北史巻一 魏本紀第一 太祖道武帝 ( 2 / 3 )
■ 天興年間 : 398年12月 - 404年10月
P.17天興元年春正月、慕容徳は逃走して滑台を保持した。衛王拓跋儀が鄴を制圧した。(詔を下して将兵、各々に報賞を行った。拓跋儀は慕容徳を追撃して黄河に及んだが、追い付かずに帰還した。)庚子、真定に行幸し、(次に趙郡の高邑に至り、)ついで鄴に行幸した。老齢や病のため自力で生活できない民衆がいれば、郡県に詔を下して支援させた。道武帝は鄴に到着すると、台や榭を巡って、宮城全域を視察し、鄴を都に定めようという考えを抱いた。それで行台を置き、(竜驤将軍・日南公和跋を行台尚書とし、左丞賈彝とともに郎中と兵士五千人を率いて鄴に駐留させた。道武帝は)中山に帰還した。通過した地では民衆に自ら言葉を掛けた。大軍が通過した州郡に詔を下し、一年分の租税を免除した。山東の人々には租税・賦役の半分を免除した。道武帝が北方へと帰還するに当たり、一万人の人員を徴発して直道を開通させた。望都の鉄関から恒嶺を開削し、代に及ぶまで五百里余り。道武帝は帰還した後に山東で変事が起こるのを憂慮して、中山に行台を置き、詔を下して衛王拓跋儀を駐留させ、略陽公拓跋遵を勃海の合口に駐留させた。これ以前、右軍将軍尹国は冀州で租税徴収の監督をしていたが、道武帝が帰還すると聞き、反逆を企てて、信都を襲撃しようとした。安南将軍長孫嵩が捕らえて送致した。尹国を斬刑に処した。辛酉、道武帝は中山を出立し、望都の尭山に到着した。山東六州の民衆や官吏、徒何・高句麗の雑夷、三十六署の工匠・技術者十万人余りを移住させて京師を満たした。道武帝が恒山の南に到着すると、博陵郡・勃海郡・章武郡で群盗が蜂起した。略陽公拓跋遵が討伐した。(広川太守賀盧が冀州刺史王輔を殺害し、守備兵を駆り立てて陽平郡・頓丘郡などで略奪を行い、ついには黄河を南に渡って、慕容徳の下に亡命した。)この月、慕容徳が燕王を自称し、滑台を本拠とした[6]。
後燕親征の終了
しばらくの間、旧後燕領での反乱・蜂起が相次ぐ。国内では統治システムの充実を進める
しばらくの間、旧後燕領での反乱・蜂起が相次ぐ。国内では統治システムの充実を進める
二月、道武帝が中山から帰還した。繁畤宮に行幸した。改めて駐留軍を選抜した。詔を下して、新たに国内に移住した家族に耕牛を支給し、人数を調査して田地を与えた。
三月、(離石胡の首領の呼延鉄、西河胡の首領の張崇らが数千人の徒党を組んで反乱を起こした。安遠将軍・歴陽公庾岳に詔を下して討伐・平定させた。漁陽の群盗、庫傉官韜が徒党を組んで反乱を起こした。中堅将軍伊謂に詔を下して討伐させた。)左丞相・衛王拓跋儀を京師に召還した。略陽公拓跋遵に詔を下し、後任として中山に駐留させた。
三月、(離石胡の首領の呼延鉄、西河胡の首領の張崇らが数千人の徒党を組んで反乱を起こした。安遠将軍・歴陽公庾岳に詔を下して討伐・平定させた。漁陽の群盗、庫傉官韜が徒党を組んで反乱を起こした。中堅将軍伊謂に詔を下して討伐させた。)左丞相・衛王拓跋儀を京師に召還した。略陽公拓跋遵に詔を下し、後任として中山に駐留させた。
夏四月壬戌、歴陽公穆崇を太尉、鉅鹿公長孫嵩を司徒とした。略陽公拓跋遵の封爵を常山王、南安公拓跋順の封爵を毗陵王に進めた。西郊で天の祭祀を行い、その際に旗幟を用いた。広平太守・遼西公拓跋意烈が反逆を企て、遼西郡の韓奇とともに偽物の讖図を根拠に、鄴城を襲撃しようとした。詔を下し、反逆に加わった者には任地にて死を賜った。(その妻子は赦免された。鄜城屠各の董羌・杏城盧水胡の郝奴・河東蜀の薛楡・氐人の首領の苻興が各々、部族を率いて帰順してきた。)この月、蘭汗が慕容宝を殺害し、自ら大単于・昌黎王に即位した。
P.18
六月丙子、官僚たちに詔を下し、国号について審議・制定させた。群臣は上奏して述べた。
「昔、周や秦以前、帝王は生まれた土地に居を置き、天下に君臨しますと、その地名を国号としたのです。今日、我が国は雲・代の地に誕生したのであれば、代を国号とすべきでしょう」
詔を下して述べた。
「昔、私の遠い祖先は北方の地を支配し、遠方の国々を統率していた。そうして王位にあったとはいえ、まだ中華の地を平定してはいなかった。私の代に及んで、中華の地を掃討・平定し、凶悪な反逆者たちを討ち払うと、全土の人々が服従するようになったのだ。国号を魏と改めるのが良いだろう」
六月丙子、官僚たちに詔を下し、国号について審議・制定させた。群臣は上奏して述べた。
「昔、周や秦以前、帝王は生まれた土地に居を置き、天下に君臨しますと、その地名を国号としたのです。今日、我が国は雲・代の地に誕生したのであれば、代を国号とすべきでしょう」
詔を下して述べた。
「昔、私の遠い祖先は北方の地を支配し、遠方の国々を統率していた。そうして王位にあったとはいえ、まだ中華の地を平定してはいなかった。私の代に及んで、中華の地を掃討・平定し、凶悪な反逆者たちを討ち払うと、全土の人々が服従するようになったのだ。国号を魏と改めるのが良いだろう」
秋七月、平城に遷都し、初めて宮室を造営して、宗廟・社稷を建立した。慕容宝の子、慕容盛が蘭汗を殺害し、自ら即位して長楽王となった。(漁陽の烏丸、庫傉官韜が再び徒党を組んで略奪を行った。冠軍将軍王建に詔を下して討伐・平定させた。)
八月、官僚たちに詔を下し、畿内・郊甸を規定し、畦道を整備し、街道・村落を区分し、度量衡を制定した。使者を派遣し、郡国を巡行して不法を行う地方長官について列挙・上奏させ、自ら調査して昇進・降格の人事を行った。
(九月、烏丸の張驤の子、張超が逃亡者を集め、三千家余りの徒党を集め、勃海郡の南皮を本拠とした。征東大将軍・烏丸王を自称して、諸郡で略奪を行った。将軍庾岳に詔を下して討伐させた。)
八月、官僚たちに詔を下し、畿内・郊甸を規定し、畦道を整備し、街道・村落を区分し、度量衡を制定した。使者を派遣し、郡国を巡行して不法を行う地方長官について列挙・上奏させ、自ら調査して昇進・降格の人事を行った。
(九月、烏丸の張驤の子、張超が逃亡者を集め、三千家余りの徒党を集め、勃海郡の南皮を本拠とした。征東大将軍・烏丸王を自称して、諸郡で略奪を行った。将軍庾岳に詔を下して討伐させた。)
冬十月、天文殿を起工した。
十一月辛亥、尚書吏部郎中鄧淵が官府の制度・爵位・官品を制定し、律呂を規定して音楽を整備した。儀曹郎中董謐が郊廟・社稷・朝見・饗宴での儀礼を制定した。三公郎中王徳が律令・禁令を制定した。太史令晁崇が渾天儀を作成し、天象について考察した。これらの事業を吏部尚書崔宏が総括した。
十一月辛亥、尚書吏部郎中鄧淵が官府の制度・爵位・官品を制定し、律呂を規定して音楽を整備した。儀曹郎中董謐が郊廟・社稷・朝見・饗宴での儀礼を制定した。三公郎中王徳が律令・禁令を制定した。太史令晁崇が渾天儀を作成し、天象について考察した。これらの事業を吏部尚書崔宏が総括した。
閏十月、左丞相・衛王拓跋儀と王公・重臣たちが宮城に赴き、上書して述べた。
「私どもは聞いております。『紫微星が中心にあってこそ、その光を数多くの星々が等しく受けられる。そのように帝王が天に従順であればこそ、諸侯も帝王の度量や行いを慕う』 と。伏して思いますに、陛下の大徳は天地に等しく、政道は三皇・五帝にも勝っております。仁愛の気風は地上を覆い、盛んな教化は天をも満たしております。恩恵は小さな虫にも及び、道端の葦まで潤しております。民衆は我が国に住まうことを謳歌し、全天下が心を寄せているのです。しかし陛下は謙虚にされ、御自身のことを後回しにされておられる。陛下の御姿は不確かなままで、袞服を召されてもおりません。上は皇天の意志に沿わず、下は推挙を楽しむ心に応えることにはなりません。私どもは死罪を甘んじ、謹んで申し上げます」
道武帝は三度、辞退してから聞き入れた。
「私どもは聞いております。『紫微星が中心にあってこそ、その光を数多くの星々が等しく受けられる。そのように帝王が天に従順であればこそ、諸侯も帝王の度量や行いを慕う』 と。伏して思いますに、陛下の大徳は天地に等しく、政道は三皇・五帝にも勝っております。仁愛の気風は地上を覆い、盛んな教化は天をも満たしております。恩恵は小さな虫にも及び、道端の葦まで潤しております。民衆は我が国に住まうことを謳歌し、全天下が心を寄せているのです。しかし陛下は謙虚にされ、御自身のことを後回しにされておられる。陛下の御姿は不確かなままで、袞服を召されてもおりません。上は皇天の意志に沿わず、下は推挙を楽しむ心に応えることにはなりません。私どもは死罪を甘んじ、謹んで申し上げます」
道武帝は三度、辞退してから聞き入れた。
十二月己丑、道武帝は天文殿に臨御し、太尉・司徒が璽綬を進上した。百官全員が万歳を唱えた。大赦を行い、改元した。成帝以降の皇帝と歴代の皇后を追尊して諡号を贈った。舞楽には皇始の舞を用いた。百官に詔を下し、五行の次序について審議・制定させた。
P.19
尚書崔宏らが土徳に従って、服色は黄色を貴び、数は五を用い、祖先の祭祀は未の日、諸神の祭祀は辰の日に行い、犠牲には白い獣を用い、五郊で四時の気を迎えて祭祀を行い、歳事の儀式を布告して、民衆に時を授けるのに、夏の暦を施行するよう上奏した。六州二十二郡の地方長官や有力者・官吏の二千家を代郡に移住させた。
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尚書崔宏らが土徳に従って、服色は黄色を貴び、数は五を用い、祖先の祭祀は未の日、諸神の祭祀は辰の日に行い、犠牲には白い獣を用い、五郊で四時の気を迎えて祭祀を行い、歳事の儀式を布告して、民衆に時を授けるのに、夏の暦を施行するよう上奏した。六州二十二郡の地方長官や有力者・官吏の二千家を代郡に移住させた。
天興二年春正月甲子、初めて南郊で上帝の祭祀を行い、始祖神元皇帝を配祀した。壇を降りて燎祭を行い、祭礼を終えると帰還した。乙丑、京師に恩赦を与えた。初めて三駕の法を制定した。庚午、北方を巡行した。諸将に命令を下し、分遣して高車を大軍で襲撃した。常山王拓跋遵の三軍は東方から長川に進出、高涼王拓跋楽真らの七軍は西方から牛川に進出、道武帝が自ら率いる六軍は中央から駮髯水の西北を通って進出した。
二月丁亥朔、諸軍が集結し、高車の諸部族三千余りを破った。(捕虜七万人余り、馬三十万頭余り、牛・羊百四十万頭余りを獲得した。)衛王拓跋儀は三将軍を従え、別働隊となって西北から大漠千里余りを横断し、高車の残党七部を破った。(捕虜二万人余り、馬五万頭余り、牛・羊二十万頭余り、高車二十万乗余りと調度品や奢侈品などを獲得した。)牛川に帰還して、薄山に赴くと、石碑に功績を記した。(従軍した臣下、各々に下賜を行った。庚戌、征虜将軍庾岳が勃海で張超を破った。張超は平原に逃走し、部下に殺害された。)捕虜とした高車人を動員して南台の北に鹿苑を造営した。鹿苑は北方では長城にまで及び、東方では白登山を包み、西山に連なるまでの数十里を広く取り囲んだ。水路を開いて武川の水を引き入れ、鹿苑の中に注ぎ込んだ。水路は三つに分かれ、宮城の内外を流れた。また、鴻雁池を造営した。
三月己未、道武帝は北方討伐から帰還した。甲子、五経の諸書、各々について博士を配置した。国子・太学の学生を三十人増員した。この月、氐人の李辯が南燕で反乱を起こし、鄴に援軍を求めてきた。行台尚書和跋は軽騎兵を率いて要請に応じ、滑台を制圧して、南燕の宮女や府庫の品々を獲得した。(また、南燕の桂林王慕容鎮と郎中・官吏・将兵の千人余りを破った。丙子、建義将軍庾真と越騎校尉奚斤が太渾川で厙狄部の首領の葉亦干と宥連部の首領の竇羽泥を討伐・撃破した。厙狄懃支の子、沓亦干は自らの部落を率いて帰順してきた。庾真らは進軍して侯莫陳部を破り、十万頭余りの馬・牛・羊を獲得した。残党を追撃・殲滅して、大峨谷に入った。中山太守仇儒が趙郡に逃亡し、群盗の趙准を首領に推戴した。趙准は使持節・征西大将軍・冀青二州牧・鉅鹿公を名乗った。仇儒は趙准の長史となった。中領軍長孫肥に詔を下して討伐・平定させた。
二月丁亥朔、諸軍が集結し、高車の諸部族三千余りを破った。(捕虜七万人余り、馬三十万頭余り、牛・羊百四十万頭余りを獲得した。)衛王拓跋儀は三将軍を従え、別働隊となって西北から大漠千里余りを横断し、高車の残党七部を破った。(捕虜二万人余り、馬五万頭余り、牛・羊二十万頭余り、高車二十万乗余りと調度品や奢侈品などを獲得した。)牛川に帰還して、薄山に赴くと、石碑に功績を記した。(従軍した臣下、各々に下賜を行った。庚戌、征虜将軍庾岳が勃海で張超を破った。張超は平原に逃走し、部下に殺害された。)捕虜とした高車人を動員して南台の北に鹿苑を造営した。鹿苑は北方では長城にまで及び、東方では白登山を包み、西山に連なるまでの数十里を広く取り囲んだ。水路を開いて武川の水を引き入れ、鹿苑の中に注ぎ込んだ。水路は三つに分かれ、宮城の内外を流れた。また、鴻雁池を造営した。
三月己未、道武帝は北方討伐から帰還した。甲子、五経の諸書、各々について博士を配置した。国子・太学の学生を三十人増員した。この月、氐人の李辯が南燕で反乱を起こし、鄴に援軍を求めてきた。行台尚書和跋は軽騎兵を率いて要請に応じ、滑台を制圧して、南燕の宮女や府庫の品々を獲得した。(また、南燕の桂林王慕容鎮と郎中・官吏・将兵の千人余りを破った。丙子、建義将軍庾真と越騎校尉奚斤が太渾川で厙狄部の首領の葉亦干と宥連部の首領の竇羽泥を討伐・撃破した。厙狄懃支の子、沓亦干は自らの部落を率いて帰順してきた。庾真らは進軍して侯莫陳部を破り、十万頭余りの馬・牛・羊を獲得した。残党を追撃・殲滅して、大峨谷に入った。中山太守仇儒が趙郡に逃亡し、群盗の趙准を首領に推戴した。趙准は使持節・征西大将軍・冀青二州牧・鉅鹿公を名乗った。仇儒は趙准の長史となった。中領軍長孫肥に詔を下して討伐・平定させた。
高車族の征討 3
夏四月、前清河太守傅世が千家余りの徒党を集め、撫軍将軍を自称した。
五月癸亥、征虜将軍庾岳が傅世を討伐・撃破した。)
五月癸亥、征虜将軍庾岳が傅世を討伐・撃破した。)
秋七月、天華殿を起工した。辛酉、鹿苑で大規模な閲兵を行った。(陳郡・河南郡の流民、一万人余りが国内に移住してきた。使者を派遣して彼らを慰労した。姚興が軍勢を派遣して洛陽を包囲した。晋の将軍辛恭靖が救援を求めてきた。)
八月、(太尉穆崇を派遣し、騎兵六千を率いて洛陽に赴かせた。)京城に十二の門を増設し、城の西には武器庫を建造した。州郡の人々に租税・賦役の半分を免除した。辛亥、礼官に詔を下し、数多くの儀礼を詳細に選定して、新令を作成させた。范陽の盧溥が海岸に民衆を集めて、幽州刺史を称し、郡県を襲撃して、幽州刺史封沓干を殺害した。(後燕の遼西太守李朗が郡を伴って帰順してきた。西河胡の首領の護諾于・丁零の首領の翟同・蜀人の首領の韓礱らが一斉に帰順してきた。)
八月、(太尉穆崇を派遣し、騎兵六千を率いて洛陽に赴かせた。)京城に十二の門を増設し、城の西には武器庫を建造した。州郡の人々に租税・賦役の半分を免除した。辛亥、礼官に詔を下し、数多くの儀礼を詳細に選定して、新令を作成させた。范陽の盧溥が海岸に民衆を集めて、幽州刺史を称し、郡県を襲撃して、幽州刺史封沓干を殺害した。(後燕の遼西太守李朗が郡を伴って帰順してきた。西河胡の首領の護諾于・丁零の首領の翟同・蜀人の首領の韓礱らが一斉に帰順してきた。)
この月、禿髪烏孤が死去した。弟の禿髪利鹿孤が後を継ぎ、朝貢の使者を派遣してきた。
P.20
冬十月、太廟が完成した。神元帝・平文帝・昭成帝・献明帝の神主を太廟に移した。
十二月(甲午、後燕の征虜将軍・燕郡太守高湖が三千戸を率いて帰順してきた。辛亥、材官将軍和突が盧溥の討伐に赴いた。)天華殿が完成した。呂光が息子の呂紹を天王に立て、自らは太上皇を名乗った。呂光が死去すると、庶子の呂纂が呂紹を殺害して王号を僭称した。
冬十月、太廟が完成した。神元帝・平文帝・昭成帝・献明帝の神主を太廟に移した。
十二月(甲午、後燕の征虜将軍・燕郡太守高湖が三千戸を率いて帰順してきた。辛亥、材官将軍和突が盧溥の討伐に赴いた。)天華殿が完成した。呂光が息子の呂紹を天王に立て、自らは太上皇を名乗った。呂光が死去すると、庶子の呂纂が呂紹を殺害して王号を僭称した。
天興三年春正月戊午、材官将軍和突が遼西で盧溥を撃破・捕縛した。息子の盧煥とともに京師に送致し、車裂きの刑に処した。癸亥、北郊で祭祀を行った。諸官僚を分遣して州郡を巡行させ、民衆の生活を視察して、不法を行う者を調査・列挙させた。(群臣に各々、布と絹を下賜した。)
二月丁亥、官僚たちに詔を下し、東郊で太陽の祭祀を行わせた。初めて籍田で耕作を行った。壬寅、皇子拓跋聡が薨去した。
三月戊午、慕容氏を皇后に立てた。この月、城の南に水路を開いて城内に引き入れ、東西の魚池を造営した。
二月丁亥、官僚たちに詔を下し、東郊で太陽の祭祀を行わせた。初めて籍田で耕作を行った。壬寅、皇子拓跋聡が薨去した。
三月戊午、慕容氏を皇后に立てた。この月、城の南に水路を開いて城内に引き入れ、東西の魚池を造営した。
夏四月、姚興が朝貢の使者を派遣してきた。
五月戊辰、謁者僕射張済に詔を下し、後秦への使者とした。己巳、東方を巡行し、涿鹿に行幸した。使者を派遣し、帝尭廟・帝舜廟に太牢を捧げて祭祀を行った。西の馬邑に行幸し、灅源を視察した。
六月庚辰朔、日食が起こった。
五月戊辰、謁者僕射張済に詔を下し、後秦への使者とした。己巳、東方を巡行し、涿鹿に行幸した。使者を派遣し、帝尭廟・帝舜廟に太牢を捧げて祭祀を行った。西の馬邑に行幸し、灅源を視察した。
六月庚辰朔、日食が起こった。
秋七月、乞伏乾帰が姚興に大敗した。壬子、道武帝は宮城に帰還した。中天殿と雲母堂・金華堂を起工した。
(十一月、高車別部の首領、敕力犍が九百落余りを率いて帰順してきた。
十二月乙未、詔を下して述べた。
「漢高祖は無官から身を起こして天下を得たと世間では言うが、その理由は明確にされていない。劉氏は帝尭の大業を受け継ぎ、長い間、大徳を伝えてきたが、竜蛇・雲彩などの瑞兆が現れ、五星は天上に集まったように、天と人が調和していた。天命を改めるべき人物だったのであり、大運を授かっていたのは明白だ。不遜な野心から天下を求めたはずはないのだ。しかし狂気的で狡猾な連中が失敗を繰り返して止まないのは、まさしく逐鹿の論理に惑わされ、天命を見失っているからである。そうして過去に行われた反逆を真似する。害毒の甚だしい場合は州郡を滅ぼし、僅かな場合でも村里に被害を及ぼす。ついには死んで名を貶め、九族に災禍を及ぼすこととなる。反徒とともに流浪し、死んでも改悛しないなど、痛ましいことではないか! 『春秋』では周王室による統治という正しい姿を大義とする[*1]。王号を僭称した呉や楚は永遠に後嗣を絶やされることとなった。君子は偽りの称号を卑しむもの。それは塵や垢のようなものに過ぎない。自身が聖人の後継者として徳を修め、天と人とが調和するのでなければ、帝王の大業とは非才の者が引き受けるものではないのだ。古今を見渡せば、不義の者が不遜な野心を抱けば、無為に一族を滅ぼすことになるか、刑場に倒れるだけだった。国家を統治するのであれば、興廃の転機を推し量り、天命というものの困難さを知り、密かに授けられる瑞兆を察知できなければならない。権勢を争う者たちの佞言を退け、奸智に長けた者たちの増長を押し止めねばならない。地位に満足することに最高の幸福を見出してこそ、最高の英知に近付けると知らねばならない。そうしてこそ、天寿が訪れるまで地位を保ち、後世にも幸福を伝えることができるのだ。そうであるからこそ、災禍や戦乱は理由もなく発生しないものなのである。皆、子孫に至るまで、この訓戒を守って、身を慎めるべきであると言い伝えよ!」)
十二月乙未、詔を下して述べた。
「漢高祖は無官から身を起こして天下を得たと世間では言うが、その理由は明確にされていない。劉氏は帝尭の大業を受け継ぎ、長い間、大徳を伝えてきたが、竜蛇・雲彩などの瑞兆が現れ、五星は天上に集まったように、天と人が調和していた。天命を改めるべき人物だったのであり、大運を授かっていたのは明白だ。不遜な野心から天下を求めたはずはないのだ。しかし狂気的で狡猾な連中が失敗を繰り返して止まないのは、まさしく逐鹿の論理に惑わされ、天命を見失っているからである。そうして過去に行われた反逆を真似する。害毒の甚だしい場合は州郡を滅ぼし、僅かな場合でも村里に被害を及ぼす。ついには死んで名を貶め、九族に災禍を及ぼすこととなる。反徒とともに流浪し、死んでも改悛しないなど、痛ましいことではないか! 『春秋』では周王室による統治という正しい姿を大義とする[*1]。王号を僭称した呉や楚は永遠に後嗣を絶やされることとなった。君子は偽りの称号を卑しむもの。それは塵や垢のようなものに過ぎない。自身が聖人の後継者として徳を修め、天と人とが調和するのでなければ、帝王の大業とは非才の者が引き受けるものではないのだ。古今を見渡せば、不義の者が不遜な野心を抱けば、無為に一族を滅ぼすことになるか、刑場に倒れるだけだった。国家を統治するのであれば、興廃の転機を推し量り、天命というものの困難さを知り、密かに授けられる瑞兆を察知できなければならない。権勢を争う者たちの佞言を退け、奸智に長けた者たちの増長を押し止めねばならない。地位に満足することに最高の幸福を見出してこそ、最高の英知に近付けると知らねばならない。そうしてこそ、天寿が訪れるまで地位を保ち、後世にも幸福を伝えることができるのだ。そうであるからこそ、災禍や戦乱は理由もなく発生しないものなのである。皆、子孫に至るまで、この訓戒を守って、身を慎めるべきであると言い伝えよ!」)
[*1] 原文は 「春秋之義、大一統の美」。『春秋』 での 「大一統」 の解釈は多々あるけれど、ここでは楚・呉の王号を僭称扱いしたことと対比させて、周王室を頂点(王)としたヒエラルキーを指すものとする
当時、太史は幾度か天文の混乱について上奏していた[7]。道武帝が自ら経書・占書に目を通すと、多くの書物に王位と政権を改めるべきと述べられていた。かくして、何度も官職の名称を改め、凶悪・狡猾な者の行動を防ぎ、災禍や変事を未然に消し去ろうとした。その後、臣下の疑惑を憂慮し、冬十二月丙申、詔を下し、政策の是非について、殷・周の失敗を鑑みて秦・漢の弊害を改めたと述べ、臣下を説得した。
この年、河右の諸郡は西涼武昭王李暠を奉戴して秦涼二州牧・涼公とした。ここに唐の覇業が始まった。年号は庚子。
『北史』 が書かれたのは唐代だから
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天興四年春(正月、高車の別帥が三千落余りを率いて帰順してきた。)
二月丁亥、宮中に入って舞楽を学ぶよう楽師に命じ、先聖・先師に対する釈菜の礼を執り行わせた。丁酉、使者を分遣して州郡を巡行させ、訴訟を聴取・審理して、不法を行った者を弾劾させた。この月、呂光の弟の子、呂隆が呂纂を弑殺して自ら即位した。
三月、道武帝は自ら漁を行い、寝廟に供物を捧げた。
天興四年春(正月、高車の別帥が三千落余りを率いて帰順してきた。)
二月丁亥、宮中に入って舞楽を学ぶよう楽師に命じ、先聖・先師に対する釈菜の礼を執り行わせた。丁酉、使者を分遣して州郡を巡行させ、訴訟を聴取・審理して、不法を行った者を弾劾させた。この月、呂光の弟の子、呂隆が呂纂を弑殺して自ら即位した。
三月、道武帝は自ら漁を行い、寝廟に供物を捧げた。
夏四月辛卯、鄴行台を廃止した。官僚たちに詔を下し、隠棲する者を推挙させた。
五月、紫極殿・玄武楼・涼風観・石池・鹿苑台を起工した。
六月、盧水胡の沮渠蒙遜が涼州牧・張掖公を自称した。
五月、紫極殿・玄武楼・涼風観・石池・鹿苑台を起工した。
六月、盧水胡の沮渠蒙遜が涼州牧・張掖公を自称した。
秋七月、兗州刺史長孫肥に詔を下し、南の許昌・彭城を制圧させた。詔を下し、全国の鎮・戍の将兵、各々に布や絹を下賜した。
八月、段興が慕容盛を殺害すると[8]、慕容盛の叔父の慕容熙が段氏を誅殺して、皇帝を僭称した。
八月、段興が慕容盛を殺害すると[8]、慕容盛の叔父の慕容熙が段氏を誅殺して、皇帝を僭称した。
冬十二月(辛亥、征西大将軍・常山王拓跋遵らに詔を下し、兵士五万人を率いて破多蘭部の首領の木易于を討伐させた。材官将軍和突には騎兵六千を率いて黜弗部・素古延部などを襲撃させた。)博士や儒学者を集め、数多くの経書の文字を分類し、意味の類似している文字ごとに整理させた。全部で四万字余り。これを『衆文経』と名付けた。
高車族の征討 4
この年、李暠と沮渠蒙遜が朝貢の使者を派遣してきた。
天興五年春正月(丁丑、後燕が将軍を派遣して遼西に侵攻してきた。虎威将軍宿沓干らが迎撃したが敗北し、令支を放棄して帰還した。)
姚興が辺地に侵攻しようとしていると聞き、庚寅、道武帝は多数の人員を選抜し、并州の諸軍に詔を下して平陽郡の乾壁に穀物を貯蔵させた。
(戊子、材官将軍和突が黜弗部・素古延部を破り、馬三千頭余りと牛・羊七万頭余りを獲得した。辛卯、蠕蠕の社崙が騎兵を派遣し、素古延部などを救援した。和突は蠕蠕軍を于山南方の河道の湾曲部で迎撃・撃破し[*2]、鉄騎二千頭余りを獲得して、軍勢を帰還させた[*3]。将兵、各々に報賞を行った。
二月癸丑、征西大将軍・常山王拓跋遵らは安定郡の高平に到達した。木易于は騎兵数千を率い、劉衛辰・劉屈丐とともに領国を放棄して逃走した[*4]。追撃して隴西の瓦亭に到達したが、追い付かずに帰還した。破多蘭部の輜重や物資、馬四万頭余り、駱駝や犛牛三千頭余り、牛や羊九万頭余りを獲得し、将兵、各々に下賜した。破多蘭部の民衆を京師に連行した。沙門の張翹が無上王を自称し、丁零の鮮于次保とともに常山郡の行唐で徒党を集めた。)
姚興が辺地に侵攻しようとしていると聞き、庚寅、道武帝は多数の人員を選抜し、并州の諸軍に詔を下して平陽郡の乾壁に穀物を貯蔵させた。
(戊子、材官将軍和突が黜弗部・素古延部を破り、馬三千頭余りと牛・羊七万頭余りを獲得した。辛卯、蠕蠕の社崙が騎兵を派遣し、素古延部などを救援した。和突は蠕蠕軍を于山南方の河道の湾曲部で迎撃・撃破し[*2]、鉄騎二千頭余りを獲得して、軍勢を帰還させた[*3]。将兵、各々に報賞を行った。
二月癸丑、征西大将軍・常山王拓跋遵らは安定郡の高平に到達した。木易于は騎兵数千を率い、劉衛辰・劉屈丐とともに領国を放棄して逃走した[*4]。追撃して隴西の瓦亭に到達したが、追い付かずに帰還した。破多蘭部の輜重や物資、馬四万頭余り、駱駝や犛牛三千頭余り、牛や羊九万頭余りを獲得し、将兵、各々に下賜した。破多蘭部の民衆を京師に連行した。沙門の張翹が無上王を自称し、丁零の鮮于次保とともに常山郡の行唐で徒党を集めた。)
この頃より柔然との抗争開始
[*2] 原文は 「和突逆撃之于山南河曲」。特定する言葉がないので、固有名詞扱いにした。実在とか、確認していない。多分、参合陂周辺
[*3] 一連の柔然・高車との戦役について、"太祖道武帝紀"、"蠕蠕伝"、『資治通鑑』 の間で不整合があるっぽい
[*4] 「木易干」 は 「没奕干」 の方がメジャーな表現。すでに劉衛辰は故人。赫連勃勃の父とは同名の別人かもしれぬ
[*2] 原文は 「和突逆撃之于山南河曲」。特定する言葉がないので、固有名詞扱いにした。実在とか、確認していない。多分、参合陂周辺
[*3] 一連の柔然・高車との戦役について、"太祖道武帝紀"、"蠕蠕伝"、『資治通鑑』 の間で不整合があるっぽい
[*4] 「木易干」 は 「没奕干」 の方がメジャーな表現。すでに劉衛辰は故人。赫連勃勃の父とは同名の別人かもしれぬ
三月、禿髪利鹿孤が死去した。(弟の禿髪傉檀が後を継ぎ、朝貢の使者を派遣してきた。)
夏(四月、太守楼伏連が張翹らを討伐・斬殺した。)
五月、姚興は弟の義陽公姚平を派遣して、平陽郡に侵攻させ[9]、乾壁を攻撃・陥落させた。
(六月、東郊で閲兵を行い、大軍の出撃準備を整えると、鎮西大将軍・毗陵王拓跋遵と長孫肥ら三将軍に詔を下し、騎兵六万を率いて先鋒とさせた。)
秋七月戊辰朔、道武帝は後秦の討伐に赴いた。
八月乙巳、柴壁に到達した。姚平は防備を固めており、道武帝は進軍して柴壁を包囲した[10]。姚興は全軍を挙げて救援に赴いた。甲子、道武帝は蒙坑を渡り、迎撃して後秦軍を大破した。
冬十月、姚平は河水に身を投げて死去した[*5]。後秦軍の敗残兵三万人余りを捕虜とし、後秦の尚書左僕射狄伯支以下、四品の将軍以上の者、四十人余りを捕らえた[越騎校尉唐小方、積弩将軍姚梁国、建忠将軍雷星・康官<12>、北中郎将康猥、姚平の従弟の姚伯禽]。以前に亡命していた臣下の王次多・靳勒を捕らえ、両者を斬刑に処して全軍に示した。姚興は何度も使者を派遣して和睦を求めたが、道武帝は受け入れなかった。
P.22
群臣は進軍して蒲坂を平定することを求めたが、道武帝は蠕蠕の侵攻を憂慮して、戊申、軍勢を帰還させた。
五月、姚興は弟の義陽公姚平を派遣して、平陽郡に侵攻させ[9]、乾壁を攻撃・陥落させた。
(六月、東郊で閲兵を行い、大軍の出撃準備を整えると、鎮西大将軍・毗陵王拓跋遵と長孫肥ら三将軍に詔を下し、騎兵六万を率いて先鋒とさせた。)
秋七月戊辰朔、道武帝は後秦の討伐に赴いた。
八月乙巳、柴壁に到達した。姚平は防備を固めており、道武帝は進軍して柴壁を包囲した[10]。姚興は全軍を挙げて救援に赴いた。甲子、道武帝は蒙坑を渡り、迎撃して後秦軍を大破した。
冬十月、姚平は河水に身を投げて死去した[*5]。後秦軍の敗残兵三万人余りを捕虜とし、後秦の尚書左僕射狄伯支以下、四品の将軍以上の者、四十人余りを捕らえた[越騎校尉唐小方、積弩将軍姚梁国、建忠将軍雷星・康官<12>、北中郎将康猥、姚平の従弟の姚伯禽]。以前に亡命していた臣下の王次多・靳勒を捕らえ、両者を斬刑に処して全軍に示した。姚興は何度も使者を派遣して和睦を求めたが、道武帝は受け入れなかった。
P.22
群臣は進軍して蒲坂を平定することを求めたが、道武帝は蠕蠕の侵攻を憂慮して、戊申、軍勢を帰還させた。
後秦親征 (晋州方面)
[*5] 汾水か汾水の支流
[*5] 汾水か汾水の支流
十一月、道武帝は晋陽に到着すると、相州刺史庾岳を呼び寄せて司空とした。(左将軍莫題を派遣し、壺関に上党郡の群盗の秦頗と丁零の翟都を討伐させた。丁丑、上党太守が秦頗を捕らえて斬刑に処した。翟都は林慮に逃れた。)
十二月辛亥、後秦の征討から帰還した。(蠕蠕の社崙が国境を侵犯した。常山王拓跋遵に詔を下して追討させたが、追い付かずに帰還した。)
越勒莫弗が部落一万家余りを率いて帰順してきた[11]。(五原の北に住まわせた。)
十二月辛亥、後秦の征討から帰還した。(蠕蠕の社崙が国境を侵犯した。常山王拓跋遵に詔を下して追討させたが、追い付かずに帰還した。)
越勒莫弗が部落一万家余りを率いて帰順してきた[11]。(五原の北に住まわせた。)
天興六年春正月辛未、朔方の尉遅部の別帥が一万家を率いて帰順し、雲中に入って生活するようになった。
夏四月癸巳朔、日食が起こった。
五月、大軍の閲兵を行い、江淮への侵攻を企てた。
五月、大軍の閲兵を行い、江淮への侵攻を企てた。
秋七月、鎮西大将軍・司隷校尉・毗陵王拓跋遵が罪を問われ、王位のまま自邸に戻らされた。戊子、北方を巡幸した。豺山に離宮を築き、兵士を散開させて校猟を行った。罽嶺を東北に越え、参合・代谷に出た。
九月、南平城に行幸した。灅水の南を測量し、夏屋山に面して黄瓜堆を背にするように[12]、新都市の建設を企画した。(辛未、道武帝は宮城に帰還した。)
九月、南平城に行幸した。灅水の南を測量し、夏屋山に面して黄瓜堆を背にするように[12]、新都市の建設を企画した。(辛未、道武帝は宮城に帰還した。)
冬十月、西昭陽殿を起工した。乙卯、皇子拓跋嗣を斉王に立て、車騎大将軍を加官し、位階を相国とした。拓跋紹を清河王とし、征南大将軍を加官した。拓跋熙を陽平王、拓跋曜を河南王とした。故秦愍王拓跋觚の子の拓跋夔を豫章王、故陳留桓王拓跋虔の子の拓跋悦を朱提王に封じた。丁巳、(将軍伊謂に詔を下し、騎兵二万を率いて北方の高車を襲撃させた。)晋が聘問の使者を派遣してきた。
十一月庚午、将軍伊謂が高車を大破した。
十二月、晋の桓玄が皇帝司馬徳宗を廃位して平固王とし、自ら即位した。国号は楚。
十一月庚午、将軍伊謂が高車を大破した。
十二月、晋の桓玄が皇帝司馬徳宗を廃位して平固王とし、自ら即位した。国号は楚。
皇子拓跋嗣を後継者指名
晋 : 桓玄の乱
晋 : 桓玄の乱
