ドストエフスキー、フョードル・ミハイロヴィチ
1821.10.30-1881.1.28

Dostoyevski, Fyodor Mikhailovich
Достоевский, Федор Михайлович

年譜

ドストエフスキー肖像作家。

モスクワのあまり裕福とはいえぬ医師の家庭に次男として生まれたドストエフスキーは、陰鬱で喜びのない幼年時代を送り、16歳のときペテルブルグの工兵学校にはいり、卒業後は陸軍中尉として工兵団製図局に勤務したが、1年たらずに退職した。その間に両親を失い、貧困と窮乏にくるしみつづけた彼を支えたものは文学のほかにはなにもなく、不安と絶望のうちに文筆活動を開始した。24歳のときに書き上げたデビュー作「貧しき人々」(1846)が評価を博し、都市に住む貧しい人々を描いたこの作品は、ゴーゴリの伝統を受け継ぐ、写実主義的なヒューマニズムの傑作として、ベリンスキーネクラーソフなど、当寺の文壇の大御所から絶賛され、一躍、作家的地位を確立した。しかし、華々しいデビューに飾られたデビュー作の成功にもかかわらず、「分身」(1846)から「白夜」(1848)にいたる作品の評価も悪く、まもなく、文壇の親しい友人とも不和になり、やがて空想的社会主義者の集まりであるペトラシェフスキー・サークルに参加する。ここにいたるドストエフスキーの歩みは、現実を直視し、その現実によって苦しめられている人々を救済するものとしての文学から、文学の有効性にたいする懐疑を経て、現実を変革する方法を文学以外の世界で追求しようとする。文学から政治への転換とみることができる。

  しかしそのために、1849年春、政治犯として逮捕され、死刑の宣告を受け、処刑直前に減刑されるという、しくまれた演出のもとにシベリアに流される。流刑地での孤立した困難な日々については、「死の家の記録」(1861-62)の中で語られているが、ドストエフスキーにとって「死の家」の体験は、幻想としての民衆の解放という希望に燃えた初期の作品と政治への参加の次元と比べて、人間そのもの発見の契機の意味をもつと考えられる。オムスクの要塞監獄での4年間の懲役のあと、シベリア守備隊の一兵卒としてセミパラチンスクで兵役に服し、1959年、少尉に任官して退職、10年ぶりでペテルブルグに帰還する。1961年の農民解放を前にして、高揚した社会的な雰囲気のなかで、彼は兄ミハイルとともに《ヴレーミャ》(時代)誌を創刊し、チェルヌイシェフスキーを中心とする《ソヴレメーンニク》(同時代人)誌と対立して、ロシアの土壌に根ざした社会の改革を志向すると同時に、同誌に長編「虐げられた人々」(1861)と「死の家の記録」を連載し、文壇に復帰した。1962年と63年にヨーロッパを旅行し、西欧の文明に幻滅し、物質文明にたいする激しい批判を「夏象冬記」(1863)を書き、ついで、《ヴレーミャ》誌の発禁後に刊行された《エポーハ》(世紀)誌に「地下室の手記」(1864)を発表した。その作品は自分とはなにかと自ら問いかけ、自己意識の分裂をみごとに表現することで,それ以後の創造の方向を決定したものである。

  「罪と罰」(1866)、「白痴」(1868)、「悪霊」(1871-80)、「未成年」(1875)、「カラマーゾフ兄弟」(1879-80)とつづく長編群は、いずれも「地下室の手記」によって発見されたモチーフを繰り返し追求し、自己の意識に目をそそぎ、分裂した自己の意識の意味を問うことがそのまま文学となっているもので、自分も、自分をとりまく外界も、確固とした実体として把握でき、自分と外界を完全に描ききれると確信できいた時代の文学とは異なって、自己の意識の対立を文学の主人公にし、人間の存在とはなにかということを追求したものである。自分とはなにか、自分にとって他人とはなにか、世界とはなにかと探求した問いは、21世紀の現代にいたるまで暗い予言としての有効性を持ちつづけている。

年譜

  • 1821年 10月30日、貧困者のためのマリンスキー病院の医師の次男として誕生。
  • 1834年 (13歳) 9月、兄ミハイルとともにモスクワのチェルマーク私立学校に入学。二人とも文学に熱中。
  • 1837年 (16歳) 1月、プーシキンの死。2月末、母マリアの死。5月、ペテルブルグに出発。途中で、急使が御者をなぐり、御者も馬を激しくむち打つ光景を目撃。予備寄宿学校入学。
  • 1838年 (17歳) 1月、工兵学校入学。金銭的窮乏をを父に絶えず訴える。10月、試験の成績悪く原級に留まる。
  • 1839年 (18歳) 6月、父、その残酷さと放蕩を怒る農奴たちによって惨殺される。
  • 1840年 (19歳) 11月、下土管に任命。バルザック、ホフマン、シラー、ユゴー、シェークスピア、ゲーテなど読む。
  • 1843年 (22歳) 7月、バルザックのペテルブルグ訪問。8月、工兵学校卒業、陸軍少尉に任命。工兵団製図局に勤務。バルザックの「ユージェニー・グランデ」翻訳。
  • 1844年 (23歳) 9月退職。夏から“「ユージェニー・グランデ」の重要さを持つ”と兄にあてた手紙に書いた小説の執筆にかかる。
  • 1845年 (24歳) 5月、「貧しき人々」完成。ベリンスキーから激励される。秋、ベリンスキーのサークルに出入りする。が、そこでは、うまく行かない。
  • 1846年 (25歳) 1月、「貧しき人々」(「ペテルブルグ文集」)、1月末、「分身」、10月、「プロハルチン氏」。
  • 1847年 (26歳) ベリンスキーとの不和深まる。春、ペトラシェフスキー・サークルに出はじめる。4月ー6月「ペテルブルグ年代記」、10月ー12月「主婦」。ベリンスキー酷評。
  • 1848年 (27歳) 5月、ベリンスキーの死。ペトラシェフスキー会員らとの関係深まる。「ポルズンコフ」、「弱い心」、「正直な泥棒」、「クリスマス・ツリーと結婚式」、「白夜」。
  • 1849年 (28歳) 「ネートチカ・ネズワーノワ」。4月15日ペトラシェフスキーの会で「ゴーゴリにあてたベリンスキーの手紙」を読む。4月23日逮捕。ペテロパヴロ要塞監獄へ。12月22日朝、セミョーノフスキー練兵場で、死刑執行の直前、特赦があり、シベリア流刑になる。12月24日シベリアへ出発。
  • 1850年 (29歳) 1月9日トボリスク到着。1月23日シベリア、オムスクの懲役監獄に着く。
  • 1854年 (33歳) 2月中旬、出獄。3月、セミパラチンスクのシベリア第7国境警備隊の兵士に。春、徒刑中に発行されたロシア文学作品を読む。イサアエフ夫妻と知り合う。
  • 1855年 (34歳) 1月、ニコライ一世の死。イサアエフ夫妻と親近。その妻マリアへの愛情。イサアエフ夫妻、セミパラチンスクを去る。アレクサンドル二世が即位。8月、イサアエフ死去。
  • 1857年 (36歳) 2月、マリア・イサアエヴァと結婚。4月、17日貴族としての諸権利回復。「小さな英雄」。
  • 1859年 (38歳) 7月2日セミパラチンスク出発。8月19日トヴェーリに到着。「伯父様の夢」、「スチェパンチコヴォ村とその住人」。11月25日、ペテルブルグ居住許可。12月下旬、ペテルブルグ着。
  • 1861年 (40歳) 2月19日、農奴解放令。雑誌《ヴレーミャ》(時代)発行。「虐げられた人々」、「死の家の記録」、「ペテルブルグの夢―詩と散文」。
  • 1862年 (41歳) 5月、ペテルブルグの大火。6月、最初のヨーロッパ旅行。「いやな話」。スースロフと親近。
  • 1863年 (42歳) 「夏象冬記」。5月、《ヴレーミャ》の発行禁止。8月再びヨーロッパへ。パリでスースロフと会う。10月末帰国。
  • 1864年 (43歳) 雑誌《エポーハ》(世紀)発行。「地下室の手記」。4月、妻マリアの死。7月、兄ミハイルの死。
  • 1865年 (44歳) 3−4月、コルヴィン・クルコフスカヤに結婚申し込み。7月、三度目の外国旅行。10月、ペテルブルグに帰国。「異常な出来事」。《エポーハ》廃刊。
  • 1866年 (45歳) 「罪と罰」。4月、カラコーゾフの皇帝暗殺未遂事件(9月処刑)。10月、「賭博者」の口述開始。速記者アンナ、後に夫人となる。11月、アンナに求婚。
  • 1867年 (46歳) 2月15日再婚、4月、ヨーロッパへ。(4年間の旅行となる。)ドレスデン美術館でラファエルの「マドンナ」を見る。ハンブルグ、バーデン・バーデンで賭けに耽溺。8月、ジュネーヴに滞在。平和と自由の国際連盟第一大会。
  • 1868年 (47歳) 「白痴」。2月、初子ソーニャの誕生(5月死ぬ)。フィレンツェで冬を過ごす。
  • 1869年 (48歳) 11月、ネチャーエフにより大学生イヴァーノフの暗殺事件。墓、「偉大なる罪人の生涯」の構想。
  • 1870年 (49歳) 「永遠の夫」。この年、「悪霊」の執筆。普仏戦争
  • 1871年 (50歳) パリ・コミューン。ネチャーエフ裁判。7月8日帰国。「悪霊」発行しはじめる。
  • 1872年 (51歳) 5月、スターラヤ・ルッサへ。9月ペテルブルグに戻る。雑誌《市民》の編集者となる。
  • 1873年 (52歳) 「作家の日記」を《市民》に掲載しはじめる。
  • 1874年 (53歳) 4月、《市民》を去る。ネクラーソフとの友情復活。6月、ドイツの鉱泉地エムスへ。8月、スターラヤ・ルッサへ。この年「未成年」執筆開始。
  • 1875年 (54歳) 5月、再びエムスへ。7月、スターラヤ・ルッサに戻る。「未成年」発表しはじめる。
  • 1876年 (55歳) 定期刊行「作家の日記」の編集者となる。11月、ポベドノースツェフ、ドストエフスキーにたいし、皇帝に「作家の日記」を送るように依頼。
  • 1877年 (56歳) 「作家の日記」継続。「おかしな男の夢」。12月ネクラーソフの死。
  • 1878年 (57歳) 3月、ヴェラ・ザスーリッチ事件の裁判に出席。5月、ソロヴィヨーフと頻繁に会う。オプチナの修道院訪問。2週間滞在。「カラマーゾフ兄弟」に着手。
  • 1879年 (58歳) 1月、。「カラマーゾフ兄弟」連載開始。7月、エムスへ。9月、ロシアに戻る。
  • 1880年 (59歳) 5月、モスクワへ。6月、プーシキン際。「プーシキン講演」。スターラヤ・ルッサへ戻る。
  • 1881年 (60歳) 1月、「作家の日記」にかかる。1月下旬出血数度。1月28日午後から出血がはじまり、妻と子供たちに別れを告げる。8時38分、息をひきとる。
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