トルストイ、レーヴ・ニコラエヴィチ
1828.8.28-1910.11.12

Tolstoi, Lev Nikolayevich
Толстой, Лев Николаевич

トルストイ肖像 作家、思想家。

「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」など世界文学有数の長編小説を生み、あらゆる秩序を批判し、暴力を否定し、トルストイ主義と呼ばれるキリスト教的な人間愛と、道徳的自己完成を説いた。

トルストイは、もっとも偉大な反逆者の一人であり、その長い嵐のような生涯を通じて、ロシア正教会や政府、文学的伝統、そして自身の家族とさえ対決した人であった。その反面彼は保守主義者でもあり、科学的実証主義の時代にありながら、なお神の理想を飽くことなく求めた。彼はリアリズム小説の完成者であると同時に、死に関する省察によって実存主義の先駆者とされる。またその小説に生彩を与えている旺盛なる精神は、現実の人生をはるかに超えて、我々に人生の実相を伝えてくれる。

トルストイの父ニコラーイ・イリイチ・トルストイ伯爵は14世紀にさかのぼることができる貴族の出で、その家系はピョートル1世時代にすでに高名な存在であった。トルストイの祖父も父親も賭博に熱中して家産を蕩尽していたが、父ニコラーイはマリヤ・ヴォルコーンスカヤとの結婚によってようやく破産を免れた。マリヤは大貴族の称号の継承者であり、800人の農奴とトゥーラ県のヤースナヤ・ポリャーナの領地からなる資産の相続者でもあった。トルストイはこの領地で、1828年8月28日に、4人息子の末っ子として生まれた。彼が2歳のとき母親が死亡し、そのため子供たちは父親の遠縁のいとこにあたるタチヤーナ・エルゴリスカヤに引き取られた。37年、父親がなくなり、おばのアレクサンドラ・オスチェン-サケンが子供たちの法廷後見人になった。彼女の熱烈な信仰心はトルストイに重要な影響を与えた。41年後にはそのおばも亡くなり、父親のもう一人の妹で、カザンにすむペラゲーヤ・ユシコーワの元に送られた。

ユシコーフ家は町の上流階級の属し、ペラゲーヤの父親は、生前県知事を務めていた。舞踏会とレセプションがユシコーフ家の生活の中心をなしており、いかにして気品を保つかがこの一家の最大の関心事であった。おばのペラゲーヤは若者の成長には年上の夫人との情事が最上とトルストイに語っていた。彼はお上品ぶってはいなかったが、不器用で、尊大で、友人たちの間では“熊”のあだ名で通っていた。

トルストイはフランス人やドイツ人の家庭教師によって教育された。特に才能のある生徒ではなかったが、勝負事には強かった。1844年、彼は外交官になる志を立て、カザン大学東洋語学科に入学した。しかし翌年進級試験に落ち、有名無実で悪名の高い法科に転入した。だが、この学科は2流の外人教師ばかりで、47年、彼は学位を取らないまま退学した。
 トルストイはヤースナヤ・ポリャーナに戻り、模範的な農民となって、農奴たちの父にならんと心に決めた。しかし彼の博愛主義的行為は、農奴と接するには単純すぎたし、トゥーラとモスクワで無為に過ごした、浮ついた気分も合って、父となる気分は上滑りに終わった。このころから彼は死ぬまで続く、驚くほど真っ正直で自虐的な日記をつけ始める。これらの記録は、彼の小説に多くの素材を提供しており、トルストイの諸作品がひとつの長い流れをたどる自叙伝の趣を呈していることが読み取れる。1849年、トルストイはペテルブルグ大学で法学士の検定試験を受けたが、2科目に合格しただけであとは断念し、ヤースナヤ・ポリャーナで狩と酒にふけったり、モスクワの音楽界や舞踏会に入り浸ったりという放蕩生活を送った。  

この頃、長兄のニコラーイが、カフカーズでの軍務の休暇中に、ヤースナヤ・ポリャーナのトルストイを訪ねた。この長兄を敬愛していたトルストイは、南部でも軍務生活送るようにと進められるとすぐに同意した。  1851年、カフカーズ山脈につき、兵卒として勤務し戦闘に参加した。翌年初頭、士官候補生試験を受け、四級砲兵士官として、テレク川地区の第20砲兵旅団第4中隊に配属され、産地民族や、ロシア人の侵略に対して聖戦を布告していたイスラム教徒のゲリラ軍と戦った。  

寂寞たるコザック兵の辺境砦におけるトルストイの勤務は一種異教的、牧歌的であり、狩と酒、女と眠り、そしてときたま戦闘という明け暮れだった。1852年、彼は素描集「幼年時代」をと維持の一流雑誌《同時代人》に送った。この作品は同誌の主催編集者であったネクラーソフに認められ、“エル・エヌ”の匿名で発表されるや、全ロシアの読者を魅了した。トルストイは今度は「コザック」の執筆に着手したが、それはコザックの砦における彼の生活を薄いベールで包んだ報告書のようなものであった。  

1854年11月から55年の8月にかけて、トルストイはセヴァストーポリ要塞の堡塁に服務した。彼はクリミヤ戦争で最も血みどろな戦闘が行われていたこの地区へ、自ら転属を願い出たのであった。長期間の戦闘で最も熾烈を極めた地域である第4角堡で砲撃指揮をとっていたが、その間でも自伝的三部作の第二部「青年時代」を書くための時間を何とか捻出した。また、この時期に3編からなる「セヴァストーポリ物語」を執筆したが、これには戦争に対するトルストイの考えがはっきりと示されている。そこでは戦争が、醜さと英雄精神との比類のない混乱の場所として、作者の冷徹で神のごとき視点から見れば、人間が最善のものと最悪のものとを露呈する特殊な空間として描かれている。これらの物語の若干は、そこに示されている戦闘の続行中に発表された。最初の物語はロシアについての話であり、皇帝アレクサンドル2世から好意をもって迎えられた(トルストイの作品中、皇帝から好意をもって迎えられた、おそらく最後のもの)。  

セヴァストーポリが陥落したとき、トルストイは、最後の攻撃における砲兵の戦闘状況に関する研究をペテルブルグの軍当局に報告するよう求められた。彼はさながら凱旋将軍のように首都に迎えられ、また社交界や文学会からも名士としてもてはやされた。当時のトルストイの写真は、突き刺すように鋭い目と、箆のように大きな鼻をし、口ひげを蓄えた粗野な顔立ちの若者の顔を示している。彼は背こそ高くはなかったが、頑丈な体つきをしていた。  

同じ1855年に、トルストイはモスクワを訪れ、そこでも社交界における成功と作家たちの尊敬を獲得した。時折彼はペテルブルグに戻ったが、モスクワでの新しい文学的知己たちには退屈し始めていた。トルストイには彼らはまじめな饒舌家に思われたのである。貴族的なツルゲーネフ(トゥルゲーネフ)と急進的なチェルヌイシェフスキーとによって代表される第二陣営が相対立するさまざまな見解を投げ合っており、やがてそれは《同時代人》誌における内部抗争にまで発展したのである。トルストイが保守的な詩人フェトと終生の友人として結ばれたのもちょうどこの頃である。トルストイは決して職業作家ではなかった。彼は独立して暮らせるだけの富のおかげで、空疎な文学的おしゃべりや生計のための苦労から開放されていたのである。  

1856年かれは砲兵中尉の軍職を退き、ヤースナヤ・ポリャーナにもどって、領地の管理にあたった。また彼は、「雪嵐」と「二人の騎兵」を脱稿した。翌年彼は初めて外国旅行に出たが、この時期に書かれた短編「ルツェルン」や「アリベルト」に示されたような西ヨーロッパへの不信の念を固めた。彼は次第に教育事業に興味を寄せ、行く先々でその道の専門家と意見を交わした。 その年の夏から62年にかけて、彼はヤースナヤ・ポリャーナに戻って農民の師弟のための学校を設立し、さまざまな教育実験に取り掛かった。60年から61年にかけて再度外遊し、教育についてのいっそうの研鑚をつもうと試みた。彼はまた賭博にもこった。この旅行中彼は南フランスでまもなく結核で死ぬ長兄ニコラーイを見舞うが、この兄の死は、かつて目撃した戦闘場面のいずれにも増して彼に厳粛な死の事実を思い知らせ、兄の亡霊は生涯に渡って彼を恐怖で苛んだのである。  

1861年の農奴解放後、トルストイは農事調停委員に任ぜられた。これは農奴と解放前の地主との間に生ずる土地紛争の仲裁役人であった。4月に彼はツルゲーネフと些細なことでけんかし、決闘を申し込んだ。ツルゲーネフが辞退して事なきを得たものの、以後二人は長年にわたり気まずい関係を続けた。ヤースナヤ・ポリャーナにおける彼の学校は進歩的な教育家たちが採用する先進的な技術によって進展を遂げた。1862年トルストイは彼の教育理念を広めるために《ヤースナヤ・ポリャーナ》と称する機関紙を発行した。またその年サマラに旅行し、野外生活をして発酵馬乳を飲む馬乳酒療法を受けたが、これはやがて彼の年中行事になった。  

1862年9月、トルストイはおばあてにこう書いた“私は年老いて、歯のない間抜け物ですが、恋に落ちてしまいました”。 彼はまだ34歳であったが、その女性ソーフィヤ・アンドレーエヴナ・ベルスは16も年下であり、彼女の母親は彼の幼年時代の友達であった。モスクワの宮廷医の2女だったソーフィヤは美貌、聡明で意志の強い女性であった。二人は結婚し、最初の10年は幸せの絶頂にあった。芸術の面でも、私生活の面でも、彼の生涯で最も豊饒で充実した時期であった。ソーフィヤは63年6月に長子を出産し、以後13人の子をなすことになる。  

1863年10月28日付けのソーフィヤの日記には‘あのひとは、1812年の物語にとても熱中している’とかかれている。彼女の言葉通りトルストイは1861年以来、1825年に起こったデカブリストの反乱をテーマにした歴史小説を計画し、その執筆に熱中していた。だが、仕事が進むにつれて‘時代’は遡って行った。こうして、「1805年」と題された「戦争と平和」の最初の部分が65年に《ロシア報知》誌に発表された。68年にさらに三つの章が公刊され、69年には彼はこの作品を完成した。これに先立つ激しい文学論争にトルストイはかかわっておらず、そのせいもあって批評家たちから彼の作品はまったく無視される格好になった。しかしやがて彼の小説は、一般大衆と批評家双方により、異様なまで激賞をもって迎えられるにいたった。  

世界の文学史上にひとつの頂点を画した「戦争と平和」は、トルストイ本人における到達点でもあった。彼はその広大な画布に、父母の家系に属する人をはじめとして、自分がこれまでにあった全ての人々を描きこんだ。それによって彼は家父長的な生活方式―その田園生活における豊かな充足と都市生活におけるきらめくような華やかな興奮―をたたえたのである。小説の場面も、舞踏会や戦闘、それに人間の生死と、多岐にわたりその描写は精緻を極めている。社会基盤の関心、叙述の正確さと心理描写の確かさなどによって、ヨーロッパのリアリズム小説はここに完成されたのである。  

この作品に見られる祝祭や狩猟など和やかな情景は、当時のトルストイ自身の大いなる幸福の反映であった。彼の領地は繁栄し、彼は妻を深く愛し、ソーフィヤも彼を崇敬していた。彼は全てから開放され執筆に専念した。息子のイリヤは母が「戦争と平和」の全稿を7回も清書したと伝えている。  

しかしながら、こうしたトルストイの絶頂期に、早くも将来の不吉な前兆が現れていた。彼は「戦争と平和」で彼自身の独特な歴史哲学を展開したが、随所に見られる華麗で誇張の多い文体そのものは、後年の非妥協的な倫理道徳家の持つ、ともすると風変わりな調子を予示していたのである。その幸福のまった只中の1869年、トルストイはある深い神秘的な創傷を受けた。地所を買うためにペンザ県に旅行し、アルザマスのホテルで恐怖と憂愁を体験したのである。悪夢に教われて目を覚ました彼は、自分が死につつあるのを感じ、兄のニコラーイが死んだときと同じように、彼は改めて自分が死すべき存在であることを痛感した。いわゆる‘80年の転向’はある意味でこの体験までに遡っていったといっていいであろう。  

トルストイ肖像トルストイの次の10年間も充実していた。彼は「初頭読本」と四冊からなる「国民読本」の最初の一冊を書き上げたが、これらは子供たちや、読み書きを終えたばかりの農民たちに訴えようとしたものであった。1873年から77年まで、彼の第2の大作「アンナ・カレーニナ」の執筆にあたり、この作品もまた発表されるや一大センセーションを巻き起こした。この小説の結末部分が書かれたのは、あたかもロシアとトルコとの、いつ果てるとも知れぬ幾度かの戦争が行われていたその時期にあたっていた。祖国は愛国的熱狂に沸きかえっていた。「アンナ・カレーニナ」の最後の何章かで、トルストイがセルビヤ出兵を否定したため、これが連載されていた「ロシア報知」の編集長カタコーフは掲載を拒んだ。トルストイは激怒して原稿を彼から取り上げ、ストラーホフの援助のもとに第八章を別版として出版したが、それは途方もない売れ行きを示した。  

この小説は、ある貴族に見捨てられた愛人が鉄道自殺を遂げるという、実際に近在の領地であった事件を部分的なモチーフとして書かれている。これに数多くの喧伝敵要素が加味されており、ことにキティとレーヴィンとの求愛と結婚を叙述した心理、情景描写には、その傾向が著しい。この時期もトルストイ家は反映を続け、著作権による印税で彼は大富豪になっていった。  

トルストイは幼年時代以来、道徳的苦悩を抱き続けてきたが、いまや全てを投げ捨てても、生の究極の意味を探ろうと決意するに至った。最初彼はロシア正教会と向かい、1877年、オープチナ・プスチン修道院を訪れたが、答えを見出せなかった。彼は福音書を読み始め、「マタイ伝」の‘悪に逆らうことなかれ’という言葉の中に、自分自身の道徳体系を導くためのかぎを見出した。79年から80年にかけて、トルストイは「懺悔」と「教義神学の批判」とを書き上げた。この時点から彼は、反国家的、反教会的な立場にたち、理性で容認できる倫理によって自らを律するようになった。  

トルストイの名はいまやあまねく知りわたっていた。1881年、彼は皇帝アレクサンドル3世に、その父を暗殺した人々の罷免を嘆願したが、徒労に終わった。彼は今度は百姓に見をやつして、オープチナ修道院を再び訪れたが、このたびもやはり彼に平安をもたらすことはなかった。9月に、一家はうえの息子たちの教育の都合からモスクワに転居した。翌年、トルストイは国勢調査に参加し、モスクワでも一番ひどいスラム街を訪れて、悲惨な光景に初めて接した。  

トルストイ肖像トルストイは自分が獲得した数々の新しい信念を、仰々しく宣伝しようとはしなかった。しかし1883年に、彼はチェルトコーフに出会った。彼は裕福なこの得将校だったが、直ちに、トルストイの名をもって運動を進めようとする企ての原動力になった。これに続く2、3年間のうちに、トルストイの言葉を小論文や物語によって流布させ、しかも貧乏人にも優れた著作を読めるようにと、新しい出版物《仲介者》が創刊されて、6年間にほぼ2000万冊が配布された。トルストイは秘密警察に終始監視され、84年には刷り上った「わが信仰はいずれにありや」が直ちに没収された。彼は自足の生活を送ろうと決意して靴の製作等も自分で行う一方、中国哲学(孔子、老子)に傾倒した。喫煙、飲酒も止め、菜食主義者となった。野良儀をまとい、白い顎ひげを蓄えて移っている彼の姿は、この時期のものである。  

トルストイと家族の関係は緊張していった。彼が世界中の人々の目に聖者と映れば映るほど、ソーフィヤには彼がますます悪魔のように見えてくるのだった。彼は私有財産制を否定し、自らの財産を放棄しようとしたが、彼女は頑として聞き入れようとはしなかった。1884年、不幸な妥協が成立し、トルストイは81年以前の彼の全ての作品の著作権を妻に委譲した。  

1886年、トルストイはその作品中、もっとも力強い短編とも言うべき「イヴァーン・イリイーチの死」と百姓の生活に題材を求めた戯曲「闇の力」を執筆した。88年、彼が60歳のとき、13番目の子供が生まれた。翌年彼は肉欲的恋愛を徹底的に告発した小説「クロイツェル・ソナタ」を脱稿した。  

1892年、トルストイの広大な領地は、ソーフィヤと生存している彼の全ての子供の間で分割された。トルストイはいまや世界で最も有名な人間となっていた。地球上のいたるところから多くの人々がヤースナヤ・ポリャーナへやってきた。彼の活動力は一向に衰えず、同年と93年にリャザン県で飢饉救済の事業を組織した。彼はまた数多いその短編中でも、完成度の高い「悪魔」(1889、出版は死後)や「神父セルギイ」(1898)などいくつかの作品を執筆、さらに非国教宗派(ドゥホボール教徒)をカナダへ移住させるの資金を調達すべく、3つの長編小説の第3作で、さほどの成功を見なかった「復活」(1899)を公刊した。96年から1904年にかけて、彼は自分で最もお気に入りの短編である、カフカーズ山岳住民の1人を主人公にした物語「ハジ・ムラート」を執筆した。  

トルストイの墓トルストイの晩年は、世界銃から沸き起こる喝采の嵐に包まれていたが、また一方では自分自身のさまざまな信念と彼の信奉者たち、さらに家族との間で繰り広げられる三つ巴の闘争の渦中に身を置き、大いなる不幸に閉ざされていた。正教会会議は、1901年に彼を破門した。家庭内におけるさまざまな反目に耐え切れずに、彼は10年10月、末娘のアレクサンドラと侍医に付き添われて最後の巡礼に上がったが、このたびは彼にとってあまりにも過重であった。  

トルストイは1910年11月9日、小さな停車場アスターホヴォの駅長の宿舎で息を引き取り、亡骸はヤースナヤ・ポリャーナに葬られた。

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