マンデリシュターム、オーシプ・エミーリエヴィチ
1891.1.15-1938.12.27

Mandelschtam, Osip Emil'yevich
Мандельштам, Осип Эмильевич

マンデリシュターム肖像 詩人。

アクメイズム派の一員として出発、彫琢された用語、古典的優美さ、博識に富む優れた詩によって名声を得たが、ロシア革命後の芸術動向になじまず、スターリン批判を行って逮捕され、獄中で狂死した。

マンデリシタームはヤダヤ人皮革商の息子としてワルシャワに生れた。一家はまもなくペテルブルグに移住する。マンデリシタームは16歳で中等教育を終え、ただちにパリに赴いた。1909年にV.I.イワーノフやアンネンスキーと知りあい、雑誌《アポロン》に近い詩人たちの仲間となった。1910年、彼はハイデルベルク大学に学ぶかたわら、スイスを訪れたりした。翌年、ロシアに戻り、ペテルブルグ大学に入学し、フランス古典を学んだ。 マンデリシタームの大学時代はまた、彼が詩人として出発する時期に当たっていた。10年代の終わりには革命運動にも参加したが、まもなく政治にたいする関心を失って、ひたすら詩作にうちこみ、ボードレールやベルレーヌに傾倒した。彼の詩の持つ古典的な優美さと博識とによって、たちまち詩人としての地位を確立した。処女詩集「石」(1913)が好感をもて迎えられたのである。詩風はきわめて繊細で芸術的な香気にあふれ、フランスの象徴主義の影響が見られる。
マンデリシタームは第1次世界大戦までの数年間を、芸術家としての職業的技巧を重んじるアクメイズム派の仕事場“詩人ギルド”で過ごした。1922年には、第2詩集「トリスティア」を刊行している。

マンデリシュターム肖像 1920年代と30年代初頭を通じて、マンデリシタームはソヴェト体制に対してもっぱら無関心の態度を取りつづけた。マルクス主義者の唱える歴史発展の理論を信じていなかったのである。彼は、真の文化的達成を犠牲にして進行する文化の大衆化を嘆かわしく思っていた。その時期の彼の詩は静寂な表現を特徴としていたが、それには詩に均整と緊張をもたらそうとする努力の痕跡がうかがわれ、パリのノートル・ダム寺院やイスタンブールのソフィア大寺院など、均整と緊張とを具現した記念建造物をほめたたえたものが多かった。自伝的散文「時のざわめき」(1925)、革命前のインテリゲンチアの精神的危機を描いた中篇「エジプトの切手」(1928)、生前最後の発表作となった「アルメニアの旅」(1933)を書いた。
その評論や芸術に関する散文において、マンデリシタームは、これまでに達成された文化の水準というものが、必ずしも社会や産業における進歩の結果もたらされたものではないことを証だてるために、ヨーロッパの古典作品をふだんに援用した。彼は最愛の都市ペテルブルグのかつての華やかさに比して、革命後の生活がひどく寂寞としてしまったことを悲しんだ。また彼は、ソ連文学の新しい読書階級でもある大衆を、優れた文学の創造にとってかえって有害な存在であるとみなし、自らの作品を未来の成熟した読者に向けて書きつづけた。

1930年代における政治的無関心と歯に衣を着せぬ著作のゆえに、マンデリシタームはスターリンと真っ向から衝突することになった。彼はスターリンにへつらうことなく、34年、スターリンを風刺する詩を書いたのがもとで逮捕され、3年にわたってロシアの主要都市から追放された。37年にモスクワにもどったものの、マンデリシタームの生活は困難をきわめた。38年5月、マンデリシタームは反革命活動の容疑をかけられて再び逮捕され、判決の結果、極東の強制収容所で5年にわたる流刑生活をおくることになった。この苦難は彼を発狂に追い込み、この年12月27日の厳冬に、マンデリシタームは獄中で世を去った。

1954年の“雪どけ”後に名誉回復され、ソ連でもわずかながら詩集が再刊されたが、今なお全面的な形での再評価は行われず、主たる研究は西ヨーロッパで行われた。“雪どけ”後発表された「ダンテについての会話」(1935)は詩に対する詩人お立場を明らかにしている優れたエッセーである。またナジェージダ未亡人による回想録(1970)は、ソ連では公刊できなかったが、西ヨーロッパ高く評価せれ、この不出世の詩人の再評価に大きく貢献した。ペレストロイカ以降、ロシアで一種のマンデルシュタム・ブームといわれるほどその評価が高くなっている。


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