ラジーシチェフ、アレクサンドル・ニコラエビチ
1749.8.20-1802.9.12

Radishchev, Aleksandr Nikolaevich
Радищев, Александр Николаевич

ラジーシチェフ肖像 作家、詩人。

ロシア最初の革命思想家で、農奴制および専制への仮借なき弾劾の書である主著「ペテルブルグからモスクワへの旅」によって、1825年に武力蜂起を企てた貴族革命家の集団であるデカブリストたちの直接の思想的先駆者となった。

ラジーシチェフは富裕な地主貴族の家に生れ、ペテルブルグの中央幼年学校に学んだ。1766年、女帝エカテリーナ2世によってドイツのライプツィヒ大学へ留学を命ぜられ、専門の法律のほかに哲学、文学、自然科学、医学などを学んだ。彼の哲学上の関心は18世紀フランス啓蒙主義に向けられ、ルソー、エルヴェシウス、G.B.マブリ、ディドロなどの著作によって思索することを学んだ。

1771年、ラジーシチェフは帰国後すぐに元老院に入って諸種の請願書整理の任にあたり、この職務を通じて農奴制の実状を知るとともに、やがて、専制の続くかぎり農奴制の悪を除去することは不可能であるという信念の達した。1773年から75年にかけて、彼は元老院の職を離れて軍務に服したが、この時期はちょうどコサックのプガチョーフを指導者とする農民の反乱の時期にあたっている。当時のロシア社会に深刻なショックを与えたこの反乱は、ラジーシチェフに“農奴制の敵”(プーシキン)としての信念をますます深めさせた。

1780年、ラジーシチェフはペテルブルグ税関の役人となり、90年には同じ税関の長となった。税関勤務のかたわら著作活動にも従い、83年にはロシア最初の革命詩である頌詩(オード)「自由」を完成している。主著「ペテルブルグからモスクワへの旅」は、ペテルブルグ警視総監の出版許可を得て1790年1月、自宅に設けた印刷所で650部の印刷を完了、匿名で出版し、書店には25部しか出さなかったが、出版お噂はたちまち首都に広まった。エカテリーナ2世はこの本を読んで激怒し、“著者はプガチョーフより悪質な反徒だ”と言ったと伝えられる。身の危険を察したラジーシチェフは、自宅にあった残部を全て破棄した。しかし時すでに遅く、彼は女帝の直接の命令によって逮捕され、死刑を宣告された。しかし、結局は死一等を減ぜられ、首都から7000キロ離れたシベリアのイリムスクに流刑となった。

6年後の1796年、ラジーシチェフは、新帝パーヴェル1世によってロシア帰還を許され、さらに1801年、アレクサンドル1世の即位後、完全な自由を与えられて首都に住み、皇帝の命によって法典改訂のために設置された委員会の委員となった。しかし、委員会の雰囲気は、依然として自己の政治的信念を変えなかったラジーシチェフにはしだいに耐え難いものとなった。結局、彼は1802年9月12日、53歳のとき毒を呷って自殺した。自殺の直接な原因を立証する確実な資料はないが、たぶん法典改訂に関する自己の抱負を部分的にすら実現させる見込みのないことに対する絶望であったと推定される。

「ペテルブルグからモスクワへの旅」は、形式ないしスタイルの点ではローレンス・スターンの有名な旅行記「感傷旅行」(1767)に範を採っているが、内容や精神はまったく別物である。「感傷旅行」がもっぱら作者自身の個人的、内面的体験、移り行く感情の微妙なニュアンスを写し出そうとしているのに対し、「ペテルブルグからモスクワへの旅」はロシア社会の暗黒面の客観的な描写を主眼としている。また「ペテルブルグからモスクワへの旅」が一定の構想に基づいて素材を配列し、多方面な考察から明確な結論を引き出している点もスターンの作品と違っている。この意味で、「ペテルブルグからモスクワへの旅」は枠組みからいえばスターン流の感傷主義のジャンルに属するが、本質的には19世紀ロシア小説の主流を占めることになる批判的リアリズムの傾向を先取しているということができよう。

「ペテルブルグからモスクワへの旅」の第1のテーマは、ロシアの農奴制の暴露である。全体で26章のうち12章がこのテーマに捧げられている。ここに描かれた農奴の悲惨な境遇は、現在なお読む者の心を打たずにはおかない。週に6日、賦役労働に駆り出され、かろうじて休日と月夜の晩にだけ自分の畑を耕すことを許されている農奴。不動産と一緒に競売に付される農奴。そのなかには、例えばかつて戦場で負傷した主人を救い出した老人や、かつて地主の母の乳母だった80歳の老婆も含まれている。地主の意志により、互いに憎みあいながらも、“刑場へ引かれるようにして”婚礼を挙げさせられる農奴の男女、地主の圧制に耐えかねて息子たちとともに地主を惨殺する農奴たち、殺人者たちに罪がないことは“数学的に”明らかだ、と著者は付け加える。

地主―― “飽くことを知らぬ野獣” ――は、農奴に“空気だけを”残して、あとは全てを奪い取る。“地主は農奴に対して立法者であり、裁判官であり、自己の決定をの遂行者であり、かつ自己の希望に従って原告となる。この原告に対して被告は、あえて一語をも発することができない。”

農奴制と並んで著者が容赦のない攻撃を加えているのは専制政治そのものであり、これが「ペテルブルグからモスクワへの旅」の第2のテーマを形作る。“皇帝は社会における・・・・・・・殺人者の筆頭であり、盗賊の筆頭であり・・・・・最も凶悪な敵である”というのが、「ペテルブルグからモスクワへの旅」の全編を貫く著者の根本思想である(このことを最もよく理解したのは他ならぬエカテリーナ2世であった)。この専制の支配機構のなかにあって、諸種の役割を果たしている者たちの非行も、著者の批判を免れてない。すなわち、大小の行政官たちの利己主義、司法官の汚職、商人の限度を知らぬ貪欲さ、地主貴族の道徳的退廃など。

ラジーシチェフは、彼が当時のロシア社会の根源的悪とみなすこの農奴制と専制――「ペテルブルグからモスクワへの旅」全編おモットーによれば“百あぎと(〔あぎと〕は古語で動物の口を指す)を持ち、たけりほゆる・・・・・・巨大な怪物”――の本質をあますところなく暴露し、この2つの体制を全面的に否定し去ったのみならず、さらに進んで、この2つの制度が革命によって崩壊することの必然性を暗に説いている。「ペテルブルグからモスクワへの旅」に一部挿入された上述の頌詩「自由」のなかで、著者は人民に対する圧制が極限に達したとき、人民は一斉に蜂起して“王冠を頂く呵責者の血でみずからの恥辱を洗い清め”、自然によって与えられた“復讐の権利”を行使して皇帝を断頭台に送るであろうことを予見している。このように革命の遂行者をロシアの人民、すなわち農民に見ていたこたは、ラジーシチェフの思想の注目すべき特徴とされる。ラジーシチェフはフランスの啓蒙主義哲学者たちと異なって、ブルジョアないし“第三階級”ではなく、農民そのものが圧制に対して蜂起するだろうと考え、それゆえにまた、同時代のロシアの箸作家の中でただ1人、プガチョーフの反乱に対して同情的態度を示した。

「ペテルブルグからモスクワへの旅」は、旅行記という自由な形式を借りて、18世紀ロシア社会の出題するあらゆる問題(法律、宗教、倫理、政治、経済、文化、家族制度、さまざまな身分間の相互関係など)を広く見渡し、当時の最も進んだ思想(社会契約、法の下での万人の平等、自由、自然によって与えられた基本的な人権など)の光に照らしてそれらの問題に独自の解決を与えている。著者が達した農民による革命の必然性の結論は、農民の苦悩に対する著者の人道主義的怒りもさることながら、そうした広範な現実の把握と確固たるしそうがその裏づけとなっているのである。


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