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民衆的要素
善と美の一致
西欧とロシア
社会的・政治的問題への関心
文学者の使命感
黄金時代
文学批評

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注意:1918年以前の年月日はロシア暦(西暦より13日遅い)
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ロシア史は激しい断絶の歴史である。社会主義革命という一国家体制の全面的崩壊以前にも、キエフ・ロシアの滅亡、240年も続いたタタールのくびき、北西ロシアにおける諸公国の崩壊、ロマノフ王朝成立前の17世紀初頭における動乱、ピョートル大帝の改革という大激変をロシアは経験している。ロシアはそのたびに政治的骨組みを立て直し、精神の再教育をはからなければならなかった。

ロシア文学の特徴

キリスト教的ヒューマニズム ロシア文学はロシア史のこのような激変に対応してきた。ロシアの文学ほどその時々の社会的・政治的問題を強烈に反映している文学はほかにない。ロシア史における最初の強烈な断絶として、さらに10世紀末のビザンティン正教の国教化をあげることができる。このキリスト教への改宗の結実としてロシア文学は生れたのであって、以後キリスト教に培われた真摯なヒューマニズムが、上述のその時々の現実への強い関心と並んで、今日に至るまでロシア文学のユニークな伝統として生きつづけるのである。

民衆的要素

ロシアは西欧諸国と比べると、歴史の連続性を欠き、そのため安定した統一のとれた多層的な文化を生み出さなかったが、その代わり豊かな口承文芸が民衆の間で代々伝承され、保持された。ロシアの民衆叙事詩ブイリーナ、おとぎ話、伝説、歌謡はヨーロッパで最も洗練された美しさをもち、ロシア文学の民衆的性格の形成に貢献し、ことにロマン派時代以後、ロシア詩に大きな影響を与えた。
民衆文化はロシアの近代化・西欧化の大波の底で生きつづけ、L.N.トルストイモダニズム時代の作家たち、ソ連時代の農村派の作家たちに霊感を与えつづけている。

善と美の一致

ロシアは東方ビザンティン帝国からキリスト教を取り入れ、それと同時にギリシア語の強い影響を受けた教会スラブ語を文語として受け入れた。このことはラテン語とカトリックで統一された、いわゆる'ラテン的中世'と異質の文化を生むもととなった。ビザンティン正教の受容はこのように西欧との分裂の始まりであったが、これは古典ギリシアの観念、感覚で彩られたキリスト教の受容にほかならず、善と美の一致というギリシア的イデオロギーがロシアにもたらされることになる。道徳的美しさの理想というトルストイやドストエフスキーの文学の特徴はここに起源をもつ。

西欧とロシア

カトリック教と異なった、ビザンティン正教の導入にもかかわらず、キエフ・ロシアと西欧との間には深い人的・文化的つながりがあったが、13世紀半ばからタタールの支配による'鉄のカーテン'が240年間もつづいたため、西欧のルネサンス、宗教改革から切り離された。タタール支配から解放された後もモスクワ公国は中世文化をそのまま温存した形で18世紀を迎えることになる。この中世文化はきわめて農民文化・民衆文化の色彩が濃厚で、例えばゴーゴリの作品のなかに見事に反映されている。
この中世的要素こそしばしば西欧側からアジア的と誤認される要素なのである。ピョートル大帝による近代化・西欧化政策が激越にならざるをえなかった理由もここにある。ピョートル改革以後、西欧文化はストレートにロシアに移入されるようになった。文学流派、文学思潮の断起、交替も西欧のたどった道程を追うことになった。
西欧文学の中で、ロシア文学に最も大きな影響を与えたのは先ずフランス文学であり、ドイツ文学がこれに次ぐ。古典主義時代にはフランス文学が、ロマン主義時代にはドイツ文学が優越するという具合に、影響の度合いは時代により、また作家により異なるが、対立し補完し合う二大要素としてロシア文学は急速に発展して、1世紀足らずの間に、西欧の文学をもっぱら受容する側から、その富を西欧に返す側に回る。世界文化史的にみてもまれに見るこの劇的変貌はいわゆるロシア帝国時代の所産である。

社会的・政治的問題への関心

異民族タタールによる支配、イワン雷帝からピョートル大帝、そしてスターリンに至る専制、弾圧、粛清のもとであえぎ、社会の後進性、立ち遅れた制度、農奴制という近代における奴隷制、階級間の隔絶といった社会的矛盾に苦しむという歴史的状況とロシア文学の特色とは切り離して考えることはできない。またロシアでは議会のような社会的発言の演壇がなく、言論お自由も検閲によって制限されていて、社会評論・政治的発言の場がなかったから、文学が唯一の'演壇'であった。これがロシア文学が深い思想性・政治性をもたざるをえなくなった外的条件の1つである。文学は政治的・社会的意見をほとんど発表できないような反動的な時期でも人々に何らかの視野を提供してくれた。このような状況から、作家を実存の謎を解き明かしてくれるかもしれない賢人と見、つねに真実の探求にはげむ賢者とみなすロシア的伝統が生れる。ロシア文学は伝統的に社会・政治参加の文学であった。 文学批評は文学作品を解説し、検閲の目をかすめて政治的・社会的発言をそのなかにしのびこませるという方法によって、社会評論の代役を果たすことになった。文学はかくしてロシア帝国の'法'と反動制との闘争の最も重要な果し合いの場となった。
国家の側も文学の重要性、社会的役割を認識しており、指導・監視の目を怠らなかった。検閲体制の厳しさ、作家と国家の緊張関係は、帝国ロシア時代、ソ連時代を通じてロシア文学を特徴付けている。追放、流刑、処刑、亡命という運命がロシア作家のうえにはしばしば降りかかった。このような迫害によって、作家の側の求道者的・殉教者的態度もいっそう急進的になっていく。

文学者の使命感

ロシア作家は、'人はいかに生きるべきか''なぜ我々はここに存在するのか'という根源的な問題、哲学・宗教・論理の問題に深く心を奪われていた。ピョートル大帝の急激な近代化がもたらした歪、西欧化したエリートと中世的農民文化のなかにとどまる大多数の貧しい民衆との間の深い亀裂というロシア史上の決定的な問題がロシア作家の心に重くのしかかっていた。作家たちはロシアの民衆のもつたくましさや精神の美しさを認め、あるいは民衆の保持している純粋なキリスト教信仰を賛美し、その豊かさを文学のなかで描こうと努めた。やがて民衆文化のなかに民族精神の精髄を見いだそうとするドイツ・ロマン派のイデオロギーの影響がここに加わることになる。19世紀になって先進西欧諸国の文明の墜落が批判されるようになると、文明の悪に染まっていないロシアの民衆の存在がロシア作家の前で輝きを増してくる。この民衆がみじめな状態におかれていることに対してロシアのエリートは良心のかしゃくに苦しんだ。いわゆる'悔い改め遺族'が生れる。その社会改革的使命感は求道者的作家トルストイに最もよく体現されているが、インテリゲンチアの1870年代の'民衆の中へ'という運動もやはりこの使命感の表現であった。

小説の黄金時代

ロシア文学の名声を世界的に高めるきっかけとなったのは、ロシアの小説である。小説の黄金時代は、ちょうどアレクサンドル2世の治世期間(1855-81)と一致する。ツルゲーネフの「ルージン」(1856)にはじまり、ドストエフスキーの「カラマーゾフ兄弟」(1879-80)で終わり、ツルゲーネフドストエフスキーの死、トルストイの文学放棄宣言という劇的事件によってしめくくられる時代である。

詩の黄金時代

しかし、その一時代前に詩の'黄金時代'があった。ピョートル大帝の近代化とともに始まったロシア近代文学のあゆみも、18世紀100年間の長い徒弟期間を経て、文学の基礎となるべき文章語がようやくプーシキンの時代確立期を迎える。そしてその文章語の花が最初に結実したのが詩の世界である。1783年生れのジュコフスキーは別格として、1792年生れのビャーゼムスキーから1809年生れのコリツォーフに至る約20年間の間、ほとんど毎年1人というような割合ですぐれた詩人が生れ、これらの人々がロシア詩の黄金時代を担うのである。この時代の言語的実験の蓄積のうえに小説の黄金時代が花を咲かせることになる。1880年以降の文学の一般的不振のなかから、19世紀末に再び詩がよみがえってくる。ロシア詩の'銀の時代'といわれる時代である。文学史的には象徴主義、あるいわ広い定義でモダニズムと呼ばれる時代である。小説の黄金時代は前と後から'詩の時代'にはさまれているのである。

文学批評

ロシア近代文学の他のジャンルが全てそうであるように、ロシア文学批評もヨーロッパ批評史の欠くことのできない一部である。ロシア批評の父ともいうべきベリンスキーの生きた時代は、二コラーイ1世治下の社会的見感覚の体制下に生きていた青年が西欧からもたらされる思想を不条理なままの熱意でくみとり、それを実行に移そうとし、またそれを極端な結論にまで発展させようと身構えていた時代である。消化吸収された最初のイデオロギーはドイツ・ロマン主義のイデアリズム(理想主義、観念主義)であった。
人間としても芸術家としても一貫して全面的に社会のために献身せねばならぬ、作家はまず第一に人間であり、自文に責任をもち、真理を語り、優れた作品を作らねばならぬというベリンスキーの理念は、まさにロマン主義哲学から生みだされたものである。人生と芸術の間にはっきりと線を引かないタイプのロシア的社会批評は、ベリンスキーの創始した方法である。彼の批評はツルゲーネフをはじめ作家たちによって真剣に受けとめられ、創作の面に大きな寄与をしたが、インテリゲンチアの進歩的人生観を培うという点で、より大きな社会的意味をもった。ベリンスキーの弟子たちの時代になると、俗流唯物論、実証主義、イギリスに由来する功利主義などの影響を受け、より急進的な方向に向かい、ドストエフスキートルストイ、レスコフ、チェーホフなどと激しく対立することになる。ジャーナリズムの主流を占めた功利主義的批評派が文学的価値や技法を軽視し、芸術としての文学の視野をせばめたことの悪影響は、1870年代以降の文学的不毛という結果を生んだ。文学ジャンルとしての批評がよみがえるためには、20世紀初頭に開花したロシアの文化的ルネサンスの子として生れたフォルマリズムを待たなければならない。革命後はベリンスキー以下の急進派の伝統がマルクス主義と結びついた形でソビエト批評の主流が生れたが、フォルマリズムはそれとせめぎ合い、融合し、西欧の新批評やヌーベル・クリチックと通ずる構造主義的批評を展開した。