前田夕暮年譜
明治16年
1883年
1歳 7月27日神奈川県大住郡南矢名村(現在の秦野市南矢名)に 、生まれる。本名洋造。洋三とも書いた。家は豪農。父久治、母イセ。父は湘南社に属する自由民権運動家で、後に神奈川県議会議員、大根村 村長を歴任した。夕暮の下には、弟2人、妹4人が生まれた。
明治21年
1888年
6歳 父は大変厳格で、3月に父に叱られ初めて家出をし、祖父代次郎の家へ逃げる。 これ以後しばしば家出を繰り返す。
明治23年
1890年
8歳 4月、大根小学校入学。
明治27年
1894年
12歳 4月、大根小学校高等科1年に進級。この小学校時代、4歳年下の岩下リセに恋心を抱く。
明治31年
1898年
16歳 3月、大根小学校高等科4年を卒業し、4月中郡共立中学校(現在の神奈川県立秦野高校)に入学。成績はきわめて優秀。中学では級長をつとめる。 この頃、漢文を伊藤六石に、国文を永井建之輔に学ぶ。
明治32年
1899年
17歳 3月、無断で上京。父の激しい怒りに、自殺を図る。父の厳格さのせいもあり、神経衰弱がひどく、とうとう2年の1学期を終えたところで 中学を休学する。結局退学に至る。以後夕暮に正規の学歴はない。11月関西方面に放浪の旅に出る。この旅では、新派歌集「くさぶえ」 と大橋乙羽「千山万水」を携えていた。
明治33年
1900年
18歳 夏、胃アトニーにかかり、3か月間入院。
明治34年
1901年
19歳 2月、伊豆へ旅に出る。伊豆山温泉相模屋旅館に滞在中、阿部と名乗る男に桂月、紅葉、露伴らの話を 聞かされ、文学に目覚める。この頃は、将来の目処も立たず苦しい放浪時代だった。
明治35年
1902年
20歳 5月、徒歩で東北に向かう。旅行中「みだれ髪」を携え、文学に開眼するに至る。6月末、大磯の医師 天野快三宅にあずけられる。医師にしたいという父の目論見であった。しかし夕暮は文学に傾倒し、投稿活動を開始する。 筆名を鴫立庵の西行歌碑に因み夕暮と名乗る。周囲の青年等と湘南公同会を結成し、文学に打ち込む。
明治36年
1903年
21歳 小説,美文,短歌,俳句等を盛んに投稿する。美文「月の白百合」,小説「磯の古鐘」等。『新声』12月号短歌欄(尾上柴舟)選に3首掲載される。 これ以後、選者尾上柴舟によりしばしば上位入選を果たす。また、この年、徴兵検査を受け(第二乙種合格)、国民兵役に編入される。
明治37年
1904年
22歳 前半は盛んな投稿活動を続ける。3月末、父を説得し上京。5月、尾上柴舟に入門する(若山牧水も同じ頃入門)。また、国語伝習所、二松学舎に 学んだ。11月、金箭会が結成され参加する。
明治38年
1905年
23歳 2月、『国詩』が創刊され、参加する。8月、尾上柴舟を中心に車前草社が創立され参加。この年柴舟によって『中央公論』に作品が掲載されるなど 、文学活動が盛んになる。
明治39年
1906年
24歳 2月、回覧雑誌『聚雲』の会で北原白秋を知る。4月、岩野泡鳴「神秘的半獣主義」の講演を聞き、感銘を受ける。5月、青山伝道教会で受洗。 夏、中等教員検定試験に不合格。10月、白日社を創立し、雑誌『向日葵(ひぐるま)』の発行を計画する。
明治40年
1907年
25歳 1月、白日社より雑誌『向日葵』を発刊。2月『向日葵』第二号を発刊。資金難のため同誌は二号で廃刊に至る。 秋、自然主義的作風へと傾く。11月、パンフレット歌集『哀楽第壱』を白日社より発行。
明治41年
1908年
26歳 1月、パンフレット歌集『哀楽第弐』を白日社より発行。5月、水野葉舟の紹介により『文章世界』の訪問記者となる。 8月1日、母イセ癌のため死去、深い衝撃を受ける。秋、キリスト教棄教。11月には『新声』短歌欄の選者となる。
明治42年
1909年
27歳 1月、『秀才文壇』編集者として文光堂へ入社。上京以来初めて定職を得る。この年、竹久夢二と交わる。
明治43年
1910年
28歳 3月、『創作』が創刊され、編集同人として参加。同月、処女歌集『収穫』を易風社より刊行。牧水の『別離』 とともに自然主義歌集として大きな反響を呼ぶ。以後、数年間の自然主義短歌時代を牧水夕暮時代と称するようになった。 4月9日、『東京朝日新聞』紙上で、松崎天民は『収穫』を不良少年の書として非難。夕暮は相当の打撃を受ける。 5月1日、栢野(かやの)繁子と結婚、西大久保に居を構える。6月、『秀才文壇』編集者を辞める。 主たる収入源を断たれ、困窮する。7月、パンフレット歌集『疲れ』を刊行(10月、再版)。 10月、『収穫』増補再版を東雲堂より刊行。この年の末頃、『秀才文壇』編集者に復帰。12月、『創作に 「白日社詠草」を掲載する。
明治44年
1911年
29歳 4月、雑誌『詩歌』を白日社より創刊。第一期『詩歌』は大正7年10月まで92冊刊行し、多くの文学者を詩歌壇へ送り出した。 その後、何度かの休刊をはさみながら刊行され、夕暮の没後は長男透が引き継ぎ、昭和59年まで599号を発行した。
明治45年
1912年
30歳 9月、第二歌集『陰影』を白日社より刊行、自然主義歌風を深める。
大正2年
1913年
31歳 4月、白樺主催の西洋美術展覧会を見に行き、ゴッホ、ゴーガンに強烈に惹きつけられる。以後、後期印象派絵画を中心とした西洋美術への 傾倒を深める。9月、斎藤茂吉の案内で巣鴨精神病院を見学。この頃、狂気への強い関心が見られる。
大正3年
1914年
32歳 1月(年末から正月にかけて)および2月に、房総半島を旅行。1月、『歌話と評釈』を白日社より刊行。夏、富士山麓を旅する。9月、第3歌集 『生くる日に』を白日社より刊行、外光派的歌風を確立する。9月16日、長男透出生。
大正4年
1915年
33歳 3月、白日社歌集第一輯『発生』を白日社より刊行。同月31日、弟次郎、小田原で死去。4月、『黒曜集』(現代和歌選集叢書第一編)を植竹書店より刊行。 白日社歌集第二輯『外光』を白日社より刊行。8月、榛名、赤城に遊ぶ。
大正5年
1916年
34歳 2月21日、女児生まれるが(弥生と命名)、数時間で死去。9月、第四歌集『深林』白日社より刊行。10月、『短歌雑話』(白日社)刊。 12月、『アララギ』に島木赤彦「歌集『深林』の著書に呈す」が載り、赤彦と厳しく対立。
大正6年
1917年
35歳 9月28日、父久治、胆石に丹毒を併発して死去。以後、前田家の整理のために奔走する。9月、『前田夕暮集』(新潮社)刊。 11月、丹沢の森林地帯を歩く。この年、『詩歌』の若手有力歌人の死去が相次ぐ。
大正7年
1918年
36歳 1月19日妙子出生。5月、酒匂川水源地帯を歩く。10月、『詩歌』を第8巻第10号で突如廃刊。
大正8年
1919年
37歳 1月、『詩歌』主要同人を集め、回覧雑誌『耕人』を発行(全23冊刊)。5月、『詩歌』廃刊記念合同歌集『あをぞら』を白日社より 刊行。9月。亡父の山林事業を引き継ぎ、奥秩父小森川水源地帯に関東木材合名会社の事業地を移す。
大正9年
1920年
38歳 この年は、奥秩父の山林事業に専心する。8月11日、祖父代次郎死去。
大正10年
1921年
39歳 6月、前田夕暮選『若山牧水選集』、若山牧水選『前田夕暮集』がアルス名歌選第一編、第二編としてアルスより出る。
大正11年
1922年
40歳 この年も歌壇的な活動はほとんどなく、沈黙を守る。夏、『冬夜集』(選集、未刊)を編集する。
大正12年
1923年
41歳 元旦の朝から夜にかけて短歌158首を集中的に制作する。以後、作歌欲が激しくわき上がる。2月、『短歌雑誌』にら大作「天然更新の 歌」を発表、歌壇に大きな反響を巻き起こし、鮮烈な歌壇復帰を果たす。2月1日、東海道線車中(小田原付近)で北原白秋と邂逅、そのまま 三浦半島吟行へと旅立つ。これを契機にして2人の交友が急速に深まっていく。3月、『詩と音楽』に「半島の早春」と題し、白秋137首 、夕暮77首を発表、歌壇を驚かせる。4月、『東京朝日新聞』に「歌壇に送る言葉」発表。8月、北原白秋らと宇都宮に講演旅行をする。 9月、関東大震災が起こり、郷里の生家が倒壊。11月頃、白秋らとの新雑誌創刊の計画が持ち上がる。
大正13年
1924年
42歳 2月、重傷の糖尿病にかかっていることが判明。3月、東京帝大病院三浦内科に入院、失明を警告される。4月、『月光』創刊。夕暮は口語歌 や散文「緑草心理」など多くの作品を発表する。『日光』は反アララギ勢力の結集したものとして注目を浴びる。この年、印幡沼の吉植圧亮 宅や四万温泉、小田原の白秋宅を訪れる。
大正14年
1925年
43歳 1月、散文集『緑草心理』をアルスより刊行。新しい時代の感覚を表現した作品として、歌壇内外の大きな反響を呼ぶ。同月、『短歌作法』 (文芸及び思想講習叢書)を松陽堂より刊行。2月3日、日本橋エムプレスで『緑草心理』出版記念会が催される。10月、歌集『原生林』 を改造社より刊行。この年、奥秩父の山林事業を、両神村小森から大滝村入川に移す。
大正15年
1926年
44歳 1月、小田原の白秋を訪問。2月奥秩父で負傷。6月、第二散文集『烟れる田園』(アルス)刊。8月、家族と四万温泉へ行く。
昭和2年
1927年
45歳 5月、山村暮鳥詩碑除幕式のため大洗へ行く。7月、『日光』の運営について話し合いを持つ。9月、『日光』の運営をめぐって白秋と 対立。やがて、『詩歌』の復活を考えるようになる。12月、『日光』廃刊。
昭和3年
1928年
46歳 3月、歌集『虹』(紅玉堂)刊行。4月、『詩歌』復活号刊。大きな反響を呼ぶ。会員、支社が急速に増え、活況を呈する。10月、郷里東秦野村 の文芸講演会に行き、弘法山に登る。
昭和4年
1929年
47歳 3月、散文集『雪と野菜』(白日社)刊。同月、『原生林』を増補のうえ改造文庫の一冊として刊行。この頃から、『詩歌』内部で自由律短歌 をめぐる議論が盛んになる。夏、四万温泉に滞在。11月28日、東京朝日新聞社主催の空中競詠が催され、夕暮は斎藤茂吉、土岐善麿、植草 圧亮らと関東上空を飛行、自由律短歌を制作する。飛行体験に基づく、多量の自由律詩を発表。夕暮は『詩歌』とともに自由律短歌へと転換する。
昭和5年
1930年
48歳 前田夕暮及び『詩歌』の自由律短歌運動はいよいよ盛んとなる。5月、改造社『現代短歌全集』第十一巻『若山牧水・前田夕暮』刊行。10月 、夕暮会が結成される。この年、関西、東北、北海道に旅する。
昭和6年
1931年
49歳 5月17日、『詩歌』二十周年記念講演会を開催。6月から7月にかけて入院し、糖尿病治療、左眼白内障の手術を受ける。7月、散文集 『朝、青く描く』(白帝書房)刊。9月、「新興短歌概論」執筆に着手。秋、関西旅行、近江極楽寺の夕暮歌碑除幕式に出席する。この頃、 妙子、肺結核発症。
昭和7年
1932年
50歳 1月7日、白日社新年小集に立原祥彦(立原道造)が始めて出席する。同月8日、朝日新聞社講堂で開かれた「短歌革新講演会」で石原純、土岐善麿 らとともに講演。また『詩歌』一月号で新興短歌(自由律短歌の呼称を変更する)を特集する。3月、『詩歌年刊歌集』第一輯刊。7月、妙子の 病状悪化、茅ヶ崎の南湖院に入院する。8月、「新興短歌概論」(改造社『短歌講座』)を発表。9月、自由律第一歌集『水源地帯』を白日社より刊行。 10月、十和田湖畔に夕暮歌碑建立。
昭和8年
1933年
51歳 3月、妙子の病状悪化、荻窪への転居を計画する。4月、『詩歌年刊歌集』第二輯刊。9月、『詩歌』を編集委員制とする。
昭和9年
1934年
52歳 4月、東京帝大病院眼科に入院し、右眼白内障の手術を受ける。6月、荻窪に転居。新居を青樫草舎と呼ぶ。秋、関西に赴き、出版記念会 や亀岡の夕暮歌碑除幕式(出口王仁三郎建立)に出席。11月、東京帝大病院に入院し、左眼白内障の手術(2回目)を受ける。手術後、 ものが青く見える現象を自ら「青視症」と名付ける。
昭和10年
1935年
53歳 4月、長男透、東京帝大経済学部に入学。種田山頭火の作品に親しむ。9月、砧村の白秋宅訪問。交友が復活する。10月、春陽堂文庫本 『緑草心理』刊行される。
昭和11年
1936年
54歳 5月、春陽堂文庫本『生くる日に』刊。6月『詩歌年刊歌集』第三輯を白日社より刊行。同月、「新短歌の作り方」(改造社『短歌作法講座』 第一巻)発表。9月、「新短歌の基準」を『短歌研究』に発表。10月、詩歌懇話会が結成され、委員となる。11月、大日本歌人協会 が結成され、理事となる。12月、散文集『顕花植物』(人文書院)刊。『短歌文学全集・前田夕暮篇』(第一書房)刊。同月20日、妙子、 肺結核のため19歳で死去。
昭和12年
1937年
55歳 4月、改造社『新万葉集』の選者となる。6月より始まった審査のために疲労がたまり、糖尿病が悪化。
昭和13年
1938年
56歳 3月、透、東京帝大を卒業、扶桑海上火災保険に入社。7月『新万葉集』第七巻刊。この年、門下の自殺や戦死に遭う。
昭和14年
1939年
57歳 1月、透、入隊。『詩歌』八、九月号に「新短歌的なものを清算せよ」を発表。
昭和15年
1940年
58歳 2月、弘法山に遊ぶ。3月、自由律第二歌集『青樫は歌ふ』(白日社)刊行。6月、郷里大山山麓に遊ぶ。8月、新潮文庫『新選前田夕暮集』刊。10月、選集『氷原』を弘文堂刊『現代短歌叢書』第八篇に収録。11月、選集『現代短歌』第五巻に収録。12月、自叙伝体短歌選釈『素描』(八雲書林)刊。
昭和16年
1941年
59歳 1月、自由律短歌を内在律短歌と呼ぶことを宣言。2月、北原白秋が荻窪の夕暮宅を訪問。6月、大日本歌人会成立、顧問となる。9月、郷里大根村の生家が山崩れのため倒壊。同月、随筆集『木靴』を書き上げる(未刊)。11月、大日本歌人会主催講演会で自作の自由律短歌を朗読。
昭和17年
1942年
60歳 この年、しばしば白秋を病床に見舞う。この白秋との懇談の中で、夕暮は自己の作歌に何らかの示唆を受けたと推測される。9月11日、「新定型作品」制作、夕暮の定型復帰が開始。10月、関西へ一人旅に出る。同月、富士山麓を巡り、富士の歌を制作。11月2日、白秋死去。
昭和18年
1943年
61歳 1月、『詩歌』で定型復帰を宣言。2月、自由律最後の歌集『烈風』(鬼沢書房)、随筆集『青天祭』(明治美術研究所刊)。この年、定型復帰に懸命になる。11月、九州へ旅する。この旅の作で歌集『霧島』を編む(未刊)。12月、『富士を歌ふ』を明治美術研究所より刊行。同月、大日本文学報国会短歌部会の幹事長に就任。
昭和19年
1944年
62歳 用紙不足が深刻となり、戦局も悪化、『詩歌』は十一月号をもって休刊となる。
昭和20年
1945年
63歳 4月末、妻と2人で奥秩父入川谷に疎開。「入川谷山荘日記」を書き始める。晴耕雨読の生活の中に晩年の新たな境地を求める。7月、関東木材は秩父兵器木材に吸収される。夕暮は秩父兵器の株券を得るが、終戦後、株券の価値は無に帰し、夕暮は奥秩父の財産を全て失う。8月15日、終戦。透も帰国の見込みなく、秩父永住を心に決める。
昭和21年
1946年
64歳 6月、長男透、チモール島より復員。同月、歌集『新頌富士』(富岳本社)刊。翌7月、歌集『耕土』(新紀元社)刊。同月、『詩歌』復刊。戦後の文学活動が再開されていく。同月27日、透、竹中雪子と結婚。この頃、夕暮・透の共著詩集『若き陸地』(富岳本社)が、出版社倒産にあい刊行されずに終わる。12月、入川谷での生活に終止符を打ち荻窪に戻る。
昭和22年
1947年
65歳 東京での生活に戻り、奥秩父生活の疲労や戦後の世相への戸惑いを感じつつ、『詩歌』の発行や「山荘手記」『白秋追憶』等の原稿執筆に打ち込んでいく。6月、初孫宏誕生。8月、河出書房『現代歌集』第二巻に「埴土地帯」百首を出詠。10月、奥秩父入川谷での生活をつづった『山荘手記』を300枚にまとめるが未刊に終わる。12月、『現代短歌文学選集・前田夕暮集』(新人社)刊行。
昭和23年
1948年
66歳 3月、『白秋追憶』を健文社より刊行。6月17日世田谷の斎藤茂吉を訪問。10月、東北への旅に立ち、茂吉の故郷金瓶にも立ち寄る。この年、いくつかの出版予定があり、原稿をまとめたりもしたが、多くは刊行されずに終わる。
昭和24年
1949年
67歳 1月2日、NHKラジオ座談会「新春雑詠」(夕暮、空穂、超空、善麿、英一)が放送される。6月、『詩歌』の編集、運営を全て自分一人でなすこととする。7月、白日社関西大会に出席。このころ体調悪化。10月、宮柊二『山西省』の会があり、出席して釈超空らに会う。同月、合同歌集『氷原』第一輯(白日社)刊。11月、蓼科温泉に旅するが、帰宅後、糖尿病が悪化する。
昭和25年
1950年
68歳 体調不良の日々が続くが、『詩歌』運営の一切を独力で続ける。6月中旬、発熱、絶対安静を告げられる。8月、レントゲン検査を受け、肺浸潤が判明。しかし、『詩歌』の編集を続け、作歌をなす。11月、『定本虹』の原稿を山雅房に渡すが未刊に終わる。
昭和26年
1951年
69歳 病状が重くなるなかで、『詩歌』の編集を続ける。3月、郷里弘法山の歌碑建立を承諾。4月に入り昏睡が見られ、同月20日午前11時30分、結核性脳膜炎にて死去。22日密葬、24日告別式。法号は「青天院靜観夕暮居士」。葬儀委員長矢代東村、友人総代折口信夫、門下総代米田雄郎。多磨霊園に納骨される。5月、弘法山歌碑建立。6月、随筆集『草木祭』(ジープ社)刊。同月、『短歌研究』『日本短歌』で夕暮追悼特集。前者には夕暮の遺詠「わが死に顔」が掲載され、反響を呼ぶ。9月、『夕暮遺歌集』(前田透編、長谷川書房)刊。