ソルジェニーツィン、アレクサンドル・イサエヴィチ
1918.12.11-

Solzhenitsyn, Alexander Isaevich
Солженицын, Александр Исаевич

ソルジェニーツィン肖像 作家。

北カフカスのキスロボツク市に生まれ、両親が農民出身にもかかわらず、高度な教育を受けていた。第一世界大戦勃発直後父イサーイ・ソルジェニーツィンはモスクワ大学修学途中、志願兵として戦争に参加、優れた功績をあげ勲章を三つも得るが、その後、狩猟事故のため、息子が生まれる半年前に死亡。息子ソルジェニーツンが生まれた年はロシアで内戦勃発の年であり、内戦はレーニン率いるボルシェビキーの全面的勝利で終わった。母は一家を支えるため秘書の仕事をはじめ、ソルジェニーツィンが6才の時、ドン河畔のロストフ市に移住する。

ソルジェニーツンは、小、中、高等学校で優勝な成績をおさめ、文学に深い関心を持ったが、将来の安定した報酬を確保するため、1938年、ロストフ大学の物理・数学科に入学する。1940年同級生のナタリヤ・レシェトフスカヤと結婚。1941年数学科の卒業証書を受け取ると共にモスクワの哲学・文学・歴史大学文学科の通信課程も終了した。卒業後ロストフの中学校で数学を教たが、同年6月、第二次世界大戦の独ソ戦開戦により軍に召集された。そして、砲兵学校の教程を終た後、砲兵大尉としてロシア、ヨーロッパ各地を転戦した。

1945年2月、東プロイセンのケーニヒスベルグ(現、カリニングラード)で、政治的告発を受け、反ソ扇動と宣伝の罪で8年の刑を宣告される。前線から友人にあてた手紙と、私物のなかで発見された小説の下書きが、暗にスターリンを批判していたという理由である。最初の1年をモスクワの刑務所で過ごし、その後、囚人数学者としてモスクワ郊外マールフィノにある特殊研究所へ移動される。後に”数学卒業証書が命を救った”と作家はのべている。マールフィノ特殊刑務所の監理体制は他の刑務所よりはるかに緩かったからである。

最後の3年間は北カザフスタンの政治犯専用の収容所で炭鉱で働いた。そこで胃ガンが発見され、絶望的とみなされたが、1953年3月5日(スターリン死去と同日)、8年の刑期を終え、タシケント病院で奇跡的にレーザ治療で完治した。その後は、シベリア追放のため、学校教師をしながらシベリア各地を転々とした。
そして、1956年の第20回共産党大会の翌年、ようやく完全な名誉回復を得、中部ロシアのリャザンに移り住み、中学校の数学教師のかたわらひそかに文筆活動をはじめた。

1956年フルシチョフの反スターリンキャンペーンがはじまったが、それまでに、30年以降スターリンの手によって概算でも1000万人以上の人々が弾圧、獄死させられたというから、ソルジェニーツンは、まさに幸運だったといえよう。しかし、彼の苦難は、まだまだ続く。

1961年の第22回党大会での激しいスターリン批判をみて、ソルジェニーツンは、処女作「イワン・デニーソビチの一日」(Один день Ивана Денисовича, 1962)の発表を決意、文芸誌《新世界》にフルシチョフの許可のもと、掲載される。スターリン時代の収容所の一日をリアリスチックなスタイルで描いたこの中編小説はドストエフスキーの「死の家の記録」に匹敵する傑作と評され、一躍世界のベストセラーとなった。1年後、「クレチェトフカ駅のできごと」(Случай на станции Кречетовка, 1963)、「マトリョーナの家」(Матрёнин двор, 1963)など優れた短編を発表、揺るぎない作家の地位を確立した。 しかしフルシチョフの失脚以降、彼の著作の出版は次第に不自由になっていく。ソ連で最後に出版された作品は短編の「ザハール・カリタ」(Захар-Калита, 1966)である。

1967年5月、ソルジェニーツンは、第4回作家同盟大会へ公開状をおくり、当局による検閲の廃止を公然と訴え、自分の原稿を当局に没収されたことを述べた。この公開状は当局によって黙殺されたが、以来ソルジェニーツィンはマスコミから総攻撃を受け、作品は発行禁止処分にされた。しかし、国内で発表できなかった長編「ガン病棟」(Раковый корпус,1968-69)、「煉獄のなかで」、原題「第一圏のなかで」(В первом круге, 1968)の原稿のコピーが西側にわたり、著者の許可なしに海外で公刊され、当局との対立を一層悪化させた。

「ガン病棟」はタシケントのガン病棟を舞台に死に直面した人々を、「第一圏のなかで」はモスクワ郊外の囚人研究所の生活を、自らの体験を踏まえて描いた秀作である。後者にみられる、先入観にとらわれない、スターリン時代の深く鋭い分析は西側批評家の絶賛をあびた。

1969年10月、反ソ的イデオロギー活動との理由で、ソ連作家同盟を除名されたが、翌1970年10月にはノーベル文学賞に輝いた。彼は、最初、ストックホルムでの授賞式に出席する予定でいたが、その12年前のパステルナクのノーベル賞と同様に、ソ連政府がノーベル賞委員会の決定を”政治的敵意のあるもの”とみ、海外に出ることによりソ連市民権を剥奪されることを恐れがあるとして、授賞式出席を断念した。

1971年には、海外での作品出版を決意、翌年ロンドンで英語版の「1914年8月」(Август четырнадцатого)、ロシア革命を描いた、偉大な歴史的長編作品の第1巻を発表する。

1973年KGBにより、彼の最大の作品であり、ソ連史の書換えともいうわれる「収容所群島」(Архипелаг ГУЛАГ)の原稿が没収される。幸い、原稿には密かにパリに持ち出されたコピーがあり、彼は、その発表を許諾。73年12月に出版された。その結果、1974年2月12日、売国行為の疑いでモスクワで逮捕され、13日に市民権を剥奪されて西ドイツへ国外追放された。国籍を奪われたとき彼は、”嘘によらず生きよう”とのメッセージを国民に残した。
1973年に結婚した二人目の妻ナタリヤ・スベトローバと3人の子供が、彼のもとに行く許可が出たのはさらに後のことである。

ソルジェニーツンは家族とチューリヒで平和な2年間を過ごした後、アメリカのバーモンド州に移り、「収容所群島」第3巻(ロシア語版1976、英語版1978)を書き終え、「1914年8月」ではじまる、”ロシア人自ら自分達の過去と未来を減滅させた、悲劇的なストーリ”である長編「赤い車輪」の執筆に没頭する。

「収容所群島」全3巻(1973-75)は、10月革命後60年におよぶ共産党独裁による民主弾圧の歴史を、文学のあらゆる可能性を駆使して描いた膨大なドキュメントであり、文学的価値の面でも分量的にもトルストイの「戦争と平和」にまさるとも劣らない大作である。

1982年9月にはひそかに来日し、約1ヶ月にわたり日本各地を旅行し、その後台湾を訪れて帰米した。

1983年5月には宗教界のノーベル賞というわれるテンプルトン賞をうけ、ロンドンでの授賞式に出席、”現代の悲劇はすべて われわれが神を忘れたことに原因がある”とキリスト者の立場で現代文明を鋭く批判した。

ソルジェニーツィン肖像 文壇に登場以来、チェーホフ以後の最も優れた作家との評価がロシア国内でもあったが、今や現存する最も偉大な世界的作家の一人として多くを期待されている。

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