ゴーゴリ、ニコライ・ヴァシリエヴィチ
1809.3.19-1852.2.21

Gogoli, Nikolai Vasil'evich
Гоголь, Николай Васильевич

作家。

ロシア的凡庸、愚鈍さや腐敗を鋭くとらえ、下層庶民の悲喜劇を苦い笑いのうちに、皮肉と哀感をこめて描いた。それらの作品によってヨーロッパ文学への模励はおわり、ロシアにおける批判的リアリズムの道が拓かれた。

ゴーゴリはウクライナのポルターワ県ミルゴーロド群ソロチンツィ村に小地主の家庭に生まれた。子供のころから夢想癖が強く、内向的であったが、弟の死から受けた痛手もあって、その傾向は著しくなった。9歳のときネージン市の高等中学校へ入り、7年間過ごした。特に目立つところもない生徒であったが、素行だけはよかった。16歳のときに父が他界したので、自活の道を立てる必要に迫られ、翌年、学校卒業後ペテルブルグに出て官吏となった。下級官吏の卑屈さや、官僚の横柄さなどを見せつけられて幻滅を味わわねばならなかったこの時期の官吏としての生活体験は、ゴーゴリの文学に強い影響を与えた。

1829年3月23日付けの《祖国の息子》誌に「イタリア」と題する詩を発表したが、力みばかりが目立ち、いっこうに批評家の関心を引かなかった。同じ年、こりずに自費出版した野心的な物語詩「ガンツ・キューヘリガルテン」は、一見牧歌的だが息の詰まりそうな環境から逃れ出ようとする主人公のロマンチックな試みを語ったものであった。しかしさんざんな悪評で、ゴーゴリも残部を回収して廃棄しようとしたほどであった。

こうした失敗からゴーゴリは方向を転じ、政府のいくつかの役所に勤め、1831年には寄宿女学校の教師になっている。しかしこれはとうてい不向きな仕事であった。彼は相変わらず物を書くことに固執しており、作品もなにがしかの注意を引くようになった。このころ彼は、当時のロシア代表詩人V.ジュコフクキーに注目され、また31年5月にはロシア最高の詩人プーシキンに引き合わされている。そして31年から32年にかけて発表した「ディカニカ近郷夜話」(Вечера на хуторе близ Диканьки)によって、ようやく文壇に地位を得るに至った。彼の文名を一気に高めたのは、古いウクライナの民衆の生活を現実的側面と奇怪な超自然的側面を混交させ、ロマンチックに歌いあげたこの作品集であった。「ディカニカ近郷夜話」では現実と幻想をないまぜにするゴーゴリ独特の手法が明らかに看取される。

以後相次いで発表した短い作品のうち、めぼしいものをあげると、エッセイ、美術批評、中編小説の断片を集めたペテルブルグの生活に取材した文集「アラベスキ」(Арабески, 1835)のなかの「ネフスキー通り」(Невский проспект)や「狂人日記」(Записки сумашедшего)など優れた短編小説3編がある。

1833年から34年にかけて書かれた「肖像画」は、人間の芸術心を金ほしさに悪霊に売る渡すという話を軸に、芸術と宗教の関係を取り扱っている。ゴーゴリは自分の作品にしだいに道徳的意味合いを持たせるようになるが、「肖像画」は、彼は晩年に至って経験する、芸術と宗教の危険的関係を予知していた。

「ネフスキー通り」は1834年10月に完成されたが、これは2人の若者が追求した2つの愛、すなわち理想的な愛と常識的な愛の対照を踏まえた作品であった。この恋はふたつながらに陳腐な結果を迎え、情事のきっかけとなった‘ネフスキー通り’は、まさにこの世の虚栄の市と化する。恋に破れ、栄光の妄想にとりつかれた小官吏を軽妙にスケッチした「狂人の日記」は、33年から34年にかけて書かれ、狂人の目を通して、あがくことの無意味さとこの世の虚栄のさまを描いている。

ゴーゴリは、1834年までには著作のうえではかなりの成功を収めたが、職業についてはまだ気持ちがあいまいで、教職に転じて学者になろうとする考えをいだいていた。34年の秋、彼はペテルブルグ大学の歴史学の講師に任じられた。有力な友人たちが奔走してくれたのである。しかし気質のうえからも、教養の点からも、この地位は彼には不向きであった。仕事は34年秋から35年いっぱい続けたものの、結局は後味の悪い思いを残しただけであった。

次いで発表した「ミルゴーロド」(Миргород, 1835)は郷里の地名にちなんだ4編の物語を収めている文集である。第1話「昔かたぎの地主たち」には、慰と平和と愛の牧歌的世界に生きる2人の老人が、その単調な生活を悲劇と死によって脅かされるさまが描かれている。第2話は、歴史小説になぞらえた「タラス・ブーリバ」(Тарас Бульба)で、16世紀から17世紀にかけてのウクライナ=ポーランド戦争を背景としてはいるが、舌足らずの恋愛話しに終わっている。第3話「ヴィー」(Вий)は、若く美しい女性に化けた魔法使いを死に追いやる学生を描いた超自然的物語である。ここにはロマンチックな幻想性が支配的である。最後は「イワーン・イワーノヴィチとイワーン・ニキフォロヴィチが喧嘩をした話し」で、ミルゴロドの町の、立派な2人の市民の間に繰り広げられる馬鹿げた論争を物語に仕立てている。

1836年、ゴーゴリは「鼻」(Нос)を発表した。ある役人の顔から離れた鼻が、役人の驚きをよそに独立した存在たるべく主張するという、グロテスクな話しである。この話はしばしば微細に写実的な手法でかかれているため、そこから起こってくるグロテスクふぁ奇異な事件までが迫真性をもっている。

ゴーゴリが戯曲の傑作「検察官」(Ревизор)を書いたのは1835年の10月から12月にかけてであった。彼はこの着想をプーシキンから得たらしい。お忍びの検察官と勘違いされた詐欺師を登場させ、その前で自分の不正を隠しおおそうと馬鹿げた努力をし、ゴマをする腐り切った役人を組み合わせている。この戯曲の上演は最初検閲によって拒否されたが、皇帝に直訴して許可され、圧倒的な成功を収めた。ゴーゴリの戯曲を考える場合、9年の歳月をかけて42年に発表された喜劇「結婚」(Женидьба)にも留意しておく必要がる。

ゴーゴリは旅行好きで、旅行は健康によいと素朴に信じ込んでいた。そのせいか晩年の16年間は、国外で過ごした方が多く、とりわけローマに魅了され、生涯この町を愛した。1836年の夏、健康上の理由でヴィーンに滞在したが、彼はここで猛烈な創作欲のほとばしりを経験した。長編「死せる魂」(Мёртвые души)に取り組み、「タラス・ブーリバ」に手を入れ、「外套」(Шинель, 1842)が書かれた。一方で彼は宗教的幻覚を覚えるがこれは芸術観と宗教的義務観に大きな影響を与え、ゴーゴリを狂わせた恐ろしい体験であった。

ゴーゴリは、1835年の秋に「死せる魂」に取りかかっていたが、執筆のほとんどは外国で行われ、およそ6年をかけて書き上げた。この作品をめぐって検閲官との間にいくつかの面倒があったが、結局、42年5月21日に刊行された。詐欺師チチコフがロシア中を歩き回り、死んでしまっているのに課税台帳には生存者として記載されている農奴を買い集める話しである。別の読み方をすると、チチコフの旅はロシアの現実という喜劇的な地獄に降りていくことを意味しており、彼がその旅で出会う多勢の人物は、人間の一般的欠点や特殊な欠点それぞれの典型的具現でもある。そしてチチコフ自身といえば俗物で下品な性格の体現者となる。ゴーゴリがロシアの地方的な側面から取り出して描いた図柄は、いわば重苦しい凡庸さ、愚鈍さ、腐敗のそれであって、そこに彼の驚くべき独創性が豊かに盛り込まれているのである。

1842年に出版された「外套」(Шинель)は、ゴーゴリの短編小説の傑作で、後のロシアにおける小説の発展に絶大な影響を及ぼした。「外套」には、金を蓄えてやっと手に入れた外套を、その日のうちに盗まれてしまい、まもなく病気で死んでしまう地位の低い浄書専門の書記が描かれた。

「外套」と「死せる魂」の出版によってロシア文学界に対するゴーゴリの偉大な貢献は終わりを告げ、「死せる魂」を書き継ごうとした大胆な意図も実現されずに終わった。というのも、ゴーゴリは、第2部の原稿のほとんどを焼き捨ててしまい、残ったものは第1部にくらべて著しく劣っていたからである。彼は人類をより豊かにするためには自分の芸術を捧げる義務があると信じ始め、1846年12月31日に刊行した著書「友人たちとの往復書簡抄」を機に、説教じみた傾向が顕著になっていった。 もっとも、農奴制を弁護し、ニコラーイ1世の反動政治を正当化しようと試みたこの本は、批評家からあしざまな罵倒をもって迎えられた。

1840年代を通じ、ゴーゴリは己の魂を清めねばならないという確信を深め、しだいに聖職者の影響を受けるようになった。1848年の春にはイェルサレムへ巡礼の旅をした。死に至る前の9ヶ月間、彼の健康は極度に衰え、激しい憂鬱病に苦しめられた。晩年のゴーゴリに非常に大きな影響を及ぼした神父コンスタンチノフスキーは自信に満ちた厳格な人物で、弱り果てたゴーゴリの健康回復と称したなお厳しい断食を課した。 ゴーゴリは1852年2月21日に没した。


e-mail:svetilnikru@mail.ru