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彼女は歩いていた。普通に。
いや、普通ではなかった。姿も、歩き方も、美しかった。
そう、こうして見る限り、ごく健全なる精神を持った、容姿に恵まれた女性としか見えなかったのだが。
彼女にはある恐怖症があった。
精神医学の方で専門用語があるのかは知らない。
彼女は、背中が怖かったのである。
他人の背中ではない。自分の背中の、無防備さが恐ろしくてたまらなかったのだ。
目も、手も届かない。意識も薄い。
あまりにも無防備で、術を持たぬ体の部分。
彼女は実のところ街を歩くさえ苦痛だった。だがそんな苦痛を表ざたにしていては生活しきれないので、自分にも他人にも隠すように、平穏な顔で暮らしていた。
それでも、レストランに入れば一番奥まった壁に背を向けないと居られなかったし、外を歩くときはいつも背負えるタイプの書類鞄で背中を守るようにしていた。書類鞄の中には薄い金属板が仕込まれている。そうやって、背中を守らないと、いたたまれなかったのである。
背中の空いた服など、一生着ることはないと思われた。
彼女が自分の背中の無防備を恐れるようになったのには、明白な理由があった。
彼女が幼い頃、近所で傷害事件があった。
ある女性が、以前付き合っていた男性に追い回された挙句、背中を刺されたのだ。
女性は小路を逃げて逃げて、そして小学生だった彼女の前に辿りついた。
「助けて…これを抜いて」
苦しい息の下から女性は懇願した。
小学生だった彼女には、それはあまりにも恐ろしい光景で、働きかけることが出来なかった。
ナイフを抜くなど持ってのほかだ。
彼女は近所の家に飛び込み、事態を告げた。
じき救急車が駆けつけ、女性は生きながらえたのだが。
その瞬間に、彼女の心の背中には、冷たいナイフが突き立った。
罪悪感と、恐怖。
血を含んだ背中、血の張り付いた背中。真っ白のシャツが、真っ赤に濡れて。
液体。真っ赤な液体。生きている人の体から溢れてきた、かけがえのない、命の液体。
青ざめた顔。真っ白で、凄まじく、美しいような。
そして背中のナイフ。
絶対的で冷酷な、白銀の、薄い、刃。
まるで今この瞬間に起こっていることのように、その光景はいつでも鮮やかに蘇える。その度に、彼女は無力であった小学生の自分に立ち返り、圧倒的な力、圧倒的なイメージに侵食される。
(そのナイフが、他ならぬ私の背中に突き立っているように)
(一体いつの間に突き立てられたんだろう? )
彼女は沈む呼吸の中自問する。そんなものない、と何度言われても承知できない。私は刺されたのだ! 幻のナイフを!
(そしてそれは、今でも抜けずに、そこにある)
男が居た。
男はずっと彼女のことを見ていた。
車の中から。
面識はなかった。ないはずだ、男は確認する。顔を見られていたらまずい。
男は車を回すと、彼女の帰り道、一番人気のないあたりに先回りした。
「すいません、道を教えていただけますか? 」
男は怪我をしていた。いや、そのように見せかけていた。「病院に行く途中なんですが、○○病院はこのあたりでしたっけ」
「歩いていらっしゃるんですか? 」
彼女は目を丸くした。
「いえ、あっちに車を止めてあるんです。なんかこのへんあんまり人が歩いてなくて、仕方なく出てきたんです。」
「大変ですね」
「地図はあるんですが古いみたいで、良かったら車の方に来て教えていただけますか」
彼女は疑いもなく男に尾いていった。そして車に連れ込まれ、どうしてか気を失い、…それきりわからなくなった。
目が覚めたとき、彼女は背中を晒した格好で椅子に座らされていた。シャツをはがされ、ブラジャーの留め金を外され、後ろ手に縛られている。
変わった椅子だった。ベルベットを張った上等な作りながら、一見すると椅子の足のついた箱のようだ。
背もたれがなく、代わりに前と左右にクッションのついた高い支えがついている。前の支えはお腹あたりまで、左右のは頭を越すほどで、女性は目覚めるまでそこにもたれていた。
左右の支えの途中には、肘掛の役割を果たしそうなくぼみがあり、ベルトが備え付けてある。拘束するためだろうか。
足は腿の部分でベルトで固定されている。
彼女には、背中を晒している、他のほとんどの部分が守られているにも関わらず背中を晒しているという状況が、自分の受けている奇妙な拘束と同じくらい恐ろしかった。
体中が震えた。背中が総毛だった。
恐怖症が発症するといつもそうであるように、背中全体が過敏になり、それは悪寒とくすぐったさとを覚えさせた。意識しなくても肛門が痙攣し、そして喉から胸元、背骨にかけて優柔不断な玉子を飲み込んだような気分になる。頚椎には甘く生ぬるい何かが詰まったようで、とにかくこの状態を何とかしたくてたまらなくなるのだ。
声を出したかった。やめて欲しいということを伝えたかった。やめて! お願いだから、やめて! こわい! こわいのよ!
叫びたかった。
だが、喉が恐怖に締め付けられて、声を出すことが出来なかった。
サングラスを掛けた髭の怪我人のことを思い出した。
(あの人が? )
(変装? )
道を尋ねたのも、怪我も、古い地図も、サングラスも、髭も。
皆周到に用意された罠だったのか。
(俺はあんたのことをずっと見ていたんだ)
背中から声がした。くぐもった声だ。用心して、マスクでもしているのか。
(あんたの背中だ。俺は女の背中が好きなんだ)
「やめて! 」
彼女は叫んだ。掠れる声で。
「私の背中が好きなんてうそよ! 私背中が怖いから、ずっと隠していたわ! 見えないように! いつも壁に背をつけて座っていたわ! いつも書類鞄を背負っていたわ! 私の背中が好きなんて、うそよ!」
うっとりしたような感嘆のため息とともに、男は女の訴えを受け止め答えた。
(ああ、それでか。
わかったよ。俺にとってあんたの背中が特別だった理由が。
他の女の背中は、いつだって無防備で、だらしなかった。
あんたの背中だけだ。
いつも目覚めていた。
いつも震えていた。
いつもいつも、あたしを守ってって、囁いてたんだ。
だから俺は、あんたの背中に。)
声が途切れ、彼女は背中に気配を覚えた。
吐息が肌にかかる。
男は、近くによって、背中を見ているに違いない。
金色の産毛がうっすらと覆う、美しくなだらかな曲線。
僅かに窪んだ背筋、美しい陰影を落とす肩甲骨。そうそれは、翼をもがれた跡にも似て。
角度を変えれば乳房の膨らみが微かに覗け。
彼女がもがく度に、柔らかくしなやかで複雑な平面は、良く出来た美術品のように表情を変えた。
肩から腰へ、緩急する稜線の。
男は手を触れなかった。
ただ間近で、微かに光を放つほど美しいそれを、飽きもせず眺め、それから小さく囁いた。
(大丈夫だ、これからは俺が守ってやるよ。
怖がらなくてもいいよ。
俺が、守ってやるから)
その言葉を聞いた途端、彼女の目から涙が溢れた。
恐怖、悦楽、不安、諦観、・・・安堵。
全てが極まり、涙腺を押し上げた。
涙と共に、胸元につかえていた、柔らかい玉子が消えた。
カタルシス。
(私は今、ようやく、初めて、あのときの恐怖を赦されたのかも知れない。)
夕方になって彼女は解放された。
もう一度気を失って、気が付くと小さなホテルのベッドに寝かされていた。
サイドテーブルにはメモが一枚残されていた。
"see you"
彼女はそのメモを、お守りのように、抱きしめた。
終