レールモントフ、ミハイル・ユーリエビチ
1814.10.2-1841.7.15

Lermontov, Mikhail Yuryevich
Михаил Юрьевич Лермонтов

年譜

レールモントフ肖像 詩人、作家。

ロシア・ロマン主義の最後を飾る貴族文学者で、代表作「現代の英雄」の主人公ペチョーリンを通じて、社会的反動の重圧に打ちひしがれた知識階級の典型を生み出した。

その短い生涯にもかかわらず、ロシア文学におけるレールモントフの貢献には目覚しいものがあった。彼はヨーロッパの先人や同時代人のロマン主義を吸収し、リアリズムと抑制のきいた言葉によって円熟期の著作のなかに発展させ初期のロマン主義的衝動をより洗練されたものにした。しかも、初期の著作を引き立てた色彩と独自の叙情が失われることはなかった。いみじくもチェーホフが‘私はレールモントフの言葉に勝るどんな言葉も知らない’と語り、若い作家たちの模範として推薦したのも決して誇張ではない。

レールモントフはモスクワに生れ、3歳の時に母がなくなったあと、祖母と父親は子供の取り扱いをめぐって争った。結局は祖母の意見が通ったものの、いたいけな少年の心はすでに痛手を被っていた。虚弱だった彼は、療養のため祖母に連れられて何度もカフカズを訪れた。カフカズは少年の心に強烈な、懐かしさの入り混じった印象を植え付けた。 優れた中等教育を受けたのち、レールモントフは1830年にモスクワ大学に入ったが、このときの同窓生には、やがて著名な文学者となるもの:ベリンスキー、ゲールツェン、アクサーコフ、スタンケーヴィチなどがいた。けれどもレールモントフは、仲間の学生と親しい交際を持たなかった。もともと超然としている質だったのだ。1832年6月、彼は大学をやめてペテルブルグの近衛騎兵曹長仕官学校に入った。

1832年の夏までにレールモントフは300編以上の叙情詩、3編の戯曲、数編の叙事詩、それに未完の数多くの作品を書いた。放埓な情事、失恋、近親相姦、殺人といったテーマが、「海賊」(1828)、「2人のオダリスク」(1830)などの物語詩の特徴だった。レールモントフの数多い初期の作品を見ると、シラーとユゴーの影響もさることながら、とりわけバイロンの影響に気付かせれる。「スパニアード」、「奇妙な人」などの戯曲では、一般に感じやすい若者と、その鋭敏な感受性がもたらす悲劇的な情況が描かれている。初期の多くの詩は未熟で冗長なものが多かったが、しかし「天使」(1831)などの優れた選集もある。

1832年以後、近衛竜騎兵連隊の簡単な任務に就きながら、レールモントフはペテルブルグの社交界で享楽に耽った。しかしその間も、創作をつづけることだけは忘れなかった。4編の叙事詩、2編の戯曲(「仮面舞踏会」(Маскарад)と「兄弟2人」)、30編に近い叙情詩が書かれたのである。叙事詩の中では、「悪魔」が最も重要である。レールモントフはこの作品に29年から41年まで取り組んでいるが、少なくとも8回は修正が加えられ、しかもそのうち5回は34年までのものだった。テーマは伝統的な‘堕天使’のバリエーションにほかならなかった。

この時期にレールモントフは「ヴァジム」(Вадим)と「リゴフスカヤ公爵夫人」など、最初の小説を試みている。1832年から34年にかけて書かれたゴシック風小説「ヴァジム」は、1773-74年のプガチョーフ反乱を背景にした報われることのない愛の物語であるが、その内容は陳腐である。小説の最も重要な成果といってよい、未完の社会小説「リゴフスカヤ公爵夫人」には、スタイルは時としてけばけばしく、構成も不十分ながら、「現代の英雄」の主人公ペチョーリンの初期のスケッチが登場する。 1837年、心から崇拝していたプーシキンが決闘で殺されたことを知ったレールモントフは、皇帝の側近を弾劾する詩を書いた。その結果、逮捕、投獄されたうえ、1年ほどカフカズでの軍務に追いやられた。

レールモントフにとっては晩年ともいうべき、1837年から死に至る期間に書かれた作品は、いずれも高い完成度を示している。初期の詩が個人的関心の直接の反映だったのにひかえ、後期の70編足らずの叙情詩には、真理、自由、誠実、尊敬などが歌われている。多くは社会への軽蔑や侮辱、そして反逆の精神に貫かれており、詩人と大衆との葛藤のテーマを扱ったものである。彼はまた、5編の叙事詩を完成させ、さらに2編に取り掛かった。なかでも最高の作品として「亡命者」(Изгнанник)と「ムツイリ」(Мцыри)、それに「悪魔」の決定稿があげられる。

「現代の英雄」(Герой нашего времени, 1840)はロシア文学における最初の心理小説であり、ロシア散文の優れた模範ともなった。おびただしい批評が寄せられ、有力な批評家ベリンスキーは好意的な評言を行ったが、批評家の多くは現実を歪曲したものたみなした。作品はグリゴーリー・ペチョーリンの冒険をさまざまな視点からたらえた5編の物語からなり、うち3編は日記体をなしている。舞台はカフカズに設定され、ペチョーリンによる地元の公爵令嬢ベーラの誘拐、黒海のタマン半島の密輸業者との出会い、公爵令嬢メリーをめぐって展開されるペチョーリンと別の将校との三つの巴の争い、運命論の効果の立証を試みるペチョーリンの友人の実験、などが描かれる。ペチョーリン像を前面に描き出すように5編が絡み合いながら構成されているが、時間よりも真理の追求を軸に、物語の要素はすべてこの心理的描写に従属する。ペチョーリンは退屈、信念の欠如、全体的な精神的不毛などに悩まされるが、いきいきとしたその性格は、まさしくロシア文学の勝利を告げるものであった。

この時期、レールモントフは、彼の不敬な態度に不快感を抱いていた皇帝にコラーイ1世によって、何回もカフカズに流され、軍務の第一線に回されては危険に身をさらすことになった。ところがレールモントフは、そのたびに喜々として命令に従い、その勇気によって頭角を現したから、皇帝の意図はいつまでも満たされることがなかった。しかし、レールモントフの行く手には、ピャチゴルスクで仕官学校時代の旧友に出くわしたことにはじまる別の運命が待ち受けていた。レールモントフは、当時すでに退役少佐だった旧友N.S.マルトイーノフがカフカズの服装や習慣をひけらかすのに腹を立て、痛烈に皮肉をあびせたことから決闘にひきこまれた。1841年7月15日の決闘で、マルトイーノフは最小の1発でレールモントフを倒した、と伝えられている。

年譜

  • 1814年10月2日、モスクワに生まれる。父ユーリイ・ペトローヴィチは退役大尉。母マリヤ・ミハイロヴナは富裕な地主貴族の一人娘。10月11日、母方の祖母エリザヴェータ・アルセーニエワを洗礼親として受洗、ミハイルと名付けられる。この年の暮れから翌1815年の初めに、レールモントフ家は祖母の領地ペンザ州タルハーヌィ村(現在レールモントフ村)に移住する。この地でレールモントフは幼時を過ごす。
  • 1817年(3歳)2月24日、母マリヤは21歳で病死。3月5日、父ユーリイはトゥーラ州の自分の領地の去り、ミハイルは父と不仲の祖母の手で養育されることになる。5月末、アルセーニエフ家の遺産相続人に定められる。  
  • 1818年(4歳)夏、祖母に伴われ、祖母の里方のストルイピン家の家族と共に、初めて北カフカースに旅行、祖母の妹のハスタートフ家に滞在する。
  • 1819年(5歳)7月、祖母と共にモスクワで歌劇「姿なき女」を見る。
  • 1820年(6歳)夏、祖母と共に再びカフカースのハスタートフ家に滞在。  
  • 1825年(11歳)5月、祖母の兄アルカージイ・ストルイピン元老院議長は死去、この年蜂起して鎮圧されたデカブリストに近かったという。6月からカフカースのゴリャチイ・ヴォーディに滞在。夏、9歳の少女に初恋をする。
  • 1827年(13歳)夏、父親の領地を訪れる。秋、祖母と共にモスクワに移る。プーシキンの「バフチサライの泉」、バイロンの「シリオンの囚人」などを愛読。
  • 1828年(14歳)夏、最初の叙事詩「テェルケース人」を書く。9月1日、モスクワ大学付属寄宿中学校4学年に編入。12月、5学年に進級、優等賞を受ける。「カフカースの捕虜」のほか、抒情詩「秋」、「葦笛」など。
  • 1829年(15歳)叙事詩「悪魔」の最初の草稿を完成。この叙事詩は生涯にわたって何度も書き直される。抒情詩「わが悪魔」など40編以上。
  • 1830年(16歳)4月、寄宿学校を出る。9月1日、モスクワ大学論理政治学科に入学。当時、同大学にはベリーンスキイ、ゲールツェンらも学ぶ。コレラ流行のため年末まで大学閉鎖。この年、戯曲「イスパニア人」、「人間と情熱」のほか、抒情詩約100編。秋、エカテリーナ・スシコーワに恋愛詩を贈る。
  • 1831年(17歳)6月、劇作家イワノフの貴族をモスクワ郊外に訪ね、同家の娘ナターリヤに恋する。10月1日、父ユーリイ、44歳で死去。秋、大学の友人の妹ワルワーラ・ロプーヒナに愛を覚える。この年、戯曲「奇妙な人」のほか、「天使」などの抒情詩、約100編。
  • 1832年(18歳)6月、「家庭の事情」によりモスクワ大学中退。7月末、祖母とペテルブルグに移り、11月、近衛土管学校に入学、同月、調馬場で落馬して足を骨折。この年、叙事詩「イズマイル・ベイ」、抒情詩「帆」、「願望」など50編。
  • 1833年(19歳)4月、怪我が癒え、登校をはじめる、6月、第一級(年長組)に進む。この年、叙事詩「ハジ・アブレク」、抒情詩は2,3編。  
  • 1834年(20歳)年初、土管学校生による手書きの雑誌〈学校の朝焼〉に参加。11月、土管学校を卒業、12月、少尉に任官、初めて近衛将校の軍服で舞踏会を訪れ、4年ぶりでスシコーワと再会、しばしば彼女と会う。近衛軽騎兵連隊付きとしてツァールスコエ・セローに勤務。歴史小説「ワジム」を完成。
  • 1835年(21歳)1月、スシコーワの名誉を傷つける匿名の手紙を送り、同家への出入り禁止になる。春、スシコーワ、ペテルブルグを去る。祖母もタルハーヌィ村へ。5月、モスクワで思慕を寄せていたワルワーラ・ロプーヒナ、バフメーチエフと結婚。夏、叙事詩「ハジ・アブレク」、作者に無断で〈読書文庫〉に掲載。戯曲「仮面舞踏会」を年末に完成。
  • 1836年(22歳)5−6月、病気のためカフカースの鉱泉地へ赴く許可を得たが、出発せず。9月、叙事詩「モンゴ」を書く。10月「仮面舞踏会(アレベーニン)」上演不許可。年末から翌年初めにかけて、小説「ルゴフスカヤ公爵夫人」を書く。「ヘブライの旋律」など、抒情詩をまた書き始める。
  • 1837年(23際)1月27日、プーシキン、ダンテスと決闘し、2日後に死去。28日の日付で、プーシキンの詩に捧げた「詩人の死」56行を書く。この詩は、友人ラエフスキーらの手で、ただちに筆写され、友人の間に広まる。2月前半、この詩に、権力者への激しい抗議をあらわした16行をさらに書き足す。2月20日から21日にかけて、作者レールモントフ、ラエフスキーと共に逮捕される。陸軍省で2月中非公開審理が行われ、27日、勅令によって、カフカースで作戦中のニジェゴロド龍騎兵連隊に転属となる。3月、モスクワへ赴き、4月末、カフカースのスタヴロポリに到着。途中で風邪を引き、診断書を司令部に出して、6月から8月までピャチゴールスクで療養。ここで旧友サチン、医師ヴェルネルのモデルとなるマイエル医師、ベリンスキーらと再会。9月、タマーニへ旅行。10月、チフリスへの途次、スタヴロポリで、流刑中のデカブリストたちと会う。祖母や詩人ジュコフスキーらの奔走によって、10月、カフカースからリトワニアのグロドノに転属を許されるが、しばらくはカフカースで山地民との戦闘に参加。年末、カフカースからペテルブルグへ向かう。  この年、叙事詩「皇帝イワン・ワシーリエヴィチと若き親衛兵と勇敢たる商人カラーシニコフの歌」、「ボロジノ」、民話「アシク・ケリブ」を書く。抒情詩「囚われ人」、「祈り」など約10編。
  • 1836年(24歳)1月、モスクワを経てペテルブルグに到着。2月、ノヴゴロド州のグロドノ軽騎兵連隊に着任。4月、勅令により近衛軽騎兵連隊に復帰。5月、ツァールスコエ・セローに帰る。春、外国へ去るロプーヒナ(バフメーチエワ)と最後の邂逅。  4月、「商人カラーシニコフの歌」が〈ロシアの廃兵〉誌文学付録に「...フ」の著名で載る。7月、〈現代人〉誌に叙事詩「タンボフの出納棺の妻」が無著名で載る。この年、「現代の英雄」を書き始める。抒情詩も、「短剣」、「想い」、「詩人」など約10編。この年、叙事詩「悪魔」大幅に改稿、ほぼ最終稿に近くなる。
  • 1839年(25歳)3月末から4月始め、ラエフスキー流刑地から帰り、レールモントフと感激の再会。秋、カラムジン邸などに出入りし、パナーエフ、ジュコ不スキー、ヴャーゼムスキーらの文学者と親しくなる。秋から冬にかけて、若手将校や学生たちからなる「16人の会」に加わり、毎夜、劇場がはねてから、夜食後、時事問題を自由に論じ合った。冬、スチェルバートフ公爵の未亡人に恋する。12月、中尉に昇進。12月31日、ペテルブルグ貴族会館での新年仮装舞踏会の席で、ニコライ一世の二人の娘マリヤとオリガに不敬の言辞を吐き、憲兵隊長ベンケンドルフの耳に入る。 3月、〈祖国雑記〉に「M・レールモントフ」の著名で「現代に英雄」の一部「ベラー―一将校のカフカース日記より」が掲載される。11月、同誌に「運命論者」発表。この年、叙事詩「ムツィリ」のほか、「三本の椰子」、「祈り」など、数編の抒情詩を書く。
  • 1840年(26歳)2月16日、フランス公使バラントの息子と決闘して肘に軽傷を負う。3月、この事件について連隊長に釈明、つづいて逮捕される。ベリンスキー、獄中にレールモントフを訪れ、彼の人格に感銘を受ける。4月、ニコライ一世自身の意向により、最も危険なカフカース戦線のテンギン歩兵連隊に転属させられる。5月、ペテルブルグを去るにあたり、カラムジン邸で送別会、この席で抒情詩「雲」が生まれる。5月一杯、モスクワにとどまり、ゴーゴリ、アクサーコフらと会う。6月、スタヴロポリ到着。6月から7月にかけて、左翼戦線で対チェチェン作戦に従軍し、白兵戦もまじえる。10月、40人から成る決死隊の隊長としてチェチェン討伐に武勲をたて、上級中尉に昇進。12月、祖母の奔走で2ヶ月の賜暇が決定。 2月、〈祖国雑記〉に「タマーニ」掲載。同月「現代の英雄」一、二部、単行本として刊行。部数は各1000部。6月、ニコライ一世、皇后への手紙で「現代の英雄」を酷評。7月、〈祖国雑記〉にベリンスキーの「現代の英雄」論が載る。10月、最初の「レールモントフ詩集」刊行、「カラシニコフの歌」、「ムツィリ」のほか抒情詩約20編を収める。部数は1000部。この年、「空中船」、「わびしくもあり、悲しくもあり」、「ジャーナリストと読者と作家」など、約20編を書く。
  • 1841年(27歳)1月14日、賜暇を得てスタヴロポリを経ち、ノヴォチェルカッスク、ヴォロネジ経由で、30日、モスクワに到着。2月5日、ペテルブルグ到着、ただちに舞踏会に顔を出す。2月、ロストプチナ伯爵夫人と親交。3月から4月初めにかけて、文学活動に専念するため退役の許可を得ようと奔走するが、許されず。4月11日頃、参謀本部に呼び出され、48時間以内に任地に復帰するよう求められる。4月14−15日にペテルブルグを出発、モスクワ経由で5月5日、スタヴロポリ到着。同地からカフカース左翼戦線の任地テミル・ハン・シュルイ要塞に向かう途次、5月13日、ピャチゴルスクに着き、ここで医師の診断書を受けて、しばらく治療のため同地に滞在する。6月13日、参謀本部よりニコライ一世の勅令として、「レールモントフを前線にとどめ、いかなる理由があろうとも前線から去らせぬように」との命令がカフカース軍司令官に伝達される。7月13日、ピャチゴルスクで土管学校時代の旧友マルトゥイノフと口論し、決闘を申し込めれる。7月15日午後6時過ぎ、マシューク山麓で決闘が行われ、雷雨の中、心臓に銃弾を受けて即死する。17日、検死の上、ピャチゴルスクの墓地に埋葬されるが、正式の葬儀は行われなかった。31日、レールモントフの遺骸、タルハーヌィのアルセーニエフ家の墓地に改葬。 2月と5月に「現代の英雄」再版、書く1200部刊行。2月、ベリンスキーの「レールモントフ詩集」の書評、〈祖国雑記〉に載る。4月始め、詩「祖国」、〈祖国雑記〉に掲載。2月から4月にかけて長編「シュトス」を書くが未完。4月後半、首都を去るにあたり、「さらば、けがれたるロシアよ」を書く。この年、「断崖」、「タマーラ」、「一人、旅に立つ」、「予言者」など、数々の詩の名作が書かれる。
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