吟遊詩人ウィル・神々の遺産 番外編
許されざるもの
written by RED
その光景を目撃した瞬間、少女は息を呑んだ。
昼過ぎから降り出した雨は次第に激しさを増し、今では夕暮れの薄暗さも手伝って、視界を煙らせるほどになっていた。沢沿いの細い道はひどくぬかるみ、所々、大きな水たまりが出来ている。右手にある川を木々の合間から見下ろすと、かなり増水したらしく、土色に濁った激流が轟音と共に勢いよく川下へ押し出されていた。
少女が乗る荷車は悪路に激しく揺れながら、派手に泥と水しぶきを跳ね飛ばし、村への帰り道を急いでいた。隣の村まで母親に頼まれた小麦粉を買い付けに行った帰りだ。小麦粉なら少女が暮らしている村でも取り扱っているのだが、そこが少女の母親が持つ徹底したこだわりのようで、仕事用だからと言って決して譲らなかった。
少女はまだ十五にも満たぬ年頃で、短く切りそろえられた藍色の髪と太い眉毛のせいで少年のようにも見えた。その眼差しには芯のしっかりした意志の強さが垣間見え、この仕事に日頃から従事していることが窺える。このような悪天候の中でも弱音を吐くような素振りを少しも見せない。ひたむきに前を見据えていた。
とは言え、小麦粉の袋を積んだ荷台を引っ張っているのは、一頭の小柄なロバであり、期待するほどの速度は出ない。屋根もない荷車に乗った少女は、すでにずぶ濡れだ。体もすっかり冷えてしまっている。一刻も早く家に帰り着き、熱い湯と温かい飲み物が欲しいのは偽らざる心境だ。それに、この雨では地盤がゆるみ、土砂崩れの恐れもある。早くこの道を抜けてしまいたかった。
心の中で焦りを感じながら、もう一度、荒れ狂う川にふと視線を向けた少女は、その手前の斜面に違和感のあるものを発見し、目を凝らした。何かが銀色に鈍く光っている。その形がどうやら人らしいと気づき、少女は慌てて荷車を止めた。
「ジムリ、ここで待っていて」
少女はロバを名前で呼ぶと、荷台から降りた。ロバのジムリは主人の言いつけを守るように、その場にうなだれ、口から白い息を吐き出す。少女はジムリと荷車をそのままに、道の端から斜面を覗き込んだ。
やはり少女が目にしたのは人間だった。頭を川の方へ向け、うつぶせに倒れている。行き倒れだろうか。どうやら騎士らしく、重たそうな甲冑を身につけている。銀色に見えた正体はこれだ。それにしても、どうして道ではなく、河原へと降りる斜面で倒れているのだろうか。
「大丈夫ですか!」
少女は大きな声で、倒れている人物に呼びかけた。だが、雨音の激しさのせいなのか、それとも相手が完全に気絶でもしているのか、少女の声は届かなかったようで、何の反応も返ってこない。少女はもっと近づいてみようと、斜面に生えている細い木々を頼りに、慎重な足取りで降り始めた。
近づくにつれ、騎士の様子が分かってきた。その手元には剣が投げ出されるように落ちており、左耳の上には深い傷跡が口を開け、そこからあふれた大量の血が、雨と一緒に洗い流されている。
「!」
少女は思わず息を呑み、両手で口許を覆った。しかし、それは不用意だったと言えるだろう。それまでつかんでいた木を手放してしまったため、途端に足を取られ、斜面を滑落してしまったのだ。
「キャーッ!」
幸い、川沿いの道から下の河原まで大した距離はなく、斜面も崖と呼ぶほどの急な勾配ではなかったが、一度、したたかに肩を木にぶつけ、少女は顔をしかめた。
河原まで到達するのは一瞬だった。足先からお尻、そして背中にかけて泥だらけになり、少女は半ベソをかきたくなる。
ところが、しゃくり上げようとする声すら、途中で止めざるを得なかった。なぜなら、さらに凄惨な河原の光景を直視してしまったからだ。
先程の斜面に倒れていた騎士と同様、甲冑を身につけた者が、三人、様々な格好で倒れていた。だが、今度はひと目で死んでいると分かるほど、無惨な有様だった。一人は首を、あとの二人は腹部を斬り裂かれ、恐怖と驚愕を表情に凍りつかせている。血は河原の石を赤黒く染め、水かさの増した川へと流れ込んでいた。
さらに、そのそばには、もう一人の男が倒れていた。ただし、他の者たちとは違って甲冑姿ではなく、旅人らしい服装だ。右手にはしっかりと剣が握られ、反対の左腕は肘から先が失われている。少女が見た限り、それは剣のような刃物で切断された傷口ではなく、何かに噛み砕かれたように思えた。
その男の剣を握る指が、ぴくり、と動いた。少女は反射的に身を固くし、思わず後ずさる。どうやら、この片腕の男は生きているらしい。だが、そうは少女の頭で理解していても、近づくのが怖かった。
できれば関わり合いになりたくないと思った。つい、好奇心と親切心から荷車を降りて来てしまったが、今はすっかり後悔している。早く帰りたい。この地獄絵図のような場所から即座に逃げ出したかった。
少女は荷車のところへ戻ろうと、踵を返そうとした。ところが、その肩が何かに当たる。転びそうになるところを、慌てて少女は振り返った。
いつの間に少女の後ろにいたのか。そこに立ち尽くしていたのは、黒い鍔広の帽子と黒いマントを身につけた男だった。一瞬、その黒ずくめの姿を見た少女は、この男がここにいる者たちの命を奪った死神ではないかと恐怖する。しかし、黒マントの男の顔を見た途端、そのような思考は霧散した。
それは一口に美形と評しても、言葉が不足しているようであり、それでいて、それ以上の賛辞が思い浮かばぬほど、超絶した美しさを持った顔であった。切れ長の眼は憂いに満ち、すっと通った鼻梁は優美さを具現化し、形の良い薄い唇は甘い吐息を感じさせる。まだ、恋を知らない十四歳の少女ですら、その魔性のような美麗さに陶酔し、すべての言葉を禁じられた。
少女同様、男は降り注ぐ雨に濡れていたが、それすらも彼を引き立てる役目を負っているかのようだった。
陶然とする少女をよそに、黒ずくめの男は倒れている片腕の男に近づいた。そして、首筋に指を押し当て、脈を探る。マントの下から洗われた指は、少女がハッとするくらい華奢で繊細だった。
「生きている」
男は呟くように言った。その声を耳にしただけで、少女は背筋が怖気立つ。これが男性の声だろうか。もちろん、女性の声とは明らかに違うのだが、どこか中性的な響きがした。
黒ずくめの男は、左腕を失った男の剣をその腰の鞘に収めると、相手の右腕を自らの首へ回し、支えるように立ち上がった。そこで初めて、気絶している男の顔を見ることが出来る。
負傷している男は、顔中がヒゲだらけのような、がっしりとした人物だった。多分、四十歳を少し過ぎたくらい。武器を携帯しているところを見ると、旅の剣士とか流れ者と思われる。少なくとも少女が暮らしているテコムの村や隣の村では見かけない顔だ。
体格的には黒マントの美青年の方が小さいのだが、どこにそんな力があるのか、よろめきもせず、隻腕の男を担ぎ上げた。
少女はやっと我に返り、息を詰めて美しい青年を見つめる。
「あなたは……」
誰、と問おうとして、声はかすれてしまった。それだけ緊張している証拠である。
すると青年は、初めて少女に気づいたかのように顔を向けた。少女は青年の美しい顔をまともに直視できない。それに構わず、青年は名乗った。
「オレの名はウィル」
「ウィル……」
「通りすがりの吟遊詩人だ。この男を助けたい。手伝ってもらえるか?」
ウィルと名乗る青年に乞われ、少女は熱に浮かされたようにうなずいた。きっと他のどんな頼みでも断れなかっただろう。
「う、上に私の荷車が」
少女はそう言って、ウィルの反対側に回り込み、負傷した男を支えた。男の血で少女の服も汚れたが気にしない。二人はそれきり黙ったまま、少女の荷車が止めてある道まで男を運んだ。
ロバのジムリが引く荷車は、御者台に少女と、ウィルと名乗った美青年、荷台にたくさんの小麦粉の袋と左腕をなくした男を乗せて、テコムの村へと到着した。
テコムの村は、ネフロン大陸の西方、五大王国のひとつであるブリトン王国でも、辺境に位置する村だ。だが、ここから隣国エスクード王国、ターナ公国への国境が近く、行商人たちの中継ポイントにもなっている。そのため、辺境の割には賑わいを見せている村だった。
すでに日が暮れていたが、村の誰かに見られたら大騒ぎになりそうなので、少女は大ケガをしている男に小麦粉の袋と共にシートをかぶせていた。しかし、こんな雨では外に出ている者は多くなく、そのような心配は不要だったと言えただろう。ただ、時折、すれ違った何人かが、少女の隣に座っているウィルに気づいて、惚けたようにその場に立ちすくむ。隠すならこっちの方だったかも知れない。
「母さーん!」
少女は家の裏に荷車を着けると、ジムリを小屋に入れるよりも早く、裏口の扉を勢いよく開けた。そこは母の仕事場になっている。いつものように母は仕事に没頭していた。
「何だい、ルン! 帰った早々に騒がしいねえ!」
振り向きもせず、娘のルンに負けないくらいの大きな声で、母であるマーサがたしなめた。そして、そのままドスンと、練っていたパンの生地を作業台の板に叩きつける。ルンの家はパン屋を営んでいた。
「母さん、大変なのよ!」
ルンは我関せずといった様子で作業を続ける母に対し、じれったそうな声を上げた。パンを作っているときの母は、いつもこんな調子だ。しかし、今のルンはかなり焦っていた。
「失礼する」
そうこうしている間に、ルンの後ろからケガ人を抱え上げたウィルがやって来た。思わず声の主を見ずにはいられない美声に、初めてマーサは振り返る。全身黒ずくめの衣裳が雨に濡れ光るその姿と、腕に抱えられた負傷した男を見たとき、マーサはハッと声を上げた。
十年もの間、女手ひとつで子供を育ててきたマーサが、年若い男性を目の前にして、こんなに驚き、そして呆然としたような表情を見せるのは、実の娘であるルンにも記憶がなかった。初めて見る母の女らしい反応。だが、それも仕方がないだろう。それほどにウィルの容貌は世の女性たちの心を虜にさせた。
ウィルもそのような反応に慣れているのか、苦笑することも、顔をしかめることもなく、無表情で仕事場を見回した。
「休ませられる場所があるか?」
ウィルはルンに向かって尋ねた。今のマーサでは、まともに答えられそうにないと思ったのだろう。
ここへ来るまでの間に、いくらか免疫が出来たルンは、美形の吟遊詩人にうなずいた。そして、奥の方へと案内する。
「こっちへ。──母さん、ベッドを使わせてもらうわよ! ケガ人なの!」
「えっ!?」
マーサはようやく我に返ったようだった。肘から先のない男のケガを見て、驚いたように息を止める。しかし、それがウィルの甘美な魔力を弱めたようだ。すぐにいつものマーサに戻り、娘を押しのけるようにして、自分の寝室へ案内した。
「そこへ寝かしつけてやってくれるかい? ──ルン、湯を沸かして!」
寝室のランプを灯したマーサは、運び込んだウィルと娘に指示を出しながら、自分は薬や包帯を取りに行った。その間にウィルはマーサのベッドに男を寝かせ、濡れている服を脱がせていく。
男は左腕を失っている他にも、全身、傷だらけだった。古いものもあれば、新しいものもある。かなりの場数を踏んだ剣士に違いない。胸板の厚さや腕の筋肉は、鍛え上げた者のそれだった。
間もなく、薬と包帯を持ったマーサが戻ってきた。食事用にあらかじめ沸かしてあった湯で左腕の傷口を洗ってから、消毒と止血効果のある糊状の薬を塗り、清潔な布を当てる。あとは包帯を巻いた。血を見るのも苦手な女性なら、ここまでてきぱきと手当てできなかっただろう。
そんな様子を寝室の入口から二つの顔が覗いた。ルンよりも幼い男の子と女の子だ。騒がしさに何事かと思ったに違いない。
だが、新しい湯を持ってきたルンに見咎められ、
「お前たちはテーブルの方へ行っていなさい」
と、追い払われた。
二人は、一度、首を引っ込めたものの、ルンがマーサの手伝いに追われ始めると、再び顔を出して覗き込んだ。
そんな子供たちを、何気なくウィルは振り返った。
すると二人ともびっくりしたような顔になって、今度こそ本当に引っ込んでしまった。きっと、子供の目にも、見たこともないウィルの美貌は衝撃的だったに違いない。
そうこうしているうちに、男の手当てが終わった。マーサとルンの二人は、まるで格闘でもしたかのように額に汗を浮かべ、ホッと胸を撫で下ろす。男は多量の出血と長い時間、雨に打たれていたため、体がすっかり冷え切っており、何枚も毛布をかけられていた。今は落ち着いたように見える。
「すまなかった」
寝室を出てくるマーサに、ウィルは感謝を述べた。だが、マーサは皮肉めいた表情を浮かべてみせる。
「礼はちゃんと助かったときに言っておくれ。こんなところじゃ、応急処置くらいしか出来なかったよ。誰かに聖魔法<ホーリー・マジック>をかけてもらうのが一番なんだろうけど、あいにく、隣のモンタルンの村まで行かないと、魔法を使える司祭がいないからね。とにかく、ひどいケガだよ。これで大丈夫だとは思えないね」
遠慮なくウィルに言う姿は、もう、いつものマーサだった。そして、寝室の方を振り返る。
「一体全体、どうしたって言うんだい?」
マーサはウィルに事情を尋ねた。
「ここへ来る途中、河原で倒れていたのを見つけた。他にも数名、王国の騎士の死体が転がっていた」
「騎士?」
マーサは思わず尋ね返していた。こんな辺境まで騎士がやって来ることなど珍しい。
ウィルはうなずいた。
「もしかすると、あの男と斬り合いになったのかもしれん」
「どうして?」
「何か追われる理由があったか。とりあえず事情は、直接、本人にでも訊いてみないと分からないが」
「それって、悪人ってこと?」
濡れた服を着替えて戻ってきたルンが、二人の会話に割り込んできた。せっかく助けた男が悪人ではやりきれない思いがしたのだろう、その表情は悲しげだ。
そんなルンを慰めたのは、母親のマーサだった。
「悪人だろうと善人だろうと、お前は人の命を救ってやったんだ。そのことはちっとも恥じることじゃない。むしろ胸を張るんだ。いいね?」
マーサにそう言われ、ルンはコクンとうなずいた。
「それよりも、左腕の傷が気になる。あれは剣などで切断されたものではない。只事ではないな」
ウィルは考え込むように呟いた。それはルンも感じていたことである。だが、それが何を指し示すのか、そこまでは考えが及ばなかった。
そんな二人の背中を押すように、マーサは食卓の方へと促した。
「考え事は後々! とにかく腹が減ったよ。──アンタも食べておいきよ。すぐ用意するからさ」
そう言って、マーサは台所の方へ先に行った。ルンがまだ濡れたままであるウィルのマントの裾を引っ張る。
「ウィル、ぜひともそうして! 服も乾かさなきゃ」
「いや、オレは……」
ウィルは断ろうとしたが、それよりも強引に、ルンは食卓へと招いた。すでにテーブルにはルンの弟妹たちが夕食を心待ちにしている。ウィルがそこへ姿を現すと、先程と同じように身体が固まったようになり、美麗の吟遊詩人を凝視した。
「紹介するわね。こっちが弟のクリオ。そして、妹のエイミー。十一歳と九歳よ。──こちらはウィルさん。ほら、アンタたち、ご挨拶は?」
ルンは弟たちに促したが、いずれも固まったままだった。すっかり緊張してしまっている。これにはルンも苦笑するしかなかった。
「ほらほら、いつまで突っ立っているんだい?」
マーサが籠いっぱいに盛ったパンを運んできた。焼きたてらしく、食欲をそそる香ばしい匂いがする。空腹にはたまらない。
「ウチはパン屋なの。だから、パンだけはお腹いっぱい食べられるのよ」
「パンだけで悪かったわねえ」
ルンの言葉に、マーサはトゲのある口調で言った。テーブルの真ん中にパンが置かれる。
「元々は父さんが作っていたんだけど、死んでからは母さんの仕事になってね。本当は、私のお兄ちゃんが跡を継ぐはずだったのに、二年前、お兄ちゃんはもっとみんなに楽をさせてやるって、突然、ダクダバッドとガリの戦争へ行ってしまったわ。傭兵になって稼ぐんだって」
ブリトン王国の南方と接しているダクダバッド公国とガリ公国の争いは、単なる小国の小競り合いに留まらなかった。先にガリ公国へ攻め入ったのはダクダバッド公国である。政治的な理由と言うよりも、一部、軍部の暴走が招いた戦争だったらしい。だが、戦いが拡大していけば、どちらに非があるかなど関係なかった。あるのは、どちらが優勢であり、どちらに味方すれば得であるか、だ。
五大王国として名を馳せているブリトン王国だが、現国王ダラス二世が重い病に伏せて以来、国政に乱れが生じていた。その最たるものは、国内第二の都市セルモアの独立自治問題であろう。
セルモアは古来よりミスリル銀の産地と知られ、また流通の要であった。その経済力と天然の要害を盾に、セルモアの領主は独立権の獲得を主張し始めたのだ。もちろん、王国にとって、それは許されるものではない。だが、国王の代行として権勢を振るう無能な宰相──それこそ自分の地位と財産を守ることしか頭にない男──が、その難題を処理できるはずもなく、半ば暗黙の了解的に独立自治が行われてしまっていた。
本来であれば、ダラス二世にとって唯一の血筋であるカルルマン王子が、国王の代理、または跡継ぎとして立つのが筋であっただろう。カルルマンは、すでに二十七歳。《鮮血の王子》という異名を持つように、主に戦において名を知らしめていたが、決して内政にも疎いわけではなく、その才覚は昔から認められていた。だが、父王ダラス二世との仲はかねてより険悪で、その王位継承も王の死が認められなければ適わぬとされていたため、余計に混沌とした状況が続いていたのである。
よって、王国としては大切な収入源であるセルモアが歯向かうとなると、他の部分での補填が必要であった。そのときに起こったのだが、ダクダバッドとガリの戦争である。ブリトン王国の宰相はダクダバッドへの援助を決め、補給物資の運搬や、ときには援軍の派遣なども行い、その後の見返りを求めた。
予想通り、ダクダバッドはガリを滅ぼすことに成功したが、その直後、またしても軍部による内乱が勃発し、事態は未だ混迷を極めたままだ。もちろん、ブリトン王国への見返りなどは皆無である。国益を得るどころか、損なってしまった宰相の執政は、民衆たちの怒りを買い、カルルマン王子台頭を望む声も、日に日に高まっているという。
先行き不安な国のやり方に、民たちの心は暗く沈んでいたが、少なくともここに、戦争が終わってホッとしている少女が一人いた。
「でも、その戦争もこの前、終わったって言うし、きっともうすぐ、お兄ちゃんが帰ってくるはず。そうなれば、昔みたいに家族五人で暮らせるわ」
ウィルに話しながら、ルンはその日を夢見た。すると、クリオとエイミーも騒ぎ出す。
「ホント? お兄ちゃん、帰ってくる?」
「いつ帰ってくるの? 明日? 明後日?」
二人の弟妹も、その兄が好きなのだろう。イスから立ち上がるようにして、姉に尋ねた。
だが、それに反して、母マーサの顔は不機嫌だ。
「帰ってくるとは限らないよ。勝手に戦争なんかに行っちまって。しかも、よその国の戦争だよ。まったく、命知らずのバカなんだから。ああいうバカは真っ先に死んじまうのさ」
息子が出て行くとき、かなり反対したに違いない。マーサの口調には悔しさと憤りが含まれていた。
そんな母に、ルンは反論する。
「生きてるもん! そして、絶対に帰ってくる! 約束したもの! お兄ちゃん、絶対に戻ってくるって!」
「そんな約束、当てになるかい」
「大丈夫だよ! どうして母さん、お兄ちゃんに対して、そんなに冷たいの? お兄ちゃんのこと、心配じゃないの?」
半ベソになりながら、ルンは訴えた。マーサは押し黙ると、興奮を静めるように努めながら、自分の席につく。
「もういいから。スープが冷めてしまうわ。早く食べましょう。──お客人、アンタも席にお着きなさいな。もう夜だ。どこかへ急ぐわけでもないんだろ?」
マーサに促され、ウィルは濡れたマントの留め金に手をかけつつ、暖炉の方へ近づいた。ルンも鼻をすすって、食卓へ着こうとする。
家のドアが激しくノックされたのは、そのときだった。
家族が一様に顔を見合わせた。
「誰だろうねえ、今頃になって」
嘆息を漏らしつつ、マーサが一度は座った席を立って、玄関に出た。ルンも気になって、誰が来たのかと覗き込む。
マーサが玄関のドアを開けると、そこに立っていたのはテコムの村長だった。禿頭にしたたる雨と汗を拭いながら、何やら慌てた様子だ。息も上がっている。
村長は大きく息をつくと、やっと言葉を切り出した。
「マーサさん。すまんが、みんなで広場へ集まってくれないか? 子供たちも、みんな一緒に」
思いもかけない話に、マーサは怪訝な顔をした。
「一体、どういうことです、村長?」
「軍隊じゃよ。軍隊がこの村にやって来たんじゃ。村の者全員を広場に集めるよう言っている」
「軍隊?」
マーサは後ろのルンを振り返った。ルンは胸騒ぎがして、息を詰める。
そして、村長は言った。
「どうやら、この村にとんでもない罪人が逃げ込んだみたいなんじゃ!」
夜にも関わらず、テコムの中心にある広場には村人全員が集められ、一体これから何が起きるのかと、一同、騒然としていた。皆、それぞれの家でくつろいでいたところを急に呼び出されたのだから無理もない。しかも、その彼らの前には、物々しい武装をした騎士団四十名ほどが集結し、睨みを利かせている。不安を抱かずにはいられなかった。
幸いだったのは、先刻までの雨が上がったことだ。辺りをひんやりとした空気が包んでいる。
村人たちの前に一人の男が進み出た。軍馬に跨ったまま、意匠の凝らされた甲冑を身につけ、おびえる村人たちを睥睨する。その眼光は射抜くように鋭かった。
「これで全員か?」
軍馬の男は、村長に尋ねた。村長は、一度、背後の村人たちを見回してから、コクコクとうなずく。すっかり萎縮していた。
「よし。──村人ども、よく聞け! 私はダクダバッド方面軍司令ヘルムカ将軍だ! 私は今、ある重要犯罪者を追っている! 国家の機密を盗み出し、他国へ持ち込もうとしている男だ! 我々は王都より追跡してきたが、ヤツはこの近くで消息を絶った! しかも、追跡していた私の部下を四人も殺してな! 先刻、この村の近くの沢で死体を発見した! おそらくは、この近くに潜伏しているものと思われる! そこで諸君の協力を得て、その罪人を捕らえたい! もし、怪しい人物に心当たりがあるなら、今すぐ、報告してくれたまえ!」
ヘルムカは村人たちに対して、高圧的に言った。決して、協力などという生やさしいものではない。怪しい者を知っているなら、すぐに突き出せと言っているのだ。
ダクダバッド方面軍と言えば、ブリトン王国の中でも実戦を重ねてきた猛者たちである。元々、ダクダバッドとガリの戦争に、ブリトンから援軍として送られた実戦部隊で、約二年もの間、ダクダバッドの友軍として戦った。その輝かしい戦歴は国中に知れ渡っており、ブリトン王国ではカルルマン王子の精鋭騎士団と並んで、最強と噂されている。
「恐れながら──」
村長がおどおどしながら、ヘルムカに口を開いた。こんな役職でなければ、他の者の陰に隠れていたいところだろうがそうもいかない。姿勢を低くし、および腰で見上げた。
「ここに逃げ込んだという、何か確かな証拠があるのでしょうか? ひょっとすると、もっと遠くへ逃げているかも知れません」
村長の考えに、ヘルムカはニヤリとした。
「いや、ヤツはそう遠くへは行けないはずだ。なぜなら、ヤツはかなりの深手を負っているからな。──ボギー!」
後ろを振り向いたヘルムカは、誰かを呼ぶかのように名前を叫んだ。すると騎馬隊が左右に道を開ける。その間を割るようにしてやって来るものを見て、村人たちから恐怖の悲鳴が上がった。
「グォオオオオオオッ!」
身の毛もよだつ咆哮が上がった。ヘルムカに呼ばれたのは、彼の部下などではない。軍馬の倍はゆうにある、巨大な四肢を持った黒い犬であった。その凶暴性は明らか。眼は狂ったように血走り、鋭い牙が覗いた口からは大量のヨダレがしたたっている。首にはトゲだらけの首輪がはめられていた。
「キャアアアアアッ!」
怪物のような犬を前にして、村人たちがその場にとどまれるはずがなかった。皆、一斉に逃げ出そうとする。だが、それを素早くヘルムカの部下たちが取り囲み、逃げられないようにした。
「静かにしろ! 逃げなければ、お前たちの安全は保障する! ただし、そうでない者は、このボギーが襲いかかると肝に銘じておけ!」
ヘルムカの言葉に、村人たちは恐れおののいた。自然に身を寄せ合って震える。その中にはルンたち母子もいた。
「お母さん!」
「大丈夫! 母ちゃんがついてるよ!」
幼いクリオとエイミーは、すっかりおびえ、泣きじゃくっていた。マーサがきつく抱きしめる。ルンも泣きはしなかったが、母の腕にすがりつくようにしていた。
騒ぎが収まったのを見計らって、ヘルムカは続けた。
「諸君に紹介しよう。これが私の愛犬、ボギーだ。もちろん、普通の犬ではない。ヘルハウンドというモンスターだ。私はこいつが赤ん坊の頃から育ててな。今はこうして良くなつき、一緒にダクダバッドの戦場へも行ったことがある。私の信頼できる相棒だ」
そう言って、ヘルムカはすり寄ってくるヘルハウンドのボギーを撫でた。確かに、ヘルムカには従順らしい。だからといって、村人たちがすぐさま可愛いペットだなどと信じ込めるわけがなかった。
「今、追っている罪人もボギーに追わせたのだが、この雨でヤツの痕跡が流されてしまったらしい。その代わり、ボギーはヤツからもぎ取った左腕をくわえて帰ってきた。つまり、ヤツには左腕がないというわけだ。どうだ、そのような人物は訪れなかったか?」
ヘルムカは村人の一人一人に疑わしい視線を向けながら尋ねた。
身をすくませたのは、ルンたち母子である。左腕を失った男。ウィルが運んできた、あの男に違いなかった。
真実を話すべきか、ルンは迷った。広場に集まったのはルンたち家族四人だけで、家にはウィルと負傷している男が残っている。もし、手当てをした男が、この陰険そうな将軍の言うような罪人であれば、素直に引き渡した方がいいだろう。
ルンは母マーサの顔を見た。だが、マーサの目は、言うな、と告げている。どうして、と唇の動きだけでルンは尋ねた。返事の代わりに、ルンの背中に回されたマーサの手が、ギュッと握りしめられる。
誰も告発しない様子に、ヘルムカ将軍は再び邪な笑みを浮かべた。何かを企んでいる。村人の誰もが確信し、イヤな予感がした。
「まあ、いい。一軒一軒の家を調べさせてもらおう。そんなに手間取らないだろうからな。その前に──村長!」
「は、はい!」
首をすくめるようにして、村長は馬上のヘルムカを見上げた。
「ボギーのために食料を用意してもらおうか」
「しょ、食料ですと?」
村長は気の毒なくらい顔が真っ青になっていた。ヘルムカはニヤリとする。
「そうだ。なーに、生きた仔羊の一頭もいれば足りるさ」
理不尽とも思える要求に、村長を初め、村人たちは総毛立った。ヘルムカの隣には、ヘルハウンドのボギーが低い唸り声を漏らしている。要求が叶えられなければ、村人の誰かを餌食にすると言わんばかりに。
「……ヨゼフ、すまんが、お前のところに年老いた山羊が一頭おったな」
村長は村人の一人に声をかけた。そのヨゼフという村人の目が見開かれる。
「そ、村長……」
「頼む。みんなのためと思って、連れてきてくれ。あとで村のみんなで償いはさせてもらうから」
村長の頼みに、ヨゼフは渋々ながら了承した。いや、この状況で断ることは出来ないだろう。二人の騎士に見張られながら、一度、家に戻り、飼っていた一頭の白い山羊を引っ張ってくる。かなり年老いた山羊らしく、歩くのもやっとという感じだった。
「随分とくたびれた山羊だな。まあ、いい。お前は下がれ。でないと、お前もボギーの餌になってしまうぞ」
そう言って、ヘルムカは笑った。
ヨゼフはがっくりと肩を落としながら、ボギーの前に山羊を置いたまま、村人たちの中に戻った。そんなヨゼフを村長や他の村人が慰める。
ボギーは必死に食欲に耐えるかのようにジッとしながら、主人であるヘルムカの合図を待っていた。置いていかれた山羊は逃げようともしない。まるで自分のさだめを受け入れたかのように。ただ一度、村人たちの中で見守っている飼い主のヨゼフの方を振り返って、一声、悲しげに啼いた。
「いいぞ、ボギー」
ヘルムカの合図と同時に、ボギーは生け贄の山羊にかじりついた。その勢いと猛々しさ。バキッという骨が噛み砕かれる音が広場に響いた。女子供ばかりでなく、多くの村人が目を背ける。肉を咀嚼する、クチャクチャというおぞましい音。広場の地面に染み広がった血。その生臭さが村人たちの気分を悪くさせた。
ボギーの食事は、程なくして終わった。その一部始終を楽しむように見ていたヘルムカ。反対に村人たちは、魔獣ヘルハウンドの恐ろしさを見せつけられ、すっかり声を失ってしまった。
「さて、そろそろ怪しい男について思い出して来たのではないかな? それとも、このボギーに一軒一軒回らせて捜させようか?」
ヘルムカは恐怖にすくむ村人たちを、蛇のような眼でなめ回すようにしながら脅しをかけた。
村人たちは互いの顔を見合わせた。ヘルムカが脅しをかけているのは明白である。ボギーの獰猛さを見せつけ、その恐怖を刻み込んだのだ。逆らえば、今の年老いた山羊と同じ末路を辿ることになる。
一番、緊張の面持ちで固唾を呑んでいたのはルンだった。ヘルムカたちの追っている人物が、ルンとウィルが助けた男であることは間違いない。下手に隠しては、ルンたちにも罪が及ぶだろう。だが、母マーサは言うなという。いくら大ケガを負っているとはいえ、どうして悪人かも知れない男をかばわねばならないのか。
ルンは自分の心臓の鼓動が周りの者たちに聞こえるのではないかと思うほど緊張しながら、村人たちの沈黙をひたすらに祈った。だが──
「私、見ました!」
一人の少女が手を挙げた。ルンも知っている宿屋の娘だ。確か、もうすぐ結婚するという話が持ち上がっていたはずであった。
その声にルンの身体はビクッと反応した。恐ろしくて、そちらの方を振り向けない。そんな娘の肩に、マーサは後ろから手をかけ、落ち着くよう促した。
「見ただと?」
ヘルムカは馬上から鋭い視線を宿屋の娘に向けた。ヘルハウンドのボギーもそれにならう。黒い魔犬の動きに、娘は一瞬、すくんだような様子を見せたが、もう後戻りは出来ないと思ったのか、思い切って口を開いた。
「み、見ました! 怪しい男の人を! この村では見たことのない人でした!」
「ほう、どこで?」
「ルンが荷車に乗せていて……。マントで腕は見えなかったけど、私、ひと目でゾクッとしたんです。何だか、怖い感じがしました」
娘が言っているのは、ウィルのことに違いなかった。だが、その荷台には、あの隻腕の男がいたことも確かだ。村人たちの視線が一斉にルンに集まる。その様子を見て、ヘルムカは易々とルンを特定できた。
「お前か、ルンというのは?」
今にもヘルハウンドをけしかけられそうで、ルンは青ざめ、唇を震わせた。言葉が出てこない。
そんなルンをかばうように、マーサが後ろから抱き寄せた。
「あの人は、ただの旅人だよ! 大雨で難儀していたから、娘が荷車に乗せてきてやっただけじゃないか! 妙な言いがかりはよしてもらいたいね!」
マーサは村人たちの疑惑の視線にもひるむことなく、威勢良く言い放った。普段から言いたいことをズバズバ言うマーサの性格は、村人の誰もが知るところである。彼女にまくし立てられると、口で敵う者はいない。
だが、村人たちを説得できても、一度、疑いの目を向けたヘルムカまで納得させることは出来なかった。冷徹な視線が突き刺さる。
「その旅人とやらが、捜している男であるか否か、それはこちらで確認させてもらう。女、家まで案内してもらおうか?」
ヘルムカの言葉に、さしものマーサも声を途切れさせた。家を捜索されれば、匿っている男は簡単に見つかってしまうだろう。そうなれば、すべては終わりだ。
ルンは泣きたくなった。こんなときに兄がいてくれれば……。
そのときだった。馬のいななきが夜気に響き、兵士たちの間から悲鳴が上がる。皆の注目がそちらに逸れた。
見れば、包帯姿の男が軍馬を操り、後ろ脚で高く立ち上がったところだった。周りの兵士たちはそれにあわてふためき、避けるように包帯の男から離れる。
その姿を見て、ルンもマーサも驚いた。間違いない。それは彼女たちが手当てしたはずの男だった。その証拠にボギーに噛み砕かれたという左腕はない。
いつの間にルンの家を抜け出し、軍馬を奪い取ったのか。いや、それよりもあの大ケガで、ここまで動いていること自体、驚きであった。
男は兵士たちを遠ざけることに成功すると、馬首を巡らせ、テコムの村の出口へと逃走を始めた。一瞬の出来事に、兵士たちの対応が遅れる。
「や、ヤツです!」
「何をやっておるか! 早く追え! 絶対に逃がすな!」
ヘルムカは混乱する部下たちに命令を下した。そこはさすが、猛者と呼ばれたダクダバッド方面軍の兵たちである。すぐに隊列を組み直すと、逃げた男の追跡を開始した。
「ボギー、お前も行け!」
忠実なヘルハウンドにも指示が出された。ボギーは弾けるように疾走を始めると、軍馬にも勝りそうなスピードで逃亡者を追う。きっと追いつかれたら、ただではすまないだろう。
地鳴りのような音を立てながら去っていく軍隊を、村人たちは呆然と見送った。それを見て、一番、ホッとしたのはルンに違いなかった。男が村から出て行ってくれたお陰で、ルンたち母子が罪に問われることは避けられたのだから。
だが、安心するのはまだ早かった。
「悪いが、ちょっと協力してもらおうか?」
一人、追跡に加わらなかったヘルムカは、邪悪な笑みを浮かべながら、ルンの方へと近づいてきた。
豪雨をもたらした雨雲は急速にテコムの村の上空から去っていき、今では煌々とした月が夜の追跡劇を照らし出していた。
右腕一本ながら、見事な手綱さばきを見せる男。まさに人馬一体といえた。それに対し、追いかける騎士たちは満足なスピードを上げることが出来ない。細い沢沿いの道である。一歩間違えると斜面から河原へ転がり落ちてしまう危険をはらんでいた。
双方の距離が確実に広がり始め、まんまと男が逃げおおせてしまうのではないかと思われた刹那、追跡する馬群の後方から、大きな黒い影が追いついてきた。ヘルムカが飼い慣らしているヘルハウンドのボギーだ。間隔の短い独特の荒い息づかいと、力強く土を蹴る爪の音が迫り、追う立場であるはずの人馬に緊張が走る。
ボギーは目の前の馬群が邪魔と判断したらしく、右手に切り立つ崖の斜面に進路を取り、斜めの態勢で味方の騎士団を追い抜いた。その眼に映るは手負いの獲物。一度は逃がした標的だ。
男は馬を走らせながら、後ろを振り返った。そして、ボギーの接近を知る。このままでは追いつかれてしまう。男はより体勢を低くし、馬の腹を蹴った。
男の乗る馬はさらにスピードを上げたが、それ以上にボギーの四肢の回転数は増した。恐るべきは魔犬ヘルハウンドの脚力である。獲物は目前だった。
「グワッ!」
唸り声と共に、ボギーは逃走する男めがけて跳躍した。その気配を察知する男。一瞬、男が上体をひねった方が早かった。
男は馬上から落ちるようにして、ボギーの攻撃を避けた。ぬかるんだ地面にダイビングし、そのままの勢いで体が三回転する。その上をボギーが飛び越えていった。山羊をも一撃で仕留めた鋭い牙が、空馬の首を捉える。それが疾走中だったからたまらない。二頭はもつれ合うようにして、沢下へと転落していった。
馬から飛び降りた男は、うまく受け身を取ったようで、すぐさま泥の中から起き上がった。だが、一難去って、また一難。ヘルムカの部下たちが追いついた。
先頭の騎士は男の退路を断つように先回りし、馬上で剣を抜いた。後続はそれにならい、逃亡者を取り囲むようにする。
隻腕の男は、右腕に剣を持ちながら活路を見いだそうと、せわしく目を動かした。だが、細い一本道で取り囲まれては逃げ場などあろうはずがない。その間に、四人の騎士が馬込みを縫うように現れ、さらに包囲の輪をせばめた。
「観念しろ。もう逃げられないぞ。無駄な抵抗はよすんだ」
馬上にいる一人が降服を促した。包囲している騎士たちは四十名以上。確かに、抵抗は愚かだといえた。
それでも男はあきらめという言葉を知らぬようだった。一瞬、剣を持った腕がだらりと下ろされるが、騎士たちがその動きに気を取られ、どうやら投降するようだと決めつけた刹那、男はおもむろに包囲の右端へと走った。
不意を打たれた騎士は、反応が遅れた。剣を構えたものの、一撃で跳ね飛ばされる。たった片腕の男に。
「逃がすな!」
怒号のような声がこだました。逃げようとする男へ、ヘルムカの部下たちが殺到する。
男は斬りかかってきた若い騎士の攻撃を剣で受けた。片腕だけで押し返す。だが、すぐに左から別の者が襲いかかってきた。腕のない、がら空きの左──すなわち、男の死角へ。
あわやと思われた瞬間、その場にいた者たちは、ありえない光景を目撃した。ボギーに噛み砕かれたはずの左腕が、包帯を突き破って現れたのだ。
「な、何ぃ!?」
「ディロ!」
短い呪文。それが白魔法<サモン・エレメンタル>の攻撃呪文であると、何人の者たちが気づいたであろうか。
鮮烈な光が、一瞬、夜の闇を照らした。同時に、男の左側から襲いかかった騎士が後方へと吹き飛ばされ、さらにその後ろにいた仲間たちを巻き添えにする。
思いもかけない反撃に、男を包囲していた騎士たちの動きが止まった。
「どうやら、ここまでか」
男の呟き。
騎士たちが驚嘆の眼差しで見守る中、男は突然、剣を捨てた。そして、上半身を覆っていた包帯をするりとほどく。どのような技によるものか、包帯は自ら解き放たれたかのように舞い、騎士たちの目をくらませた。
──と。
まるで幻を見ているようだった。白い包帯が夜空へ吸い込まれるように消えたとき、誰もがそう思ったはずだ。
包囲網の中心にいた男。それは、すでに彼らが追っていた隻腕の男ではなかった。黒いマントを羽織った異邦の旅人。背筋をぞくりとさせる氷の美貌。
吟遊詩人ウィル。
その深き双眸に射抜かれたとき、騎士たちは、半歩、退いた。それを責めることは出来ないだろう。ウィルがまとっているのは美しさばかりではない。死への予兆。彼は黒衣の魔人であった。
魔人なればこそ、魔法で隻腕の男に変身し、追跡者たちを一手に引き受けたのである。もし、あのまま逃亡者の捜索が始まっていれば、ルンたち母子は罪を咎められていたに違いない。元々、沢沿いに倒れていた男を助けようとしていたのはウィルだ。ルンは、それを手助けしたにすぎない。
ウィルは、先程、降伏を促してきた馬上の男へ首を巡らせた。その視線に男はひるむ。
ウィルは静かに尋ねた。
「お前たちが追っている男とやらは、一体、何者で、何をしたと言うのだ?」
その目から顔を背けることはできなかった。自由のままならぬ口を懸命に動かす。
「も、元々は我々の部隊にいた者だ。ヘルムカ将軍を補佐し、ガリとの戦闘でも目覚ましい働きを見せていた。だが、その戦争も終わり、彼は騎士団から抜ける決意をしたのだ。我々は年齢的なものを考えて、てっきり引退するのだろうと思っていた。だが、そんなとき、彼が重要な国家機密を持って、ダクダバッドへの亡命を企てているという情報が入ったのだ。いくらブリトン王国の友好国とは言え、そんなことが許されるわけがない。それに今のダクダバッドは政情不安で、今後、我が国との友好がどこまで保たれるか。噂では、クーデターの中心人物コールギン将軍は戦争を好み、さらなる領土拡大を目論んでいるらしい。そんな国へ、重要機密を渡せるわけがなかろう!」
そう話す騎士は不快さを隠そうともしなかった。どうやら人並み以上の愛国心を持ち合わせているようだ。本気でこの国の将来を考え、信念を持って行動していることが分かる。
だが、それを聞いても、ウィルには疑問が浮かんだ。
「ダクダバッドへの亡命と言っていたが、こことは反対の国境ではないか? なぜ、そんな男がわざわざ遠回りのようなマネをする? それに、何を証拠に、その男が機密を盗み出して亡命しようとしていると言うのだ?」
ウィルの問いに対し、馬上の騎士は即座に答えられなかった。言われてみれば不自然だと気がついたのだろう。他の騎士たちも互いの顔を見合わせた。信じていたものへの疑念。心の中の小さなさざ波は、次第に大きな不安へと膨らんでいった。
だが、それを打ち消すように騎士の一人は言う。
「ヘルムカ将軍がそうおっしゃっているのだ! 閣下のお言葉に間違いはない!」
「将軍が?」
ウィルは小さく呟いた。そして、ある可能性が頭に浮かぶ。
「何をしておるか!」
重苦しい雰囲気を破ったのは、大きな一喝であった。馬群が二つに割れ、その中央からヘルムカ将軍が現れる。部下たちは一斉に敬礼をした。
「ヤツを捕まえたのか?」
ヘルムカは輪の中心に目を向けたが、そこに違う人物を認めて、顔を強張らせた。
「な、何者だ、貴様!?」
「ウィル。ただの吟遊詩人だ」
平然と名乗るウィルに、ヘルムカは眉を痙攣させるように動かした。そして、部下たちを見回す。
「ヤツはどうしたんだ?」
部下たちが答えられず困っていると、
「あれはオレが魔法で姿を変えたものだ」
と、ウィル自ら暴露した。もちろん、それを聞いたヘルムカが黙っていられるはずがない。
「貴様が!? 姿を変えたということは、直接、ヤツを知っているということだな!? ヤツの仲間か!? どこへ逃がした!?」
矢継ぎ早に詰問するヘルムカに対し、ウィルはただ冷めた眼差しを向けるだけだった。そして、反攻の口火を切る。
「お前が追っている男が機密を盗んだという証拠、どこにあるか教えてもらおうか」
ウィルの質問に、ヘルムカの表情はより険しくなった。
「そんなものは当人を捕らえれば分かること。第一、吟遊詩人風情などに教える必要はない!」
「では言おう。この追跡行は自分への疑いを逸らすフェイクではないか? うまい具合に部隊を抜ける男に罪をかぶせ、追跡という名目で亡き者にする。大体、ヘルハウンドなどという魔獣を差し向けたこと自体、容疑者の生死を問わないやり方だ。機密を盗んだのであれば、それを取り戻すことも重要なはず。だが、お前のやり口は、すべてをうやむやにしてしまおうという意図が見える」
「貴様、言わせておけば……」
「ダクダバッド方面軍の司令ともなれば、向こうとのパイプも強くなるだろう。今のブリトン王国は、事実上、空位状態で、行く末は不透明だ。一方、現在のダクダバッドは混乱しているものの、やがて強力な支配者が誕生しそうな気配。体制も一新されるだろう。お前が手みやげを持って、取り入ろうという考えを持っても不思議ではない」
「ボギー!」
怒りに身を震わせたヘルムカは、魔犬の名を呼んだ。すると、凄まじい唸り声を上げて、黒い巨体が沢下から飛び上がってくる。その恐ろしい光景には、普段からボギーを見ている騎士たちでさえも震え上がった。
「その男を殺せ!」
空中でボギーの眼がウィルを捉えた。新しい獲物。先程の軍馬を屠った牙が、まだ赤い血をしたたらせている。ガッと口が開かれ、美しき吟遊詩人に襲いかかった。
だが、ウィルは少しも慌てなかった。まるで夜空を眺めるかのように見上げ、静かに呪文の詠唱を口ずさむ。
「ヴィド・ブライム」
ボギーに向かって突き出された右手に、小さな炎が点った。それは渦を巻くように回転し、次第に大きな炎へと膨れ上がる。ファイヤー・ボール。瞬く間に両抱えほどの大きさになると、矢のごとき速さで発射された。
ドーン!
避けることもままならず、ボギーはまともに火球を喰らった。その勢いのまま、再び沢へと落ちていく。
長く尾を引いた炎は、夜空に美しい軌跡を描き、一瞬、川面を赤く照らしてから消滅した。その華麗なる魔法を見せた吟遊詩人は、ゆっくりとヘルムカ将軍の方へと振り向く。
ああ、ウィル──美しき魔人。彼の前には、何者も無力なのかもしれなかった。
だが、それでも抗おうとする者はいる。ヘルムカもその一人であった。
「う、動くな! こちらには人質がいるのだぞ!」
ヘルムカの合図で、さらに後方から軍馬に乗った騎士が進み出た。その懐に抱かれるようにして騎乗しているのはルンだ。その顔色は、夜目にもすっかり蒼白だと分かった。
「う、ウィル……」
追っていた男がルンに助けられたと目星をつけたヘルムカは、万が一の場合に備え、卑劣にも無抵抗な少女を人質に取ったのであった。言うまでもなく、命の恩人を見殺しには出来ないであろうという考えからだ。その相手こそ違えども、この策はウィルの動きを止めることに成功した。
ヘルムカは抵抗を示さなくなったウィルを見て、愉快そうに笑った。やっと余裕を取り戻す。だが、彼の部下たちは、そんな上官の姿を見て、少なからず失望した。一般の、それもまだあどけなさの残る少女を人質にするなど、騎士道にあるまじき行為だ。
「大人しくしていろよ。──おい、何をやっている! 早く縛り上げないか!」
動かない部下たちに対し、ヘルムカは荒げた声で命じた。だが、彼に従う者はいない。むしろ、反抗的な目が集中した。
「お前たち──!」
ヘルムカの怒りが爆発する寸前だった。何かが急速にこちらへ近づいてくる音が聞こえた。
「ガアアアアアッ!」
魔獣の咆哮。再び沢下から身を躍らせたのは、ウィルのファイヤー・ボールで吹き飛ばされたはずのヘルハウンド、ボギーであった。実際、頭から前肢にかけて覆っていた黒毛は燃え尽き、醜く焼けただれた皮膚が露出している。だが、川に転落したお陰で、思ったよりもダメージを受けなかったのか、それとも持ち前の生命力が強靱であったのか。こうして再び舞い戻ってきた。すべては自分に傷を負わせたウィルに復讐するため。
「ウィル、危ない!」
人質であることも忘れて、ルンは叫んだ。ボギーはさらなる凶暴性を剥き出しにして、美しき吟遊詩人に飛びかかる。
もちろん、それに気づかぬウィルではなかった。復活した魔犬に怜悧な眼を向ける。
頭からかぶりつこうとするボギーを、ウィルはしゃがむような格好で回避した。だが、ボギーも巨体ながら、その反応と動きは素早い。一撃目が空振りに終わったボギーは、着地と同時に身をひねり、間断のない二撃目へと移る。普通の者であれば、この二段攻撃でおしまいだ。だが──
黒い美影身は軽やかに宙を跳んでいた。ボギーの二撃目など、この吟遊詩人はとっくに見抜いていたのである。その場にいた者たちは、皆、見とれたようにウィルの跳躍を追いかけた。
驚異的な跳躍力で崖の頂上に降り立ったのと、心地よい旋律が聞こえてきたのは同時だった。
いつの間に手にしたのか、ウィルの腕に抱かれているのは伝説の《銀の竪琴》だった。女神が竪琴を奏でているような繊細で優美な装飾がほどこされ、その調べは聴く者の魂を虜にする。それは、この美麗の吟遊詩人の手にこそふさわしいものだった。青白い月光が妖しく奏者を輝かせる。
「クッ! 愚弄しおって!」
感嘆の吐息を漏らさなかったのはヘルムカだけであった。命のやりとりをしている最中に、突然、竪琴の演奏を始めたウィルに歯ぎしりする。その美、その余裕、その完璧さ。すべてがヘルムカの気にそぐわなかった。
「ボギー、ヤツを殺せ!」
ヘルムカは魔犬に命令した。ボギーもまた飼い主と同じく、ウィルに憎悪を向けている。低い唸り声を上げ、体勢を低くして構えるボギー。四肢に力が蓄積され、それを一気に開放した。
猛烈なスピードで、ボギーは崖の斜面を駆け上がった。優雅に演奏を続けるウィルへとまっしぐら。だが、それを目の当たりにしても、ウィルはその場を動かない。
ボギーが今度こそウィルを噛み殺そうとした刹那、誰もが我が目を疑った。ウィルの姿が忽然と消えたのである。これまでと同じように、ボギーをかわしたのではない。まるで蜃気楼のように消えたのだ。その証拠に、襲いかかったボギーですら、ウィルの姿を見失っていた。
そして、そのとき誰が気づいたであろう。ちょうどウィルの演奏が途絶えたと。
「うわぁ!」
突然、背後で悲鳴が聞こえ、ヘルムカは振り返った。その目が驚愕に見開かれる。
「ば、バカな……」
ルンを人質に取っていたはずの兵が馬上から落とされ、その代わりに跨っていたのは黒衣の吟遊詩人ウィルであった。神出鬼没。たった今、崖の上にいたのではなかったか。
「ウィル……」
ウィルに抱きすくめられるような格好になったルンは、陶然とした表情を後ろに向け、夢見心地で名を呟いた。ウィルは微笑みこそ見せないものの、優しい目をルンに投げかける。
「痛い目に遭わされなかったか?」
ルンは頬を赤らめながら、こくんとうなずいた。ウィルの顔が息もかかりそうなくらい、すぐ近くにあるのだ。もう言葉にならない。
「ど、どうして!?」
ヘルムカは問わずにいられなかった。目の前の美しき青年が幽霊か物の怪のように思える。
ウィルは背後から《銀の竪琴》をルンに抱かせるようにし、静かに言った。
「お前たちはオレの曲を聴いた。“幻影<ミラージュ>”をな」
ウィルの演奏を聴いたときから、ヘルムカたちは幻を見せられていたのである。それこそ、《銀の竪琴》ならではの演奏──“魔奏曲”であった。
「き、貴様……い、一体、何者だ?」
ヘルムカは恐怖におののきながら口にした。急速に体温が下がっていくような感覚を覚える。
ウィルは答えた。
「ただの吟遊詩人だ」
と。
「ガルルルルル、グァアアアアアッ!」
主が愕然としても、ボギーの闘争本能は消えていなかった。斜面を駆け降りて、ウィルへと牙を向ける。相手が誰であろうと、魔犬の眼に映るものはすべて獲物だ。
「ここで待っていろ」
ウィルは、まるで愛でもささやくかのようにルンに耳打ちし、《銀の竪琴》を託した。そして、襲いかかるヘルハウンドへと跳躍する。黒いマントが翼のように広がった。
だが、先程のファイヤー・ボールでさえも持ちこたえたヘルハウンドである。ウィルに必殺の一手はあるのか。
ウィルは空中で、腰のベルトに吊してあった短剣に手を伸ばした。魔獣相手には、いかにも貧弱な武器。だが──
ウィルが短剣を抜いた瞬間、まばゆい光が周囲に満ちた。それが短剣の刀身が放つ光であると、どれほどの者が気づいたか。
《光の短剣》。
その光はボギーの眼をくらませた。対して《光の短剣》は、魔犬の牙を捉える。
夜空にほとばしる鮮烈な閃光。
ウィルとボギーは空中で交差した。その瞬間が、まるで時の流れが止まったかのように克明に見える。
ボギーの牙と首輪のスパイクは、ウィルのマントをかすめただけ。一方、ウィルの《光の短剣》は──
地面に重い激突音が響いた。ボギーの巨体が横たわる。その口から首、そしてそのまま腹部へかけて、見事に斬り裂かれていた。
一瞬の死闘の幕切れに、誰もが声を失った。悠然と立ちすくむウィル。死体となった魔犬を振り返る氷の美貌は、まさしく魔人のそれであった。
ヘルムカも、その部下たちも、そしてルンですら慄然としている中、ウィルは《光の短剣》を鞘に収めると、ボギーの死体に近づいた。そして、首ごと切断したヘルハウンドの首輪を手にする。
どうやら首輪は空洞になっていたらしく、切断面からウィルの手へ、何かが滑り落ちてきた。見れば小さく折り畳まれた紙らしい。ウィルはそれを広げてみた。
「そ、それは!」
ヘルムカは青くなってウィルを止めようとしたが、もう遅い。ウィルは彼の部下たちに広げた紙を見せた。
「うまい隠し場所だな。ヘルハウンドの首輪の中なら、誰も調べはしないというわけだ。──探していた証拠だ。セルモアの地下遺跡の見取り図と、その調査内容。決定的だな」
「貴様……セルモアの遺跡のことも知っているのか?」
それはカルルマン王子とその側近、あとはごくわずかの者たちしか知らぬ情報のはずだった。
「ひと月ほど前、そのセルモアにいたものでな。──カルルマン殿下によろしく伝えておいてくれ」
そう言ってウィルは、機密文書をヘルムカの部下の一人に預けた。
ウィルが言うように、一ヶ月前、セルモアの地下で古代王国時代の遺跡が発見された。各地の遺跡のように、まだ荒らされてはいないため、その学術的価値と魔法の品々の多くは、ブリトン王国に多大な利益をもたらすだろう。そして、もし他国がその存在を知れば、遺跡を狙って戦を仕掛けてくる可能性も充分にある。
まさか、その遺跡を巡って巻き起こされた一連の事件に、この美麗の吟遊詩人が関わっていたことなど、ヘルムカが知るはずもなかった。
がっくりとうなだれたヘルムカは、部下たちに捕縛された。そして、そのまま護送されていく。もはや冷酷な将軍の面影はなかった。
部下の一人が、見送るウィルとルンに会釈した。
「あなたのお陰で、無事に真犯人を逮捕できました。それに国家機密もダクダバッドに渡らずにすみましたし。本当にありがとうございました。もし、ハドラー殿に会ったら、疑ってすまなかったとお伝えください」
その名を耳にしたルンの顔が、にわかに強張った。まさか、といった表情で。
「ハドラー……。それが追っていた男の名か?」
ルンの様子に気づきながらも、ウィルは目の前の騎士に尋ねた。騎士はうなずく。
「はい。一緒に戦場で戦い、あれほど勇敢だった男を、自分は一度でも疑い、誠に恥ずかしく思います。とても顔向けできませんが、どうかこれからの余生をすこやかにお過ごしいただきたいと願っております」
「分かった」
騎士は二人に敬礼をすると、仲間たちと共に王都への帰途へついた。
こうして辺境の村を襲った嵐は去っていった。
ウィルは無口になったルンをともない、テコムの村へと戻った。
娘の無事な姿を見つけたマーサはルンを抱きしめ、二人の弟妹たちもそれに覆いかぶさるようにして泣いた。それを眺めた村人たちは、ホッと胸を撫で下ろす。
家に戻ったルンは、自分の寝室ではなく、母の寝室へ向かった。そこには左腕を失った男が寝ている。結局、ウィルが身代わりを演じたときも、この男は動くことも出来ず、眠っていたのだ。ルンはベッドの脇にイスを持ってきて、そこに座った。
人相が分からないほど伸びたヒゲ。深く刻まれた顔のしわ。包帯の合間から覗く肌は傷だらけだ。長年、戦場を生き延びてきたのだろう。そんな男を見ているうちに悲しくなってくる。そして、ウィルが拾ってきて、枕元に立てかけてある剣を見た。
剣の柄の部分に、小さく文字が彫られているのを発見した。今までまったく気づかなかったのも無理はないほど、それはほとんどすり減っている。だが、ルンには読めた。ハドラー。男の名だ。
母に知らせるべきかと思い立ったとき、不意に男が身じろぎした。男の顔がルンの方を向く。その目がゆっくりと開かれた。
ルンは見つめた。男の目を。
男の目は細く、ちゃんとルンのことが見えているかどうか不安だったが、口許が動くのを見て、意識があるのだと確信できた。
「……うっ……」
男の口が微かに動く。だが、何を言っているか分からない。ルンは顔を近づけた。
「……んっ……」
今度もやはり聞こえなかった。だが、唇の動きで、何となくルンには分かった。ルンはうなずく。涙がこぼれた。
男は右腕をルンの方へと動かした。しかし、傷のせいで表情が歪み、満足に動かせない。ルンはその手をこちらから握るようにして取った。そして、男に何度も何度も泣きながらうなずく。
「分かってる……分かってるよ」
すると、男の目の端からも涙がこぼれた。
ルンは男の手を握りながら、その胸に自分の顔を伏せ、むせび泣いた。
朝が訪れた。
すでに、あの騒動から三日。その翌日、ウィルは隣村のモンタルンへ行くと言って旅立った。
ルンは心細い顔をウィルに向け、別れを悲しんだ。だが、美しい吟遊詩人の青年は優しい表情を作り、
「もうすぐ、兄が帰ってくるのだろう?」
と言って、励ましてくれた。
母のマーサは死んだかもしれないなんて言っていたが、ルンは兄の帰りを信じている。自分や弟たちに優しい兄。ウィルに言われると、本当に兄の帰郷が近い気になった。
今日こそ帰ってくるだろうか。そんなことを思いながら、ルンは目を覚ました。昨夜も母の寝室で、ずっと男の看病をしながら眠ってしまったらしい。その右手は男の手を握ったままだった。
しかし──
ルンは冷水を浴びせられたような感覚に襲われた。握りしめている男の手が冷たい。ルンは慌てて立ち上がった。
「ねえ! ねえ!」
ルンは男を揺り動かしてみたが、何の反応も返ってこなかった。息をしていない。心臓の鼓動も聞こえてこなかった。
ルンはふらふらとベッドから離れると、寝室の外へと出た。
朝早くから仕事場では母のマーサが働いている音がした。朝一番に焼くパンの生地を作業台に叩きつけるようにして練っているのだ。いつもと変わらぬ朝の風景。ルンは仕事場に足を踏み入れると、背後からマーサに声をかけた。
「母さん、あの人……死んじゃった……」
ドスンと、ひときわ大きく叩きつける音が響いた後、母の動きが止まった。だが、それでもルンの方には振り向かない。
ルンはもう一度、言った。
「母さん、あの人、死んじゃったわ……」
「そうかい……」
マーサは再びパンの生地を叩きつけ始めた。そのまま喋る。
「まあ、あのひどい傷だったんだ。三日もったのが奇跡なくらいだよ。お前も毎晩、ご苦労だったね。これで今夜からはゆっくり寝られるよ。私もベッドを占領されちまって、困っていたんだ」
サバサバして言う母に、ルンは段々と涙が込み上げてきた。そして、しゃくり上げる。
「ひどいよ、母さん! あの人、父さんなのよ! 父さんが死んじゃったのよ! どうして、そんな冷たいことを言うのよ!?」
ルンの言葉に驚いて、初めてマーサは後ろを振り返った。
「ルン、お前……」
「あの人の剣に父さんの名前が彫ってあったわ! ハドラーって! あれは父さんよ! 父さんが家を出て行ったのは私が四つのときだけど、私、微かに憶えてる! それにここへ運んできた夜、父さん、私の顔を見て呼んでくれた! 『ルン』って……。目に涙ためながら、すまなそうな顔して……。母さん、知っていたんでしょ? だから私が軍隊の人に教えようとしたとき、止めたんでしょ? 父さんをかばって……。少しは悲しんだらどうなのよ? 父さん、やっと帰ってきてくれたのよ! あんなになりながらも、やっと帰って……」
あとは言葉にならなかった。ルンは顔を覆って泣く。
マーサは作業台の方へ向き直った。そして、またパン生地作りに専念し始める。
「何が、帰ってきた、だい……十年以上も私とお前たちを置いて、勝手に戦争へ行っちまった男じゃないか……あのとき、エイミーはまだ私のお腹の中にいたんだ……私がそれから、どれだけ苦労して、お前たちを育てたか……あの人は、何も分かっちゃいないんだよ……どの面下げて、今頃、帰ってくる気になったんだか……あのバカ息子もそうだよ。あいつは父さんそっくりだ。傭兵になってひと儲けだなんて。あいつも父さんと同じく、野垂れ死ぬのがオチさ。まったく、どうして男ってのは、あんなバカばっかりなのかねえ!」
マーサはパン生地を揉むようにしながら感情を吐露した。まるでパン生地に当たるかのように。その上へ自然に一滴の雫が落ちても、マーサはパン生地をこね続けた。
「お兄ちゃんは帰ってくるもん! ……私、約束したもん!」
しゃくり上げながら、ルンは母に盾突いた。そんな風に母に思われている父や兄が不憫で悲しかった。
マーサは苛々した口調でルンに言った。
「父さんのこと、クリオとエイミーには言うんじゃないよ! あの子たちは、もうとっくに父さんは死んだと思っているんだ! 変なことを蒸し返して、悲しませるようなことをするんじゃないよ!」
「そんな……」
「分かったらさっさと顔を洗って、ジムリにエサでもやっておいで! それから店開きも準備もするんだよ! 朝ご飯の支度だってしなきゃいけないんだから!」
突き放すように言う母の言葉を聞いて、ルンは仕事場から飛び出した。悲しくて悲しくて、涙がとめどなくあふれてくる。表へ出た。空は、ルンの心など関係ないかのように、よく晴れ渡っていた。
「おーい!」
そんな遠くから呼ぶ声を耳にしたのは、そのときである。ルンは懸命に目をこすり、誰であるか確認しようとした。
村の入口の方角からやってくる二人の男女。女性に比べると男性の方はかなり大柄で、背中には長大な大剣<グレート・ソード>を背負い、ルンに向かって大きく手を振っている。
「おーい!」
もう一度、男の呼ぶ声。やっと涙を拭い、それが誰かハッキリする。女性の方は美人だが、初めて見る顔だ。そして──
ルンの顔が見る間に明るくなった。男と同じように大きく手を振る。
「キーツ兄ちゃん!」
笑顔が弾けた。そして、走り出す。やっぱり帰ってきてくれたのだ。
ルンは待ちかまえる懐かしい兄の胸へ飛び込んでいった。
<END>
| | | Copyright (c) 2004 RED All rights reserved. | | |
| 本編情報 |
| 作品名 |
吟遊詩人ウィル・神々の遺産
|
| 作者名 |
RED
|
| 掲載サイト |
RED.net Theatre
|
| 注意事項 |
年齢制限なし
/
性別制限なし
/
表現制限なし
/
シリーズ連載中
|
| 紹介 |
領主の座を巡って、父バルバロッサと長男ゴルバが死闘を繰り広げる。ショックで自我を失った幼い後継者デイビッド。故郷セルモアに戻ってきた異形兄弟カシオス、ソロ。そして、街に語り継がれてきた天空人たちの遺跡と過去の惨劇……。やがて戦いは、予想外の介入者を巻き込んでいく。
|