喜多嶋本書評?・感想文

喜多嶋氏の著作について。きわめて個人的な考察・感想を綴ります。
あらすじや引用などはありませんのでご安心を。
これから読む方も感想として参考にしていただければ。。。
ただしあくまで管理人の主観と独断です。
要は自分の眼でギュッと見、良い心で読み、肌で感じることです。

ふざけんなよ!えぇぇぇ?などのご意見は。。。当然、受け付けます。

愛は生きてるうちに―2003/11/17―

これは困った

読み始めの段階ですべて分かってしまったのである。新しい登場人物の役割、ストーリー展開、そして結末までもが・・・・。困った。
たしかに作品によってはそういう読ませ方もある。しかしすべて解らせた上でなお最後まで読ませるというのはきわめて高度な作家としての技量が要求される。ミステリーなどでも再読に耐えられる作品というのがそれだ。ただし作家は少なく成功例もきわめて稀である。

しかしこの作品はそうではない。安易な人物描写、配置、安易なストーリー展開がそうさせるのだ。ただただ残念、そして困った。

前作「三十秒のラブ・ソング」では筆が跳ねていると書いた。流葉復活作にふさわしいと思った。
しかし今やはり復活は一度きりの方が良かったのではないかと考える。二作目にしてもはや「マリーシリーズ」の時のような状態に陥ってしまったように感じるからだ。長く書きつづけた作品や復活作で新しい試みをというのはやはり無理があるのかもしれない。

変えなくとも良いというものはある。

また旧シリーズでの魅力の一つに秀逸なCFシーンというのがあった。
「カムバックには、遅くない」「チャイナ・ドレスは似合わない」などまさに一級のコピー、胸を打つ映像、それらが文字と行間から浮き上がってきた。今回はそれすらない。残念。

数作前から喜多嶋氏は作品について「リアリティ」「リリシズム」という言葉をあとがきに使い始めた。これは少なくとも作者が自作について語るべきことではない。
文中の「爽太郎が」「爽太郎は」の多用、連発も作品のリズムを殺しまた二つの要素を殺しているがもはやそこまで言うまい。
ただ「リアリティ」も「リリシズム」も文学に於いて意識して伝えるべきものではないし伝わるものでもない。

いかにさりげなく読者に感じさせるか。

この一点である。

あとは一言半句、貫くような一行があればいい。
プールサイドで踊ろう―2003/09/12―

短編とは何か?という問いに「瞬間の人生だ」という定義がある。
また、必要な要素は何かという問いには「聞こえる、見える、触知できることだ」という答えがある。

まさにこれらこそが喜多嶋作品、ことに短編における魅力なのだろうと思う。
鮮烈な一行はまるで肌を刺す冷たいシャワーのようだし、強烈な一句は汗にまみれた夏の午後の果てに吹く風のようだ。
今まで何度も書いてきた「風」とはまさにこのことで、文字を通して聞け、見え、感じる感覚のことだ。

喜多嶋作品には固有がある。この固有に対する意識が風を感じるか否かの境目だと思う。

この作品は短編集で連作の形で描かれている、「HELLO、GOOD BYE」のストーリーだが全編に吹く風、固有を楽しんで欲しい。

これほど書物の溢れる今、再読、三読に耐えられる作品などそうはないと思う。
チャイナ・ドレスは似合わない―2003/08/14―

「心情」という言葉は本当に美しい日本語だと思う。それはまさに感覚が呼応しなければ響いてこない。「想い」といっても良いものだろう。爽太郎のCFシリーズ復活作を読み、あらためて本書を読み返した。

初めて読んだとき、感ずる一行一行、文章の愛おしさに目を閉じ、また浮かんでくるシーンの一つ一つに目を閉じた。眼で文章を追うのではなく心でシーンを追っていた。今回またそんな喜多嶋作品の醍醐味を味わうことができたのがうれしい。

爽太郎をはじめとするすべての登場人物の「心情」が胸に響く。
淋しさ、孤独、辛さが不快ではなくしみてくる。

そして秀逸なCFシーン

本当に胸が痛いのだ。空港ロビーを吹き抜ける風を感じるのだ。そして少女の横顔。
コピーも限りなくやさしい。この一行を何度読み返し、何度、目を閉じたことか。今回読み終えてやはり眼を閉じた。。。

この作品において「心情」は「信条」でもある。

新作でファンになった方も多いだろう。

本書は旧シリーズお薦めの一冊である。
SING〜風がくれたバラード―2003/08/03―

まず装丁がすばらしい、タイトル、構成、写真。新刊の平積みを見たとき傑作の予感がした。
しかし予感が予感だけで終わったのが非常に残念。

失礼だとは思う、この作品の登場人物に感情移入し泣いた方もいらっしゃるかもしれない。が、好きな作家の作品だけにあえて書く。

ファンを意識し過ぎたのか。来夏は最後のきらめきか?以前も一度書いたことがあるが『作品数の多い作家にとって以前のモチーフを再書することは、新たな創造を誘発すべき自身の持つエネルギーや可能性を失いかねないといった危険性を孕む。そしてかつての名作は輝きをなくし単に模倣しやすいといった程度の作品となってしまう』という結果。

もしも初期の作品と「八月のかもめ」までをつきあわせて捏ねればこの作品は書ける。
しかもそんなばかな?という設定、安易な展開もある。魅力ある「新ハワイイ」のヒロインが生きていない。
喜多嶋氏は今しか書け得ないとしてこの作品に着手したという。 しかし今青春ものをという動機はあっても静機(キエチーフ)はなかったのかもしれない。期待しただけに、非常に期待しただけに、ただただ残念。。。
書き下ろしが小説の王道だとは思う。連載など読み手の都合ではない。しかしこの作品は連載の方が良かったのだろう。少なくとも次の章まで期待がもてるからだ。もし「コバルト」への作品であれば。。。
そういう読ませ方も方策。

風を忘れてしまったのか。風に晒されねば。人気作家だけに柵はあるのかもしれない、しかし少なくとも義務は創作には不要である。

反論承知であえて書く、寡作もまた才能。
喜多嶋隆のALOHA BOOK―2003/06/20―

素材と創作。  作品の創作メモを見ているように感じる人もあるかもしれない。
しかし素材は一流、間の創作(短編)も一流。またファンにとっては喜多嶋氏の作家としての視線、ハワイに対する視点、視野に共感しハワイへの憧れを再認識できる一冊。
ハワイ滞在のレポートという形式ではあるが観光ガイドブックなどでは決してない。特に「旅」を考える人にとっては役に立たないだろう。だが感じることの出来る人にとってはバイブルと成り得る。
自分自身ハワイにいる間はあまり開きたいとは思わなかった。しかし日本で読むと胸をハワイの風が吹き抜ける。。。ただし写真や文からではなく行間からそれは吹くのだ。小説家にとってしばしば行間は本文と同等にむずかしい。

風景写真や料理の写真も多いが、近しい人間にしか撮り得ない氏の写真もファンにとっては貴重である。

かつて2000年度版が是非見たいと書いたことがあるが読み返すうちにあまりそう思わなくなった。

鮮烈で清清しいハワイがこの一冊にある。
テネシーワルツは一度だけ―2003/05/08―



誰にでもとは言わないが、男には「アウトロー願望」とでも呼ぶべき衝動がある。調和に満ち何気ない平和な日々、そこにいる自分が恥ずかしく正視できない時がある。その衝動が発動する条件は多様で、人によってはTVや映画であったり、人であったり、本であったり・・・。ただしその熱を持続することは難しく、一瞬の発熱で終わるのだがときめきは胸に残る。

自分にとって喜多嶋作品の主人公はそんな願望の体現者であることが多い。舞台はさまざまで生きるスタンスも各人で違う。しかし皆―――WAY OF LIFE―――これだけはゆるぎない。そんな中で久々に読み返した本書の主人公は魅力あふれるひとりである。弱さと強さ、器用と不器用、多感と非情の相反併存を心に抱き、きまぐれに愛を見せる。

本で発熱したことのある方は是非読んで欲しい。

読み返してよかった、ときめきが今もこの胸にあるからだ。
ビーチ・サンダルで告白した―2003/05/07―


スポーツ選手のトレーニング、画家のデッサン
それと同じように小説家も短文であれ常に文章をかいているのがよい。ペン先が乾いているようではいけない。

「ココナッツ・クラブ」はファンクラブ会員向けに書かれた短編である。活字ではなく朗読テープ・CDで毎月届けられる。ファンにとっては楽しみなのだが、長編小説であれ何であれ一本は一本であるので作者の苦労は同じだと思われる。

もともとこれらの作品は本にはしないということであった。ということは本来作家の創作メモの欄外、余白から生まれるべきものなのだと考える。小説のために使うイメージが元本とするとこれらはそこから分泌される利息でなければならない。利息が尽きたら書くべきではない。少なくとも元本、小説のためのイメージ、素材、エピソードに手をつけるようなことがあってはならないと思う。

小説家は常に自身と読者にナゾと新鮮さを保つ必要がある。そういう意味で作品云々ではなく非常に残念な一冊。

2〜3年風にさらされ、私自身も風にさらされ、この本の存在を忘れた頃、ひっそりと取り出して読み「なかなか・・・」と言えるかどうか。。。

今は忘れたい一冊である。
三十秒のラブ・ソング―2003/4/14―


―時代、風、エーテル―


喜多嶋氏初期の代表シリーズ「CFギャング」の復活第一作である。
まず、作者がひじょうにノっているなと感じさせる。筆が跳ねている。もしかしたらもっと枚数が伸びていた作品なのかもしれない。前作「ブラディ・マリー」で上質なリアリティは存在するのだが・・・?と書いたがこの作品では見事に修正されている。物語の中で浮いていない、頁に融けている。リアリティを作品に詰め込むのではなく、いかに創作の中で感じさせるか、これがむずかしい。リアリティは説明ではないのだ。その処理が見事である。

人気シリーズの復活ということでかつての作品を引きずって読む方もいるかもしれない。文体のキレや疾走感はもはや求むべくもないが、作品の成熟度、これを評価しなければならない。読み手の成熟についていけず消えていく書き手が多い中でこれは労作である。

時代、風は変わってもそれ以外の「何か」をしっかり感じさせてくれる、まさに固有である。

まぁ1ファンとしては流葉の復活というだけで想いを込めて読んでしまうのだが。。。

賛否を含め多くの意見が出そうではある。
お別れにブラディ・マリー―2003/3/13―


もしも釣り小説?というジャンルがあるなら、おそらく喜多嶋隆は一線の作家といえるだろう。釣りに関するエッセイ・紀行文は数多く存在する。しかし釣りを題材にした小説というのは本当に少ない。
釣り師は山ほどいるし情報誌も売れている、題材としては十分魅力的であるにもかかわらず少ないというのは作家が書かないのではなく書けない(描けない)からではないだろうか。経験、キャリアなどの問題ではなく・・・。
当然、釣りをするだけでは物語にならない。釣りを通して見えるもの、良い眼とココロで取巻くなにかを感ずること。そこから文章を絞りだす力が必要なのだ。
氏は釣りを題材にして小説を数多く書いている、その中で本書は「ブラディ・マリー」シリーズではあるがまさに秀逸。すばらしい出来である。
登場人物の魅力的なこと。そのすべてが光っている。そして釣りのシーン、釣魚への思いが珠玉の一滴を添えている。

釣りの経験がない方も「何か」を感ずることができるだろう。しつこいようだが全編に風が吹いている。

釣りを書くのは難しい、管理人も釣りを題材にして文章を書いたことがあるが―釣の章―(笑ってやって下さい)

う〜ん、本当にむずかしいんだ。。。
島からのエアメール―2003/2/17―


喜多嶋文体は乾いているといわれる。
それは、氏がこと短編について物語を追うのではなくシーンを追っているからだと思う。昔この作品を読んで物足りなさを感じたことがあった。自分が読みながら常にシーンの中に物語を求めていたせいだ。しかも安直に・・・。
そういう意味でウエットなのだろう。日本人だからなのかもしれない。だが読み重ねるにしたがって描かれているシーンの一つ一つが心に染みてくるようになった。物語もそうだがシーンの中から浮かんでくる何か。それが大切になってきた。
文学は物語性を大切にする。「ただ見るとはなしに見る」ということはあまり許されない。しかしテレビニュースの一瞬のシーンですら物語化するくらい飢えている今こそこの本を読んで欲しい。シーンを追っている自分の中に何かが見えるかもしれない。

物語を求めすぎると現実に対してわがままになってしまう。
プール・バーで待っている―2003/2/12―



ビリヤードを求めて。
若者の放浪という鮮やかな決別のイメージが光る作品。個人的に大好きです。
プロットや作品としての枠どりがしっかりしていてムダがないので登場人物が生きている。
「ハードボイルド」特有のナニワ節的な会話も喜多嶋調に見事に仕上げられておりくどさがない、サラッと読める作品。その点で女性にも抵抗なく読めると思う。「ハードボイルド」はクサイからと敬遠しないで欲しい。

いいイメージと素材があれば脇も舞台も自由に生きてくるという典型的な良作。

文庫化して「友よ、もう会うこともないだろう」と変わったが「プール・バーで待っている」 この時代を映した題名を愛おしく思う。
パイナップル巨人軍―2003/2/08―



爽やかな作品。「CFシリーズ」を読んだ方ならその番外編との印象を持つだろう。コマーシャル業界の一線に立つ主人公たちのロケでのエピソードを澄明で乾いたやさしい筆才で描き出している。
しつこいようだが喜多嶋作品の命である風が吹いている。深い厳しい問題意識をおさえつつ、さりげない登場人物の泣き笑いの一筆で淡々と事態を収拾している。
日本民とパイナップル国民、同じ心民(是非読んでください)の間で野球を介して各々の気質、習慣、反応、伝統意識を浮き彫りにしつつ比較文化論にもなっている。アタマでなく眼と心、やさしいコトハで読者を惹きつける。今までの文学の定義や概念はない、しかし品質は保証できる労作である。定型などクソクラエ。。。これを読むと「CFシリーズ」の復活、労作が期待される。

生活への正直な次元に眼を持っていった作家姿勢が大きな魅力である。

まさにあざやかな筆才、おすすめする。
海辺のロンリーハート・ガールズ―2003/1/26―

人に本を薦めるのはむずかしい。。。
「その人が普段何を食っているか、どんな本を読んでいるか、教えてごらん。その人がどんな人かあててあげよう」昔そんなことを言った人がいた。

この本はまだ「喜多嶋隆」という名前すら知らなかった頃、本の背に呼ばれて購入した。めったにないことだった。
読み進めるうちに風が吹きぬけた。心地よかった。文章からこんな感覚を受けたのは初めてだった。

「感覚というものは時とともに必ず滅びる。そして二度と再生はあり得ない。それが生きるということではないかね」
それでも失いたくない感覚だった。しかしこの本は何度読み返してもその感覚が薄れることがない、そんな自分をうれしく思う。

―虹を着ていた4人のロコ・ガールたちの短い物語―

このアロハを本気で探すためにハワイに行った。日本の本や写真集などでは見つからなかった。
初日からビーチにも行かずSHOPをまわった。かなりしつこく尋ね、探したが柄のヒントすら得られなかった。昔あった柄なのかとビンテージも漁ったがだめだった。
<KIHI KIHI>は1937年から衣料の卸をはじめ1951年からスポーツウェアを製造していたらしい、やはり答えはビンテージ。
レンタバイクを借りて遠出を試みた。スワップミートも回った。それでも見つからず日にちだけが過ぎていく。探し物がみつからないとなると妙にうれしくなる。
バイクが気持ち良かったので海沿いを走った。途中で通り雨に会ったりしたが服もあっという間に乾く。

そんな時間を 過ごすうちにアロハのことなどどうでも良くなった。

ハイビスカスが散った―2003/1/10―

しばらくぶりの「マリーシリーズ」沙漠で水にありついたように読み切ったが今回もザンネンながら・・・としかいいようがない。
またしても、やっぱり一言半句。貫くような一行に出会えない。行間に吹く風が感じられない。。。
確かに昔のように筆が走るようなことはなくなり細部においても上質なリアリティが存在する。少なくとも固有がある。 しかし今回も導火線だけで最後まで爆発がない。素直すぎていけない、素材が素材のままである。熟していない。いわゆる作品として消化されておらず作文で終わってしまっている。
その点が惜しまれる。作品後半でエピソードがあるにもかかわらずふっと軽くなり、浅くなり、それが今回もまたかという質のものであるのでやはり作品としては早産なのであろう。
「猫にもブラディマリー」以降どうもそう感じざる得ない。風を感じない。

次回は「CFギャング」シリーズの復活だという。 駆け抜ける文体がなくなった今でも期待するしかないのだが。

さて。。。。

少女ライカ・ライカに願いを


喜多嶋氏初期のジュニア小説の王道とも言える設定ではあるが、全くの別物。作品数の多い作家にとって以前のモチーフを再書することは、新たな創造を誘発すべき自身の持つエネルギーや可能性を失いかねないといった危険性を孕む。そしてかつての名作は輝きをなくし単に模倣しやすいといった程度の作品となってしまう。実際にそのような例は多い、期待した作家ほど残念なことに多い。かくして我々の廻りはどこかで読んだような書物の氾濫といった状況を呈してしまったわけだ。

しかしこの作品はそんな恐れなど微塵も感じさせない。きわめて素直な感動がある。ラストに一文がある。心を貫く風が吹いている。
氏はこれでまた新しい風を作り出した、激しいのではなく強い、花のようなやさしさ。

第2弾「ライカに願いを」では前作「少女ライカ」で主人公がまだ受け止めることができなかった痛み、想いが見事に描かれている。
まさに名作、ただしシリーズ化には反対。大切に書きつづけて欲しい。



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