ゲルツェン、アレクサンドル イワーノヴィチ
1812-1870

Gerzen, Aleksandr Ivanovich
Герцен, Александр Иванович

ゲルツェン肖像 作家、思想家、空想的社会主義者。

モスクワの富裕な地主貴族の家に生まれ、少年時代に1825年のデカブリストの反乱処刑から強い影響を受け、生涯その継承者となることを誓った。1829年モスクワ大学に入学し、オガリョーフらと西ヨーロッパの社会主義(特にサンーシモン主義)うを研究・普及する急進的な学生グループを組織した。卒業後1834年に国事犯として逮捕され、1840年にいったん流刑をとかれてペテルブルグに移ったが、翌年ふたたびノヴゴロドに流刑された。1842年に許されてモスクワにもどり、活発な文筆活動を展開する一方、ベリンスキーとともにヨーロッパ派(西ヨーロッパ主義)の最左翼の立場にたってスラブ派(スラブ主義者)と論争した。その時期にヘーゲル、フォイエルバハを研究して哲学論文「科学におけるディレッタンティズム」(1843)、「自然研究に関する手紙」(1845-46)などを書き、弁証法を“革命の代数学”として評価して弁証法的唯物論に接近し、また小説「ドクトル・クルーポフ」(1847)、「だれの罪か」(Кто виноват?, 1846-47)などにおいて農奴制の悲惨な状況をあばいた。

1847年に自由な世界を求めてロシアを去り、パリにむかったが、1848年革命とその敗北を目撃して、ブルジョア民主主義を鋭く批判するとともに西ヨーロッパの社会主義の未来への期待も失い、西ヨーロッパ社会にたいする深い絶望に陥った。その時期の彼の思想的動揺、いわゆる“精神的破産”は「フランス・イタリアからの手紙」(1847-50)、「向う岸から」(1847-50)に描かれている。

このような西ヨーロッパに対する深い絶望、懐疑、ペシミズムのすえに彼は未来への期待をロシアにかけて「ロシア社会主義」の理論に到着し、「ロシア」(1849)ではじめてこの理論を提起して以来、「ロシアにおける革命思想の発達について」(1851)、「ロシア人民と社会主義」(1851)などにおいて繰り返しこの理論を展開した。この理論の骨子は、ロシアの農村共同体を基盤として社会主義を実現することにあるが、彼は農村共同体が農民の本能的な“共産主義”、土地の共同利用制度、共同体内の自治制度などの点において農奴制を廃止と農民の土地付き解放によって社会主義の基盤となりうるとした。この理論は農村共同体と農民を理想化している点でスラブ派に接近し、また、資本主義の段階を経ないで直接に社会主義に移行できるとする点で空想的であるが、彼は西ヨーロッパの社会主義の理論と社会主義実現の客観的基盤としての農村共同体との結合によって従来の社会主義の空想性の克服を意図し、さらに“ロシアの未来をになう人間は、フランスにおけるそれが労働者であるのとまったく同様に、百姓である”として農民に変革の主体を求めた。彼はこの理論によってナロードニキ主義の創始者とされている。

1852年に彼はロンドンに移り、翌年《自由なロシアの印刷所》を設立して多くの革命的文献を出版し、また1855年から文集《北極星》、1857年から隔週刊紙《コーロコル》(鐘)を発行して農奴制・専制との戦いを祖国によびかけた。1861年の「農民改革」の準備期に農奴制・専制にたいする戦術を巡ってチェルヌイシェフスキードブロリューボフらと対立して自由主義への後退を批判されたが、60年代はじめにチェルヌイシェフスキーの思想的影響のもとにロシアで形成された革命的秘密結社「土地と自由」の創設にオガリョーフとともに参加し、また1863-64年のポーランドの反乱を支持してポーランドの解放運動とロシアの農民運動との結合をおよびかけた。1865年ロンドンからジュネーヴに移り、その後ヨーロッパ各地に滞在した。その間国際的な革命運動においてマルクスと論争・対立したが、晩年には「古い同士への手紙」(1870)においてアナーキスト、バクーニンとの長年の友好関係を断ち切って第一インターナショナルと労働者階級の運動に関心をむけ、1870年パリで死んだ。回想記的自伝「過去と思索」(1854-68)は19世紀ロシア社会思想史の重要な文献である。


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