チャーダーエフ、リョートル・ヤーコヴレビチ
1794-1856

Chaadaev, Pyotr Yakovlevich
Чаадаев, Пётр Яковлевич

チャーダーエフ肖像 思想家。

名門貴族に生まれたが、デカブリストの反乱後ももっぱら哲学的思索の生活に入り、ロシアの文明と歴史を痛烈に否定する「哲学書簡」を著した。

チャーダーエフは18世紀ロシアの著名な歴史家M.M.シチェルバートフ公の孫として、名門の貴族の家柄に生まれたが、幼くして両親に死に別れ、伯母の家で育てられた。少年時代より秀才の誉れ高く、優れた学者を家庭教師として学び、1808年、モスクワ大学に入学した。

1812年、大学を出ると彼は近衛連隊に入隊し、ナポレオン軍との戦闘に従軍して、幾多の手柄を立てた。14年、勝利したロシア軍とともにパリに入城した彼は、そこにロシア社会とあまりにも異なる西欧文明の間の姿を見て、西欧文明の表面的な模倣に終始してきた祖国ロシアの歩みに大なる疑問を抱くに至った。このときの疑問はとちの「哲学書簡」において発展されることになる。1816年にロシアに帰還した彼は、一方では将来の輝かしい出世を嘱望されながらも、他方ではデカブリストの秘密結社に近づき、西欧社会に比べて明らかに遅れているロシアの改革の道を模索し続けた。
このような姿勢を、チャーダーエフに兄事していた詩人プーシキンは、次のように詠んでいる。

“いと高き天の意志により、彼は皇帝勤務の足枷をはめられて生まれたが、ローマにあればブルトゥス、アテネにあればペリクレス、それがここでは――近衛騎兵の一士官”(「チャーダーエフの肖像に」)。

このような気持ちを抱いていたチャーダーエフは、1821年に突如軍籍を退いた。その理由はいまなお判然としないが、のちに蜂起に加わるデカブリストの友人たちと違って、彼は政治的行動よりも哲学的思索に心を集中していったように思われる。かくて23年から3年にわたってチャーダーエフは、イギリス、フランス、イタリア、スイス、ドイツの各地をめぐる精神的遍歴を経験する。この間イタリアでは初期キリスト教徒の遺跡に心打たれ、またカルルスバードではかねてからその著作に接していた哲学者シェリングとも会っている。1826年ロシアに帰った彼は、国境で厳しい取り調べを受けた後、ようやく釈放されてモスクワに戻るが、厳重な警察の監視下におかれた。7ヶ月前にデカブリストたちが反乱を起こしていたからである。この反乱は新たに即位したニコラーイ1世の軍隊によってあえなく鎮圧されたが、絞首刑になった5人の首謀者のうち3人までもがチャーダーエフの親しい友人であり、またそのほかにも多くの友だちがシベリアなどに流刑となっていった。

このときからチャーダーエフはほとんど社交界に出ることもなく、もっぱら読書と思索の年月を送るようになる。特に彼は心を占めたのは、“ロシア文明の本質は何であるか。ロシアの過去と現在はいかなるものであり、その未来はどうあるべきか”という疑問であった。このような疑問に対する自分なりの解答を彼は1829年から31年にかけて、“一夫人への書簡”という形で執筆したが、その8編からなる論文の第1書簡が36年ナジェージジェンの編集する雑誌《テレスコープ》に「哲学書簡」と題されて発表された。これはもともとフランス語で書かれたものを編集部でロシア語に訳して掲載したものであった。当時のロシア政府は“専制、正教、国民性”の三位一体を公式スローガンに掲げ、ロシアが西欧社会に比してもはるかに優れた国であると宣言していたが、チャーダーエフの「哲学書簡」はこれを真っ向から否定するものであった。

チャーダーエフは、ロシアがギリシャ正教を採用することによって、ヨーロッパの大家族から切り離され、東洋にも西洋にも属することなく、あたかも遊牧の民のように、目的も内的発展の原理もなしに、その日その日を送っているにすぎないと主張した。このようなロシアの全文明、全歴史に対する痛烈な否定は、ゲールツェンがのちに述べているように、“あたかも闇夜に響いた一発乃銃声のごとく、思考する全ロシアを震撼させた”のであった。 心あるインテリゲンチアが、この論文によって自分達の胸の奥深く秘めていた思いに火をつけられ、強い感銘を受けた一方で、皇帝ニコラーイ1世はかかる意見の持ち主は“狂人”に違いないとして、公式にチャーダーエフに対し“狂人”の宣言を下すとともに、毎日医者を差し向けた。編集者ナジェージジェンは流刑に処せられ、雑誌はただちに発禁となり、検閲をパスさせた役人も処罰された。しかしこの論文の当否をめぐって当時の知識人の間に一大論争が沸き起こり、19世紀の30年代から40年代にかけて、ロシアの思想界は西欧流の道を主張する西欧派と、ギリシア正教の優越性に基づいてロシア独自の道を主張するスラブ派とに大きく二分された。

その後、チャーダーエフは1837年に“狂人の弁明”と題する一論文を執筆したが、この中で彼はロシアが遅れて歴史に登場したことは、先進諸国の誤りを学ぶことによってむしろ利点に転化させることができるという見解を述べている。これはロシア思想史の上でゲールツェンからナロードニキ(人民主義者)へと受け継がれていく重要な示唆であった。晩年のチャーダーエフはモスクワから出ることなく、独身のうちに1856年に没した。


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