悲劇の構造で見る「マッチ売りの少女」

 悲劇の構造で見る、「マッチ売りの少女」この作品は、現代の東京から店のマッチをもったまま、中世の冬のヨーロッパにタイムトラベルしてしまったホステスさんの悲しい物語である。これは半村良の「マッチ売り」という短編作品。ほんとうの話は、貧しい幼い女の子がマッチを売っていた。しかしだれも見向きさえしてくれない。その日はこの冬一番の寒さ(脚色)で女の子は、あまりの寒さにマッチを擦って警察に捕まる。でなくて、マッチを擦って暖を取る。そうするとマッチをつける度に、彼女の考える即物的で、幸せな幻覚を見る。けれども彼女は結局、寒さで凍え死んでしまう。
 この作品の悲劇のポイントは女の子の背景、おかれた立場が悲劇的でお涙頂戴的であるということである。女の子がマッチをつけ、それによって幻覚を見て、ほのかな幸せを感じ、そして死んでしまうというところは、作品のポイントではあるが、このところは悲劇的構造としてのポイントではない。 幻覚を見ることによって、何ということのない悲劇的作品から、世界的に有名な悲劇作品となった。ということは作品の表現手法が優れていたのであって、悲劇的構造が優れていた訳ではないといえる。幻覚を見ることは作品を強調する効果があっても悲劇の本質ではない。悲劇的構造の本質である貧しい幼い女の子の背景と生活は、作品が童話として広まり、純化して残ったため、背景的なことには全く触れなくなってしまい、ただ女の子は貧しいということが提示されているに過ぎなくなっている。しかも読み手はそのことが当然すぎて気づかない。逆に背景をくどくど言わないお陰で表現の手法のみが強調されている。 
 悲劇の本質などというものでは、作品はできていないのではないだろうか。本質がどんなに悲劇的であっても、表現的に優れたところがなければ、作品として成功とは言えない。けれども悲劇の構造を無視して、表現のみで発表したならば、この作品はこれほど成功したかどうか分からない。例えばこの作品のシチュエーションが南の島のビーチかどこかにしてみて、バカンスに来た女の子が、マッチを擦って幻覚を見る。それではまるでマリファナか幻覚キノコか何かをキメてラリッている、ということと同じである。それでは作者が村上龍になってしまっただろう。

執筆日不明

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