ゴーリキー、マキシーム
1868.3.16-1936.6.18

Gor’kii, Maksim
Горкий, Максим

ゴーリキー肖像作家。

幼少から苛酷な体験を土壌として変革の文学を志し、戯曲「どん底」、小説「フォマ・ゴルジェーエフ」、「母」などによって‘社会主義リアリズム’文学を確立、20世紀ロシア偉大な作家として世界的に知られている。

ゴーリキー(本名ペシコフ、アレクセーイ・マクシモヴィチ)はヴォルガ川流域の町ニージニー・ノヴゴロドに生れた。5歳のときの指し物師だった父が死に、9歳で母を失ったため厳しい境遇のもとにおかれ、染料工場主だった母方の祖父に育てられた。11歳のときからは事実上独立し、商店の徒弟、ヴォルガ川を往復する汽船の皿洗い、イコン作りの弟子など、多種多様の職業に就き、ロシアの下層社会の生活を身をもって体験する。こうして早くから知った人生の無残さや暗鬱さは、のち小説、戯曲、回想録のなかに、蓄積された体験としてほとばしることになる。

5ヶ月間の小学校通学期間を除き、ほとんど独学だったゴーリキーは、16歳のときカザン大学を受験したが失敗した。しこで、彼は徐々に革命的心情に目覚め、カザンでナロードニキ革命家と知り合い、マルクス主義の文献を読みはじめた。宣伝運動に携わったりしたため、1888年には逮捕され、釈放後は警察の監視下におかれることになる。

1891年春から6年間にわたってゴーリキーはロシア各地を放浪の旅に出て、最後にカフカーズ地方までたどりつく。91年から92年にかけての1年間、彼はティフリス(現、トビリシ)の鉄道工場で働いたが、その間に書き上げた短編小説「マカール・チュドラ」(Макар Чудра, 1892)が地方新聞に《カフカーズ》に掲載され、このとき初めて“マクシム・ゴーリキー”の筆名が用いられた。

これをきっかけにゴーリキーはすべてを投げ打って文学に打ち込んだ。そして、「マカール・チュドラ」の発表につづく5年間、作品はもっぱらヴォルガ川沿岸地方の新聞に掲載された。「イゼルギル婆さん」(Старуха Изергиль, 1895)、「チルカッシュ」(Челкаш, 1895)など、ロシア社会の底辺に生きる人間の自由への憧憬をロマンチックにうたいあげた短編を発表し、文壇でも評価されるようになる。1898年、最初の作品集を発表するとゴーリキーの名はロシア全国に、そして国外にも知れわたった。初期の作品には、売春婦、浮浪者、人生の落伍者や社会のはみだしものなどが描かれている。ゴーリキーは、ロシアの抑圧されたした下積みの人々の苦悩を表現することで、上品ぶった社会に対して誇り高い挑戦を展開した。彼はしばしば、野蛮で墜落した、“落魄れ果てた人々”のなかさえ人間の愛と尊敬を見だした。そして人生の敗残者への共感によって、彼はまさに、無学な一般衆民の苦悩とよりよい生活への希望を代弁するものとなったのである。

ゴーリキーは長編「フォマ・ゴルジェーエフ」(Фома Гордеев, 1899)をもって一流作家としての地位を確立した。この作品は、儲けの多い家業を相続した善良で無力な男の嫌悪感と退屈感、そして罪の意識を描く。男は家族と階級に反抗するが、筋の通った倫理観に欠け、結局は因習に打ちのめされて破滅する。この小説や後の作品で、ゴーリキーは自身を資本主義の容赦ない敵であると確認し、革命前のロシアを灰色の荒涼とした社会として描いたのである。

背が高く、やや痩せぎすのゴーリキーは、粗末な衣服を好み、しばしば不作法に振る舞った。しかし、人柄は多彩で、魅力にあふれており、若者に似ず多くの有名な知己を持っていた。そのなかにはトルストイチェーホフがいた。後年この著名な2人の作家について書かれたゴーリキーの回想録は、彼の作品のなかでもとりわけ優れたものとなっている。

ゴーリキーはますます革命運動に深入りし、ニージニー・ノヴゴロド市、ソルモフ市、ペテルブルグのマルクス主義労働者サークル活動に参加していった。1901年には、革命を予知した作品として知られる「海燕の歌」(Песня о буревестнике)を箸した。同年、地下出版の準備に手を貸していたかどで短期間だが逮捕、拘禁され、地方に追放された。1902年、彼がロシア科学アカデミーの会員に選ばれた際、皇帝はゴーリキーが破壊活動にかかわっていたとして任命を取り消した。チェーホフとコロレーンコは、この官権濫用に抗議してアカデミー会員を辞退した。

同じ時期、ゴーリキーは戯曲を書きはじめ、モスクワ芸術座と緊密な関係を結んで、1902年、有名な戯曲「どん底」(На дне)を上演する。「どん底」はロシア社会の底辺にある人々の生活の悲惨さと完全な絶望を表現し、同時にこの地上の多くの不幸な人々が自らの支えとした幻想を観察し、検討した初期のゴーリキーの長所がすべて表現されている傑作であった。 1904年から1905年にかけてゴーリキーはいくつかの戯曲を書き上げ、レーニンと知り合う。1905年の革命の間、彼は帝政の打倒を呼びかける文書を作成したかどで再び投獄された。やがて国外から寄せられた抗議も効を奏して釈放された。1906年、ゴーリキーは非合法のうちにロシアを離れ、革命家たちの救済資金をつのるためアメリカに赴き、その年のほとんどを過ごし、戯曲「敵」(Враги, 1906)や長編「母」(Мать, 1907)を執筆した。「母」では、ごくあふれた労働者階級の母親が、戦闘的革命家である息子の行動に励まされて、階級闘争の過程で思慮深い活動家へと変貌していく姿を描いた。この小説はのちにソ連では“社会主義リアリズム”の古典とされた。

ゴーリキーは肺結核に冒され、1906年から13年までの7年間、イタリアのカプリ島に住むが、彼の家は、在外ロシア人の文学、政治活動の中心となった。1908年、彼はボリシェビキとの見解の相違が初めて浮き彫りなった作品「懺悔」(Исповедь)を執筆した。1913年、ゴーリキーは皇帝の恩赦でロシアにもどった。つづく3年間にゴーリキーは自伝の最初の2巻「幼年時代」(Детство, 1914)と「世の中へ出て」(В людях, 1916)を完成する。(第3巻の「私の大学」(Мои университеты)は1923年に出版された。)自伝として素晴らしい出来映えを示したこの3部作は、彼が知り合った人々や、少年時代から青年時代までの冒険をドラマチックかつ多彩に描いており、同時代のロシアを描写した魅惑的な絵画ともいえよう。ゴーリキーのノンフィクショナルな作品は、多くの点でフィクションの作品よりも優れている。

1917年10月の革命につづく数年、ゴーリキーはロシアの文化的遺産を守るため精力的に働いた。作家や芸術家のための家を建て、出版所や劇場を作り、新しいソヴィエト政権に芸術振興を通して貢献したが、一方新政権の手立て、特に昔ながらのインテリゲンチアに対しての政策に批判的な意見を持ち、レーニンとの対立が深刻化する。これがからんで、彼はレーニンの勧めに従って、肺結核の療養のため1921年から33年までのほとんどドイツとイタリアで過ごしている。この期間、ゴーリキーは「レーニンの回想録」(1924)、小説「アルタモーノフ家の事業」(1925)、未完に終わった長編「クリム・サムギンの生涯」(Жизнь Клима Самгина, 1925-36)などの傑作を執筆した。

1928年、ソ連政府およびスターリン自身の招待でソ連を訪れ、33年には帰国し、再び文化面での活動を展開した。書籍、雑誌の出版や文芸批評の面が活動の中心であったが、ソ連政府の主要な要望は、第1回作家同盟第大会への地盤作りであった。1934年、ゴーリキーは第1回ソ連作家同盟大会を開催、初代議長として講演を行った。

ゴーリキーは、1936年にモスクワ郊外でその生涯を閉じ、赤広場で埋葬された。存命中もレーニンをはじめ各方面から高い評価を受けていたが、死後はロシアにおける20世紀最大の作家として聖化されるに至り、数多くの劇場、博物館、町路、大学、そして工場やコルホーズまでも、彼の名がつけられるようになった。

このページのTOPへ

e-mail:svetilnikru@mail.ru