第1章 作品の成立過程についての考察


第1節 「晴れた空」と「炎の陰画」

 「晴れた空」と「炎の陰画」、両作品とも昭和20年3月10日から始まるほぼ同時代設定の作品(注8)である。ところが、作品の雰囲気がまったく異なっている。「晴れた空」は東京大空襲によって浮浪児になってしまった8人の少年。しかも、内一人(武田勝利)は子供を助ける為に火だるまになってしまった母親を目撃する。そんな設定の悲劇性を、社会の裏の流れに便乗して悲劇をひっくりかえして成功していくという、小気味いいまでの喜劇的ストーリーで描いていく。それにひきかえ「炎の陰画」は相次いで親をなくした「渡部健」が、その後唯一の血縁である「おしのちゃん」にも死なれ、わかりあえた友であり、その後自殺する「穂村恵太郎」に「意味も灰も残さず、死んだ事実すら残さない炎で死んでくれ」といわれる。
 「炎の陰画」の最初から最後まで流れる作品自体の暗さが、「晴れた空」と対照的である。そこで、ここで「晴れた空」についての半村良の見解を調べてみれば、おのずと「炎の陰画」が見えてくるのではないだろうか。
 半村良の昭和20年代を舞台とした小説作品には、作家として初期に書かれた三作品。昭和46年

10月発表の「白鳥の湖」(注9)、昭和47年11月発表の「産霊山秘録 時空四百歳」(注10)、昭和48年12月発表の「炎の陰画」がある。これ以降、エッセイや自叙伝的小説などを除けば筆者が確認した限り、昭和62年12月から『小説すばる』にて連載された「晴れた空」(注11)まで存在せず、その後平成5年8月より連載が開始された「昭和悪女伝」(注11)につながっていく。
 「晴れた空」は、戦後42年目にして連載が開始された。「炎の陰画」は戦後28年目の作品である。この14年の差を半村良は明確に意識して作品を執筆している。それは「晴れた空」のインタビュー(注12)で明らかにしていることだ。

  この小説を書いた時点が敗戦直後の時代にもっと近かったら、もっと硬くなっちゃったでしょうね。生き証人がゴロゴロいるところでは、娯楽でフィクションでという訳にはいかない。それがこの時代になってやっと、娯楽小説として書けるようになったといえるでしょう。

  まるでこの作品以前に、終戦直後を題材とした作品がなかったかのような言い方である。けれども逆に、「炎の陰画」が終戦直後の時代にもっと近かったため、記憶が生々しく、娯楽小説としては描きにくかったのではないか。「炎の陰画」と「晴れた空」との執筆された時間の差が明らかに作品に影響を及ぼしている。

 

第2節 発表雑誌などから見るマイナー性
 「炎の陰画」は東洋堂出版社の『季刊・日本の宗教』第1巻1号(注13)に掲載された。ちなみに以後休刊であった。編集者兼発行人は柳田邦夫。この雑誌の主旨を柳田邦夫は編集後記でこう述べている。

  宗教とはいったいなにか、人間にとって、それはどういう意味をもつのか、いや、そもそも人間とは何物なのか--こうした問を持ちつづけながら遂に答えを見出せぬままに居ます。
   一方、現在の宗教者たちのあり様は、まさしく餓鬼のそれが多く、眼をおおわせるものがあります。しかし彼らもまた小生らと同じく人間なのであって無論、責める権利は小生にはありませんが、批判を投げかける事は我々の義務でありましょう。
   宗教は果たして人間にとって必要なのかどうかをラジカルに問いなおすことも無意味ではないと確信していますが、(後略)

 この記述から、『季刊・日本の宗教』が、ある特定の宗教団体からの援助、その他によって成立したものではないことが推測できる。だいいち、宗教団体の後ろ楯があったとするならば、1巻1号で休刊になるとは考えにくく、逆に宗教団体の圧力によって雑誌自体が潰されたのではないかと憶測できてしまう。半村良自身は「潮」(注14)や「公明新聞」(注15)など宗教団体系の雑誌にも作品を書いているが、これらの雑誌にしたところで一般的にはあまり知られていない。後ろ楯のある雑誌でさえ一般的に見るとマイナーであるのに、柳田邦夫を編集長に仰ぐジャーナリスティックな『季刊・日本の宗教』が、一般に知られていたとは考えにくい。それこそ誰の目にもとまらず、休刊になったのではないだろうか。このように、「炎の陰画」は『季刊・日本の宗教』という、ごくマイナーな雑誌に掲載された唯一の小説であった。

 

第3節 作品に対する商品意識について
 半村良は尾崎秀樹との対談(注16)で、広告業界にいたことの利点として、「自分自身を商品としてどうマーチャンダイズしたらいいか」ということを学び、そこから自身の作品制作の前提としてこのように述べている。

 小説を書くときに、これはどの雑誌に書くんだということが無意識のうちに頭の中で働いちゃうんです。好きなものを書きゃいいじゃないかとも思うんですが、でもダメなんですね。これはどこの雑誌に書くんだ、あそこのお客さんはこういうことで笑ってくださる、というような考え方をしてしまうんです。

 「奇想天外」での「半村良氏に25の質問」(注17)で、読者層を想定して書いているのかという質問に答えて、「します。必ず。しないのは年に二作ぐらい」と答えています。これは、半村良が初投稿〜佳作受賞〜デビューといったように作家として下積みがほとんどなく、没原稿がほとんどなかった事も関係してくるものと思われる(注18)。これらのことから、半村良は作品の掲載雑誌の傾向を意識したうえで作品を執筆しているといえる。
 このことが、「炎の陰画」にもあてはまる。筆者には読者層を意識しないとは言わないまでも、その意識が希薄であったと思われる。読者を意識しているにしては、「炎の陰画」に半村良らしくないストレートな暗さが全面に出ている。その暗さを雑誌にあわせたためだとは思えない。創刊号でどこまで読者を意識できるのかという問題もある。その暗さは半村良のベースである「私小説」に求めることができる。希代のストーリーテーラーである半村良が私小説?と思う向きもあるが、半村良自身が前出の矢野徹との対談のなかで以下のように述べている。

  だからぼくのベースは、私小説ですね。自分ではそう思っている。確信している。
  −−すると、「雨やどり」的なものが原点であるわけ?
   「雨やどり」よりもうちょっとかための感じですね……。「雨やどり」は、かなり商品意識
(注19)があって書いたもんですからね……。そうですねえ、もっと、「炎の陰画」とかね、もおちょっと前に書いたような気がするんだけど、そういうものがベースですわねえ。

 「炎の陰画」は半村良のベースである私小説を前面に出して執筆した為に、あの雰囲気がでたと受け止められる。商品意識としては希薄な作品であったといえる。それは「炎の陰画」が、『季刊・日本の宗教』という、文芸誌でもないマイナーな雑誌ゆえに可能であったと推察できる。

 

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