アフマートワ、 アーンナ・アンドレーエヴナ
1889.6.23-1966.3.5

Akhmatova, Anna Andreevna
Ахматова, Анна Андреевна

アフマートワ肖像 20世紀の最大女流詩人。

アクメイズム運動の代表的詩人の一人として抑制の利いた精妙な表現と独特のいきとどいたリズムの詩で注目された。

アフマートワは本名をゴレーンコと言い、黒海海岸の港町オデッサの近郊に生れた。父親はアーンナが幼いころに海軍士官を退役し、一家はペテルブルグに移住した。彼女はツァールスコエ・セロ女子中学校に通学し、そこでニコライ・グミリョーフに会い、1910年、彼と結婚した。グミリョーフはアクメイズムの詩人で、詩的感動の正確さで率直な表現への回帰を主張していた。 アフマートワは、主としてペテルブルグとそこからほど近い故郷コマロヴォで暮らしたが、外国旅行にも何度かでかけている。1910年から11年にかけてのパリ旅行、12年の北イタリア旅行、そして65年のイギリスのオクスフォードへの旅行。オックスフォードでは大学から名誉学位を授与される。彼女の生涯を通じて絶えず主題を提供しつづけ、その詩業に重要な役割を果たしたペテルブルグは、ドストエフスキー、ゴーゴリ、プーシキンといった偉大な作家たちがかつて暮らした都市であり、アフマートワにとっては19世紀ロシア文学の伝統への深い愛着を抱かせた都会でもあった。

アフマートワ肖像 わかいころのアフマートワの生活で注目すべき出来事は、本格的な詩作をはじめてほどなく華々しい成功を博したこと、グミリョーフと結婚し苦悩に満ちた挫折を経て、1918年には離婚したことなどである。「夕べ」(1912)、「数珠」(1913)、「アンノ・ドミニ1921年」(1922)など初期の詩集は、結婚によって彼女が経験した試練の跡をはっきりととどめている。

グミリョーフは、1921年に反革命のかどで秘密警察の手で射殺され、歴史学者となっていたこの夫婦の一人息子は、39年から56年まで何度も逮捕・投獄され、強制収容所で過ごさなければならなかった。彼女はこうした不幸な体験をもとに、以来書き継いできた連作による詩集「レクイエム」(1963)を完成させた。これは単にスターリン粛清時代の恐ろしい日々を生きたこの詩人のみならず、すべてのロシア人の苦悩を癒す“遺言”でもあった。

さかのぼって1946年、アフマートワは、文化相ジダーノフから“修道女と淫売婦の混ぜ物”呼ばれたうえ、その活動は有害で“人民からかけ離れた”ものとされ、ソ連作家同盟からも除名された。彼女はそれ以前にも、1925年から40年まで、沈黙を余儀なくされていたし、スターリンが死んだ後までも、ジダーノフの徹底した非難から逃れられなかった。50年代後半と60年代にかけて、彼女は翻訳と詩作に没頭した。

アフマートワの詩的な語法とその優れて心理的なテーマは、19世紀ロシア散文の人道主義的な伝統を引き継いでおり、その詩は会話のリズムと構造を模倣するものだった。そしてその業績は自身尊敬してもいたパステルナークの場合と同様、その時代の残酷で非人間的だったすべてのことへの真摯な回答であった。

アフマートワは心臓発作におそわれて、1966年3月5日に世を去った。無慈悲な社会の手にかかって、あえない最期を遂げた天才詩人に手向ける賛辞「プーシキンの死」執筆中のことである。葬式はロシア正教のしきたりにのっとった執行を認められ、コマロヴォの郊外に埋葬された。


e-mail:svetilnikru@mail.ru