第2章 考証・半村良と考証「炎の陰画」


第1節 半村良にとっての東京大空襲

 半村良と「炎の陰画」の渡部健との間には共通点がある。このことは半村良作品のあり方と密接に関係している。それは「晴れた空」にも関係があるのだが、半村良の小説には多くの「半村良」が内在している。現代を背景とした作品はいうに及ばず、時代小説でも、「小説は時代物だってみんな自分の体験が入らないと書けません」(注20)と述べている。作品中の主人公などに半村良自身の体験を織り込んでいて、前半私小説的で、後半フィクションというよな作品もある。それは「ぼくは、自分の半生記をずいぶん書いていますよ。全部違うんです。すこしずつ(笑)」(注21)と述べていることからもわかる。
 それ自体は他の作家もよくやることなのでとりたてて強調することではないのだが、「炎の陰画」にもそれが反映されている。まず、主人公の渡部健の年齢であるが、昭和20年3月の時点で国民学校6年生ということは、半村良(5年生)と1歳違いということになる。ちなみに半村良こと清野平太郎の生年月日は昭和8年10月27日(注22)。これは半村良と年齢的に近い主人公を登場させることによって、その時代をよりリアルに描くことができるからではいないだろうか。昭和20年代を舞台にした作品の主人公が昭和20年の時点で国民学校5、6年生が多い(注23)ということはそれを物語っている。
 昭和20年3月の場面で国民学校5、6年生が多いことのもう一つの理由は、5、6年生の場合、親が教育熱心だと東京に呼び戻している場合があって東京大空襲に巻き込まれることがあった。中学生になっていると一人前の大人として扱われるので集団疎開がなくなり、もっと直接的に戦争に巻き込まれる。それによって戦争に対する考え方にもおのずと違いが出てくる。反対に4年生以下であれば、まず帰ってくるということはなく、戦争の記憶というものも曖昧になってしまう。渡部健を6年生に設定したのは、半村良と年齢が近いこと、本当ならば疎開をしていて被害に遭わなかったはずなのに、偶然その場に居合わせたことにより東京大空襲を経験し、母親の惨劇を目撃してしまうという悲劇性をだしたかったのではないか。
 半村良と東京大空襲との関係であるが、彼は直接には大空襲を経験していない。けれども、一時期本所にいて(注24)、親戚もその辺りにいたため知識として東京大空襲を知っていたようだ。半村良が大空襲時にどこにいたかというのが諸説あっておもしろい。半村良の戦争時の所在が一番初めに記述されたのは、昭和49年8月の「半村良にQ&A」である。そこでは「昭和19年夏、母堂の郷里・能登に疎開。昭和20年8月、敗戦、帰京」とある。昭和50年9月にも自伝的小説「屋根の上のマッカーサー」で「昭和二十一年のことである。焼けただれた東京へ、少年たちがポツリ、ポツリと戻って来た。私も能登に疎開していて、帰ったばかりであった」と記述している。
 それが、昭和53年6月の矢野徹との対談(注25)では最初「五年生ぐらいのときに、読書がころっと一回変わっているんです。疎開で能登に一年近く放りこまれちゃったから」と、以前と変わらない発言をしていたのになぜか東京大空襲の日には東京にいることになっている。
三月十日はいましたよ。あのころはね、小学校の最上級生の中で、親がいい中学校へ入れようというのは、みな帰ってきちゃっているんです。(中略)そのとき、たまたま、京成の立石にいたんです」
 京成立石は、葛飾区で半村良の生まれた所であると、昭和49年8月の「半村良にQ&A」に載っている。ところが、昭和62年7月の「下町っ子浅草に帰る」では「半村さんは本所で生まれて、ず−っと?」という質問に対して、「戦争中立石というところにいってそれから柴又にうつりまして」と答えて生まれも育ちも本所になってしまっている。それどころか、この時点で能登に疎開していたことが消えている。さらに平成3年8月の「ぼくらの故郷を求めて…」(注26)では「田舎とは疎遠だったものですから、情けないことに、おなじ東京の葛飾区の立石に疎開していたんですよ」と答えている。
 ではなぜ能登に疎開していたという説と京成立石に疎開していたという説が本人の口から出たのだろうか。筆者としては「能登疎開説」をとりたい。もともと能登にいたといっていたわけであるし、能登で國枝史郎の「蔦葛木曽桟」を読んでいるはずである(注27)。半村良は『平家伝説』(注28)や『能登怪異譚』(注29)のような能登地方が関係した作品も描いている。両説を比べる時に、どの説のほうが半村良にとってメリットが大きいか考えれば分かりやすいのではないか。そう考えると京成立石にいたというほうがメリットが大きい。東京大空襲はアメリカ人にとっての真珠湾攻撃やケネディ大統領の暗殺事件と同じくらいかそれ以上のインパクトを日本人にもたらしたはずである。それだけに空襲には遭わなかったけれども、その時近くにいたというほうが体験者や読者に共感されやすい。同じように、葛飾区本田町立石という当時田圃ばかりであった所(注30)出身よりも、生まれも育ちも本所であるといったほうが、「下町っ子=半村良」としては商品価値が高かったのではないだろうか。

 

第2節 おしのちゃんと姐さん
 半村良の「半自叙伝的戯文 凡人午睡」(注31)のなかで「炎の陰画」の「おしのちゃん」のモデルの一部となったと思われる女性が登場する。半村良が高校を卒業して紙問屋の小僧を1年間やり、それから手に職をつけようとて板前見習いになる。そこの仲居さんだか仲居さんくずれ(「秋子の写真」(注32)では明代)と「デキちゃって」亀戸天神近くのアパートで同棲するようになる。以下は「凡人午睡」からの引用である。

 「姐さんはよく酔っぱらってた。「なんだい、居候のくせに」って、よくからまれました。あんまり運のいい女じゃなくて、泪をブッちぎって胸張ってるような生き方が、どこからどこまでわたしにはピンと来たんです。年は向こうが八ツ上。故郷に子供が一人いて、貧乏と組んずほぐれつといったあんばいで、パン助すれすれのくらしぶりでした。わたしの人生で、あんなにサンタクロースにあこがれた時期はなかった。姐さんの友達も、親戚も、みんな善い人ばかりで、それでいてみんな貧乏だった。袋にいっぱい贈り物を詰め込んでサンタクロースみたいにその人たちに配って歩きたかったんです。姐さんには、大野屋の足袋を……。」

 「炎の陰画」のおしのちゃんは不妊症なので当然子供はいないし、姐さんがヘロインをやっていたという記述もない。けれども、「何でもかんでも、やなことはみんなあたしにかぶさってくるんだよ。どうして生まれちゃったのかしらねえ」と言うように、おしのちゃんの設定にどうしようもない運の悪さあるのは確かなことだ。おしのちゃんのヘロインだって、姐さんのように泪をブッちぎって生きていくために必要だったからで、「ヘロイン中毒は、非常事態を切り抜けた時の、尻っぽ」というように描かれている。
 姐さんと半村良の年齢差は8歳違い。これはおしのちゃんと健の年齢差にも近い。「もしかすると、男を知って熟れ切った二十七歳の女性と、精気のあり余る十八歳の男とは、肉体の組み合わせとしては理想的なのかもしれなかった」
 もともと半村良は、年上の女性が好みであったらしく、「夢のおわり」(注33)のなかで「年上の人ばかりに惚れる男性」という話にうけて「私」がこう発言する。

 「甘ったれということもあるけど、それ以外に何かあったんだよ。いろんな男を知って、生活もちゃんと自立している。若くないから色気もみずみずしくないが、そのかわりひょいとしたときにひどくかわいらしくなっちゃう。実際の年とそういうかわいらしさの差が、こっちにはワクワクするほどうれしいんだなあ。」

「凡人午睡」での「サンタクロースになって……。」というのは、まるまる「炎の陰画」で使われている。

  健はこの『街』というバーを、本当におしのちゃんのものにしてやりたかった。 表通りでは、デパートや商店が、クリスマスの飾り付けをしていた。健はサンタクロースになりたいと思った。『街』という店を、赤いリボンで飾って、おしのちゃんにプレゼントできたら、どんなに幸せだろうと夢想した。

これらの事柄から、おしのちゃんという人格を形成するにあたって、その成分の何割かがこの姐さんであったといえる。それも、真偽は確かでないものの半村良の実際に経験したであろうと思われる過去とその人物によって形成されているといえる。

 


第3節 半村良と天皇人間宣言

 「炎の陰画」に老人が登場する。おしのちゃんの父親で、戦中にスパイ容疑で特高に逮捕されていた。その老人が昭和21年1月1日に死亡する。筆者にはなぜ、昭和21年1月1日に老人を死亡させたのかわからなかった。そこで、昭和21年の正月の出てくる他の作品を調べれば、ヒントが見つかるのではないかと思い、天皇人間宣言に辿り着いた。
 天皇人間宣言が登場する作品は、「産霊山秘録 時空四百歳」と「晴れた空」がある。両作品共に、天皇人間宣言に強い衝撃を受ける登場人物が存在する。「産霊山秘録」の主人公の「飛稚」は以下のように作品中で語っている。

「今度は天皇がみんなを守ってくれる番だってね。 立派な大将は切腹しても家来は救うよ。ところがさ、アメリカが来るとすぐ、アール・エー・エーというのができちゃった。 天皇は何もしてくんなかった。やめろとも悲しいとも言わない。それどころかこれはなんだい。俺は神様じゃないだと……。」

  それを受けて登場人物の「福島武郎」が答える。
   「君は国をなくしたって令子に言ったそうだが、俺だって似たようなもんさ。何もかもこうして目の前でひっくり返って行けば、この国は俺の国なんかであるもんか。(中略)日本って国は一度終ったんだ。」
 「晴れた空」の元特攻隊員「前田英治」も同じようなことを述べており、また半村良自身も天皇人間宣言には強い衝撃を受けている。

   八月十五日の敗戦を幾分無感動にうけいれたことははっきり憶えている。
   しかしその翌年の天皇人間宣言は、驚天動地の想いで聞いた。(中略)だから筆者はあの人間宣言をひとつの裏切りとして感じたのである。(中略)天皇も結局命を惜しんだとしか思えなかった。
(注34)

  天皇に関しては、五木寛之との対談(注35)のなかで、「日本史に関わるやつでは、天皇のことを考えるといつでもカーッと腹が立って来て、それですぐ書きたくなる」と述べており、天皇に対してのこだわりがうかがえる。
 これらの作品や、半村良自身のこだわりが「炎の陰画」ではなぜかあまりみられない。天皇人間宣言にはなにも触れずにただ老人が死んだことのみを記述している。これは半村良があえて天皇人間宣言を無視したことに他ならない。半村良は老人の死を「天皇を中心とした旧体制と古い道徳の死」として象徴化させた。「古い道徳の死=老人の死」であればこそ、健は「おじいちゃんが死んで、おしのちゃんよかったね」と発言するのである。その後、昭和24年秋にパンパンじみていたおしのちゃんは健に「あたしは自由よ、自由に暮らしているわ」と発言する。これらの発言は、古い道徳を象徴していた老人が死亡してこそ可能な発言であり、それまでの道徳からの解放を表す発言であった。

 

第4節 考証「炎の陰画」
 作品の舞台となる本所は、半村良が国民学校の途中から能登に疎開するまで住んでいた。(注36)渡部健の住んでいた八軒長屋は八軒並んだ長屋のことか、本所区吾妻橋三丁目、中ノ郷八間町と思われる。(注37)作品中の最初に酸漿についての記述がある。

  どういうわけか、まったく不思議なことだが、昭和二十年三月十日の空襲で焼野が原になった東京の本所、深川あたりは、夏になると雑草が勢いよく伸びだして、八月の末には、その雑草の中に赤いものがちらちら見えはじめていた。
  酸漿だった。

 この記述とほぼ同じことを、昭和47年11月の「産霊山秘録 まえがき」にて「屋上から国会議事堂が見え、草の生い茂った焼け跡には、どういうわけか酸漿の赤い実が至る所にあり……(後略)。」と書いており、平成3年8月の「ぼくらの故郷を求めて…」においても、

  不思議なのは、その大空襲の年の夏、本所大平町あたりの焼け野原に、やたらホオズキがなっていて、非常に印象的でした。(中略)あの赤いホオズキの実の色がやけに生々しくて、死んだ人の血の色を思い出してとてもつらかったですね。

 と述べている。このことが事実であったかは確認できなかったが、「ホオズキ市」というのがあったわけであるし、ほぼ事実であったと見ていいと思う。作品のなかで「酸漿は人間のかわりだ」「赤は火の色、酸漿はてるてる坊主」と表現されているのは、そのまま半村良が終戦当時の焼け野が原を見た時の印象であったのだろう。
 終戦後に住んでいた吾嬬町は向島区。工場の防空壕のあるところならば工場地帯の東町の方とおもわれる。(注38)昭和20年秋に男の下駄と、子供の運動靴を掻っ払った京成曳船駅は吾嬬町の向島区寺島町二丁目。作中の運送屋の特定はできなかった。
 おしのちゃんが父親との会話で、「お上はね、あっちこっちに玉の井みたいなのを作るんだって」と発言している。それはRAA(注39)のこと。作品中に「その頃おしのちゃんがどこでどうしていたか、ずっとあとになっても、健には謎だった」というのがある。半村良はRAAについて「産霊山秘録」では飛稚が「特殊慰安施設協会っていうんだ。日本人の女の体をアメリカ人にくれてやる仕掛けじゃないか」と発言している。「晴れた空」では「語り手」に「米軍がまだ現れもしない八月十八日、内務省はRAAなる組織の発足を準備しはじめている。RAAとは特殊慰安施設協会の略称である。全国にやがて来る進駐軍兵士のための性的慰安施設を作り、それを管理運営する協会がRAAなのだ」と語らせている。「昭和悪女伝」(注40)などの作品で言及していることを考えあわせれば、おしのちゃんがそういうところに落ちていたということがうかがえる。
 健は昭和21年の正月に、防空壕の中でひとりで進駐軍の携帯口糧(ビスケット)を食べるのであるが、そういったシチュエーションでの体験を半村良はあったらしく、昭和51年の『婦人公論』のエッセイ「ビスケット」にて「ビスケットは私にとって今でも孤独な時間の味がする。私はビスケットをいつもひとりぼっちで食べていたようだ」(注41)と記述している。
 焼け残った風呂屋は作品中には場所が出てこない。しかし「晴れた空」では浅草区竹町に焼け残った風呂屋があると書かれている。(注42)
 健がおしのちゃんと再会する錦糸町。錦糸公園(注43)や映画館(注44)や喫茶店(注45)は半村良が都立三中(注46)に通っていたので庭みたいなものである。昭和24年秋に健とおしのちゃんが再会するがそれは10月17日以降のことで、なぜなら「野良犬」は10月17日からの公開(場所は本所映画)であった(注47)。健が初めて女を知ったのは吉原で、17歳か18歳のとき。半村良も17歳のときに吉原で、先輩につれられていったらしく(注48)、赤線にまにあったくちである。
 おしのちゃんのやっている銀座二丁目の『街』に行ったのは、錦糸町で再会してから丁度1年。昭和25年10月後半以降に再会してその3ヶ月後に『街』にバーテンダーとして出るようになるということなので、昭和26年1月のことだ。半村良は、昭和26年の夏から昼間に銀座でバーテンダーのバイトに行く。なぜ昼間かというとアメリカ兵は昼間からお酒を飲んでいたからだ(注49)。その『街』の近くに豆腐屋があった。昼間に銀座でバイトをしていた半村良は高校を卒業して1年後に銀座にもどって来る。そこのバーの2階で寝起きをしていたが、そのバーのすぐ近くにも豆腐屋が存在していた(注50)
 このように半村良は「炎の陰画」において、自身の経験と生活環境を基本にして小説世界を構築している。これは、「大きなウソを隠すために小さなホントを沢山書く」(注51)一番簡単な方法であろう。田中潤司との対談でも「ですからぼくは、自分の半生記をずいぶん書いていますよ。全部違うんです、少しずつ」(注52)と述べていることからもわかる。その意味では私小説的で写実的な風俗描写がこの作品のベースとなっていることがわかる。

 

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