べリンスキー、ヴィサリオン・グリゴリエヴィチ
1811-1848

Belinskiy, Visarion Grigorievich
Белинский, Висарион Григорьевич

べリンスキー肖像 19世紀40年代の急進主義者、文芸批評家。

ロシア海軍の軍医の子として生まれ、29年ペンザ中学を中退して後、モスクワ大学文学部に進学した。在学中に作家を志し戯曲を書いたが、それが農奴制を非難するものであったため大学当局の注意するところとなり、32年放校処分を受けた。それ以後ベリンスキーはスタンケヴィチの文学・哲学サークルのなかで知的知的訓練を受けた。彼は家庭教師や翻訳によってかろうじて生計を維持していたが、34年「文学的空想」(Литературные мечтания)を発表し、文芸批評家としての地位を不動のものにした。1839年ペテルブルグへ移り、《祖国の記録》(Отечественные записки)誌に協力し、文芸評論や社会主義に関する緒論文を発表した。40年代彼がヘーゲル右派から、左派へ、ついで社会主義へと転ずるにしたがって、彼の周囲には多数の進歩的文化人が集まった。ちなみに、ゴンチャロフやドストエフスキーはベリンスキーの文芸批評によって文壇に登場するのである。

ベリンスキーはゲルツェンやバクーニンらとともに40年代の西欧派(западники)を代表するインテリゲンチアであったが、彼らがいわゆる雑階級出身者(разночинец)であった点では60年代のチェルヌイシェフスキーやドブロリューボフらの先駆者であったといえよう。彼は最初シェリングの影響の下にその知的生活を開始した。その後バクーニンを通じてヘーゲル哲学を学び、しばらくヘーゲル右派の圧倒的な知的影響の下にあって、反動的なニコライ一世の専制政治と農奴制をも“理性的な現実”として承認し“現実との和解”を説いていた。しかし豊かな社会意識に恵まれていた彼は、ロシアの現実との和解に長く安んじることができなかった。彼は生ける人間人格の擁護の名において激烈なヘーゲル批判を行い、現実との和解から闘争の方向へと大転換を宣言するのである。こうしてベリンスキーは生ける個人を抑圧する一般者(理性、精神、神)にたいする反逆から社会主義の立場にたちことになる。彼の社会主義の根本理念は二つの原理―人間人格の至高性と人間社会の社会主義的組織化―のうちに定式化された。彼にとって社会主義はなによりも先ず人間の倫理的な諸問題に解決を与え、個人の自由と人格的尊厳を高揚するものでなければならなかった。  

彼はけっして本系的な社会主義理論を樹立しなかった。しかしながら彼の社会主義思想のうちには、後年のロシア・マルクス主義への発展する思想的萌芽がすでに看取される。彼はナロードニキーに特徴的な“人民”への盲目的な信頼も、資本主義にたいする偏見も持ち合わせていなかった。ベリンスキーは工業の発達を高く評価し、さらにブルジョアジーの重要性をも承認していた。この点で彼の個人主事的社会主義は“科学的”社会主義に接近していたのである。


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