メレジコフスキー、 ドミトリー・セルゲエーヴィチ
1866.8.14-1941.12.9

Merezhkovskii, Dmitrii Sergeevich
Мережковский, Дмитрий Сергеевич

メレジコフスキー肖像 作家、象徴詩人、文芸批評家。

ロシア文学におけるモダニズム創始者として活躍したが、生来の神秘主義的傾向から宗教的色彩を強め、ロシア革命以後はソ連の政治、社会体制の強固な批判者となった。

メレジコフスキーは、地位の低い宮内官の子としてペテルブルグに生れた。ペテルブルグ大学卒業以前から早くも、セミョーン・Y・ナードソンの死の翌年、すなわち、1888年に出版された処女詩集「詩集」は、メレジコフスキーがナードソンの後継者であることを十分に示すものであった。1892年にメレジコフスキーは「象徴」という挑戦的な題名の第2詩集を刊行し、93年には評論「現代ロシア文学の衰退の原因と新しい潮流について」を発表、これらの作品で、社会学的批評と社会性を志向する詩をしりぞけ、ほとんど宗教的ともいうべき新しい哲学と斬新な文学的手法を肯定した。これは、ロシアにおける初期シンボリズムの事実上の宣言となった。彼は、赤毛の、個性的な女流詩人だった若い妻ジナイーダ・ヒッピウスとともに、この新しい動向を初めて伝える雑誌《北方の使者》の編集に当たった。

最初に人気を博したメレジコフスキーの作品は、彼の二次元的な宗教観を示した3部作「キリストと反キリスト」で、第1巻「背教者ユリアネス―神々の死―」が1896年に、次いで第2巻「レオナルド・ダ・ヴィンチ―神々の復活―」、第3巻「ピョートルとアェクセイ―反キリスト者―」が1901年と05年に順次公刊された。この作品がもつ説得力は、メレジコフスキーが自己を取り巻く当時の潮流を巧みに把握していたこと、つまり社会生活と精神的な諸価値とを強烈に対比させ、異教徒である古代アテナイ(アテネ)人たちの精神的な葛藤にたいして初々しい関心を示し、ヨーロッパ文化全体とロシア文化との同一性を証明しようとしたことによっていた。また彼は「ダフニストクロエ」や、プリニウス、マルクス・アウレリウス、セルバンテス、フロベール、イプセンらも作品を翻訳したが、それらの訳業はロシア文学に異質な要素を移入したものとして高く評価された。

さらにまたメレジコフスキーは、自分の批評原理をロシア文学に適用し、「ロシアにおけるキリストと反キリスト―トルストイとドストエフスキー―」(1901-02)を著した。これは、ロシア文学的伝統におけるアジア的なものとヨーロッパ的なもの、肉と霊との相克を想像力豊かに分析したものであったが、作者の特別な意図が感じ取られるのは否定できない。最近でも、ロシア以外の国々で、自然主義派の功利的な態度や形式主義派の難解な構成などに飽き足らない批評家たちは、伝記や暗喩や宗教的な価値を通して作家の作品を解明しようとするメレジコフスキーの方法に学んでいる。 メレジコフスキーと妻は、D.V.フィロソーフォフと協力して1903年に雑誌《新しい道》を創刊し、宗教・哲学協会を創設してスラブ主義とギリシア正教に関する諸問題を熱心に討議した。(そこでブロークの詩の何編かが初めて紹介された。)

1907年にメレジコフスキーがパリで執筆刊行した「皇帝と革命」は、彼自身と信奉者たちの見解が、深い教養に根差しているとはいえ、保守的であることをよく示している。 メレジコフスキーは1905年の革命を、“不可解にも”支持したが、06年に至るや「来るべき賤民」を著して、あらゆる形態の集団主義を攻撃した。1905年秋の立憲改革が挫折すると彼はロシアを去り、1906年から12年にかけてパリに住んで、戯曲「パーヴェル1世」(1908)をふくむ多数の作品を執筆した。帰国後、夫妻は当時の多くの知識人たちと同じく、第1次世界大戦の誘因となるべきさまざまな事件と、ロシアをこの戦争に巻き込もうとする策動に反対した。1917年の革命後、彼はボルシェビキに激しく反対し、19年の暮れには妻と2人の友人とともにポーランドに去った。

晩年には、ムッソリーニのために弁明の筆をとってファシズムを擁護し、ヒトラーのソ連侵入を“人類の敵を打つ十字軍”として歓迎した。1920年、彼はパリに移住し、ソ連を激しく誹謗する作品「反キリスト時代」(1926)のほか、キリスト教に関する古典的な諸問題を扱った小説や評論を数多く執筆したが、“知られずるイエス”という神秘的な主題がその中心となっていた。 メレジコフスキーは1941年12月9日、パリで世を去った。


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