ブーニン、イワン・アレクセエビチ
1870.10.22-1953.11.8

Bunin, Ivan Alekseevich
Бунин, Иван Алексеевич

ブーニン肖像 小説家、詩人。

20世紀ロシアの最良の散文作家の一人。

オリョール県のボローネジに近いブーニン家の領地で生まれた。彼は、没落していたとはいえ誇り高い遺族の家柄の伝統を愛し、プーシキンの作品に親しみながら成長した。1881年、エレツのギムナジウムに入学したが、3年後に途中退学し、以後、自宅で兄について学んだ。しかし家が貧しかったため、やむなく働きに出て、いくつかの地方新聞の校正係や帳簿係など、様々な職業を経験し、1887年、詩人ナドソンの追悼詩「ナドソンの墓前で」でデビューする。

1891年、ブーニンは古典的様式に基づいて自然をたたえた「詩集」を出版し、次いで詩集「開かれた空のもとで」(1898)と「落葉」(1901)を公刊、「落葉」は1903年に科学アカデミーのプーシキン賞を獲得した。彼は、詩人として出発したが、ロシアの田園生活を題材にした、ブルジョアの愚かさなどを描いた短編小説や小品などを執筆したが、なかでも「ため池」、「世界の涯にて」、「故郷からの便り」などは高い評価を得た。90年代にになるとブーニンの名は文学者仲間でしだいに知られるようになり、1891年にチェーホフとの交友がはじまった。そして、99年にはゴーリキーにも会い、その勧めによってゴーリキーを中心とした若い自由主義な作家たちのグループ“ズナーニエ(知識社)”に加入した。

20世紀の幕開きとともに、ブーニンはその精力を散文に傾注するようになり、彼の短編のなかでも最も優れた作品とされている「アントーノフの林檎」(1900)、「松の木」(1901)、「暗黒の大地」(1904)などを生みだしていった。これらの作品は、社会への関心とともに大地に対するブーニンの愛着を色濃くにじませている。長編小説「村」(1910)と「乾いた谷間」(1911)では、人間の歴史に刻まれた悲惨な記録と人間の限りない憧れとを対比させており、鮮やかな隠喩法を用いるとともに、控えめな叙述にも鋭い才能の輝きをみせている。ブーニンの文体は繊細で精緻、明晰なうえに極めて音楽性に富んでおり、その点で多くの人々の賞賛をかち得ていた。

ブーニンの作品は大衆的な人気を博するとともに、批評家たちからも敬意をもって迎えられた。1909年、彼は科学アカデミーの名誉会員に選出された。広く各地を旅行し、1907年から1911年にかけては地中海と近東を題材にしたスケッチの連作を刊行する。同時に彼は、都市を主題にしながら全体をエレツ方言でつづった風刺的な作品「良き生活」で、優れた才能を発揮した。また、すさまじい迫力を持った人物描写「チャンの夢」(1916)を著するとともに、死や人生の無意味を主題とした短編「サンフランシスコから来た紳士」(1915)などを発表する。そのほか、アメリカの詩人ロンフフェローの「ザ・ソング・オヴ・ハイアワサ」やバイロンのいくつかの詩劇、そのたの作家たちの作品を翻訳し、華々しい成功をおさめた。

ブーニンはロシア革命に反対し、1920年にパリに亡命して、死没するまでそこで過ごした。彼の初期作品の主題のいくつかは、亡命中に彼が執筆した作品においてもしばしば繰り返し取り上げられている。例えば、自伝的小説「ミーチャの恋」(1925)、「アルセーニエフの生涯」(1930)にみられる死と観念主義的恋愛への強い関心などはその最も顕著な例である。1933年には、彼の世界文学への貢献度が高い評価され、ロシア人で最初のノーベル文学賞を受賞した。

晩年、彼はトルストイとチェーホフに関する書物も著している。「回想と思い出の人々」(1950)は、ソ連における文化の著しい資質低下を攻撃したものである。 ブーニンは1953年11月8日に、亡命先のパリで生涯を閉じた。


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