パステルナーク、ボリース・レオニードヴィチ
1890.2.10-1960.5.30

Pasternak, Boris Leonidovich
Пастернак, Борис Леонидович

パステルナーク肖像 詩人、小説家、翻訳家。

「ドクトル・ジバゴ」を頂点とする多数の小説、詩、翻訳によって、ロシア革命後の重要な作家として国際的な評価を得た。思想的には革命に共鳴したが芸術的妥協はいっさいせず、そのため革命後は不遇のうちに過ごさねばならなかった。

パステルナークはモスクワの名門ユダヤ家庭に生れた。父レオニード・O・パステルナークは美術院会員、絵画・彫刻・建築学学校で教えた、自然主義派の著名な画家で、母親のローザ・F・カウフマンはピアニストであったが、4人の子供を育てるために自分のキャリアをあきらめた。裕福とはいえない家庭だったが、周辺には美術、音楽、文学などに携わるものが多く、ラフマニノフ、スクリャービン、トルストイなど訪れいた。幼いころのそうした環境が彼の創造活動におけるさまざまな発想を培った。パステルナークは最初音楽を志し、モスクワ高等音楽学校に入学、スクリャービンに師事して13歳の時から作曲の勉強をはじめていた。しかし、音楽家に必須の絶対音感がなかったため、ほどなく音楽を断念して哲学と宗教、特にトルストイ解釈の新約聖書に興味をもち、1909年にモスクワ大学哲学科に籍を置いた。
マールブルクの新カント学派のドイツ人哲学者へルマン・コーエンの思想に啓発されたのがきっかけで、1912年の夏学期にはマールブルク大学に留学している。帰国をひかえて、彼はイタリアまで旅行してから1913年の冬モスクワに戻った。1913年の夏には学業を終了した。マールブルクにおける体験を通じて、パステルナークは哲学からさらに詩に転じたが、その詩は常に哲学的な探求精神に貫かれたものであった。彼の最初の二つの詩集「雲の中の双生児」(Близнец в тучах, 1914)と「堡塁を超えて」(Поверх барьеров, 1917)は、ロマン主義と、そのころ流行していた未来派の運動体験の入り混じった雰囲気を兼ねそなえていた。未来派の指導的な詩人マヤコフスキーとの交流を通じて、パステルナークは着実に詩人として成長を遂げていった。そして、3作目の叙情詩集「わが姉妹はいのち」(Сестра моя жизнь, 1922)に至って、彼は完全な独自性と独創性を確立したのである。

パステルナークは初期のいくつかの短編小説で、詩的な主題を散文形式で追求している。「下一点音物語」(1913)は、一人の芸術家が、自らの芸術と家族の双方にたいして負っている互いに相容れない義務というものを扱っている。「アペレスの肖像」(1918)では、パステルナークの才能の多様性が遺憾なく発揮されている。 1917年のロシア革命とそれにつづく内戦(1917-21)を契機に、パステルナークは、自らの芸術の再検討をはじめた。そしてこのような再検討の頂点に位置するのが、長編小説「ドクトル・ジバゴ」(Доктор Живаго, 1957)であった。革命はロシア文化の内奥に久しく眠りつづけていた混沌としたもろもろの力を解放したのである。初期の散文では、彼はトルストイ風のヒューマニズム(「トゥーラからの手紙」、1922)と、大衆社会における個人の自由の確保(「空の道」、1933)を主張するにとどまっていた。

1920年代のパステルナークの生活の中で特筆すべきことは、彼が社会的諸問題に取り組んだことである。こうした目的の下に、彼はさまざまな現代的主題に基づくいくつかの叙事詩を書いた。「誇り高き病」(1923)はレーニンの生涯にまつわるいくつかのエピソードを、「1905年」(Девятьсот пятый год, 1925-26)は1905年の革命を、「シュミート中尉」(Лейтенант Шмидт, 1926-27)は実在した革命家の生涯を踏まえた作品である。韻文体の小説「スペクトルスキー」(Спекторский, 1931)とそれを散文に書き改めた中編「物語」(1933)では、パステルナークは14年から24年に至る自分自身の生にまつわる出来事を素材として描いた。 パステルナークは、自らの私生活にかかわる出来事については沈黙を守りつづけた。そのため、1920年代の彼の生活はほとんど知られていない。1921年両親と二人姉妹はドイツに移住し、ヒトラーが政権を握った後イギリスへ移ったが、彼と兄弟アレクサーンドルはモスクワに残った。その後、20年前半に画家エヴゲーニヤ・ルールエと結婚し、息子エヴゲニーが生れるが、20年代後半には結婚生活が破局を迎え、1931年には離婚する。これは散文における挫折と結びついて、彼の人生に深刻な創造的かつ心理的な危機をもたらした。しかし、パステルナークにとっては、この危機が 後半生への出発点となり、これを乗り越えることによってその才能を全面的に開花させていったのである。

パステルナークのの人生におけるこのような危機は、ジナイーダ・ノイハウズとの恋愛問題と並行して進んだが、やがてパステルナークはジナイーダとの結婚にたどりつく。またこのときの危機は、仲間の詩人マヤコフスキーにたいする関心にも転じ、さらにロシア文学の将来に対する悲観的なみかたをつのらせる結果にもなっていく。ともあれ、パステルナークの離婚と再婚とは、彼の精神的バランスを著しく不安定なものにした。同じころ、マヤコフスキーもまた別の試練を経験しつつあった。つまりマヤコフスキーは、政治的な主義主張と引き換えに、自らの芸術を手放して、芸術家としての屈辱をかみしめていたのである。
パステルナークの印象主義的、半哲学的自叙伝「安全通行券」(1931)は、自らが体験した危機における諸問題を提示し、それに対する一つの解決策を示した作品であった。つまり自分自身の創造的才能を、国家のためにではなく、歴史のために奉仕されるべく決意したのである。そして詩集「第2の誕生」(1932)では、過去と現在とを結びつけるさまざまな主題を集中的に扱っている。

1930年代のパステルナークは、モスクワとモスクワ郊外、作家村ペレデルキノで静かな生活をおくった。彼は芸術家として自らの才能を改めて冷静にみつめ、それに新しい方向づけを行った。彼は政治に直接かかわる事柄に対しては終始無関心の態度をとりつづけた。スターリンの粛清時代に多くの作家を見舞った悲劇的な運命からまぬかれたのは、そのためであろう。30年代を通じてパステルナークは、自らの決意に促されて実験的散文(「ドクトル・ジバゴ」の最初の草稿にあたる)をものし、遠大な発想の詩作を行い、かつ「早い汽車で」(1943)に結実する数々の訳業に没頭した。

パステルナークは長年にわたって翻訳に携わった。その翻訳は原作をしのぐほどの練達の名文で、原作が持つ精神と息吹を余すところなく伝えている。1920 年代に彼は、クライストとベン・ジョンソンというまったく異質な作家達の作品を翻訳した。また30年代に南ロシアのグルジアの詩人たちの作品を訳出している。パステルナークはドイツ語、フランス語、英語に精通していたが、40年代に彼によって翻訳された作品の数々は、その知識の驚くべき幅の広さを如実 如実に証明している。彼はシラー、ゲーテ、の「ファウスト」、リルケ、ヴェルレーヌ、キーツ、シェリー、シェークスピアの8編の戯曲と数編のソネットなどを訳出した。

パステルナークは、第2次世界大戦にはさほど深いかかわりをもたないで、ごく短期間だけモスクワで対空監視員として勤務し、1度だけ前線に派遣されたこと があるが、ドイツ軍の進行とともにモスクワから退去している。しかし、この大戦の間も訳業だけは怠らず、戦火が静まるやただちに「ドクトル・ジバゴ」の執筆を再開した。 技術科としてのパステルナークの生涯の極点を示す「ドクトル・ジバゴ」は、変転する歴史の中での一芸術家とその生活を、散文と詩を駆使して照射しようと試みた作品であった。それはトルストイの「戦争と平和」に匹敵するほどのスケールを持つ散文体の叙事詩的小説と、作品の主人公ユーリー・ジバゴの作とされる詩を絡み合わせて構成されている。作品の主題は、1902年から53年に至る激動に時代に対して、徒手空拳で闘いを挑む詩人の生涯である。

1956年ソ連当局は「ドクトル・ジバゴ」の公刊を拒否した。そのため、小説は57年に西側で発表されたが、それによってパステルナークが予想もしなかった一連の反応を呼び起こした。まず、パステルナークはその偉業によって58年度のノーベル文学賞を授与されたが、ソ連作家同盟と翻訳部からの追放、さらに市民権の剥奪という脅迫をまえに受賞を辞退せざるを得なかったこと、また、53年に心臓病の発作に見舞われて以来、健康状態が思わしくなく、家族とともにペレデルキノ作家村で孤独な生活をおくらねばならなかったことことなどがそれである。世界的な名声をほしいままにしながらも、自分の国では公然たる侮蔑の対象にされていたのである。 しかしながら、詩集「嵐のとだえるとき」(1959)においても詩人は、終生抱きつづけてきた二つの関心、すなわち自然における人間の生き方と歴史における人間のありようとを片意地に追求しており、失望や落胆のこん跡はどこにも見いだすことができない。 パステルナークは、1960年5月30日に肺ガンで病没した。

80年代前半からソ連でパステルナークは再評価されはじめ、詩人A.ヴォズネセンスキーは《新世界》誌でパステルナークについての思い出の記事を発表、1986年、息子エヴゲニーが編集した詩選集2巻が刊行される。1987年に、翌年「ドクトル・ジバゴ」が出版されるのを知って、ソ連作家同盟が同盟からの除名を無効にした。

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