社会主義リアリズム
Socialist realism

目次:

社会主義リアリズムの時代
社会主義リアリズムをめぐる現在議論
社会主義リアリズムの問題点

1932年にソ連共産党中央委員会によって提唱され、34年の第1回全ソ作家同盟大会その他で公式に採用されたソ連芸術・文学および批評の基本方法。ソ連作家同盟の規約の中では、その概念が、

  • 現実を革命的発展において、真実に、歴史的具体性をもって描くこと
  • 芸術的描写は労働者を社会主義の精神において思想的に改造し教育する課題と結び付けなければならない、

と規定されている。もともと社会主義リアリズムという用語は、19世紀文学の基本的な方法であった「批判的リアリズム」と対比して用いられたもので、過去のリアリズムはブルジョア社会の矛盾や悪や人間性に抑圧・歪曲をだいたんに告発し、それとたたかう個人の反抗を描いたが、その現実批判と反抗とを、未来への明るい展望と結びつけることができず、存在の無意義さのほかには、肯定すべき何ものも見いだすことができなかったのに対し、社会主義リアリズムは、かつては空想か理想にしかすぎなかった社会主義社会がすでに現実となっている社会のリアリズムであって、前途への無限の見通しをもち、労働によって新しい社会を築きつつある社会主義的個性の典型を描くものでなければ成らない、とされた。またこのリアリズムは、未来に開かれている無限の可能性への確固たる信頼に支えられているものだから、革命的なロマンチィズムも無縁ではない、と定義された。 そして、1905年の革命挫折後の暗い反動期に、確固たる信念をもって、息子にたいする母親としての個人的愛情をとおして、より大きな階級的連帯性にめざめていくひとりの労働者の母を描いたゴーリキーの「母」(Мать, 1907)が、このような社会主義リアリズムを最初に具体的な作品において実現した例である。

1920年代のソ連芸術・文学界では、主として革命と内戦の過程における大衆蜂起の集団的英雄主義を描いたもの(その代表的な例としては、エイゼンシュテインの映画「戦艦ポチョムキン」がある)、あるいは新しい手法と革命的イデオロギーを結びつけて芸術上の革命を行う実験(例えば、マヤコフスキーの詩や構成主義者の建築、プロレトクリト―プロレタリア文化団体―の演劇運動等)と、プロレタリア芸術・文学の主導性を強調するきわめて政治的なイデオロギッシュな傾向とが相争っていた。そのため20年代の終わりころには、偏狭なセクト主義が生じて、芸術・文学の豊かな発展が阻害される、といった幣が生じていた。

ところが、1930年代に入ると、第一次5カ年計画が成功裡に達成されて社会主義の基礎が強固に打ち立てられたため、従来ややもすれば懐疑的だった多くの旧世界出身者たちも、続々とソ連政権を支持するようになるとともに、社会主義建設における個人の役割が重要視されるにいたった。そこから、芸術・文学の面でも、インテリゲンチア出身のいわゆる「同伴者作家」とプロレタリア作家とをうって一丸とする大同団結が必要になり、またソ連的人間という、全身全霊をあげて社会主義建設にまい進する英雄的な人物を描き出すことが要請されるにいたった。

社会主義リアリズムの提唱はそうした客観的情勢を背景として行われたものであり、したがって、20年代とは異なったタイプの作品がそこから生まれてきた。ニコライ・オストロフスキーの自伝的小説「鋼鉄はいかにして鍛えられてきたか」(Как закалялась сталь, 1932-34)、あるいはワシーリエフ兄弟の映画「チャパーエフ」、あるいは国内戦の渦中にまきこまれて没落していくコサックの主人公の運命を描いたショーロホフの「静かなドン」(Тихий Дон, 1926-40)、あるいはピョートル大帝の歴史的に進歩的な役割と限界とをピョートル個人の人間性をとおして描いた、アレクセイ・トルストイの「ピョートル大帝」(ПётрT, 29-34)とか、マカレンコの「教育詩」(Педагогическая поэма, 1933-35)といった作品がそれである。

社会主義リアリズムは、それが最初に提唱された当時においては、ソ連作家・芸術家に大きな解放感をあたえ、偏狭なイデオロギーをおしつけるかわりに、現実と人間を豊かに描くリアリズム芸術がそこから花開くであろうという期待をもたせた。しかし、やがて、スターリンの独裁体制の確立と並行して、社会主義リアリズムは芸術・文学を一元的に規制する教義ないし規範と化したため、かえって、作家・芸術家の自由な創意をはばむものになった。

また、スターリンの「形式においては民族的、内容においては社会主義的」という定義が、機械的に作品の創造・批評に適用され、文学・絵画においては、19世紀のロシアに特有の写実主義や歴史主義、音楽においてロシアの古い民謡を、そのまま現代の作品の形式として用いることが、社会主義リアリズムにのっとったやり方であるかのような偏見が生まれた。近代的手法はすべてコスモポリタニズムとしてしりぞけられ、多くの芸術家・作家が、逮捕された。また、社会主義を謳歌しようとするあまり、ソ連社会にはもはや、良いものと悪いものとの矛盾葛藤は存在しないという、「無葛藤理論」にまでそれは行き着くことになった。そのため、スターリン批判に前後して、社会主義リアリズムにたいする再検討の声があがり、今日にいたっている。

社会主義リアリズムの時代

20世紀初期のロシア文学は様々な文芸運動と流派が勃興したことが特徴的といえる。その一つとして、30年代に”社会主義リアリズム”と名付けられたプロレタリア文学の創造方法は考察するに値しよう。”社会主義リアリズム”は新しい定義付けを感じていた作家や評論家により当初”新リアリズム”、”新リアリズム派”、”傾向的リアリズム”、”不滅リアリズム”または”プロレタリア・リアリズム”、”社会主義ロマン主義”などと呼ばれたが、議論の末、”社会主義リアリズム”と呼称に確定したが、それまた、ゴーリキーの「母」、「敵」の分類を定義するのにも用いられた。そして、“ゴーリキイは社会主義リアリズムの創設者”というテーマがソ連の文芸学の主要なテーマとして浮上した。

社会主義リアリズムをめぐる現在議論

ペレストロイカの真っ最中、1988年5月に《文学誌》に「社会主義リアリズムは否認すべきか?」という円卓会議のテーマが呈示され、沢山の議論をまきおこした。その円卓会議は初めての率直な意見交換による二者択一的な答えを探る試みでもあった。

議論のつづきとしてB.コルスキイは”我々は「社会主義リアリズムは否認すべきか?」何をいうのか!存在する及び存在していた物をなぜ、どうやって否認できるのか?(...)社会主義リアリズムの背景にはソ連時代における文学発展の客観的法則がいまだに存在する。20年代にはその方法に基づいて、なんと言っても強い作品が書かれている。”と主張した。

その他にも多くの記事が掲載され、今でも掲載され続けているが、多くの場合は虚無主義的な内容に終始している。その仲で二つの傾向がはっきり見られ、一つは社会主義リアリズムを芸術性の外に置き、それを理由にゴールキイを含めそれに関わる全ての作家を否定する(A.Genis, B.Paramonov)ものと、もう一つは社会主義リアリズムを“1930年代のスターリンの創造物” と“理論的な幻”と解釈するものである。

社会主義リアリズムの問題点

典型的なソ連文学のキャラクタ達は、ほとんどが共産主義独裁時代の代表的な喧伝者でもあった。従って社会主義リアリズムの作品の大多数の著者達は、描写している現実の不合理性を反映できなっかたし、また社会主義の公式教義はそれの追求を許さなかった。

何よりも、文学発展の一元論的観念は政治の独裁性に適していた。この時期、“社会主義リアリズムは人類の文芸発展における最高過程”と宣言されたのである。レーニンのいう行政制度の一つの歯車となり、社会主義リアリズムは不可侵の教義として、文学作品の価値の有無を判定する基準となった。伝統的なリアリズム作品すら公認イデオロギーから明らかズレがない限り、社会主義リアリズムに編入させられ、そうではない作品:A.グリンK.パウストフスキーのロマン的散文でさえ,文学史に座を置くに値しない外周的現象と見放された。

このように、 20-30年代を境にした、硬直な文学発展の一元論的観念の形成、芸術の二者択一と美的異端思考の強制的排除は,特に40-50年代の後半に入って、文学運動の衰退をまねき、生み出される作品群をステレオタイプで生命力に欠けたものにした。ソ連文学の復興は60年代にようやく始まり、正常の文学発展に必要な文芸思潮と傾向の二者択一が再び起きたのは、その後である。

しかし、歴史的文化的側面では社会主義リアリズムがロシアの文学的発展において大きな役割をはたし、また、最近のロシアと海外の研究が証明しているように理論的な重要性を持つ事に変わりはない。


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