…ひょっとすると23日も通っただろう軌道…を通り、もう一度24日23時59分に約85.72AUをマークしたかと思うと、25日0時には一瞬にして約81.24AUの位置にあった。24日の時もそうだったが、機械がおかしいのか自分がおかしいのかにわかには判定しかねる状況にウォンは困惑した。挙句に、この二日間の観測結果を困惑ながらに結果を報告しても、ジョン・ケイジキャップは前日ほどの衝撃を見せなかったのだ。頭がおかしくなったと思うのも無理からぬことであった。


---5月24日---
 0時8分、先ほど23日23時31分からテリー・ウォンにコデクスの位置観測を始めさせたジョン・ケイジは、一方でコデクスとの通信から恐怖の仮説を立てているところだった。送られてきた日誌が3日連続で一緒だった事をジョン・ケイジがコデクスのベーコン船長に報告しても、ベーコンは合点が行かないようだった。さらに、現在日時をベーコンに聞いてみると、なんとコデクスの船内時計は全て21日の日付を示していることが明らかになった。日時のズレ、機械のミス…それだけならまだなんとでも説明がつくが、日誌が、つまりコデクスの中で行われている人間の営みがルーティンしている事実は説明がつかない。そうして悩みながら通信をしているうちに、0時を廻り24日になった。この時、ジョン・ケイジは恐ろしい文章をログに残すことに成功した。

で、21日の日誌を3回も打った事はないのだな?


まず、いきなり回線を開いてきた理由を教えて欲しい。大体今21日になったばかりだが、何かエマージェンシーか?

 ここでジョン・ケイジが立てた仮説は、コデクス内の一切、船員・機械ともどもが5月21日を永遠に繰り返している、というものだった。つまり、コデクスにとって21日23時59分の次は21日0時0分なのではないか。地球の時間が流れていながら、コデクスはいつまでも21日を繰り返す…その仮説のあまりの突拍子の無さに笑っていたところに、テリー・ウォンが青ざめた顔でデータを持ってきた。ジョン・ケイジは戦慄した。ありえない事態だ。自分が立てたおとぎ話のような仮説が一番妥当だなんて、考えたくもなかった。


---5月25日---
 ジョン・ケイジは既に7本の指の爪をボロボロにしていた。テリー・ウォンが持ってきたデータは、もうこれ以上触れたくないような悪魔の仮説…それも自分が考えたもの…をさらに妥当なものにするものだった。

 24日0時12分にジョン・ケイジはベーコン船長に全てを報告した。23日に日誌の指摘をした時や24日0時になった時同様、コデクス側としては皆目検討も付かない事態だったらしいが、とりあえずありとあらゆる検査をしてみるという回答を得た。そして24日20時過ぎ、コデクスから「異常無し」の報告を受けた。それから4時間弱の議論が戦わされたが、全ては水泡に帰した。またもやジョン・ケイジは悪夢をログに残すことにだけ成功した。

…0時を廻ってこちらは25日だが、そちらはどうだ?


まずはいきなり回線を開いてきた理由を教えてくれ。それに何の話だ?21日の間違いではないのか?


 さらにこの3分後、テリー・ウォンがまたしてもコデクスが21日0時にいたであろう場所に瞬時に移動した事を報告してきた。ジョン・ケイジはもう驚く気力すらなかった(そしてそれがテリー・ウォンの不安に陥れたことは既に述べた)。ジョン・ケイジは自分の妄想を現実と認定、コデクスは5月の21日を繰り返す謎のルーティンに捕らわれているという問題に対処する事を決めた。これほど気の進まない話も無かった。

 24日0時過ぎに行なわれた通信が、再び開始された。やはりコデクス側は雲を掴むような話を聞かされているという感であったが、テリー・ウォンの調査結果とログを送りつけたことで彼らは自分達の状況を漠然と理解したようだった。ベーコン船長はコデクスの観測を中断し、地球への帰還に向けての方向転換に全力を注ぐことにした。結果コデクスは地球から約82.42AUの地点で反転し、24時を迎えるところで地球から約81.18AUの地点まで近づいていた。が、24時を廻ったところで、再び81.24AUの地点で地球から離れる方向へ航行しているコデクスが観測された。もちろん船長は何も覚えてなかったし、コデクスの時間は21日午前0時になっていた。ジョン・ケイジの爪は全てボロボロになっていた。


---6月15日---
 ジョン・ケイジはただただ、自分の仮説からコデクスが抜け出せないことを呪った。全ては無駄だった。地球では日が進んでも、コデクスはいつまでも5月21日だった。5月21日の24時になると、一瞬にしてコデクスは24時間前に戻り、5月21日の0時になった。その度にジョン・ケイジは指の関節を噛みながらコデクスのベーコンに結果を報告した。ベーコンはその度に驚きながら、日々新しい試みをして5月21日から抜け出そうと努力した。しかし全ては無駄だった。ただ地球にログだけが残った。平和な航行がつづられていたベーコン日誌は新たなる展開を迎えた。

○ベーコン日誌 5月21日 航行20日目
 我々にとっては未知の事が、既に誰かに体験されていたことだった。誇りあるコデクスの船員にとっては衝撃的なこの事実に対して、ステーションのジョンは冷静だった。コデクスが地球から遠く離れていることを思いながら、我々はジョンの提示したデータから離反することを試みた。予定通りなら21日21時にいるであろう地球から85.72AUよりさらに遠い地点にたどり着けば、ジョンの妄想の力も及ばないのではないか。本日我々は実験を停止して船を加速させている。現在23時、地球から87.31AUの距離にあるが、果たしていかなる結果が出るだろうか。


○ベーコン日誌 5月21日 航行20日目
 世界の神秘を解くためのコデクスだが、ジョンに施すべき薬は無いらしい。全くもって理解不能な症状がステーションから送られてくる。異常が見当たらないまま、ステーションの病状は曰く「8日目」を記録していた。直感としてだが、コデクスに異常は無い。「コデクスの5月21日」なるものは今日が初にして、未来永劫5月21日という日は2度と来ないだろう。それでも我々はジョンの為に船内チェックをした。もちろん、結果は出なかった。


○ベーコン日誌 5月21日 航行20日目
 ジョンが5月28日のデータとして持ってきたログに対して、我々は返答するべき事柄が無かった。私が送ったとされる多くの日誌やログ、いずれも身に覚えが無かった。私だけでない、キャサリンもデイブもだ。それでも我々は全力を尽くして船内チェックを行なった。デイブは不満だったらしく、作業を中断して悪口雑言を発した。おそらく彼にはステーションの病がうつったのだ。それゆえのストレスだろう。未知のものに対する恐怖心、それを克服するには気持ちを落ち着かせて事態に挑む事だ。しかし、船内チェックを行なった私の判断はデイブには不安定に見えたのだろうか。デイブの私への不満は、ステーションの問題は別としても考えさせられる内容だ。 >

○ベーコン日誌 5月21日 航行20日目
 気の効いた悪戯と一蹴しても良かったのだが、失礼ながらジョンにそれほどの文才は無かったと思う。事態とそれに対して我々が取るであろう対応の加味して作られた「偽の」私の日誌は、私の船に少なからず悪影響を起こしたと思う。我々は半信半疑にコデクスのシステムを切れるだけ切り、議論のみが許された哲学的な時間をステーションの為に過ごすことにした。デイブはジョンの悪戯に合わせて精神錯乱に陥るだけの余裕があるらしく、キャサリンをレイプしようとした。現在デイブはスイッチの切られた観測器制御室にいるが、もしステーションが正しいならこの問題もあと1時間以内には無かった事になるのだろうか。


5月21日(航行20日目)
 こちらはコデクス、キャサリン・パウエル観測器担当。エマージェンシーです。ケネス・ベーコン船長がデイブ・サイモン観測器担当に絞殺されました。ステーションより送られたデータは我々に身の覚えの無い、極めて無根拠なものである上にデイブ・サイモンのパニックを起こすに十分な衝撃を持ち合わせていました。現在デイブ・サイモンは観測器制御室にいます。私はステーションのこのような行為に関して、地球に帰還次第責任追及と告訴に踏み切るつもりでいます。コデクスは反転し地球に帰還するための経路計算を行なっている最中です。


 細かな違いはあれど、おおよそはこのようなものだった。地球上で起きれば大変な事態が、コデクスで起きている故にそれは些細な事として「終わる」事が出来ただけだが。デイブのハンストも、キャサリンのハンストも、デイブのレイプも、キャサリンの過食(ハンストと違い、限られた食料を減らす過食は宇宙船内でやってはいけない事の最たるものだった)も、コデクスの無謀な航行も、全ては最大で24時間も続かずに無かった事になった。
 そして昨日6月14日、デイブは中指に出来たかさぶたを噛みながら、一度もコデクスに連絡を取らないで一日をやり通す決断をした。23時18分、日誌が来た。

○ベーコン日誌 5月21日 航行20日目
 食事の際、デイブとキャサリンのチームワークを賞賛する。キャサリンがデイブと目を合わせずに私に礼を述べたことがなによりもチームワークの良さを示している。もうしばらくはキャサリンからのクレームは出ずに済みそうだ。デイブは賞賛に関して純粋に受け取ってくれたらしい。観測器操作室の空気は明日も新鮮さを保っているだろう。


 デイブは決断をした。ステーションはコデクスとの連絡用コンピューターの日付を5月21日でループさせることにし、オペレーターはテリー・ウォンが勤める。テリー・ウォンの仕事は一つ、毎日23時18分にコデクスから送られて来る日誌が前日と同じであると確認することだった。テリー・ウォンは自分自身暇な時間を送りながら、永遠に5月21日を過ごすコデクスの3人を思い考察にふける哲学的な日々を送ることとなった。


§2「見解」


 ジョン・ケイジの提出したレポートにより、宇宙ステーションはコデクス自体の解析による事態の解釈を断念したが、それは全くのお手上げ状態になったということではなかった。状況を変えれるほどではないにしても現時点で分かっていることもそれなりにあったうえに、既にステーションは他の部にも今回の事件を説明しそれぞれの部のアプローチで調査をさせており、そしてそれによる成果も出ていたのだ。

1、コデクスが「5月21日」の午前中に観測採取していたデータを午後地球に送らせるという実験を繰り返し行なった(もちろん、コデクス側としてはその度ごとにデータを「初めて」送ったつもりなのであるが)。これらのデータは照らし合わせても差異が発生しなかったことから、時間の円環はコデクスという一個の宇宙船にだけ起こっているのではなく、コデクスの周囲一帯で起きている可能性が高いと推測された。「周囲一帯」の大きさは不明だった。
2、コデクスのいる一帯より遠く、地球からおよそ8000AUの距離にあるソリウスからの電波を観測しているチームによれば、ソリウスからの電波はコデクス一帯の「時間の円環」が発生しているだろう場を通ってくるにもかかわらず5月21日以降もデータにはなんら不具合が無い事、さらにはこのチームは(地球時間で5月26日とはいえ)「5月21日の域」を航行するコデクスと「ぶつかった」光…計算によるとその日キャッチを始めてから約2秒後に到着した光はコデクスとぴったりぶつかっているはずだった…を5月26日にキャッチしてた事などから、光などがコデクスのある一帯を通ることは可能であると推測された。つまり、「時間の円環」が発生していても要素さえあればそこからの脱出は可能であると思われた。そして光がコデクスによって「途切れた」形跡も見られなかったため、コデクスはこの光に対して干渉できなかったとするのが妥当だった。

 この2つのデータをまとめると、「時間の円環」はある一定の域で起きていながら、その域の外部から(通過などの)介入が行なわれた場合に「5月21日に飛ばされる」事は無いだろうという事になる。つまり今から「時間の円環」域に調査船を出すことは不可能ではなくむしろコデクスがどうなってしまったのかが実地で分かるのではないかという事である。ステーションは4回の議論の結果、犠牲が出てしまう可能性もあるがこの「時間の円環」域に宇宙船を飛ばす決断をした。最悪の場合の被害を最小限に抑えるために、肉体的にもう新たな宇宙実験は不可能ではとも言われていたベテランの航宙士二人が、博物館に展示されている「初代」新推進式宇宙船でコデクスを追うこととなった。急ピッチの計画と作業の末、「デコーダー」(Decoder:解読者)は10月24日に地球を発った。

 デコーダーもまたコデクスと同じように宇宙空間における実験を一切行なわなかったため、モーリス・ジョーンズ船長とショーター・ベンティッツ航宙士は暇を持て余していた。いずれにせよ彼らはまずは「到達する」ことだけが目的だったうえに、経路は計算され、オートパイロットが作動していた。彼らはビデオ通信でステーションと連絡を取る事が出来たが、大昔ならいざ知らず今更無重力のダンスを踊る事でステーションの局員達が喜ぶわけでもない。彼らに唯一与えられたのは、デコーダー内にある旧式のコンピューターだった。ジョーンズとベンティッツの二人は、このコンピューターで変異型のライフゲームのプログラムを組む事にした。

 ライフゲームとは「生物集団においては、過疎でも過密でも個体の生存には適さない」という個体群生態学的な概念を組み込んだ、有限次元の格子と単純な規則からなる計算プログラムである。碁盤のような格子があり、一つの格子はセルと呼ばれる。各セルは8つのセルと接しており、各セルには「生」と「死」の2つの状態がある。あるセルの次のステップ(世代、あるいは時間単位をこう呼ぶ)の状態は周囲の8つのセルの今の世代における状態により決定される。もはや歴史の授業でしか出てこないような昔に開発された初代ライフゲームは

・誕生: 死んでいるセルの周囲に3つの生きているセルがあれば次のステップでは生きる(誕生する)。
・維持: 生きているセルの周囲に2つか3つの生きているセルがあれば次のステップでも生き残る。
・死亡: 上以外の場合には次のステップでは死ぬ。

 という3つのルールによってのみ構築されている。ジョーンズとベンティッツはこのルールに更なる要素を加え、同じセルで8ステップ連続での維持は不可能な事、セルに色付けを行なう事、ステップの数が誕生するセルの色を決定する事、維持されるセルは周囲のセルからR/G/Bの情報を一つコピーする事(周囲に2つのセルがあって維持される場合は1つ目からRを、2つ目からGをコピーする。3つの場合は3つ目からBをコピーする)、などを組み込んだ、資源の枯渇・環境の変化とその対応・交配などの要素が意識されたライフゲームを組む事に成功した。デコーダー(Decoder)のクルー二人は生命のシステムをまず解読(decode)する事に4日間をかけた。10月28日、二人のライフゲームは完成した。これは出来が良かったので、二人はさらにこのライフゲーム上のライフパターン・ライフルーティンを発見・作成する事に時間を割く事にした。「分散し、変色して収束する熊」パターンなどの出来のよいものは、ビデオを通じて芸術作品としてステーションに発表され、これはステーションの雰囲気を明るくするのに貢献した。

 11月4日23時28分から、デコーダーのモニターには無数の蝶が生きて、そして死んでいった。28日からジョーンズが「分散し、変色して収束する熊」をはじめいくつものパターンを作っている間にベンティッツがひたすらに計算して組んだ作品、「蝶の一生」である。これは1秒に200ステップ進めても7分かかる大作で、ストーリーは以下のようになっている。二匹の蝶が玉虫色に変化しながら寄り添うように飛んだ後消え去るが、その際に小さなドットを一つ残す。このドットは成長し青虫となって画面の下のほうを徘徊した後、紫に近い青のサナギとなって、やがて羽化する。羽化した蝶はヒラヒラと舞っているうちに二つに分裂し、そしてはじめの二匹の蝶となる。2回ほど蝶のループが上映されたところで、ステーションは拍手喝采をベンティッツに送っていた。ジョン・ケイジは「ルーティン」という言葉…もはや耳にしたくもなかった言葉…にこれほど素晴しい意味があるのかと感動すらしていた。

 しかし、航宙士としては老いたベンティッツは、もはや味わう事は出来ないと思っていたステーションからの賞賛に長く感動できなかった。24時をまわりステーションの時計が11月5日0時を指した瞬間、ステーションのビデオ映像はノイズを起こすことなく画面からジョーンズを消した。画面右上に表示される時間(これもデコーダーから送信されるものだった)は11月4日0時0分29秒を示していた。ジョン・ケイジは青ざめながらベンティッツにジョーンズを起こすよう告げた(11月4日0時にジョーンズが睡眠をとっていることを、ジョン・ケイジは「知っていた」)。

 コデクスの場合と違い、ジョーンズとベンティッツの二人はコデクスに起きた時間の円環という概念を知っていたので、ジョン・ケイジの通知にさして驚かなかった。そしてこれは大きな違いだった。ベンティッツはジョン・ケイジの告知を聞いた上で、自分の「蝶の一生」は完成したのかと訊ねた。
「蝶の一生は22時45分ごろ完成し、数回チェックされた後、23時28分から上映された。」
「そうか、ならいいんだ。今からやれば、また完成するってことだろ?その感動を味わえるなら死んだっていいし、実際これでもう俺の人生は先が無いんだろ?遺作って事で、みんな、飽きちまうだろうけど、ときどき見てくれよ」

 ジョン・ケイジはベンティッツの「遺言」を聞き入れた。

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 コデクスやデコーダーの事件は、もちろんトップシークレットだった。全ては極秘に処理されていたし、コデクスが地球と通信を取らない事がすでに公表されていたのでこれは円滑に行なう事が出来た。デコーダーの打ち上げは「ステーションによるサプライズ企画」として公表されていた。つまり、モーリス・ジョーンズとショーター・ベンティッツという二人の「偉大なる功績者」の最後のフライトとして、帰還するコデクスとドッキングを行なう、そしてその船には「温故知新」として博物館に展示されていた「サラトガ」号に「デコーダー」号という新たなる名前を与え使用する、という企画として。この発表の最も素晴しい点は、もし万が一2機とも帰ってこられないような事態が起きた場合にドッキング失敗による衝突大破と公表できることだった。そして今ステーションはそのための準備に追われていた。「ミス」を演出したコンピューターのログを作りをはじめ、彼らは全ての事実をもみ消すために必死だった。

 だが、ステーションの思惑通りに事が済むほど人々は情報に疎くなかった。ステーションは宇宙飛行が始まって以来一度も衰えを見せぬ宇宙科学の最高峰機関にとして君臨しており、そこに憧れを持つ多くの者がステーションを肌で感じようという理由の為だけに住んでいる。そしてその中には通信の能力でステーションに貢献しようとするも職員として採用されなかった者たちもおり、彼らのうちにはやむなく始めた職業の傍らでハム(無線)マニアとしてステーションの電波の傍受にいそしんでいる者も少なくなかった。彼らの類稀なる通信傍受能力の結果、コデクスやデコーダーが「時間の円環」域に捕らわれたという事件は既に都市伝説としてじわじわと広がっており、そしてついには地球規模で見られているゴシップニュース番組がとりあげた(こうした小さな都市伝説まで見逃さずに情報を収集する事がこの番組の人気の秘訣でもあった)事で世界的に認識された「噂」となった。

 さらに運が悪い事に、ほぼ同時期にある大学が「電波望遠鏡での観測によると、およそ127AUの地点にある天体ウーベが昨年11月末から位置的にほとんど動いておらず、微振動しているように見受けられる。」という発表を学会でしていた。もちろんこの大学内でもコデクス・デコーダーの話は知られていたので発表に踏み切るまでにはかなりもめたらしいが、結果的には(学会自体がかなりマイナーであったにもかかわらず)学会発表もただの発表に止まらず、「噂」に都合のいいストーリーとしてかなりセンセーショナルに報道された。

 面白いストーリーとしては完成してしまった噂は、後はちょっとしたさじ加減で言葉から行動へ変化し「ブーム」になる。そしてその変化は評論家・テレビコメンテイターとしても活躍する(つまりは「人を満足させる話」の上手な)物理学者が大学の講義で冗談を言ったことから起こった。

 「仮に、噂どおりに、ウーベもコデクスもデコーダーも時間の円環という現象が起きているとしましょう。するって言うと、昨年11月末に127AUのウーベ、今年5月で80AUのコデクス、この間の11月で40AUのデコーダーがその時間の円環域に入ったということになります。…大体6ヶ月で40AUの割合で時間の円環域がこちらから進んできていることになりますな。だと、このままだと、0AU、つまり地球自体も、来年の5月くらいに時間の円環域とやらに入ってしまうんじゃないですか?」

 「人類滅亡」「世界大洪水」「続発する火山爆発」等の与太話はもはや人々にとって刺激的でもなんでもなくなっていたが、そうした「非日常的な」スペクタクルと違い、「日常」がそのままミステリアスな雰囲気を持つ…「繰り返される毎日」という表現が公然と使われる世界で、本当に「ある一日だけが切り取られて繰り返される」という言葉の違和感が湧き上がってくる…というのは斬新で刺激的だった。いずれにせよそのアクシデントはある意味ではどこまで行っても「日常的」な範囲でおさまるのだ、という考えが「遊びで不安になる」余裕を人々に与えていた。地球が「時間の円環」域に捕らわれるという説を(本当に信じるかは別として)ブームとして支持する者は世界中でマジョリティーを確保していた。ウーベがコデクス・デコーダーとはちょうど地球を挟んで反対方向にあったため、地球に迫り来る「時間の円環」域は球体をしており、タマネギのように円環する日を変えながらじわじわとその直径を狭めてついには地球も「時間の円環」にとりこまれるのではないか、というストーリーがもっとも支持された。

 こうして人々が面白がって話している内容は、ステーションにとっては冗談では済まされない内容だった。準備が整い、いざ公表せんとしていたドッキング事故の情報は、「捏造・陰謀」などと噂に都合のいいエピソードとして解釈されるに違いないし、それは事実その通りだった。また、ここまでブームが進んでしまった状況下ではコデクス・デコーダーのクルーの親族にのみ既に公開した「事実」(本当のありのままに分かっていること)がいつ洩れるかも分かったものではなかった。ジョン・ケイジはデコーダーが「時間の円環」域に捕らわれて以来キャンディーを噛み砕く癖がついたためぶくぶくと太っていたが、一連の事件に己の力は全て使い切ってしまい結果肉体がたるんできたと言った方が実態をよく表しているように思われた。

 年が明けた1月17日、ステーションは事実発表を行うことにした。もちろん、ステーションの発表はあくまでコデクスとデコーダーに見られる「現象」についてのみであり、「時間の円環」域は仮説として発表されたに過ぎなかった。むしろステーションは、127AUより遠くからの電波が正常に受信できる事、ウーベより遠くにある天体が動いている事、地球から約50AUの距離にある観測器が正常作動している事などから、「時間の円環」域という場の概念は極めて信憑性の薄いものであるとし、ありえるとしても縞模様のように作用する場と作用しない場があるだろうと付け加えたうえで、地球が「時間の円環」域にいずれ捕らわれるという説は妄想だとまで断言した。ジョン・ケイジは記者会見でこう言った。

 「現在宇宙で確認されている生命体のある星は地球だけです。生命という名の力が問題を解決できる星は、地球だけです。他のいかなる星が解決できないことも、我々なら解決できます。地球は、死にません。」

 醜く太り顔に疲れを見せている男のこの発言は、「ステーションは不安を抱いている。会見は自己暗示だ」というストーリーで世の中に流れて行った。報道官を用意するより責任者が出た方が良い、というステーションサイドの読みは見事に外れてしまった。


§3「発露」
 ジョン・ケイジの発表は…その内容はともかく結果としては…失敗だった。結局、ステーションの提供した情報は、ウーベ・コデクス・デコーダーが「ある日の円環」(いつの間にか人々は「時間の円環」よりロマンティックかつ正確なこちらの表記を用いるようになっていた。)にあることだけが確実で、そのほか一切は不確実という事だった。そしてこれは、「噂」にとって最も都合のいい枠組みだった。大前提だけが太鼓判を押され、後は全て不確定の中で仮説を立てられるからだ。ブームに専門機関が乗ってしまった形となっていた。

 (地球時間での)11月4日から11月5日にかけてのデコーダーのビデオ通信の様子が、要請を受けてステーションから公表された(もはやジョン・ケイジはキャンディーの噛み過ぎによる糖尿以外の何かについて、深く考える力を失っていた。)。後にジョーンズとベンティッツの偉大なる二人が「11月5日に行きそびれた瞬間」と言われるようになったその映像はブームを横目で見ていた人々にも衝撃を与え、そしてベンティッツが映像内で発している言葉は全世界的な人々に哲学的論争のブームを起こさせるきっかけとなった。

 論争のメインテーマの一つは…もちろんベンティッツの「俺の人生は先が無い」「遺作」という言葉に端を発していたのだが…コデクスやデコーダーのクルーは「生きている」のかというものだった。「ある日の円環」域より外には全く変化を与えられず、また外から刺激が無い場合はひたすらに繰り返される24時間のパターン。「先が無い」という言葉通り、24時間で起きた事が全て掻き消され存在しなかった事になる彼ら。しかし彼らは「死んでいる」訳では無く、今も我々の呼びかけに応える事が出来る。あるいは、彼らがそのまま永遠に昨年の5月21日や11月5日にいるのなら、彼らは「不死」なのではないか?事実ケネス・ベーコンは1度デイブ・サイモンに絞殺されそして「蘇って」いる。このように、彼らは「生死の概念の無い生命」だった。

 そしてそれ以上に、生きているか否かの前段階として彼らは「存在している」のかという事もしきりに論議された。「5月21日の層」(既に「ある日の円環」域が地球を囲むタマネギ構造の球体という説は常識となっており、ステーションの「縞構造」説と合わさって「ある日が円環する層(ある日の層)」「円環から免れた層」という概念が一般化されていた)や「11月5日の層」を通過して彼方からの光はやってくる。ステーションがソリウスの電波から観測したように、「層」の中の存在(コデクス)は層を通過する光に干渉できなかった。それにも関わらず依然コデクスやデコーダーとは通信が出来るという事の矛盾を、人々は上手く説明できなかった。「ある日の層」は本来あるべき存在の上に「上乗せ」された並行宇宙だという説などが唱えられたが、いずれも上手く行かなかった。「ある日の層」が虚像とする派閥は「実物」のコデクスやデコーダーが現れない事によって論破され、「ある日の層」を実像とする派閥は先の矛盾を説明できなかった。

 コデクスやデコーダーのクルーはもはや地球に帰ってくることはなく、人々が到達できる彼らの姿はかつて彼らが存在した事を示すだけの、ある種の「碑文」ではないか。つまるところはこうした危機感は、哲学者や青年の苦悩だったはずのものだが、いつの間にか世界的に共有される感覚となった。既に多くの数学者達によって(もちろん「来るとしたら」という条件付きで)地球に訪れる「ある日」は今度の5月8日だろうという事が分かっていたので、一蓮托生の感覚は具体化され、人々の死を思う感覚はますます強くなり、共感は結束として、一度この問題に関わると誰しもが抜けられない状態となっていた。

 ただ、この共同幻想は決して悲観的な「終末論」のようなものではなかった。コデクスとデコーダーのクルー達は、自分達が円環しているという実感をもたずにそれぞれの「ある日」を円環していた訳だが、そのうえで彼らの生活実態の違いは眼を見張るものがあった。コデクスのキャサリン・パウエルは未来永劫王子様願望を抱えながらデイブを鬱陶しく思う日々を繰り返すのに比べ、(我々にとってはすでに見飽きたものにはなっていたが)毎日「蝶の一生」の完成に充足感を覚えるショーター・ベンティッツの姿はあまりにも幸福に満ちているように思われた。この二人の対照的な姿から、人々の意識にある変化が訪れた。噂の5月8日に関して、その24時間だけを最高の環境で過ごせたらば、それが繰り返される未来永劫幸せな自分が得られるのではないか、という意識が、人々を魅了し始めた。こうして「ある日の円環」からもたらされた問題は、哲学的な「死とは何か」といったものから、「死んだ後に行くのは天国か地獄か」という問題に変化した。注目の対象は、「ある日の円環」それ自体から、それが訪れた先に我々が対峙しなければならない永遠にシフトされた。こうした論争は多くの宗教的組織が持つ強迫観念と構造を同じくしていた。つまり、来るべき日に備えなければその後の保証は無い、と。そしてその後の人々の行動も、多くの宗教的組織で見られるものに酷似していた。

 はじめに、日々の状況にあからさまな不満を持つ人々が動き出した。すでに2月の半ばになっていたので、彼らに余裕は無かった。5月8日、その一日だけでいいから最高の一日を過ごして、この飽き飽きした日常と決別してやろう。その思いが彼らを駆り立てた。ひたすらに働いて貯金をする者、旅行のプランニングをする者、自室を最高の環境とする為に家具等を買い揃える者、方法はさまざまだったが、彼らは5月8日に向けての準備以外に眼中に入るものは無いようだった。5月8日に共に過ごす相手を決めそれ以外の交友を一切断ち切った者もいたし、貯蓄のため贅沢を嫌い酒を飲まなくなった者もいた。いずれにせよ共通するのは彼らの行動に鬼気迫るものがあり、さらには周囲に少なからず変化を与えていることだった。そうして彼らの行動に振り回される人もまた感化され彼らと同様に5月8日に向けて動き出すようになり、そうした5月8日への準備をする人々は次第多数派となるに従い社会的認可という免罪符を得たかのようにより行動をエスカレートしていった。この頃には、世界中の人間の大多数が、もう地球は「5月8日の円環」に取り込まれること自体は疑いようも無いと思っていた。

 もちろん、未だ疑いの眼差しを持つ者も、「5月8日の円環」に取り込まれるだろうとは思っていてもそれに向けて行動までは起こせない者もおり(比較すると後者が圧倒的だった)、そうした人々は普段通りの生活を送ろうと努めていたが、無視できないほどのその勢いを増してきている周囲の動態に屈していく者が徐々に多くなってきていた。「5月8日までに完治させることは不可能」と言い放ち、後の副作用はともかく5月8日は健康でいられると強力な薬を処方しようとする医者がいた。5月8日に帰って来られるか分からないという理由で単身赴任を拒否する会社員がいた。そしてそうした行為が許される土壌が既に出来上がっていた。このように時間が永続的にそして一方的に進行していく事が前提となっている社会は成り立たなくなっていたので、どうあっても5月8日を意識しない生活を送る事が不可能になっていたのだった。

 一方「余命告知」を出したと世間に言われていたジョン・ケイジは…もちろん彼が発表したのはコデクスとデコーダーが「時間の円環期」(学術的な表現として)に飲み込まれたという事だけだったが…こうした社会の動きとは対照的に、ステーション第1開発局長というコデクス計画以前の椅子に座ってロリ・ポップの包みを開ける日々を過ごしていた(諦めと共にステーションにあわただしさがなくなって以来、彼はキャンディーを量食べる事がなくなったので、袋入りのキャンディーから棒に刺さったロリ・ポップにグレードアップが図られていた)。彼は憂鬱な気分を晴らすためにロリ・ポップをなめていたはずだったが、そのロリ・ポップの包みを開くたびに憂鬱な気分になっていた。糖尿の心配もある彼にとって、ロリ・ポップの包みを開くことはズルズルと進行していく病の手始めを自分で行なってしまったような気分だったのだ。そしてそれは、もちろん彼の糖尿の話だけで済むものではなかった。彼はどこまでもステーション第1開発局長であり、コデクス計画のリーダーだったのである。

 4月の半ば頃から、騒乱が始まった。早くから行動をしてきた人々ほど、自分達より後に行動する人がいる事をさして計画に入れていなかった。彼らに限らず、多くの人が自分達の「5月8日計画」に邪魔が入る事を考えていなかった。だが、世界規模で己の理想を手に入れようと同時に動く状況で、他人同士が邪魔にならないわけがなかった。

 今自分のいる片田舎の狭い部屋ではなく、憧れの都市で高級ホテルにでも泊まって5月8日を過ごそうと思う者は多く、そうした人気スポットは争い事が集中した。そもそもホテルの予約の段階で大いにもめただけでなく、そうして鳴り物入りの5月8日の予約を受けておきながら休業を宣言した大手ホテルには、信じられないほどの抗議が殺到した。実際ホテル周辺のレストランなども休業や休業宣言が目立ち始め、早々とやってきた者が早くも失望を始めた。この手の失望は後を絶たず、ともに過ごすことを約束していた恋人を突如美男子に奪われた男や、一攫千金を当てるも盗難にあった者等、挙げればきりがなかった。5月8日が迫れば迫るほど窃盗などの犯罪も増え、そうした被害や先のホテルのようなトラブルに遭って絶望した者は、今度は己が加害者として行動するようになった。ゆっくりと家で過ごそうとする老夫婦の家に押し入る、叶わぬ想いを遂げようと心中を図る、もはや何も分からずに母校に火を放つ、保身を忘れる者はいなかったがそこから先はありとあらゆる事が起きた。

 そして、そうした混乱の中で敵意のために準備をする者がいた。5月8日に永遠が手に入るというのなら、永遠の楽園を与えてはならない者がいる。恋愛沙汰から愛国まで、何かを肯定するあまり楽園の共有が不可能な相手を作り出してしまった者たちが、その復讐、彼らなりに言えば勝利のために準備を始めていた。彼らにとって、世の中の混乱は追い風だった。
 例えば軍部の中にいる愛国主義者だった。5月9日が来ないとも限らないが、5月8日で世界が永遠を迎えるなら、「奴ら」に永遠の地獄を与えないといけない。いや、あるいは、この混乱から予想される5月8日の大混乱の中で、一体奴らの国で起こる破壊が我々によるものだとどこまで断定できる?あるいは、それこそ「5月8日の熱狂」のせいにして担当士官の首の3つぐらい飛ばせばいいのではないか。どうせ5月9日が来れば大混乱なのだ、やり逃げではないか。どこの国にも、愛国主義の行き過ぎた者たちはいた。既に軍でなくとも、○○人に永遠を与えていいのかと叫ぶ街宣車は走り回っていた。明らかに不穏な空気が漂い、そんな中非番申請があとを立たないにも関わらず当直を買って出る士官がいる事に関して、軍上層部はそれはそれで困惑していた。彼らに5月8日を任せることは、5月9日が来る事を考えれば危険すぎた。しかし、「奴ら」の国もまたそういう流れであるならば、5月8日を任せられる最適な人材でもあった。囚人のジレンマのようだった。互いに自分だけは勝とうなどと思えば、世界中は戦火に覆われるのだ。5月8日で世界が止まるにしても、9日を迎えるにしても、自分達はその引き金を引く羽目になるのだ。結局、どの国も当直申請を受け入れて、上層部はスイスのホテルの予約をとることにしたのである。だが、当たり前だが既にホテルは満室か営業停止を宣言していた。
 もちろん、こうした事は予測がされていた。世界中も利権が一致すれば仲良くなるもので、あらゆる国・民族を問わず「自分の所にはミサイルを落とすな」という世論が形成されていた。5月9日が来る可能性を考えると、この世論を敵に回すのは危険だったので、結局各国、「奴ら」に対しては軍施設だけを狙う事にしていた。また、自分は平和に5月8日を過ごしたいと思っている内部の者が、互いに密告もし合っていた。ある意味で5月8日以降、全ての兵器は捨てられる、というジョークまで聞こえるようになっていた。

 ジョン・ケイジはこうした様々な社会の話を聞きながら、そもそもの発端であった「タマネギ構造的ある日の円環」説を思い出していた。世界の近況とこの説は相似している。それは一枚一枚皮を剥くように中心に近づき、そして剥いた皮を張り直すことは出来ない。ショーター・ウォンが毎日律儀に確認しているが、コデクス・デコーダー両機に変化は無く、元に戻る事は絶望的だった。もっとも、タマネギと同じように芯は無く、5月8日を過ぎたら全ては無かった事になる、とジョン・ケイジは信じていた。「時間の円環域」は目下調査チームこと第1開発局が調査している最中であり…結果はともかくとして…いずれは全て解決される、はずであった。そう信じる義務が彼にはあった。それでも、ジョン・ケイジはロリ・ポップの包みを剥がしていた。ロリ・ポップの包みは剥がされる毎に彼の糖尿という芯に近づくタマネギの皮のようだった。

 社会は加速していたが、それでも5月7日になり「ある日」が目前に迫ると、「とりあえず8日は穏やかに過ごさなければ意味がない」という考えが人々を支配した。とりあえずの和解は成立し、人々はようやく一時の落ち着きを得た。もちろんこれは、最後の嵐の前の静けさだった。


§4「拡散」

 そして5月8日はやってきた。正確には、東の果てが8日になった時点で世界中がお祭を始めたので、グリニッジで言えばまだ7日の12時ごろだった。いずれにせよともかく、口火は切られた。失敗の許されない日だった。全てを捧げたこの日は、言うならば今までの人生の集大成だった。それを報いるため、全ての人が最高の一日を満喫しようとした。もちろん、普段どおりの生活を送る事で永遠を得ようとする者もいたのだが、大半が前日までの世界の荒れ様に加え、一種のトランスの果てに迎えたこの日を静かに過ごせようはずもなかった。それが「タマネギの芯」だった。カウントダウンは終わったのだ。馬鹿をやらかし、遊び、騒ぐのだ。そして、過去からの魔力に裏打ちされたこの狂乱は、未来からの裏打ちもあったのだ。彼らが遊びのために費やしたものは、全て24時間後には全て元に戻ってくるはずだった。

 バンジージャンプとは、「保証の魔力」である。人は己の肉体だけでは、せいぜい5メートルほどの高さからも落ちる事は出来ないだろう。それ以上の高さからを飛び降りるには、下が水面であることや、パラシュートを着けていること等が条件となる。バンジージャンプは、ゴムが命を保証してくれることで、人間が通常飛び降りられぬ高さから飛び降りることを可能とし、エクスタシーの領域を広げたと言って過言ではないだろう。同様に、全ての失敗が24時を廻った瞬間に回帰され自己が保証されているというこの状態で、人々の営みはそれまでの限界を超えた。リズムという概念も無い太鼓が新たなる音楽を生み出し、永遠の経年劣化に耐えうる愛の表現がなされ、何もかもを忘れられるほどの心地良い笑いが湧いた。もはややって来ない未来に向けての生産を止めたことで、人類はその可能性を全て今に凝縮・爆発させることに成功した。もちろん「新人類」とならなかった人々が、狂乱のさなかで己を見失い、殺し、殺され、犯し、盗み、火を放ち、飛び降り、そのまま暴走していった。そしてそれらは全て受け入れられた。「新人類」は「人類」を含めてそこまでキャパシティーを大きくしていた。

 とうに、軍のミサイルは空を飛び交っていた。互いに予想していながら、東の果てが0時を超えた途端からさぁとばかりに同時に軍施設を攻撃するという、新手の体力勝負の戦争だった。作戦も奇襲もなく、ただ物量だけがモノを言う戦争なのも分かりきっていた。その時、負ける側がする事は唯一つ、テロだった。時間が経過し着弾が勝敗が決すると同時に、敗者には後が無くなり、勝者には隙が生じた。狂乱も始まっており、何も邪魔立てが無い中、花火のように世界中のシンボリックな建物が壊れ始めた。どうしようもない事だったが、新しい刺激として受け入れられた。熱狂を望む者はそこに轟音と振動と閃光を見出し、破壊を望む者は狂喜し、打ちひしがれるものには望むべき終わりが見えた。爆発が済む頃には、その瓦礫が新しいステージになった。

 そうして、生にも負にも急速に進化しながら、地球は5月8日の24時を迎えようとしていた。その頃には、破壊されうる者は大半が破壊され、破壊されていないモノは何か新しいモノに変化していた。人類が生きていた事と、その生を保証するために何かが犠牲にされていたことだけが変っていなかったが、それまでとは明らかに違う世界の仕組みの中、生物的にも文化的にもたった一日で数十・数百年単位の淘汰がなされていた。

 東の果てで、5月8日の24時になった。5月9日がやってきて、5月8日は2度と来なかった。どこへ行っても同じで、5月9日がやってきた。「タマネギの芯」は最後の皮であり、たった今それは剥かれたところだった。新人類に必要だった言説は消滅し、退化が始まった。永遠の愛を成した新人類の恋人達は、混乱によって既に片割れを失っていた者もいてもなおも確かに愛をその手にしていたのに、今突如として失ったモノ達がその実態を現していた。臨界を突破した美しき姿は覆い尽くされ、手元にはもはや何も残っていなかった。時計が死神として君臨し、受け入れられるはずもない破壊がすでに人類を待ち受けていた。自分達があっという間に淘汰して変形させた環境に、自分達が適応できなくなっていた。形として残っているものはあっても、それを生きるために使うその力が残されてなかった。人類は全てを前日に使い果たしてしまっていた。血だか汗だか、あるいは涙や精液なのか、ただの雨なのかすらよく思い出せない、平たくなった台地に液体と人間があった。

 現地時刻朝4時。地上の施設と電源設備が破壊され、あと78時間もすれば自家発電能力も費えてしまうステーションの地下で、ジョン・ケイジは引き出しから残り3本のロリ・ポップを取り出してポケットにしまいこむと、ショーター・ウォンのいるモニターの方へ歩み寄った。無言で2本のロリ・ポップをウォンに手渡すと、ジョン・ケイジは大事そうに最後の1本の包みを剥がして口に突っ込んだ。

 モニターにはベンティッツが映っていた。特にこちらを気にせず、コンピューターに向かってタイプしている。
「既に、デコーダーとはビデオ通信で伝えてあります。」
「そうか。」
「音声つなぎますか?」
「頼む。」

 ショーター・ウォンがエンターキーを押すと、画面の向こうでアラートが鳴り、ベンティッツがこちらを振り返った。ジョン・ケイジは右手でロリ・ポップの棒をつまむと、ベンティッツに声をかけた。
「アロー、ステーション」
「アロー。あー、うん。そのー、言葉が思いつかないんだ。申し訳ない。」
「いや、こちらこそ、ウォンから連絡が行っていると思うが、つまり・・・。」
「分かっている。こちらは円環しているんだろう。そうでもない限り、こちらが11月4日でそちらが5月9日にはなりえないからね。」
「ああ。」
 ジョン・ケイジは右手に視線を落とした。
「ええと、うん、今、蝶を作っている。今日中に完成させないとね、未完で円環させるわけには行かないんだ。君らにはもう見飽きたものかもしれないけど」
「いや、見たいよ。その…もうこちらにはあまり娯楽が無いんだ。」
 ベンティッツは少し驚いた顔をした後、
「・・・なるほど。まぁじゃぁ、その貴重なロリ・ポップも勘弁してやろう。だが、本当は糖尿の敵だぞ、ジョン。」
「はは、そうだな。」
「では、完成したら。」
「ああ。頑張ってくれ。」

 ポンというアラートが鳴り、ベンティッツはまた自分のコンピューターに向き直った。

「どちらが・・・」
「はい?」
 ジョン・ケイジのつぶやきに、ショーター・ウォンが反応した。
「いや、どちらが、生きることに前向きなのかな、と。」
「はぁ。」
「…昨日は。」
「日誌送られてきます。」
「23時18分。グリニッジ時間。」
「ええ。」
 ショーター・ウォンがカタカタとタイプすると、コデクスからの日誌のログが出てきた。

○ベーコン日誌 5月21日 航行20日目
 食事の際、デイブとキャサリンのチームワークを賞賛する。キャサリンがデイブと目を合わせずに私に礼を述べたことがなによりもチームワークの良さを示している。もうしばらくはキャサリンからのクレームは出ずに済みそうだ。デイブは賞賛に関して純粋に受け取ってくれたらしい。観測器操作室の空気は明日も新鮮さを保っているだろう。


 何かがジョン・ケイジの中で溢れそうになっていた。それを濁すために、必死に言葉をつむぎだした。
「食事の際、か。腹減らないか。」
 一瞬、ショーター・ウォンはジョン・ケイジを見上げたあと、少し笑って
「減りました。」
 と答えた。彼の方が、円環する時間について考察する時間は長かったのだな、とジョン・ケイジはその笑顔を見て思った。優秀な部下を持ったものだ。
「非常食料、あるよな。」
「もう我々だけですから、半年分ぐらいありますよ。」
「明後日、最後の電源で風呂入ったら、出てみるか。」
「…ええ。そうですね。」
「…よし、回線つなげ。」
「はい。」

 ショーター・ウォンがヘッドセットを装着し、コデクスとの音声通信が開始された。

「アロー?コデクス。」
「アロー、ステーション。」


参考:ライフゲームのルール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0

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