
百物語第三夜其の三
スク水少女と夏の始まり
あの頃夢見た大人に、俺はなっているのだろうか。
子どもたちが水を撒き散らかす度に塩素の匂いが充満する。ここは神田のとある公園、駅前にはサラ金と居酒屋とパチンコ屋が並びながら十分も歩けば小学校とその最寄に作られた小さな児童プールのあるこんな場所に出る。都会のオアシスというにふさわしいこの場所だが、今日に至るまで俺は子どもが遊んでいるのを見かけたことがなかった。
毎日水を入れ替え、監視員まで付けて、子どもを待ち構えている遊具だらけのこの場所に屯しているのはほとんどがサラリーマン。
営業に行き詰ったのか、数多ある漫画喫茶やビデオルームに行くだけの金もないのか、煙草も禁じられたこの街で、サラリーマンたちはペットボトルを片手に子どもや親子連れのために作られたのだろうベンチに体を預けている。
まるで真夏の死体のようだ。
そう、この国の大人たちは死んでいる。生きながら死んでいる。貰える宛てのない年金や自分には回ってこない福祉、構築したシステムの天辺に胡座を掻き薄く広く長く静かに稼ぎを掠め取り続ける連中にそれと気付かず血を抜かれそれでも死に切れず蝉や蜂や蜻蛉やその他の虫けらどもが落ちては乾いてゆく黒い地面を彷徨い続けて。
皮靴の爪先に、西瓜の汁が垂れ落ちた。
親の時代、恙無く歩む者には昇進が約束されていた。万年平社員というのは敗北者に与えられる嘲りの言葉だった。今はどうだ。平社員、素晴らしいじゃないか。平だろうが何だろうが正社員なら万々歳だ。毎年の昇給なぞ望むべくもない。ただ会社に所属し続けることができるだけで、会社に雇用を保証されるだけで、一体それがどれだけ贅沢なことだったか。
今ならわかる。
そして、わかったときには何もかも遅いというのも、人生という物語のお約束なのだ。
足の先に、新しい水が滴り落ちた。
少し目を上げると、ピンクにラメの鼻緒のついたビーチサンダルを履いた、小さな足が見えた。
子どものようだった。
今の俺は、その子にどんな風に見えるんだろう。
そう思うと、顔を上げる気にもならなかった。
少女の足は暫くの間そこに留まっていたが、そのうちプールの方に戻っていった。
それでいい。
俺は真夏の死体なんだから、お前たちみたいに新しい心と交わっちゃあダメなんだ。
絶望が伝染っちまう。
そんな風に思いめぐらしていた俺の前に、またさっきのビーチサンダルが止まった。

「あの……」
差し出されたのは、水色の縁取りの白いガーゼのハンカチ。
「これで、……あの……」
その声が、いつか聞いたあの声に似ているように思われて、俺は顔を上げた。
スクール水着を着て、体中を滴に濡らして、真っ赤になってハンカチを差し出している少女が、そこに居た。
俺は食べかけの四つ切りの西瓜を膝に抱えて、少女を見ていた。
少女は少女で吃驚したような顔でこちらを見ていた。
「あ……泣いてなかった」
呟いて、無意識に零れおちてしまった内心に羞恥して更に真っ赤になる。それからまた何かに気づいて気を取り直し
「あの、これで、西瓜の汁、拭いて下さい」
言い切った。
「あ、いや、あの、汚れるから……」
俺は、まるで少女そのもののように優しげなガーゼを庇いたくてそんなことを言った。それから、プールの監視員や、背中にある交番のお巡りさんが、少女と成人男性との交流を怪しんで飛んでこないことを心から願った。
「ごめんなさい、間違えちゃって…私、お兄さん泣いてるのかと思って心配になって……」
信じられないことに。
少女はそのまま俺が座っているベンチのはじっこに座って、話しかけてきた。大人が泣いていると勝手に勘違いしてハンカチを差し出してしまったことを悪く思っているのかも知れない。そんなことは思わなくてもいいのに。
「いや、……」
何と言っていいのかわからない。
「そこに……」
少女は地面を指差した。
「水の跡があって、お兄さん俯いてたから、泣いてるんだと思ったの」
「…ごめん」
ぱた、と少女のビーチサンダルが音を立てる。
「お兄さんこのへんでお仕事してるの? 」
お仕事、か。
「うん…まぁ。」
明日には通わなくなってるかもしんないけどな、内心で毒づく。
そんな俺のやさぐれなぞ知りもせず、少女は、大切なことを伝えようとするように、ゆっくりと言葉を続けた。
「私のね。
お父さん、今病気なの。
ずっとおうちにいるの。
お父さんすごくまじめで、お仕事大変で、……それで、もうあんまり忙しくて心が疲れちゃったんだって。
病気だってわかる前、お父さん、夜中に電気つけないで時々泣いてたの。
私、そのとき、何にもしなかった。
何していいかわからなくて。
どうしていいかわからなくて。
私、お父さんが泣いてたの知ってたのに、何にもしなかったの。
あのとき私が声かけてたら、お父さん、病気にならなかったのかも知れなかったのに。
だから、私、そういう人を見たら、絶対に……。」
まっすぐな瞳。
焦げ茶の虹彩に走る、星の始まりのような放射線。
少女の肌は、いつの間にか乾いていた。
「……でもお兄さん、西瓜食べてただけだったんだ……」
落胆したように俯く。
「いや、あの、確かに俺西瓜食べてたけど、ほんとは……」
一呼吸して、自分のほんとうを明かすことを決意した。
「……ほんとは、仕事でミスって、もうこの仕事向いてないって思って、やけくそになって、…そこのスーパーで無理言って西瓜切ってもらって食べてたんだ。」
少女の顔が、先ほどの切実から好奇心へと豹変した。

「なんで西瓜? 」
くすくすと喉が鳴った。
「いや、……夏っぽいから」
またビーチサンダルがぱたぱたと音を立てる。少女はひとしきり楽しそうに笑った後、
「西瓜ください、お兄さん」
下から覗きこむように。
「…食べかけだから」
断ろうとするのを
「いいじゃん、夏なんだから」
せがんでくる、その滑らかに白い肩と鎖骨のくぼみとスクール水着の紺色と。
「…わかった」
西瓜を押しやる。
それから訪れたのは、夏のデジャ・ヴ。
そうだ、あれは確か小学校六年の夏。
同級生のスクール水着にやられた俺は、プールから上がれなくなって友達の呼びかけにも答えずじっとしていた。
そこに来たのが、当時の学級委員長の崎野。
何をどう誤解したのかわからないけれども、今のこの少女と同じように、多分あいつも何度も俺の様子をうかがい、そうしてわざわざ教室からハンカチをとってきて、俺の前に差し出したんだろう。
顔を上げた俺の前にあったのは、少し傾きかけた夏の日差しに縁取られた、恥ずかしそうな崎野の仏頂面と、胸元から下だけ濡れたスクール水着だった。
まぁ、そのせいで更に上がれなくなったわけだが。
「ちょっと温くなってる。
でも、ちゃんと甘いね。」
西瓜を齧る少女の横顔を見ながら。
もう少しがんばってみよう、と、思った。
終