マヤコーフスキイ、ヴラディーミル・ヴラディーミロヴィチ
1893.7.19-1930.4.14

Mayakovskii, Vladimir Vladimirovich
Маяковский, Владимир Владимирович

マヤコーフスキイ肖像 革命期を代表する詩人。
日常用語を詩の素材に用いて政治的叙情詩とも呼ぶべき新しい詩の方法を確立したが、革命期の高揚がしずまるとともに自己の内外に複雑な矛盾を来たし、自ら命を絶った。

マヤコフスキーは南方ロシアのグルジアに生れた。1906年、林務官だった父親が亡くなったためにモスクワに移住し、生涯をそこで送っている。1907年から1910年まで、マヤコフスキーはロシア社会民主労働党、社会革命党などのさまざまな政治活動と関係したかどで3度逮捕された。1908年、15歳の若さでロシア社会民主労働党(ボリシェビキ)に入党し、同党のモスクワ市評議会地区委員となり、1909年の3度目の投獄中、初めて何編かの詩を書いた。

1910年始め、監視付きで釈放されたマヤコフスキーは、モスクワ絵画・彫刻・建築学校を受験するが合格できず、翌年合格したものの3年後には退学となった。この時期に彼は少女作詩集「ぼく」(1913)を自費出版し、ロシア未来派グループの前衛的運動の中心人物となった。

ロシア未来派の主義主張は、詩における教義であると同時に生活規範でもあった。またそれは、世紀の転換期におけるロシア詩の極端な唯美主義と、ロシアの知的活動の中に広く浸透していた神秘主義に対する反動として生れたものであった。マヤコフスキーとその仲間たちは、ロシア的芸術の伝統を一切否定し、過去から自由な新しい芸術の創造を唱えていた。彼らはその運動の場を現実のなかに求め、行きずりの聴衆を前に自作の詩を朗読し、伝統に縛り付けられた民衆に衝撃を与えようと努めた。その衝撃的な行動や奇をてらった衣服は、たとえ一時的にせよ彼らを有名にした。革命に先立つこうした数年間のマヤコフスキーの詩は、異常なまでに個人的な、多くは母と妹に向かって語りかける独白の形をとり、論争的な調子をおびてはいたが、しかし詩的内容に欠けていたわけではなかった。彼は皮肉で悲痛な言い回しよって、読者の前に自分自身を赤裸にさらけだしてみせた。ペテルブルグのルナー・パーク劇場え主演した長編劇詩「ヴラジーミル・マヤコフスキー―1つの悲劇―」(1913)は、ごうごうたる非難を呼んだ。最も名声を博した長編叙事詩「ズボンをはいた雲」(Облако в штанах, 1915)では、彼は自分を“13番目の使徒”として賛美した。1915年以後のマヤコフスキーは、使徒として自分の公的な役割と、詩の源泉である個人的な苦悩との狭間で身動きできなくなっていたように思われる。

マヤコフスキーは1917年の革命を歓迎し、新生ソヴィエト国家に真心を込めて奉仕した。彼はおびただしい数の時事的な詩や、プロパガンダ用のポスターのキャッチフレーズを書き、詩作では古典的なロシアの伝統を攻撃しつづけ、大衆のための詩歌を宣揚した。彼は詩人としての自我に目を奪わず、大衆のためにのみ書こうとした。かくして、長編叙事詩「1億5000万」(1921)は匿名で発表された。マヤコフスキーは、革命後の自分の詩を“意図的リアリズム”であると述べたが、疑いもなく彼は、自らの真の詩的才能の犠牲においてこのリアリズムを完成したのである。

マヤコフスキーは1920年代に世界各地を広く旅行した。西ヨーロッパを数回訪れ、25年にはメキシコ、アメリカ、などに渡っている。パリに旅行した際には亡命中のロシア女性タチヤナ・ヤコヴレワと恋に落ちたこともあった。20年代末には、マヤコフスキーにとって、外国旅行の許可を得ることはしだいに困難になっていた。彼は一般大衆に向けた自分の顔をしだいに重荷に感じ、内奥にひそむ詩的自我を放棄してしまったことにますます苦痛を覚えるようになっていった。

マヤコフスキーは愛する女性、女優ポローンスカヤとわかれた直後の1930年4月14日、モスクワの仕事部屋で自ら命を絶つ。民衆の使徒であると同時に、個人的な苦悩をうたう詩人であるという二重の役割りに、それ以上耐えることができなかったのである。


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