チェーホフ、アントン・パブロヴィチ
1860.1.17-1904.7.2

Chehov, Anton Pavlovich
Чехов, Антон Павлович

チェーホフ肖像 作家、劇作家。

革命前夜のロシアにあって旧世代の没落と新世代の台頭を優れた執筆で描いた多くの短編や、「かもめ」、「桜の園」などの戯曲によって、トルストイ、ドストエフスキーなどに並ぶロシアの分豪とされる。

19世紀後半のロシアでは、旧来の秩序が崩壊しつつあった。さまざまな政治制度は現実の発展と調和しなくなり、大土地所有者の貴族社会はしだいに都市中産階級(ブルジョアジー)と新興資本家階級の支配下に入りつつあった。作家たち、とりわけツルゲーネフ(トゥルゲーネフ)トルストイは、1860年代から70年代にかけての弱体化した社会構造を描き、ドストエフスキーはその時代の知的葛藤を叙述した。しかしチェーホフは、本質的な英雄も大悪漢の存在しない世界をはじめて描いた作家として知られている。その作品の登場人物は、なすべきこととなそうと欲することとの間でしばしばハムレットのように揺れ動きながら、その間にも自分がなす術もなく耐えている悪の諸相を、ますますはっきりと意識していく。そこではロマンチックな幻想と幻滅とがせめぎあい、個としての人間は次々に、ほとんど宿命的に挫折する。だれしもが、そして読者も、生存競争にひそむもろもろの力を、そこに見いださずにはおかない。劇的だが控えめな叙述、敗北と心理的無力感についての極めて詩的な知覚、甘美でしばしば陽気なユーモア、そして異常なまでに鋭敏な言語感覚などが、のちに“チェーホフ的作風”と呼ばれた特徴となっている。

チェーホフはアゾフ海に臨む南ロシアの港町タガンログに商人の子として生れた。6人の子供の3人目だった。祖父は1841年に一家の自由を買い取った元農奴であり、父親は市民としての義務を果たすことに精励して社会的地位の向上をはかり、幼いチェーホフと兄妹たちは父親の雑貨店で働きながら地区の学校に通った。1876年に破産した父親は、再起を期してモスクワに逃れた。母も2人の子供を連れて父の後を追った。16歳だったチェーホフは、人手に渡った自分の家に家庭教師として住みながら学校に通った。

チェーホフはブロンドの髪に茶色の目をし、独立独行型の、愉快でエネルギッシュな、しかも魅力に富んだ若者だった。1879年8月、彼はモスクワで家族と合流したが、父親は労働者として働き、母親は時間雇いのお針子をしていた。チェーホフはまもなく父親の後を継いで一家の大黒柱としての責任を生涯担いつづけるようになる。

彼は奨学金を得てモスクワ大学医学部に入学、84年には卒業してチキノ村の病院に赴任したが、その年の12月に喀血した。かれの命を奪うことになる肺結核の最初の兆候だった。

モスクワに出てきた年の冬、チェーホフは好きで読んでいた娯楽雑誌に作品を書いて家計の不如意をきりぬけようと決心した。1880年3月、《蜻蛉》誌(第10号)が彼の最初の小品を掲載した。同年中にこの雑誌はさらに彼の作品を掲載するが、そのほとんどがチェーホンテと署名されている。81年秋には短編のいくつかが雑誌《目覚しい時計》に採用されたし、また新しく創刊された娯楽雑誌《見物人》に、彼も2人の兄アレクサンドルおよびニコラーイも作品を発表した。82年秋、彼はペテルブルグのユーモア雑誌《破片》の発行者レーイキンに紹介され、すぐにこの雑誌の定期寄稿者となった。処女作集はこうして書かれたユーモア小品6編を収めた「メリポメナ物語」で、84年半ばに自費(信用貸しだが)出版された。おびただしい数のペンネームを使って書かれたこれらチェーホフの小品は、人間の暗い面を知っていても、自分の文学的将来については考えたこともない、陽気で機知に富んだ熱狂的報告者としての作品であった。

1886年盛夏、本質的な意味でチェーホフ的と呼ぶことのできる最初の作品集「雑話集」が出版され、この本の扉に初めて彼の本名が、それまでのペンネームと併記された。本の売り行きは素晴らしく、チェーホフは新しい文学的才能と認められるに至った。彼は医者としての仕事を減らし、執筆をふやした。86年の晩秋に出版された「途上」の成功は比類ないもので、87年2月には著名な作家のみに与えられる栄誉、文学基金を授けられた。また同年8月には短編集の「たそがれに」が刊行された。

チェーホフの最初の完全な戯曲「イヴァノーフ」は1887年11月にモスクワのコルシュ座で初演されたが、このころ彼は本格的小説の執筆を志し。娯楽雑誌への執筆はやめていた。本格的小説とは、手紙で彼が述べているように、“あるがままの生活を描写する”芸術のことである。“その目的は無条件にして真実である.....堆肥のようなものさえ、ある風景のなかで極めて重要な役割を演じていること、また、悪しき情熱の良き情熱同様人生にはつきものであることを文学者は理解しなければならない。”ノスタルジア、不協和音、そして人生にたいする心にしみる皮肉の感覚が、この過渡期における作品の基調をなしている。

チェーホフの最初の長編「荒野」(Степь,1888)は、伯父とともに遠くの町へ行く9歳のエゴルカのさまざまな冒険をめぐるロシア田園生活の叙情的賛歌であり、チェーホフにとっては新しい文学生活の幕開きを告げるものであった。この作品は当時評判の《北方報知》誌に掲載を認められ、大金(彼にとっては)だけではなく、ガルシンをはじめ著名な作家たちの絶賛をももたらした。そのころチェーホフは次のように書いていた。“私は医学を自分の正妻とみなし、文学を愛人と考えているが、私にとって愛人は妻より愛しい。”1888年10月、彼は作品集「たそがれに」で科学アカデミーのプーシキン賞を受賞した。「灯火」、「披露宴」、「発作」の諸作品は、すべてこの年に発表された。

一幕戯曲「熊」(Медведь, 1888)は評判を呼ばなかったが、1889年にペテルブルグで上演された改作版「イヴァノーフ」は華々しい成功を収めた。短編集「子供たち」がこの年の3月に上梓され、このころチェーホフには、筆一本で一家を支える見通しが立つようになった。彼は88年の夏をウクライナ(結核を患っていた兄のニコラーイはそこで亡くなった)とクリミヤ半島ヤルタ市で過ごしているが、当時のさまざまな出来事は、彼にトルストイ的作品「退屈な話」(1889)の着想を与えた。そこでは、死にひんした老人が自分の無味乾燥な一生を思い返しているのである。

何編かの一幕戯曲(とりわけ「結婚式」)に加えて、チェーホフは「森の精」を書き上げたが、ペテルブルグ劇場委員会はこの戯曲上演を拒否し、彼の気持ちをひどく傷ついた。1890年3月、チェーホフの7冊目の短編集が「陰気な人々」と題して出版される。

1890年4月末、チェーホフは、遠くシベリアの涯にあって流刑植民地となっていたサハリン島に向けて出発した。彼は島での流刑囚の事情調査に3ヶ月を費やしたのち、報告記「サハリン島」を93年から94年にかけて継続的に書いた。

チェーホフは、かつては兄のアレクサンドルに文学に関する助言を求めたものだったが、今は若い作家たちの面倒を見る立場に回っていた。1890年夏、彼のところに自作の原稿を持って現れた若いブーニンとは、たちまち熱い友情で結ばれた。翌年の春、ヨーロッパで6週間を過ごし、夏までには帰国している。チェーホフが執筆にかかっていた「決闘」(Дуэль,1891)は、登場人物それぞれの孤立した存在を追求するとともに、知的階級の生活における政治的、道徳的主題を論じている。「きりぎりす」(1891)は、偉大な人間を捜し求める素人芸術家オリガ・イワーノヴナの物語だが、彼女は結局、美と道徳的な価値に対する感覚を麻痺させてしまう。チェーホフは俗物根性と軽佻浮薄な‘芸術’を軽蔑していた。彼は生涯にわたって科学を賛美し、困窮した人々に助力し、91年から92年にかけての飢饉につづいてコレラにかかった人々に援助の手をさしのべた。

1892年2月、チェーホフフはモスクワから列車で2時間半ばかりのメーリホヴォに675エーカーの土地を購入した。農奴の孫が領地をもったのである。彼は家族とともにそこに居を定めた。土地の百姓たちにとっては親切な医者にすぎなかったが、文学や演劇仲間には隠遁地の所有者であり、訪れる客はひきもきらなかった。93年の暮れまでに領地の購入にともなう負債の大部分を返済し、家族は快適な生活を送ることができた。

チェーホフは、以前よりもゆっくり書くようになっていた。狂暴と狂気を描いた力強い作品「六号室」(Палата ? 6, 1892)は、彼の名声をさらに高めた。「無名氏の話」(1893)は、テロリストと、別な男の愛人との恋愛事件の物語で、人物の心理描写に新しい境地を開いた作品である。あいにく彼の健康は悪化しつつあった。彼は咳を癒すために1894年に転地したヤルタにもすぐ退屈し、メーリホヴォにもどった。

チェーホフの短編は、ペテルブルグとモスクワの主だった雑誌に定期的に掲載されるようになった。この時期の最も著名な作品としては、「黒衣の僧」(1894)、「文学教師」(同)、「三年」(1895)、「わが人生」(1896)、「中二階のある家」(Дом с мезонином, 同)、「百姓たち」(Мужики,1897)、「ヨーヌイチ」、「犬をつれた奥さん」(Дама с собачкой,1899)、「すぐり」、)、「箱にはいった男」(Человек в футляре, 1898)、「新しい別荘」(同)、および)、「谷間にて」(В овраге,1900)がある。晩年の数年間、チェーホフは主として戯曲に専念し、‘全集’(1899-1901)のために初期の短編に手を加えるとともに、新しい短編2作、「僧生」(1902)と「いいなずけ」(1903)を発表した。これらの作品のほとんどには、人間の孤独とよるべなさ、人間を理解しようという欲求などが、通奏低音のように絶えずに流れており、ロシアの世紀末の雰囲気を驚くほど的確に反映している。 ペテルブルグ同様、モスクワでもチェーホフは名士としてもてはやされた。ずっと独身で、妹のマーシャを熱愛し、彼女もまた兄を偶像のごとくあがめていた。むろん彼には、快活で愛らしく、才能豊かな女友達がたくさんいたが、結婚を申し込むほど強い‘恋愛感情も、性的魅力も、性欲も’覚えなかった。しかし、1898年、38歳で病が重かったとき、チェーホフは女優のオリガ・クニーッペルに出会い、1901年に結婚した。彼はロシアにおける指導的文学者の1人であっただけではなく、科学アカデミーの名誉会員に選出された(1890年1月)作家であり、演劇に深く心を奪われ、激しく愛し、重病の肺結核を患う身でもあった。

「かもめ」(Чайка, 1896)の初稿は、チェーホフのかつての恋人リジヤ・ミジーノワと彼の作家仲間I.N.ポタペーンコと恋愛の重厚な筆致で描いたものである。初演には失敗したが、1898年のモスクワ新芸術座での公演は目覚しい成功を収め、カモメがこの劇場の公式の紋章となって現在に及んでいるほどである。「かもめ」に次いで大作戯曲が矢継ぐ早に発表された。「森の精」に大幅な修正を加えた「ヴァーニャ伯父さん」(Дядя Ваня, 1897)、1900年から1901年にかけて「三人姉妹」(Три сестры)と1903年から1904年にかけての「桜の園」(Вишнёвый сад)がそれである。いずれの作品でも彼は、古い秩序が新しい秩序へ移行する過程を描いている。そこでは上流の地主階級が、倦怠と社会的無為のなかで孤立しながらも、くるべき生活の主人公となる教師や作家や実業家などのなか、下層階級の人々による活気に満ちた社会的変化に抗して、さまざまな文化的価値を護持しようとしてもがいている。登場人物たちは、自分1人にかかずらわっていて、相互の相克、葛藤は、精巧を極めたかすかな身振りに込められているにすぎないが、それらは交響楽のように厳密に構成され統一を保ちながら、圧倒的なクライマックスへと高まっていく。それは通常、自滅行為の形をたり、もはや、何事もなされ得ぬことを万人に認めさせて短調に引き継がれていく。登場人物たちは絶望を抱きながらも、一方では理想を信じて生きていこうと願う。客観は道徳的な選択と日常生活の挫折との克服しがたいさまざまな重圧と美的な調和との間に横たわる隔絶に気づく。

チェーホフは名声を絶頂にあった。彼はブーニンアンドレーエフなどの作家を励まし、何人かの作家たちをプーシキン賞に推薦して、以前にもまして熱心な助言をし、論評を加えるなど力を尽くした。妻はシーズン中はモスクワの舞台に立ち、その間彼はヤルタに滞在した。彼らの交わした手紙は2人の深い愛情を示している。チェーホフの健康は1904年に急速に悪化した。彼はヤルタに建てた別荘に住んでいたが、病状は苦しくなかった。医者から療養所いりを指定されて、彼は1904年6月、ドイツのジュワルツヴァルと地方バーデンヴァイラーに立った。出発の前日、モスクワで彼に会った1人の友人は、チェーホフの言葉を次のように伝えている。“ぼくは明日立つよ。さよなら。死ぬために去るのさ。”

19047月2日、チェーホフはバーデンヴァイラーのホテルで息をひきとり、遺骸はモスクワに送り返されてそこに葬られた。


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