ネクラーソフ、ニコライ・アレクセーエビチ
1821.12.10-1878.1.8

Nekrasov, Nikolai Alekseevich
Некрасов, Николай Алексеевич

ネクラーソフ肖像 民衆派詩人。

雑誌の編集者、発行者としてツルゲーネフやトルストイを世に送り、革命的民主主義の機関誌を発行するとともに、貧しい無権利な人たちの生活をうたい、”報復と悲哀”の詩人といわれた。

ネクラーソフは軍人だった父の任地カメネツ・ポドーリスク県ヴィニツキイ群ネミーロスに生まれ、3歳のとき、父の退職にともないヤポスラヴリ県の父の領地に移った。父はさしたる特徴のない中流の地主であったが、母は教育の高い、芸術的感覚の豊かな、心のやさしい女性で、ネクラーソフは生涯を通してこの母に深い尊敬と愛情とを抱いていた。息子を陸軍の学校に入れようとしていた父の意思に反して、1839年から40年に聴講生としてペテルブルグ大学に学び、父からの送金を絶たれて、食事にも困る生活の中で詩作をつづけた。

1846年に雑誌《同時代人》の編集兼発行人となる。間もなく同誌は当時のロシアのもっとも権威ある雑誌となり、殊に61年の農奴解放令発布前後のロシア社会の激動期には、農民革命による急速な改革のプログラムをおしすすめる革命的民主主義の立場に立って、読書界に大きな影響力をもつにいたった。しかしこうした傾向のために、1866年にこの雑誌は発行を禁止される。

2年後にネクラーソフは《祖国雑記》誌の編集発行権を得て、これを《同時代人》誌にかわる権威ある雑誌とした。彼は多作の詩人であったが、雑誌編集者としても強い熱意と優れた手腕を示した。直腸ガンを病んで1878年1月8日にペテルブルグで死ぬが、誌の間際まで詩作と編集の仕事を続けた。 葬儀には多くの市民や団体が参加して、その行列はさながら急進派の政治的デモンストレーションのようであったといわれる。

ネクラーソフは短編叙事詩「道で」(1845)によって文壇に出た。これは農奴の娘の悲劇的な運命を主題にした作品である。つづいて「ふるさと」(1846)その他の作品では、地主生活の否定的な側面や農民お苦しみ、また都市の貧しい人々の生活を描いた。その後革命的進路の支持者としての立場を明確にし、ロシア社会の否定的な側面の批判ばかりではなく社会の改革の原動力となるような人々の姿を描くようになった。

1856年に出版された「詩集」は若い読者の間に熱狂的な反響をよんだ。その冒頭の詩「詩人と市民」で文学者にたいして芸術への奉仕を、隣人への愛、市民的義務、革命的行動と結びつけることを要求した。

1860年以後には、ネクラーソフは主に叙事詩的な作品を書くようになった。「旅の商人」(1861)、「赤鼻のマローズ」(1863)などでは、貧しい無権利な農民の生活が描かれ、これにうちかって幸福を築いていくための道が暗示された。「祖父」(1870)は25年にロシア社会の改革を目差して反乱を起こしシベリアに流されたデカブリストの一人、セルゲーイ・ヴォルコンスキー公爵のヒロイックな生涯を主題にした。「デカブリストの妻」(1871-72)では、徒刑に服している夫と苦しみを共にするため、全ての特権を捨てシベリアに赴くデカブリストの妻(ヴォルコンスキー公爵夫人マリーヤとトルベツコーイ公爵夫人エカチェリーナの姿)が描かれた。

「誰にロシアは住みよいか?」(1866-76)はネクラーソフの代表作で、正義と幸福とを探してロシア各地をめぐり歩く7人の農夫の姿を通して、正義と幸福は人民のために働くことにあるのだという思想をしめされた。口伝文学のモチーフや表現が豊富に取り入れられていて、ネクラーソフの詩の特徴を最もよく示している作品といえる。

ネクラーソフは詩形式の上に大胆な改革を行い、詩のジャンルの伝統的な区分の枠を意識的に打ち破るとともに、従来の詩語に拘束されずに、散文の用語、民謡や民衆の会話語の要素をも詩のなかに取り入れ、そのことによってリズムの多様性を作りだした。これらの意味で彼はロシア詩の改革者であり、19世紀半ばのロシアの社会的要求を詩的表現者である。彼の詩の出発点は思想であって詩情ではないということが、作品の多くについて感じられる。この点で彼は、今日に至るまで純粋芸術派の人たちの共感を得られない。しかしまた彼はロシアの革命詩の伝統の確立者であり、その後の革命詩人たちに強い影響を与えた。


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