ウルトラセブン 幻の12話 『遊星より愛をこめて』 解禁運動についてのちょっとした批判 <概略> 以下は、ネットで収集した情報に基づいています。 子供向けヒーロー番組、『ウルトラセブン』の第将僅叩嵳契韻茲螳Δ鬚海瓩董廚蓮 宇宙戦争で血液を汚染された宇宙人が、新鮮な血を求めて地球にやってくる、という内容です。 宇宙人は、目鼻がはげおちたようなのっぺりした風貌で、ケロイドのような模様をつけていました。 (ちなみに私は、その回を見たことがありません。) 放送開始から三年間は何の問題もなく放映・再放映されていましたが、 ある時、小学生向けの雑誌の付録『かいじゅうけっせんカード』の中で、件の宇宙人が 「ひばく(被爆)星人」という肩書きを与えられて紹介された事が被爆者団体に問題視され、 抗議を受けて将僅辰鷲印されました。 中学生の女の子が、弟の読む雑誌を見て付録に気づき、 父親に疑問をぶつけたのが抗議運動の発端ということです。 父親は被爆者ではありませんが、被爆者問題にかかわった活動をしていました。 番組制作側は『今後一切将僅辰砲弔い討肋霾鶻示しない』という『約束』をし、 詳しい経緯は視聴者には知らされないまま、『永久欠番』という形になりました。 現在、番組の一部のマニアは、その事実に納得できず、『なんとか将僅辰鮓開できないだろうか』 という議論をくりかえしています。 <現状報告> 最近、私の動機に関して、非常に簡単な誤解がありましたので、少しそれに言及させていただきます。 それは、『プライドと勝利感のためにこのような活動をしている』ということです。 残念ながら私はこの問題で、勝利感を味わったことなど一度もありません。 それに価すると自分が思い込めるようなものを持っている、とも思っていません。 勝ち負けの問題ではないと思います。 また、解禁派を十把ひとからげに批判しないでほしい、という声も、以前からではありますが、改めていただきました。 私としては、自分が左右できない、また、すべきではない問題、 すなわち12話を解禁しようとファンが論じることに関し、エゴ以外の動機があり、 それが当事者あるいは被爆者の側に立った見解であるということが納得できれば、 私としてもそのような見方を改めることにやぶかさではありません。 <私見(……です。念のため)> そうしたファンのなかには、被爆者団体の抗議自体が、『運動のための運動』であり、 『最初に被爆者を怪獣扱い』し、『逆に被爆者を傷つけた』と主張する人々がいます。 本当なのでしょうか。 抗議に加わった人々の本当の気持ちは、私にはわかりません。 被爆と言う現実は自分には遠すぎますので、類推するのみです。 従って例えが適切でなかったりするかもしれませんが、私が直ちに連想したのは、次のような事でした。 もし、自分が大震災などで家族を失い、自らの人生に長く影を落とす傷を負ったとしたら、 子供番組関連の付録で、『被災星人』などという単語は目にしたくもないだろうと。 そのような肩書きのついた宇宙人が登場する番組も、見たくもないでしょう。 その存在自体に激しい嫌悪感を抱いたにちがいありません。 現実に自分の子供が、『俺は被災星人だ〜』などと叫びながら怪獣ごっこをやりだしたら、 止めたくなるのが人情ではないでしょうか。 付録を目にした人が、『被爆者を怪獣にしている』と感じたとしても責められないと個人的には思います。 『被爆者を怪獣扱い』という当時の新聞の見出しは、 現在、ファンの間でよく『誤解』だとして非難の対象となっています。しかし、 『無理解ゆえの無邪気さ』を鋭く指摘した、『真理の一部』ではなかったでしょうか。 抗議に際して、抗議団体は番組の内容は検討しなかった、と聞いています。 しかし、それがために不当な抗議であり、誤解だった、私は思わないのです。 あくまで自分の想像が及ぶ範囲でですが、 抗議側は番組の内容を糾弾しているのではなく、 番組を制作する側にあった『被爆者に対する認識不足』を糾弾していると思われるからです。 しかしその後も、制作側の管理の甘さから、 この宇宙人は本やテレビなどのメディアに消えたり現れたりしていました。 そのたびに抗議が行われています。 それも、制作側の『認識不足』という印象をさらに補強してしまったと考えられます。 この『かいじゅうけっせんカード』が、 実際に制作された番組からとかげの尻尾のように切り離せるか、 と言ったらそれは困難ではないかと私は感じます。 『ひばく星人』という肩書きによって、 番組開始当時は問題視されなかった宇宙人のデザインに、 容易には払拭できない論理的必然性が与えられてしまったものと思われるからです。 「被爆者の写真などは、資料館などで公衆の目にさらされているのだから、 宇宙人が被爆者の恰好をして出てきてどこがいけないのか」というような意見も目にしました。 が、それはあまりにもひどい省略三段論法というものです。 社会問題を考えるための写真資料と、○○星人と名付けられた子供番組の敵役キャラクターを、 同じ露出だからと同列に論ずる神経が私にはわかりません。 『ひばく星人』という表記が子供のゲーム用であり、 ケロイドを持った宇宙人のデザインと相互補完してしまった事に、深く人の感情を傷つける要因があったと思います。 制作側の円谷プロには、『人間の皮膚を連想させるようなデザインの怪獣を作らない』という方針があったそうです。 では、将僅辰妨造蝓△覆爾修譴無視されたのでしょうか。 そういう事も含めて、制作側は、抗議に反駁する論拠を失ってしまったと考えられます。 <現実逃避に対する反省> 作品を擁護するために、 将僅辰砲亙刃造簇審砲悗竜Г蠅こめられていた……というのは、よく言われることです。 しかし同時に、『それはこじつけ』『さほどの名作とも思えない』という意見もよく目にします。 ひばく星人というインパクトから比べると、この一面はどうやら影が薄いようです。 しかし、それ自体は問題ではありません。 平和への祈りがあったにしろなかったにしろ、被爆者への認識不足があったという事実は変わりません。 次いで、番組自体には問題表現はなかった……だからこそ最初は問題なく放映されていた…… というのもよく言われることですが、 いったん『無理解の発露の根本原因』という観念の結び付きができてしまった作品を、どうすれば救えるでしょうか。 例え鑑賞会を開いて、『内容自体には罪のない作品』と『判定』されたとしても、 『背後に無理解が存在した』という事実は覆しようがありません。 『将僅辰亡悗垢覦貔擇両霾鶻示を禁止する』この本当の意味は、 ひばく星人という忌わしい記憶 それを思い出させる一切のものをメディア上から抹消する ということではないでしょうか。 そう考えれば、円谷が一切の経過説明をせずに将僅辰魴臠屬砲靴燭里蓮 そして、現在も詳細を何も明らかにしないのは、 至極当然のことといえます。 (仮にここまでの私の考えが正しければ、 最近、円谷が『ウルトラ百科』に宇宙人の名前を掲載したのは完全に矛盾した行為と考えられます。) 解禁を実現するためには、 被爆者の方たちの賛同と支援をとりつけなければ、まったくどうにもならないのが現実だと思います。 そういう意味で,将僅談簑蠅蓮△修糧端から解決(これ以上の解決があったとして)まで、徹底して被爆者問題です。 見たい作品が封印された、というのは事件の結果であって原因ではないのですが、 推進派の意見は、結果のみから議論を展開されるパターンが多いようです。 『将僅辰亙未鉾鑁者を傷つけていない』『差別していない』 『今は封印という時代ではない』『逆にそういうものを反省するチャンス』etc. これらはしかし、実際に被爆者の側に立った議論とは到底考えられません。 あくまで観念上のもので、 人の感情を配慮する、という一番大事な部分をおきざりにしているような気がします。 実際の被爆者と対話した痕跡が見当たらないからです。 傷、は理屈では屈服させられません。 行動を伴わない議論は、『今も偏見と無理解が続く時代である』と喧伝しているようなものです。 被爆者の方々は、そうした世間の無理解や決め付けと戦ってこられたのではないでしょうか。 解禁をさらに遠いものにしているのは、私たち皆の中にある視野狭窄であると思います。 一部サイトやメールで、何度か、被爆者、あるいは当事者の方のご意見を直接・間接的に目にする機会がありました。 やはりファンによる一方的な議論には否定的だったと記憶しています。 しかし、一部の推進派は、それをどうも『目に触れなかった事』にして、同じ議論をくりかえしているようです。 私は、将僅談簑蠅波鑁者問題にふと興味を持ち、 ささやかながら、外国人被爆者を支援するサイトのお手伝いをさせていただきました。 勉強のために、他のサイトも巡回したりしました。 それはしかし、将僅辰里燭瓩箸いΔ茲蠅癲 人の助けになりたいという自分の気持ちに正直であったがゆえのことです。 ボランティアに興味をもったきっかけとして、将僅談簑蠅力辰鮠しだけ団体の方にいたしました。 私もウルトラセブンのファンですから、話がもりあがればそれに越した事はない、という下心が なかったといえば嘘になりますが、その問題は支援活動とは関係がない、とも感じていました。 お話を聞いてくれた方は思いやり深く、 「その話は聞いた事があります。なんでも封印するのがいいかどうかは、結果としてわかってくるでしょうけど…… きっかけを知るのは大切ですから」 と言ってくださいました。 が、やはり、将僅談簑蠅紡个垢詬解と協力を求める余地はない、と強く感じました。 その方が支援する被爆者の方々が直面しているのは、 目の前に迫る死とか病とか、理不尽な扱いをする国を糾弾しようという裁判などであって、 一方、私たち特撮ファンはといえば、 子供番組の一回分が見たい、とだだをこねているようなものだからです。 ファンによる解禁運動、というのは、いったん当事者同士がかわした『約束』を、 番組のファンというだけで何の関係もない第三者が覆そうというわけですから、並大抵の事ではありません。 私たちには本来口出しする権利はありません、と 『全面降伏』した上で、『よろしかったら考慮していただけないでしょうか?』とお願いするしかありません。 当事者の方に、『将僅辰力辰篭貭漫戮箸い錣譴討靴泙辰燭蕁△となしくひきさがるしかないのです。 人の傷というのは、時として自分の想像力をはるかに超えていることもある…… それを忘れてはいけないと思います。 問題が起きたとき、私たちは円谷も作品も守る事は出来ません。 事態を悪くするだけです。 一部のファンは、 『ファン仲間で盛り上げていけば何とかなるんじゃないか』という夢を見ているようです。 夢を見るのは、決して悪いことではありません。 私も夢を見ていました。 これをきっかけに被爆者問題に対する関心が高まり、 特撮ファンも捨てたもんじゃない、という認識が広まり、 将僅辰皺礎佑あったとして認められる……という夢です。 しかし,完全に認識が甘かった……^^;;;;;;;;;;; ボランティアというのは、最初から素養のある人しか行えないものです。 ほとんどの人には、関心のない分野です。 かくいう私も、本格的にやっているとは到底いいがたい。 ダメ押しに、『将僅談簑蠅賄事者には苦痛である』というコメントを目にして、 自分の認識が甘かったことをさらに痛切に感じました。 自分の場合は条件付ですので、解禁に賛成、という表明は今までしませんでしたが、 『盛り上れば何とかできるではないか』とひそかに思っていたのは事実です……。 つまりは、私も現実遊離ドリーマーのお仲間だったわけです。 <何ができるか> 最初私は、完全に解禁運動反対派でした。 基本的に被爆者の問題であって、我々ファンの問題ではない、と思っていたからです。 しかし、議論を重ねるうち、これをきっかけに 被爆者支援に対する理解と関心がファンの間で大々的に高まるのならば、 推進派を応援もしよう、と思うようになりました。 しかし今は、また反対の立場に戻っています。 根本的には、『解禁賛成』を表明すること自体、一考を要する行為ではないかと思います。 『解禁』という結論が先行固定されていて、 冷静に状況を判断し、どちらがいいか判断を下す人は少ない。 (裏を返せば、解禁派の中にはそういう人々もいます。 ただし、推進というよりは、中立的な立場にならざるを得ないようです) 一部ファンの、ボランティアと解禁運動を結び付ける試みも、 視野狭窄の喧伝であると、個人的には思います。 ボランティア自体は、いいことです。 ただし、ファンの側がそれと連動させて一方的に解禁運動をアピールするのは逆効果であると思います。 私たちファンは、純粋に人の傷を癒す行為を、 自分たちのエゴ(=オタク心)を満たすための手段とすりかえており、 それがあまりにも露骨だからです。 信念は尊重しますが、共感は出来ません。 (このファンに対する働き掛けを展開されている方の一人、Tackmixさんとは、事前に意見交換しました。 立場の違いに関わらず、 誠実な対応の方であり、私にも反省するきっかけを与えてくださったものと感謝しています。 ちなみに私は、PCの空き領域を利用してボランティアをする、同氏の 『白血病治療のためのデータ解析』のチームに参加させていただいています) あえて被爆者の方々にアピールをするとすれば、 1 解禁されたらうれしいが、その是非は自分には判断できない。 (従って公開推進という立場はとれない) 2 この問題をきっかけに、被爆者問題に興味を持つようになった。 というきわめてひかえめな二点ではないでしょうか。 ボランティアのきっかけはなんでもいいですが、 結局は、人を助けたいからするんだと、それだけでいいと思います。 被爆者の方々に、本当の『利益』がもたらされないのならば、さらに解禁は遠のいていくのではないでしょうか。 この場合の『利益』とは、付け焼刃的なチャリティー計画とかお金とかギブ・アンド・テイク的な支援とかではなくて、 『人を思いやる心』 それにつきるのではないでしょうか。 それは、社会全体に還元されるべきものであり、無償の行為であり、長いプロセスです。 逆説的ですが、『報酬を求めて行動しないこと』が目的達成の最短距離のように思うのです。 永遠に封印は解かれないかもしれません。 それでもいいのです。 愛は本来無償のものであり、 その現実を冷静に受け入れなければ、私たちは永遠に子供のままです。 <最後に> このエッセイの第一稿は、 『推進派を人格的に問題のあるかのように引き合いに出し』 『これでもか、というほど糾弾している』 『それはあなた自身の思いやりの欠如ではないのか』 との批判をうけました。 全くその通りで、反論の余地がありませんでした。 これは、その批判を受けて、手直ししたものです。 うまくいったかどうかは、自信がありませんが、あえてこの時点で公開することにしました。 その目的は、 第一に、ファンにもさまざまな考えを持つ人間がいる、ということを示す、 そして第二に、一部の解禁派に感謝の意を示すことです。 なぜなら私は、『糾弾』したはずの解禁派の人々に、 さまざまな局面において、『助けられた』からです。 (そうでない人々にも助けられました) 冷静な指摘によって、批判にこりかたまっていた私にもまた、 失っているものがあることに気づかされたからです。 批判していた相手から思いやりをうけるということほど、 自分を変える契機を与えてくれるものもないのではないでしょうか。 私の信念自体は変わっていません。 少なくともむこう百年くらい、公開されなくても一向にかまわないと思っています。 『第三者が話さなくてすめばそれが最善』とも思っています。 私にはまだ道が見えませんが、 いろいろと歩みののろい私の今後の礎とするため、 この文章は残すことにしました。 (いま一度ご注意を。 私が語るのは私個人が垣間見た事態の一側面です。 興味をお持ちの方は、ご自身でお確かめになってください。) ☆DARKZONECITY☆