ツルゲーネフ(トゥルゲーネフ)、イワーン・セルゲーエヴィチ
1818.11.9-1883.9.3

Turgenev, Ivan Sergeyevich
Тургенев, Иван Сергеевич

ツルゲーネフ肖像 小説家、劇作家。

「猟人日記」、「ルージン」、「処女地」などの名作によってロシア革命思想に大きな影響を与え、またロシア、ヨーロッパの文豪と親しく付き合ってその懸け橋の役割を果たした。近代リアリズム文学の父とされる。

 ツルゲーネフの生涯は、芸術的、知識黄金時代であった19世紀のロシア史に燦然と輝く糸のように織り込まれている。彼は母国の作家のほとんどと面識を持っていたばかりでなく、世界的名声を博した最初のロシア作家として、長い外国滞在中にフロベール、ヘンリー・ジェームズ、ゾラ、モーパッサンら多くの作家と親しく交わった。他者の作品に対する誠実、真摯な態度のよって、彼はロシア文化とヨーロッパ文化の橋渡しの役割を果たしたのであった。

 ツルゲーネフの生涯は、有名人との出会いの物語であるとともに、強い影響力をもった女性たちとの邂逅の物語であったとも言える。彼に影響を与えた最初の女性、母親のワルワーラ・ペトローヴナは由緒の定かでないルトヴィノフ家の出であったが、広大な領地と5000人の農奴を持つ専横な女地主であった。彼女はおじからこの莫大な遺産を相続した3年後に、退役陸軍中佐のセルゲイ・ニコラエヴィチ・ツルゲーネフと結婚していた。ツルゲーネフ家は15世紀のタタール貴族まで遡る由緒ある家系を誇っていたが、当時家運が傾きかけていたため、財産目当てでセルゲーイはワルワーラと結婚したのであった。このような結婚で美男子のセルゲーイは絶えず妻といざこざを起こし、妻は妻で家庭を領地同様、横柄に切り回した。  

ツルゲーネフはオリョール県スパスコエ村の母の領地で、3人の息子の2男として生まれた。4歳のとき家族全員で初めてヨーロッパ旅行に出かけたが、ベルリンの動物園で危うく熊舎に落ちそうになり、父に救われたりした。彼は9歳になるまで母の領地であるスパスコエ村で家庭教師によって教育された。家庭では主に、フランス語が使われたため、ロシア語は召使から学んだ。1827年からモスクワで、大学進学のために予備校に通い、1833年にモスクワ大学教育学部に入学した。この頃彼は、自分の貴族的な身分に反抗しており、その民主主義的傾向に驚いた学友たちが、彼を‘アメリカ人’とよんだという話が当時の唯一の逸話として残っている。  

1834年、彼の一家は、ペテルブルクに移住し、彼もペテルブルク大学哲学部言語学科に転校した。その秋、父親が死亡した。ツルゲーネフは大学教授を目指していたが、暇を見つけては詩作にふけった。最初の作品「ステーノ」は中世風の感傷的な韻文劇で、親しく交わっていた師のプレトニョーフ教授から酷評されたが、それでも彼は1838年、ツルゲーネフの最初の詩「夕べ」を雑誌《現代人》の創刊号に発表してくれた。  

ツゲーネフは大学を卒業すると、ベルリン大学で勉強するため、1838年、船で出発した。このとき彼が乗った汽船がトラフェミンデで炎上した事件はさまざまに語り継がれているが、彼の振る舞いが卑劣だったという点では共通している。彼はフランス語で‘助けてください。私はやもめの母の一人息子なのです!’と叫んだともいわれ、この出来事以来、生涯に渡って彼の心に深い疼きを残した。  

ツルゲーネフは、ベルリンでヘーゲルの著作に没頭し、ラテン語、ギリシャ語、哲学を学んだ。1840年7月、彼はバクーニンにあいまる1年起居をともにし、昼夜を分かたず、哲学を論じ合った。そして、1841年、ベルリン大学の課程を終え、ロシアに戻った。翌1842年は彼にとって重要な年となった。彼はバクーニンの姉妹の一人、タチヤーナと現実離れした精神的恋愛にふける一方、母のお針子アヴドチャ・イワノーワと肉体関係を結んで1女を設けている。ツルゲーネフは学位論文を除いて修士課程に必要な全ての学業を修めていたが、さまざまな理由で学究的職業につくことを断念し、1843年7月、内務省に奉職した。文官としての仕事は母を満足させるためのものであった。しかし、18ヵ月後に、職を放棄したため、激怒した母親に仕送りを絶たれ、一般に金持ちと思われていただけに、いっそう不安定な生活を余儀なくされた。  

ツルゲーネフは1842年末、批評家ベリンスキーにあい、以後きわめて親密な関係を持った。ベリンスキーは、この青年が空想的な詩を離れて偉大なリアリズムへ、より自然な調子へ向かうのを助けたのである。叙事詩「パラーシャ」(1843)はツルゲーネフが模倣(特にレールモントフプーシキンの)の詩人であったことを証明しているが、後年彼はそれらの詩を己の真の使命を自覚する以前の作品として破棄している。  

ボーリーヌ・ヴィヤルド肖像1843年、彼は彼の生涯に大きな影響を及ぼすことになる一人の女性とであった。スペインのジプシー出身の女性歌手ボーリーヌ・ヴィヤルドである。当時彼女は才能豊かメゾソプラノ歌手としてヨーロッパ・オペラ界随―の歌い手の道を順調に歩んでおり、不器量であったが並外れた美声を持ち、また偉大な女優でもあった。ツルゲーネフはペテルブルク巡演中の彼女に一目ぼれし、かくして彼女の腕の中で息を引き取るまで続く奇妙な関係が始まる。彼女は20歳も年上のイタリア・オペラの支配人ルイ・ヴィヤルドと結婚していたが、夫は自由奔放に徹しており、2人の間にいざこざは起こらなかった。ツルゲーネフとボーリーヌとの関係では、問題はボーリーヌのほうにあった。彼女は特にツルゲーネフに特に惹かれていたわけではなかった。彼に生涯と財産をささげさせながら数々の男たちと関係を持ったし、自分の家庭に何年も彼を住まわせたが、2人だけの生活を送ろうとは考えなかった。  

1845年から47年までのほとんどを、ツルゲーネフはロシアで過ごし、自国の文学界の指導的人物と接触した。47年、外国に出た彼は、筆によって農奴制と闘う決意をし、「猟人日記」の最初の1編「ホーリーとカリーヌィチ」を書いた。彼は保養地ザルツブルンに死期の近いペリンスキーを見舞ったりしたが、おおむねクーリタヴネルにあるヴィヤルド家の夏の別荘で作品の執筆にあたった。  

1850年、ツルゲーネフはロシアに戻ったが、同年の母の死によってスパスコエ村を含む3万エーカーからなる11の領地と、何千人もの農奴を所有することになった。彼は小作百姓の負担軽減に最善を尽くし、邸内の使用人は小作人として解放した。この年に書かれた戯曲「村のひと月」は、現在なお上演目録に加えられるものの1つになっている。1851年には「田舎女」が書かれた。彼は常々、自らの戯曲の才能を否定しており、事実52年に戯曲の執筆を絶つが、彼の叙情味あふれる戯曲はチェーホフの作品同様、分類の困難な種類のものである。  

「猟人日記」(Записки охотника, 1852)」のかなりの部分は、この数年間に、短い間隔を置きながら続けて発表された。作品の中で農奴たちは主人よりも高貴な存在とされ、両者ともに農奴制によって成長を阻害されたものとして描かれている。この日記風のスケッチは時の政府の憤激を買い、ツルゲーネフを陥れようとする奸計が仕組まれた。1852年11月、ツルゲーネフは物故して間もない作家ゴーゴリをたたえる論文「ペテルブルクからの手紙」を発表したが、これが‘検閲法違反’にとわれ逮捕されてしまった。ツルゲーネフは1カ月投獄された上、2年もの間スパスコエの領地に幽閉された。皮肉なことに「猟人日記」が上梓されたのは彼が逮捕されてからのことであり、この出版は断片的に出版されていたときに比べ、農奴制に関するはるかに大きな反響を引き起こした。また彼は、獄中にあって、カーライルがかつて‘世界で最も感動的な物語’と呼んだ作品「ムムー」(Муму, 1852)を執筆している。  

1854年、ツルゲーネフはペテルブルクに戻った。かねてから長編小説の執筆を試みては何回も失敗していたが、55年には7ヵ月かかって、「ルージン」(Рудин,1856)を書き上げ、翌年《現代人》に発表した。40年代の饒舌で理想主義的な世代の肖像画であるこの作品の主人公から、読者はバクーニンの面影を感じ取った。同年ツルゲーネフは、チェルヌイシェフスキートルストイにあうが、彼らとはやがて反目する運命にあった。56年には頻繁な外国旅行を行い、アメリカの小説家ストーにあう。農奴制の廃止に果たした「猟人日記」の役割は、アメリカの奴隷制廃止に及ぼした「アンクル・トムの小屋」の影響としばしば比較される。  

1857年、ツルゲーネフは「アーシャ」(Ася)を書き上げ、「貴族の巣」(Дворянское гнездо, 1859)の執筆に着手した。翌年、彼はイギリスを旅し、ディズレーリ、サッカレー、マコーレイ、カーライルその他の作家と面識を持った。59年、ロシアに戻ったが、そこには「貴族の巣」に対する喝采の嵐が彼を待ち受けていた。同年春に彼は、53年に勃発したトルコとの戦争(クリミア戦争)に従軍した義勇隊の下士官ワシーリー・カラターエフから託されていた原稿の塵を払い、これに目を通した。ツルゲーネフはカラターエフの死を予感していた(実際彼は出征直後に発疹チフスで死亡している)。カラターエフの自伝的物語を骨子としたツルゲーネフの次の大作「その前夜」(Накануне)は、60年に発表されるや侃々諤々の一大論争を巻き起こし、老いて富める階級はこれを非難し、若く急進的な階級はこれを擁護した。しかし、ネクラーソフ主宰の雑誌《現代人》の論客ドブロリューボフが賛否両論にとれる批判を書いたため、ツルゲーネフはこの雑誌とその急進的傾向に怒り、旧友ネクラーソフとの関係を断つに至った。この不幸な絶交はトルストイとの決裂という余波をも生みだし、彼はトルストイに決闘を挑むという脅迫的手段に出たほどである。結局、ツルゲーネフが折れて決闘は未然に防がれたが、2人の間の親密な関係は、以後ついに旧に復さなかった。  

1860年、ツルゲーネフは、文学仲間のゴンチャローフによって引き起こされた大きな不幸に耐えねばならなかった。当時ゴンチャローフは多年にわたって執筆中の労作「断崖」(1869)についてツルゲーネフとしばしば議論していたが、「その前夜」の趣向には、「断崖」からの剽窃がいくつかあるとツルゲーネフを非難したのである。3人の作家を判事役として非公式の法廷が開かれ、ツルゲーネフの潔白は証明されたが、激怒した彼はゴンチャローフ(彼のパラノイアはやがて病的なものとなった)に絶交を宣言し、以後2人の親密な関係が回復することはなかった。  

ツルゲーネフの苦痛は、新しい小説の執筆に没頭することである程度和らいだ。「父と子」(Отцы и дети, 1862)として世に出たその作品は、ロシアの文学的、知的、政治的生活における1つの分水嶺を示すものとされ、ツルゲーネフの最大の傑作として評価されている。だれしもが、主人公バザーロフの主張とそのニヒリズムの哲学に与せざるを得ず、政治上の社会主義者、哲学上の科学的唯物論者パザーロフは1860年代の世代を象徴する原型となった。保守主義者たちは、若い世代に跪拝するツルゲーネフを告発し、急進主義者たちは神聖な理想を茶化したとして彼を非難した。ある人々はパザーロフに、若くして悲劇的な死を遂げた急進的批評家ドブロリューボフの戯画を感じ取った。  

1863年、ツルゲーネフはドイツのバーデンバーデンに別荘を買い求め、ヴィヤルド家の人々とおおっぴらに暮らしはじめた。67年には小説「煙」を発表、ロシアにおける全てのスラヴ主義者と、あらゆる保守的な宗教思想を攻撃した。ロシアの多くの人々は、彼がヨーロッパに身売りし祖国との接触を失ったとして非難し、同年彼を訪れたドストエフスキーも、彼を母国の中傷家として攻撃している。  

1870年に普仏戦争がおきると、ヴィヤドル家の人々はイギリスに逃れ、ツルゲーネフもその後を追った。数ヵ月後、彼はフランスに渡り、最初はパリに、次いでパリ近郊ブージヴァルのセーヌ河畔にある夏の別荘に住んだ。彼はゾラやドーデ、モーパッサンなどと定期的に晩餐の卓を囲み、特にフロベールに親近の情を示した。この数年間に彼は最も知られた短編「初恋」(Первая любовь, 1870)、「曠野のリヤ王」、「春の水」(1872)などを執筆した。  

1877年、7年間の準備の末に成った小説「処女地」が発表された。これはツルゲーネフの最長の作品であり、数多い世代研究の1つである。今度は70年代のナロードニキ運動が扱われ、父親たちの無益な饒舌と空虚な理想主義に飽いた若い彼らが行動を決意するのである。
この作品はヨーロッパではベストセラーになったものの、ロシアでは全ての派から断罪された。この不評に起因する落胆と厭世的気分は、78年に執筆した「セニリア」(のち「散文詩」(Стихотворение в прозе, 1882)の題名が付けられた)という小編に反映している。  

翌1879年冬、ツルゲーネフを新たな不幸が見舞った。兄の死後、彼はロシアに戻って遺産の公平な分配に腐心しなければならなかったのである。この不快な仕事は、しかしたちまちにして祝福に変わった。不興を買い、名誉を失墜したと思い込んでいたロシアで、読書界、ことに若い人たちから彼は凱旋将軍のように迎えられたのである。ツルゲーネフはいくつかの古く長い文学上の反目に終止符を打ち、領地の管理人で、彼をほとんど破産にまで追い込んでいたおじのニコラーイとさえ和解した。彼は夜に日をついで祝宴を張った。  

1843年以来、ツルゲーネフの生活は常にボーリーヌとの密接なつながりに支配されてきたが、その関係は、プリマドンナに無垢な崇拝をささげるといった単純なものではなかった。何度もいさかいがあり、そして最後は常に和解するといった2人の関係は、ボーリーヌがその美声を失い、多少ともツルゲーネフに依存するようになってからも続いていた。彼は他に何人かの愛人を持ち、結婚を考えた女性もいた。フランスで‘ロシアの巨人’の異名を持ったほど堂々とした体躯を持ち、美男子で魅力に富んでいた彼は、ロシアで歓呼の嵐に包まれていた79年、若くして美しい女優マリヤ・サーヴィナに恋をするだけのゆとりを持っていた。9月、彼はオックスフォード大学から名誉博士号を授与された。  

1880年、ツルゲーネフはモスクワに帰り、プーシキンの記念碑の除幕式に参列した。同年、彼の最も美しい物語の1つ、「勝ち誇れる恋の歌」が書かれ、翌年、「散文詩」の大部分を発表し、また鬼気迫る恋の物語「クララ・ミリッチ」を執筆した。「散文詩」のうち、あまりに私事すぎると感じていた数編は本人の希望により発表されず、1930年になって公表された。  ツルゲーネフが終生悩まされた心気症は1882年に本格的症状を現した。彼は脊髄ガンに冒されていて、83年9月3日に没した。彼の遺骸がロシアに送り出されるとき、パリ北駅では盛大な儀式が催され、ペテルブルグの葬式は国葬として行われた。


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