「文壇アイドル論」  斎藤美奈子  岩波書店  / 評論

村上龍の二五年は、アマチュアリズムの力で新しい道を開拓してきた歴史である、といってもいいでしょう。
(略)しかし、アマチュアリズムとは、はて何か。
もしかしてそれは「おっちょこちょい」の別名ではないか。(196p)

「本書はいわゆる『作家論』とはやや趣を異にします。そうですね、あえていえば『作家論論』に近いでしょうか」(はじめに)
と著者がいうように、「アイドル」たちの登場と迎えられ方、その後のとらえられ方を論じている。
とりあげられているのは、T村上春樹・俵万智・吉本ばなな U林真理子・上野千鶴子 V立花隆・村上龍・田中康夫

はっきりいってしまうと「T」はあまりおもしろくない。
この3人に対して斎藤自身が関心を持ってないんじゃないかと思うくらい。
春樹読者を「ゲーマー(攻略者・解読者)」と言い切るのも「?」というかんじだし、俵万智の言語感覚をユーミンと似てるというのはユーミンに失礼だし、
吉本ばななとコバルト作家の相似、という指摘は、多くの読者が感じていることで、いまさら斎藤に教えてもらうほどのことでもない。
あ、でも斎藤が揶揄しているのは、一般読者ではなく、評論家・作家などが構成している「文壇」なんだ、と思えば少し納得。
なんとか文学賞をとったという新人のものを読んでいると、もとネタのマンガがすぐわかるってこと、最近多くないですか。
「あ!パクリじゃん」っていう。
そういうのがわかんないおじさんたちを攻撃しているのだと思えば許せるかも。

U・Vは期待通りのおもしろさ。
たとえばUでは林・上野をこう比較している。

林真理子と上野千鶴子はいろんな意味で「女の時代」のネガとポジの関係にあったように思います。
下から「成り上がった」林真理子と、上から「降りてきた」上野千鶴子。
男社会に受け入れられたいという願望をあらわにし、逆に男社会から強烈なバッシングを受けた林真理子。
男社会を舌鋒鋭く批判したわりに、男社会での居場所をちゃんと確保した上野千鶴子。
しかし、二人のもっとも大きなちがいは、林真理子が「非インテリ=田舎もんのねえちゃん」の代弁者だったとしたら、
上野千鶴子は「インテリ=すくすく育った良家の子女」にフィットするような言説を用意したことです。(150p)

Vではまず、立花隆。
もともと立花隆ギライのわたしでも目からうろこだったのは、
彼の関心が「組織→人間→脳(→さらに精神世界)」と、どんどん”狭く”なって行く、という指摘。
興味の対象がキューっと狭まるところに、なんか幼児性を感じてしまうのはわたしだけ?
立花を見て感じるグロさは、子供を見て感じるときのそれにそっくりだ。
立花が見る「世界」は箱庭で、政治も宇宙科学も脳も、彼にとってはおもしろくてしょうがないおもちゃでしかないから、
神戸の少年Aについても「うわあ、新しいおもしゃだ〜、中はどうなってんだろう?」と目を輝かして飛びつくので、読んでる方はすごく不愉快だ。

村上龍は人をほんの少しバカにする、ってキッチコピーには笑った。
斎藤も言う通り「両村上」とかいって、春樹と龍を比較することには何の意味もない。
「龍=動物的・野性的・あぶらっこい」「春樹=植物的・理性的・さわやか」みたなことが昔は言われたが、
村上春樹の思考は常に厳しくて、タフで、エネルギッシュだと思う。
実は龍より春樹の方がケンカに強いと思うんだけどな〜。
龍が意外とチンチクリンでずんぐりむっくりなのと、
春樹の声が意外と低くて太くて松田優作みたい(わたしは稲垣潤一みたいなのを想像していた)なのが、象徴的だと思う。
閑話休題。
その「おっちょこちょい」に愛嬌があって、村上龍は愛されるんだろう。斎藤はそうは言ってないと思うが。

最後の田中康夫の項は圧巻。
作家としての田中の仕事をこれだけきれいに的確に分析してくれた人がいままでいただろうか、と思った。
「なんとなく、クリスタル」での、本文の「だである体」と註での「ですます体」の使い分けの意味。
その後、その2通りの「田中康夫」を彼は小説とエッセイとで使い分けているので、両方を読んで初めて言いたいことが浮かび上がってくる、という指摘。
しかしたいていの読者(論者)は小説とエッセイの両方を読んではいないので、どうしてもやすおちゃんの真意は伝わらない。
この辺は具体例を挙げてていねいに説明してくれていて、なんだかやすおちゃんかわいそう、と思ってしまったわたしもどうかと思うが。
だからといって田中康夫の小説を読んでみようと思わなせないところが、この本が「作家論」ではない証拠だ。(2002.07.13)



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