ノーヴィコフ、二コライ・イワーノビチ
1744.4.27-1818.7.31

Novikov, Nikolai Ivanovich
Новиков, Николай Иванович

ノーヴィコフ肖像出版者。

農奴制廃止の主張などの自由主義思想により投獄されたが、その啓蒙的活動はロシア文化に大きな足跡をとどめた。

ノービコフは中流遺族の家に生まれた。モスクワ大学付属高校中退後、ペテルブルグでしばらく軍務に服したのち、女帝エカテリーナ2世が召集した“新法典”草案起草委員会の書記となり、この勤務を通じて、当時のロシアの農奴制の真の現実に対する豊富な知識を得た。1769年のはじめ、エカテリーナがイギリスのアディソンおよびスティールの日刊紙《タトラー》、《スペクテーター》の例にならって、自らの指導の下に週刊の風刺雑誌《あれもこれも》を創刊させ、風刺雑誌の一時的流行のきっかけを作ったとき、ノーヴィコフもまた雑誌《雄蜂》(1769-70)、《画家》(1772)、《財布》(1774)を発行して特に都市の小市民の間に絶大な人気を博した。例えば《画家》のごときは彼の生前中5回も版を重ねた。記事は大部分匿名であったが、その多くは発行者ノーヴィコフ自身の手になるものとされている。記事のジャンルは短編、ルポルタージュ、旅行記、対話、書簡文、(諸種の社会的不正に対する)処方箋、(架空の)広告文など、極めて多方面にわたっており、ノーヴィコフがはじめたこれらの形式は、20世紀初頭に至るまでロシアの風刺ジャーナリズムによって受け継がれた。

上記の3つの雑誌のうち、最初の《雄蜂》は、エカテリーナ2世自らも寄稿した《あれもこれも》を相手に、風刺のあるべき姿についての果敢な論戦を展開したことにより、文学史上特に有名である。女帝が“あらゆる場合に人間愛を失わず”、微笑をもって“一般的な”人間の弱点を揶揄することを目差したのに対し、ノーヴィコフは、“人間愛”とは“悪徳を大目に見る”ことではなく、“悪徳を矯正する”ことであるという主張の下に、農奴制の生みだすさまざまな社会悪、例えば地主の無知蒙昧、粗暴な風俗、道徳的退廃、裁判官の汚職、残薄なフランス崇拝などの“具体的”な暴露を風刺の主眼とした。このような傾向をもつノーヴィコフの風刺作品の代表的な例は、いずれも《画家》に載った「***への旅の断章」と「ファラレイへの手紙」である。前者は“残忍な暴君”すなわち地主の圧制に苦しむ農奴の悲惨な生活を、後者はペテルブルグに勤務する息子に宛てた地方に住む地主の父、母、叔父の手紙の形を借りて、“暴君”そのものの卑俗かつ野蛮な生活信条を痛烈に風刺している。

3つの雑誌は、発行者の巧妙な戦術的配慮にもかかわらず、いずれもエカテリーナの圧迫によって短命に終わらざるを得なかった、ノーヴィコフはその後、フリーメーソンの一員となり、1779年、同誌たちの協力を得て出版社を設立し、大規模な出版活動に乗り出した。“人間のあらゆる迷妄の原因は無知にある”という信念に根差すこの事業の持つ啓蒙的意義は、ロシア文化史上特筆すべきものがある。ノーヴィコフはロシア最初の職業的出版社であったばかりでなく、自らの事業によってロシアにはじめて“読書界”というものを作り出した。1780年代全体を通じて、彼は子供のための本、文法、算数、歴史、地理などの教科書、農学、医学、衛生学、教育学などの参考書、翻訳によるフランス啓蒙家(ヴォルテール、ルソー、モンテスキューその他)や西欧作家(モリエール、コルネイユ、ラシーヌ、スウィフト、レッシングその他)の作品など広範な領域にわたる書籍、さらに諸種の雑誌、新聞などを出版した。発行部数も非常に多く、当時のロシアで出版された全ての書籍、定期刊行物の3分の1を占めたといわれる。

ノーヴィコフの啓蒙家としての熱烈な信念に基づくこの目覚ましい出版活動は、すでに1780年代の前半から女帝の嫌疑を招くようになっていたが、1792年、ノーヴィコフはついに女帝の命によって逮捕され、裁判を経ずにペテルブルグのシュリッセリブルグ要塞監獄に幽閉され、4年後の96年、新帝パーヴェル1世によって解放されたが、出版事業のみならず全ての社会活動を禁ぜられた。経済的にも落魄し、肉体的にも衰弱したノーヴィコフは、その後22年間、なすところなくモスクワ郊外の領地に隠れ住んで、1818年7月31日、生涯を終えた。74歳であった。


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