イエセーニン 、セルゲーイ・アレクサーンドロヴィチ
1895.10..3-1925.12.27

Yesenin, Sergei Alexandrovich
Есенин, Сергей Александрович

イエセーニン肖像 詩人。

自然への豊かな感性をよりどころに、ロシア農村と農民をうたい“農民詩人”とも称された。

イエセーニンはリャザーン県に生れた。両親は貧農で、彼は2歳のときから母親の祖父のもとで養育された。イエセーニンの幼少年時代は活気と冒険に満ちていた。3歳で乗馬術えお習得し、すぐに耕作や遠出の狩猟に加わった。1909年、地区の県立小学校を卒業し、ロシア正教会師範予科学校で学んだ。ロシア正教は彼の政治観と詩の主題に強烈な影響をもたらした。1912年、イエセーニンはモスクワに出て、スーリコフ文学・音楽サークルで勉強するかたわら、さまざまな職業に就き、同時に詩作をはじめた。彼の作品の何編かは14年に発表されている。

1915年にイエセーニンは、ペトログラード(旧ペテルブルグ)に移り、ほどなくロシア象徴派の詩人ブロークの知遇を得て、いくつかの文学サロンを頻繁に訪れるようになった。1916年、彼は処女詩集「招魂際」で中央の詩壇に登場した。イエセーニンは詩境に酔うと自制心を失い、自作を朗唱するなど、人目につきやすい性格を備えていた。同年、兵役のため詩作を中断したが、翌年の2月革命の際に脱走し、ペトログラードに舞い戻った。

1922年、イエセーニンはアメリカ人舞踊家イサドラ・ダンカンと結婚した。当時の多くのヨーロッパ芸術家と同じく、彼女も革命後のソ連から放射される新鮮な理念に希望を託し、あこがれていた。しかし、イエセーニンは、これらの理念が彼の愛惜してやまない伝統的な農村文化の及ぼす破壊的な作用を見抜いていた。こうした心情も影響して、彼らの結婚は雲行きの怪しい荒れ模様であった。1922年から23年にかけて、イエセーニンは妻と外国旅行をし、ドイツ、フランス、オーストリア、アメリカに滞在した。1925年、ついに彼は妻イサドラに見捨てられ、単身でペトログラードに戻らねばならなかった。そのうえ彼は、アルコール中毒症にかかっていた。25年12月27日、重い神経病に冒され、彼は自ら手首を切り、自分の血で最後の詩をしたため、30歳の短い生涯を凄絶な縊死により閉じた。

イエセーニンの詩は、工業化の影響や近代的な生活によって汚されていないけがれていない自然に対する感受性を発想のよりどころにしていた。彼は田園を背景にしてロシアの農村や農民をうたう詩人であった。自然にたいする彼の認識は原初的かつ宗教的であり、汎神論的でさえあった。革命後のイエセーニンの詩は、工業化による浸食作用が田園生活にもたらした荒廃を描いており、それは鉄路を走る鉄の馬、つまり機関車と競走して敗れる子牛の姿を描いた作品に最も典型的に代表されている。その詩体と用語には、ロシア農民の話し言葉にリズムと色彩が反映している。ロシア時では短命だったイエセーニンは、その詩に礼拝式の語彙や色彩豊かで衝撃的な映像をふんだんに登場させている。彼は人間性を本質的に二元的なものとみなしており、その詩は人間生活における創造と、破壊の闘争を描いている。イエセーニンには「招魂際」のほかにも、「嬰児キリスト」、「村の祈祷書」、「酔いどれモスクワ」、「アーンナ・スネギナ」など多数の作品がある。


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