注釈

序章
注1 単行本の収録作品は「白鳥の湖」「森の妹」「箪笥」「ちゃあちゃんの木」「炎の陰画」「散歩道の記憶」「あとがきにかえて」である。
注2 「伝奇ミステリのスーパー・スター」対談、半村良・田中潤司。『週刊プレイボーイ』昭和58年7月25日号)
注3 「東京酸酊散歩・亀戸」山本容朗(『潮』昭和56年4月1日号)
注4 「産霊山秘録」(『SFマガジン』昭和47年4月1日号〜12月1日号まで連載。「時空四百歳」は11月1日号に掲載。早川書房刊『産霊山秘録』(昭和48年3月31日発行)による。昭和48年10月24日、第1回泉鏡花文学賞受賞。
注5 「晴れた空」(『小説すばる』昭和62年12月1日号〜平成3年2月1日号)集英社刊『晴れた空』(平成3年7月25日発行)による。
注6 「考証・重蓮上人」(『NW-SF』第6号 昭和47年9月10日)
注7 「妖星伝」(『小説CLUB』昭和48年9月1日号〜昭和55年5月1日号および、『小説現代』平成4年1月1日号〜10月1日号)講談社刊『妖星伝』(『妖星伝(一)鬼道の巻』昭和50年2月12日発行、『妖星伝(二)外道の巻』昭和50年9月4日発行、『妖星伝(三)神道の巻』昭和51年9月24日発行。『妖星伝(四)黄道の巻』昭和52年9月28日発行。『妖星伝(五)天道の巻』昭和54年1月24日発行。『妖星伝(六)人道の巻』昭和55年4月17日発行。『妖星伝(七)魔道の巻』平成5年3月2日発行。

 

第1章第1節
注8 「晴れた空」は昭和20年3月10日の東京大空襲によって天涯孤独となりノガミ(上野)に巣くっていた8人の少年、「級長」こと武田勝利(亀戸出身)「バアちゃん」こと本田宗春(麹町出身)「ルスバン」こと中野好伸(御徒町出身)「アカチン」こと飯田穣(本所大平町)「マンジュー」こと野沢浩二(日本橋横山町)「ゲソ」こと吉田登(淀橋柏木3丁目)「ニコ」こと白川継男(荒川町屋)「飴屋」こと横沢健太郎(浅草芝崎町)を主人公にした小説。
 その8人の少年に、特攻隊の教官であった「カミカゼ」こと前田英次、「おかあさん」こと吉野静子、その娘の「ボーヤ」こと啓子。おかあさんを陰から助ける元特務機関員で、日本を陰から操ろうとした重藤正広といった人物を中心にして、戦後が終わったといわれた「東京オリンピック」後の昭和40年1月17日に8人の主人公と啓子が「憧れ」のハワイに行くまでを舞台とした小説である。
 それに対して「炎の陰画」は昭和20年8月(実際には3月10日)〜昭和27年6月22日までを舞台とした小説。
注9 「白鳥の湖」(『ミステリ・マガジン』昭和46年10月1日号)河出書房新社刊、昭和49年8月10日『炎の陰画』に収録。この作品は昭和23年冬〜昭和40年代冬までを舞台とした作品。
注10 「産霊山秘録 時空四百歳」は昭和20年3月10日〜昭和24年4月までを舞台としている。
注11 「昭和悪女伝」(『小説すばる』平成5年8月1日号〜平成7年7月1日号)集英社刊『昭和悪女伝』平成6年9月30日発行。

注12

「自著を語る 半村良 『晴れた空』」(『NEXT』平成3年10月1日号)

 

第1章第2節
注13 注13 掲載記事を載せておく。「仙術について」金子光晴、「人間とは何か」対談、水上勉・真継伸彦、「宗教者の戦争責任を問う」市川白弦(花園大学教授)、「神農黄帝と香具師」坂田浩一郎、「朝鮮人と日本人」対談、宋斗会・高史明、「造反を招いた立正佼成会の体質」猪野健治、「世界救世教系教団群の誕生」清人雅人、「ほんみち」梅原正紀、「秩父事件の中の禊数」井出孫六(のちに直木賞を同時受賞)、「公害なんかあらへんぞ」対談、橋本凝胤・加藤登紀子、「炎の陰画」半村良
 さらに『季刊・日本の宗教』の目次を見ていこう。水上勉と真継伸彦の対談「人間とは何か」の目次には以下のように書かれている
 飽食の果てに、終末論をふりまわすマスコミ。寺をほしがる坊主、商売に血道をあげる寺院。今こそ、宗教を、自由を、生命の根源に問わねばならない。
注14 『潮』は創価学会系の雑誌である。半村良は「下町探偵局」(昭和51年9月1日〜昭和53年7月1日)を連載。
注15 『公明新聞』も創価学会系の雑誌。半村良は「公明新聞 日曜版」に「高層街」(平成元年3月19日〜平成2年3月4日)を連載。

 

第1章第3節
注16 「書く度胸がついた広告界の体験」対談、半村良・尾崎秀樹(『新刊展望』昭和50年7月号)
 それに対して「炎の陰画」は昭和20年8月(実際には3月10日)〜昭和27年6月22日までを舞台とした小説。
注17 「半村良氏に25の質問」(『奇想天外』昭和51年4月1日号)
注18 「矢野徹インタビュウ」対談、半村良・矢野徹(『SFマガジン』昭和53年6月1日号)
注19 ここで「雨やどり」(『オール讀物』昭和49年11月1日号掲載)の商品意識について述べておきたい。発表の翌昭和50年『オール讀物』4月1日号にて「第72回直木三十五賞」を受賞する。この「雨やどり」の選評で松本清張は「あっさりと仕上げて、しかも情緒を漂わせているところ、O・ヘンリ−の短編の妙」を想わせるものがあると述べ、石坂洋次郎は「上手にさらっと扱って抜群の出来栄え」と述べ、さらに司馬遼太郎は「「雨やどり」は手だれの料理人が、軽い素材ながらあざやかに一品料理を作って見せたような包丁芸のうまさ」と述べており、反面軽すぎて受賞に値するかという選評委員もいた。
 ここで選評委員の方々が「あっさり・さらっと・軽い」と言われているところについて、半村良も「書く度胸がついた広告界の体験」にて以下のように述べている。
  「雨やどり」ですが、これは軽ければ軽いほどいいわけで、重くしたらとても見られたものじゃないタイプ、ジャンルなんです。(中略)「雨やどり」シリーズではとにかく川口松太郎先生の「人情馬鹿物語」にかぶれましてね。フィーリングなんかはとにかく久保万太郎さんにかぶれていて…
 しかもこのとき直木賞のノミネートは3回目で以前の『黄金伝説』や『不可触領域』はSF色が強く選考委員の中にはまだSFに対して拒否反応を示す人も多かったため、SFでの受賞は無理と言われていた。タイミング的にもノミネート3回目というのが一番いい回数で、それ以上だと選考委員にも飽きられて受賞のタイミングを逃す場合が多かった。
 このように「雨やどり」が相当の商品意識を持って書かれているものであるということが理解できる。

 

 

第2章第1節
注20 数え上げればキリがないので、例を出してみよう。「酒亭抜荷丸」(『小説現代』1975年3月1日号)という作品がある。エセ食通相手の日本料理屋の板前な主人公は、いい加減にそんな客を相手にするのがイヤになっていた。そんなとき、店の客である大手広告代理店のデザイナーに奥さんを取られてしまう。と、ここまでで、半村良の過去が思い浮かぶ。半村良は新宿の「とと」というバーでマネージャーをしていたときに、そこのママ(詩人の新藤涼子)妹と仲良くなり結婚する。その後神田に「神田茶屋」という店を出す。店は繁盛したものの奥さんに作家だかデザイナーだかの男ができる。「あんたもなんか勉強しなさいよ」と言って奥さんは去って行ってしまう。
 そこで現実なら「収穫」(『SFマガジン』1963年3月号掲載)を第2回SFコンテストに応募し、広告業界に転身するのであるが、「酒亭抜荷丸」ではそうはならない。「お客様は神様」という言葉を守ったために奥さんを取られたということから、腹いせに小説を書くのではなく、本当に客をどなる店を作る。しかもそれが大当たり。最後には、それさえ楽しんでしまうお客に対して「お客様は神様」を確かめる。
注21 「伝奇ミステリのスーパー・スター」対談、半村良・田中潤司。「『週刊プレイボーイ』昭和58年7月25日号)
注22 「半村良にQ&A」(『オール讀物』1974年8月1日号)
注23 「晴れた空」では主人公の8名の少年の内、7名が5年生(バアちゃんだけ6年生)。「産霊山秘録」の飛稚は14歳。
注24 「屋根の上のマッカーサー」(『小説現代』1975年9月1日号)
注25 「矢野徹インタビュウ」対談、半村良・矢野徹(『SFマガジン』1978年6月1日号) 
注26 「ぼくらの故郷を求めて……」対談、半村良・吉川良。(『青春と読書』1991年8月号)
注27 『國枝史郎伝奇文庫 第三巻』解説によると「昭和19年の夏、私は奥能登の旧家の土蔵の中で、「蔦葛木曽桟」を読んだ。(中略)奥能登の祖父の家に預けられた。」
注28 『平家伝説』(角川書店刊、1974年9月30日発行)
注29 『能登怪異譚』(集英社刊、1987年10月25日発行)
注30 「半村良にQ&A」(『オール讀物』1974年8月1日号)

 

第2章第2節
注31 「半自叙伝的戯文 凡人午睡 亀戸天神に俺の洗濯物がひっかかっていた」(『新評』1974年3月1日号)による。
注32 「秋子の写真」(『小説新潮』1981年12月1日号)
注33 「夢のおわり」(『オール讀物』1975年4月1日号)なお、この号は「雨やどり」の直木賞受賞の為「雨やどり」再掲載。

 

第2章第3節
注34 「産霊山秘録 まえがき」(『SFマガジン』1972年11月1日号)
注35 「下町キンプラ派の血脈」対談、半村良・五木寛之(『面白半分』1973年11月号)

 

第2章第4節
注36 「半村良にQ&A」(『オール讀物』1974年8月1日号)
注37 『本所区詳細図』(1941年5月15日発行、日本統制地図株式会社)による。「晴れた空」のアカチンは本所大平町出身。「産霊山秘録」の福島武郎の家は本所菊川町。この福島武郎は「半自叙伝的戯文 凡人午睡 二十三年たっても中学の先生の声を憶えていた」(『新評』1974年5月1日号)によれば、実在の人物で本所菊川町の人。両国高校の同級生で、卒業しても仲が良かったが胸を病んでいて若いうちにしんでしまったらしい。
注38 『向島区詳細図』(1941年5月15日発行、日本統制地図株式会社)による。吾嬬東町のほうに工場がかたまって建っていた。
注39 RAAとは「Recreation&Amusement Association」の略で、「進駐軍特殊慰安施設協会」のことである。アメリカ人から日本の純潔を守るという目的で、昭和20年8月28日に銀座にて設立された。施設の第一号は大森の「小町園」。
 「いいだ・もも」著『戦後史の発見<上>』(1975年刊)によれば、昭和20年8月18日に内務省警務局長橋本政実から、全国の警察網に「進駐軍のための特殊慰安施設を可及的すみやかに整備せよ」という秘密無電指令がとぶ。それを受けた業者のために、大蔵省主計局長池田勇人(のちの内閣総理大臣)が勧業銀行を通して融資の約束をする。銀座のRAA本部前に立てられた看板には「新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。ダンサー及び女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎・被服・食料全部支給」と書かれていた
 半村良の『昭和悪女伝』では昭和20年8月28日に皇居前広場で設立記念式を行っていた。筆者が確認したのは『読売報知』8月29日の新聞広告で「特殊慰安施設協会 電話 銀座 九一九−二二八二 職員、事務員募集 京橋銀座七−一 募集人員五十人(男女問ワズ)(高級待遇) 毎日午後一時〜四時まで、本人来談のこと、自筆履歴書」と書かれていた。こちらは看板とも違い、進駐軍やダンサーという文字も入っていない。ちなみにRAAはGHQにより昭和21年1月24日「公娼の廃止」が指令され、3月10日にRAAの閉鎖を通告される。
注40 「昭和悪女伝」(『小説すばる』1993年8月号〜1994年7月号連載)単行本は集英社刊、1994年9月30日発行。
注41 「ビスケット」(『婦人公論』1976年10月1日号) 
注42 『浅草区詳細図』(1941年5月15日発行、日本統制地図株式会社)による。浅草区竹町のとなりが町が御徒町。「晴れた空」の御徒町には「ルスバン」が住んでいた。
注43 「屋根の上のマッカーサー」(『小説現代』1975年9月1日号)によると、錦糸公園のグラウンドで高校2年の都の軟式野球大会の時にセカンド2番で出場しホームランを打っている。その2年後、銀座で働き錦糸町から亀戸天神へ錦糸公園を抜けてアパートに帰っていった。
注44 『東京復興土地地図』(復興土地住宅協会発行)によると昭和25年頃ふたつ並んだ映画館は実在している。洋画が「江東劇場」で邦画が「本所映画」
注45 喫茶店の記述は他の作品には無かったのであるが「半自叙伝的戯文 凡人午睡 わが青春のサントリー・オールド」(『新評』1974年10月1日号)によれば、江東劇場うらの江東楽天地にトリスバーがあった。「一杯三十円で二杯飲んで、つまみはなし」というのが粋であったらしい。その江東楽天地付近は現在、西武百貨店になっている。
注46 都立三中(現・両国高校)は錦糸町の南にある。「半自叙伝的戯文 凡人午睡 二十三年たっても中学の先生の声を憶えていた」(『新評』1974年5月1日号)によると、昭和21年4月の時点で校舎は骨組みしか残っていなくて近くの茅場町小学校で入学式をした。
注47 邦画の本所映画でやっていた「野良犬」は読売新聞の広告によると10月17日公開。これにより健とおしのちゃんの再会は10月17日以降ということがわかる。作品中では洋画は「哀愁」を上映していたが、これは史実通りかどうかはわからない。『キネマ旬報』(1949年上旬号)では昭和24年3月22日から日比谷映画にて公開となっている。それが江東劇場で公開されたかの確認はとれなかった。ただ、洋画は現在と違い長い期間上映されていたようなので可能性としてはないこともない。「思いで映画館」(『アサヒ芸能』1974年10月31日号)でも半村良自身「哀愁」を20回くらい見ていると記している。また「晴れた空」でも「ニコ」が昭和24年3月14日に「哀愁」を見に行っている。ただし、この場合公開日があわないという問題も生じている。
注48 「半自叙伝的戯文 凡人午睡 亀戸天神に俺の洗濯物がひっかかっていた」(『新評』1974年3月1日号)による。半村良は最初が吉原でそのあとは洲崎弁天に通っていたらしい。
注49 「半自叙伝的戯文 凡人午睡 恩人のウ−さんに声をかけたら逃げられちゃった」(『新評』1974年8月1日号)によると、大学進学は無理であると昭和26年正月に言われて荒れた。見かねた先生の紹介でボクシングジムに通った。そこで知り合った「ウ−さん」の紹介で午後2時〜5時半まで働く。ちなみに日給200円。
注50 「屋根の上のマッカーサー」(『小説現代』1975年9月1日号)による。
注51 「SFのお客さんもふえまして……」対談、半村良・石川喬司(『奇想天外』1979年4月号)
注52 「伝奇ミステリのスーパー・スター」対談、半村良・田中潤司。「『週刊プレイボーイ』昭和58年7月25日号)

 

第3章第1節
注53 「読売新聞」による。昭和25年から昭和29年までの6月22日付近の天気。昭和30年から昭和35年までは「毎日新聞」による。
注54 「伝奇ミステリのスーパー・スター」対談、半村良・田中潤司。「『週刊プレイボーイ』昭和58年7月25日号)による

 

第3章第2節
注55 「第一章 上人の主自」は以下の通り「重蓮上人(1821?〜1901)の生地は残念ながらよく判っていない。ただ墓所は石川県鳳至郡能都町にあり、その墓石に刻まれた文字によると奇怪なことに」
この作品が「まえがき」と「第一章」で終っているのは、半村良自身の意図したものであったようで、『NW-SF』の編集後記「ターミナルノート」で、編集長の山本和子女史が以下のように述べている「半村良氏の「考証・重蓮上人」の最終ページは印刷ミスではないのです。むろん「つづく」でもなく、まえがき・第一章・空白で完成した長篇なのであります。私の個人的見解ではおよそ1218枚になるのですが
、読者の方はいかがでしょうか。」
なにを根拠に1218枚になるのかは理解に苦しむところであるが、この作品が全て書かれていたとしたらSF大長編になることは間違いない。なぜなら重蓮上人という人物は私が確認した限りに置いて、実在しないからである。
注56 「伝奇ミステリのスーパー・スター」対談、半村良・田中潤司。「『週刊プレイボーイ』昭和58年7月25日号)による

 

第3章第3節
注57 『石の血脈』(早川書房刊、1971年11月15日初版発行)のオビに書いてある。
注58 「伝奇ミステリのスーパー・スター」対談、半村良・田中潤司。「『週刊プレイボーイ』昭和58年7月25日号)による
注59 UFO研究家の南山宏
注60 「伝奇ミステリのスーパー・スター」対談、半村良・田中潤司。「『週刊プレイボーイ』1983年7月25日号)による
注61 「妖星伝について」(『推理小説研究』第14号、1978年6月10日発行)による
注62 「半村良論」上野昂志(『ユリイカ』1980年4月号)による
注63 「旧約以前」(『週刊小説』1973年8月17日号)この作品の前に「ゼロへの旅立ち」(『高一コース』1972年1月号)という作品がある。「旧約以前」とほぼ同じ内容の作品で、「ゼロへの旅立ち」の方が暴力描写が少ない。『高一コース』という雑誌の読者層に配慮したからと思われる。
注64 「半村良論」上野昂志(『ユリイカ』1980年4月号)による

 

結章
注65 「伝奇ミステリのスーパー・スター」対談、半村良・田中潤司。「『週刊プレイボーイ』1983年7月25日号)による
注66 「SFのお客さんもふえまして……」対談、半村良・石川喬司(『奇想天外』1979年4月号)による
注67 「伝奇への意志」(『国文学』1975年3月臨時増刊号)なお引用は『げたばき物語』(講談社刊、1981年2月20日発行)による