
古い古い御伽話
誰もが知りえた御伽噺
其れに祈りを込めて願うなら
望みは、なんであろうと叶うという
遠きは「神」
古きは「鬼」
近きは「悪魔」
誰もが笑う、そんな話
晴れ、ときどき悪魔 〜悪魔と契約する方法〜
朝の日差しが突き刺さる。
精神的にであり錯覚でしかないはずのそれは、
まるで肉体的にも痛覚が刺激されている感じが男にはした。「……っていうか、実際痛ぇし……」
もちろん、日差しがではなく、物理的攻撃によりだ。
自身の目で確認したからそれは確かなのである。「その手に持った布団たたきは何かな?」
あくまで微笑を忘れず、相沢祐一は問いかけに成功した。
布団たたきを持つ少女は、微笑み返しながら答えた。
「どんなことをしても起こしてくれ、とおっしゃいましたよ」
そんなこと言ったかな、と祐一は思う。
まったく、これっぽっちも、微塵に覚えがない。
だが、彼女が言うなら、言ったのだろう。「今度は、おはようのキスで起こしてくれ」
「むりですよー。もう実験済みですから」
「……まじすっか?」
「そんなことより、早く起きないと遅刻しちゃいますよー」
振り上げられた布団たたきにより、
まさに布団の主人は叩き出された。……寝た気がしない。
それもそうだ。
現在7時。
講義の時間まで余裕がありすぎる。祐一はぽりぽりと頭をかいて、時計を持ち上げてみせた。
「誰が遅刻するって?」
「もちろん佐祐理がです」
―――ヒエラルキー逆転っ!
あくびれもせずに目的を果たして
軽やかな足取りで出て行く彼女の背中を見送る。完全に目のさめてしまった。
祐一はため息を漏らして布団を押入れにしまうことにした。
背中が煤けていた。
せっかくの早起きだ。
久しぶりに散歩をしてみるのもいいと祐一は思った。
むしろ暇すぎて思わずにはいられなかった。柔らかな日差し、穏やかな風、温かな気温。
見渡せば人気なく静かに続く並木道。実行するにはこれ以上ないくらい条件がそろっている。
息を思いっきり吸って、吐く。
新鮮な酸素が身体においしく感じた。こんな日は、人助けの一つをしても、罰は当たらないだろう。
「きゃーーーーっ」
―――と、思った矢先の出来事だった。
叫び声の方向に、いやーなものを見た気がした。
地面にお尻をつけて身を震わせている少女と、
半透明の黒い影―――幽霊などと呼ばれているもの。
関わりたくないパターンの上位だ。「見なかったことにしよう」
たった今そう決めた。
くるりときびすを返す。
背後から、今度は短い悲鳴。
「……くそっ」
なんて人のいいヤツなんだ!
いや、正確には人ではないけれど。祐一は、少女と黒い影を遮るように間に立った。
「大丈夫か?」
「え、あ、はい」
返事を聞くまでもなく、気が抜けた。
相手はぜんぜん弱い。
普通の人間を襲えるはずがないほど弱い。
思わず自分の目を疑ったくらいだ。「消えろっ!」
一喝する。
少女の目には、稲妻が走ったように見えた。
次の瞬間、周りからは黒い影が消えていた。
風でたなびく男のロングコートが、漆黒のマントに見えた。
「い、いまのって、なんですか……?」
「人の念。わかりやすく言うと、悪霊みたいなものだな」
祐一は振り向いて、ほら、と手を伸ばす。
少女は呆けた表情で男の手を眺めていたが、
やっとその手の意図に気がつき手をとって立ち上がった。服に付いた砂を軽くたたいて払う。
羨望の眼差しを男に向けた。
「ありがとうございました。
もしかして、そういうのをやっつけちゃう人ですか?」「どっちかって言うと、やっつけられちゃう方」
「じゃあ……あなたも、ゆうれい?」
いや、と祐一は笑った。
あんなものと一緒にされてはたまらない。「魔族―――悪魔なんだ、俺は」
はぁ……、と気のない返事を少女は返えす。
突然そんなことを言われた人間の反応として、それは正しい。
真面目に受け取るほうが心配する。祐一は彼女の顔を見て一瞬目を細めた。
厄介ごとの匂いがした、しかも彼女自身から。
やっぱり逃げたくなった。
それでも忠告してしまう自分は、魔族らしからぬと、いまさらながらに思う。「お前、いま病気だな。生死に関わる。しかも、それを自分で知っている」
「はい。さすがは悪魔さんです。お見通しなんですね」
「茶化すな。お前は、魂と体が離れかけてる。
だから、それを嗅ぎ付けてあんなヤツまで寄ってくる。
力の強い念なら簡単にのっとられるぞ」「はぁ……」
わかったような、わからないような。
少女は首をかしげてみせた。「とにかく、だ。諦めるな。生きたいと思え。
そうすれば、平穏無事に残る生を真っ当できるだろうから」「……それ、何の解決にもなってません」
今にも泣きそうな笑顔だった。
「それもそうか」
人間というのは自分自身の「死」を受け入れなれない生き物だ。
それが強さに繋がるし、先ほどの念らも滅多に寄せ付けない。
けれど、時折妙に悟ってしまう人間がいる。それが無意識にでも、付け入る隙を作る。
風邪を引くのと同じ原理。祐一は脇に挟んだクリアケースを探る。
そして取り出したのは、家の鍵。自称メイドが強引につけたクマさんマスコットを
鍵からはずして栞の手に乗せた。「これを持ってろ。
俺の気配がしみこんでるから、多少のヤツじゃ近寄れなくなるはずだ」「あ、かわいいです」
「言っとくけど、俺の趣味じゃないぞ」
「恋人ですか?」
少女の瞳が心なしか不安げに見える。
祐一は、ぽんっと彼女の頭に手を置く。
「まさか。今現在、フリー」
「じゃあ、貰います」
マスコットを両手で包み込んで少女は微笑んだ。
「そうだ。そんな感じで笑っていろ。
そうすれば、気前のいいどっかの魔族が助けてくれるかもしれないからな」「はい、期待しないで待っています」
それでいい。
小さく漏らして、髪を梳く様に手を滑らせる。
変に期待されても困る。この世界では出来ないことが多すぎるから。
その時、祐一のジーンズのポケットに入れておいた携帯電話が震えた。
無粋なヤツだが、無視も出来ない。少女は目を丸くした。
どうやら悪魔が文明機器を扱うのは驚くべきことらしい。「悪魔さんが、携帯電話?」
「いまや必須アイテムだ」
着信は『召喚労働協会』―――略して『召協』。
人で言う所の仕事の斡旋機構。通話ボタンを押し、電話を耳に当てる。
愛想の欠片も無い声で「すぐに来い」と告げられると、切れた。わかっていたが、腹が立った。
「悪い、仕事だ」
「……お仕事ですか? イメージが湧きません」
くすくすと少女は笑った。
祐一は少し憮然とした表情を見せた。
どこかにいるだろう信仰者に、
魔族は基本的に勤労勤勉であることを布教してほしい。「俺らだって、働かなきゃ生きていけないぞ。
生活費やら税金やら、沸いて出てくるわけじゃないからな」「ごめんなさい。でも、税金?」
「そうだ。こことは違って、あっちは取立てが厳しい。
特にここ暮らしの場合、滞納すると強制召還される」少女には、やっぱりよくわからないが、大変そうなことだけはわかった。
仕事に疲れるサラリーマンが如くついた溜息が、哀愁を誘う。「お仕事、頑張ってくださいね……えっと……」
「そういえば、お互い自己紹介してなかったな」
思わず苦笑する。
おかしな話だ。
正体をばらした後に、名前を教えあうなんて。「相沢祐一だ。気軽に、お兄ちゃんとでも呼んでくれ」
「はい、おにいちゃん」
「……悪い、冗談だ。祐一と呼んでくれると嬉しい」
「私は美坂栞です。しおりん、って呼んでくださいね」
縁の無い呼び方だと思った。
少なくとも人前じゃ呼べない。「じゃあな、栞」
「さようなら、祐一さん」
祐一は背を向けて歩き出した。
少し歩いて振り返る。
同じ場所に栞がいて、振り向いた祐一にぺこりと頭を下げたのを見た。二度は振り返らなかった。
遠い日の昔話。
神様はいるらしい。
誰も見たことはないけれど。
きっと空の向こうで、地上を眺めて笑っているに違いない。悪魔はいる。
実しやかにささやかれ続ける、都市伝説のようなもの。
代償如何で、どんなことでも叶えてくれる。そんな話。
美坂香里は足元の土に足をとられそうになった。
転ぶことなくうまくバランスを整えると、立ちすくむように空を見上げる。ポニーにまとめた髪が風に揺れた。
―――遅刻、決定ね。
遅刻も欠席もしたことはあるが、その前に無断と付くと初めての経験だった。
しかも、原因が人に言えないほど情けない。まさか、迷子になるなんて思ってもみなかった。
いや、迷子というのとは少し違うか。
冒険心?
どちらにしても子供っぽい。歩くたびに抜け出せなくなる。
奥へ奥へと引き込まれる感じがした。
けれど、不思議と引き返すことを考えられない。
この先に何かがあることを知っている。
歩んでいるのは道という上等なものはない。
比較的歩けそうなところを選んでいるに過ぎない。それでも迷わない。
そんな錯覚木に囲まれながらも、開けた場所に出た。
一点に光りが集まっている。
そこが目的地のようだった。「教会……?」
ポツンと建つ崩れかけた建物。
屋根にある傾いた十字架が、辛うじて教会であると香里に認識させた。建物の前まで行く。
扉は半壊して、その役目を失っていた。
隙間から中を覗い、恐る恐る入ってみる。
意外に明るい。
中も外見に負けずオンボロだが、ステンドガラスだけは不思議と無傷だ。前から二番目の列のイスにほこりを払って座ってみる。
奥の中央に立つ、黒く薄汚れたマリア像。
なんだか、祈りたい気分になった。
―――もう諦めてしまったこと。
手を組み合わせる。
額に添えて目を瞑った。どうか、どうか……。
神様がいるのなら
この声を聴いて、哂っているのだろうか。
『聞き届けたぞ』
「えっ……」
突然、大きな音が香里の耳を打った。
立ち上がり、周りを見る。
それは聞いたことがないほどの荘厳なるパイプオルガンの響き。
もちろん、こんな場所にそんな大層なものはない。けれど音は止まない、次第に大きくなっていく。
マリア像が歌っている気がした。
『その願い、叶えてやろう』
その声は、音を掻き消すように聞こえてきた。
マリア像の前―――光が集まる。
降臨という言葉がこれほど似合う光景を見たことがない。空気が、凍りついていく。
時間が止まったように、風が止む。現れたのは人間のようだ。
少なくとも外見だけは。体型や髪型から予想するに男性だろう。
カジュアルな服装に身を包んでいた。
サングラスで目を隠しているが、端正な顔つきをしている。男は舞い降りるように、一歩踏み出す。
着ている黒いロングコートが、漆黒のマントに見えた。
「……だれ……?」
震える。
身体が拒絶する。
忘れていた恐怖が呼び起こされる。光りから現れるなんて、普通じゃない。
男はサングラスをはずした。
そして、微笑む。「願いを叶えるただの悪魔だ。それ以上は必要ないだろ?」
―――きまった!
心の中でガッツポーズ。
演出効果も凝ってみた。
端麗な容姿も利用してみた。
今月はピンチな分、この仕事はゲットしておきたい。そんな様子を微塵も見せず、祐一は歩み寄る。
「ほんとうに……?」
「ほんとうに、だ」
しかし言葉のみで己の存在が理解されるほど、メジャーな種族ではなかった。
「この科学万能の時代、信じられると思う?」
「まあ、確かに」
それは認めざるを得ない。
文明が持つ突起した分野の存在は、他への理解力を少なからず減少させる。
昔はもっとやり易かった気がしたが、遠すぎて覚えていない。「それにここは教会よ。悪魔なら、魔法陣で出てきなさいよ」
「教会は教会でも、ここは悪魔信仰の教会。
十字架だって逆十字だし、この像だって黒聖母だ」祐一は像に指を滑らす。
一筋埃がとれて、本来の色が姿を見せた。
塗装がはげていたが、黒かった。
ほらな、と勝ち誇ったような男の表情が、香里は気に食わない。
怪しい手品師は無視するに限る。
ここから出よう、そして今からでも学校で授業を受けよう。
振り返ろうとした。「ダメ元で信じてみろよ。妹の病気、治したいんだろ?」
「っ!? どうして、それを……」
「代償は安心の後払い。話だけなら無料だぞ」
「……」
人を食うような口調が、香里を冷静にさせる。
動揺してしまった自分が情けない。
妹が病気のことなんて、少し調べればわかること。まるで下手な勧誘手口のようだ。それも街角なら一瞥で無視な部類。
それでも……。
それでも話を聞くだけならいいかと、思わせた。不思議だった。
恐怖心が和らぐ。
警戒心が刺激されない。微笑みが誰かに似ている気がした。
昔、どこかで聞いたおとぎ話を思い出す。
神様は見えない。
でも悪魔はいる。
どんなことでも叶えてくれる神様のような悪魔。そんな話。
もしかすると、これが 奇跡 なのかもしれない。
「どんなことでも叶うの?」
「ああ、それに見合った代償さえもらえればな」
「代償って何? 魂?」
「そんなもの、欲しがる方が珍しい。
魂という代物は、加工は面倒だし、使い道が限られる。
それに代償に要求するぐらいなら、直接狩ったほうがマシだ」さも当然のように言い切った彼。
香里は悪魔たる片鱗を見た気がした。
「今現在の主流は、金。円よりドルが喜ばれる。
ああ、別に金でもいいぞ。
あれは価値がなくなることがないから」「いやに俗な悪魔ね」
「悪魔も時代の変化と無縁ではいられないって事さ」
ニヒルと思われる笑みを男は浮かべた。
少なくとも本人はそう思っている。「さて、肝心の代償金額は……」
クイズ番組並みにためてくる。
香里は少しだけ緊張していた。息をのむ。
結構ノリがいいヤツだと祐一は思った。
「―――しめて2000万」
「たっ、たかいわよっ!」
予想してはいたが、一介の高校生がおいそれと払える額ではない。
「嫌なら奴隷になるというのもある」
「……本気で言ってる?」
香里の目は痛いほど冷ややかだ。
今なら視線だけで殺せそうな気がした。「俺だってお勧めしない。
食い扶持は増えるし、なにより税金がかかる」答えはやっぱり俗だ。
「だから、2000万。言っておくが、これでもかなりリーズナブルだぞ」
「どこがよ?」
「まず召喚労働協会に14%。税金で15%持って行かれる。
本来なら、その分も見積もるところだが、
含めた上に諸経費込みでこの値段なんだ。
他の奴に比べたら、目の玉飛び出るくらい安いんだぞ。
それに他の奴は生死関係ってやりたがらない。
アフターケアが色々あるから」「アフターケア?」
悪魔がそんなことをまでやってくれるとは驚き。
時代は変わったみたいだ。「人を一人、生かすだけなら、容易い。
だけどな、問題はその後にある」「生き血でも必要とするの?」
まさか、と祐一は笑う。
「いいか? 運命って言うのは、初めから決まっている」
その言葉に烈火のごとく香里が声を上げた。
「じゃあ、なに?
あの子が死ぬことはもうきまっているのっ?!
あの子は死ぬためだけに生まれてきたっていうのっ!?」「お前の妹だけじゃない。お前もだ」
人はいつもそうだ。
何かを勘違いしている。
こちらは当たり前のことを言っているに過ぎないのに。「人なんて、そんな上等なものじゃない。
生まれて死ぬ、ただそれだけの存在だ」見つめられる香里は口をつぐんだ。
これ以上は意味がない。
―――価値観が違う。
それがはっきりわかる。人でなければ、狂っている。
「話を戻すぞ。運命は決まっている。
それを無理に変えようとすると、当然修正しようとする存在が現れる」「だれよ、それ?」
「世界だ」
漠然とした言葉だ。
しかし、祐一もそうとしかいえない。神ではない、全てを飲み込む圧倒的な奔流。
それ以外の言葉を知らない。「だから、妹を延命させると、逆凪
―――ようは、世界の反発力が発生する。
それをこっちに流して、受け流す」「それって、普通なら具体的にどんなことが起こるの?」
「ピンからキリまで。
バナナを踏んで滑ってみたり、車に轢かれてみたり。
可能性は無限だ。注意すれば避けられるものもあるし、
本人に関係なく起こりうることもある」それなら普通に生活しているのと、なんら変わりないではないか。
説明が足りないのか、それとも別のファクターがあるのか。けれど。
―――関係ない。
決めた。
覚悟を決めた。「アフターケアはいらない。それなら安くなるんでしょ?」
「そうだな。アフターケアなしなら……1000万だ」
「なら、その逆凪だか、反発力は、あたしが受けるわ」
できるんでしょ?
香里は目で問うと、祐一はうなずいた。
呪いの一種だ。
悪魔にとって身近な戯事。「ホントに、いいんだな?」
頷いた女は、強い意志をこめた瞳をしていた。
嫌な部類の人間だと祐一は思った。香里は抜けた天上をゆっくりと仰いだ。
目を焼くような青い空が、やけに小さく見える。お金の問題だけではない。
男が本当に悪魔で妹の病気が治ったとしても、
今後こんな輩に周りをうろつかれては堪らない。
あの子はこういうのが好きそうだから、尚更だ。そして―――罪滅ぼし。何もできなかった無力な自分へ。
愚かしい自己欺瞞。「1000万は分割払いでもいいでしょ」
「運がいい。サービス期間中で、金利は召協もちだ」
祐一はコートの内ポケットから、茶色の封筒を取り出す。
封を切って中の紙を半分出したとき、思い出したように声を上げた。「ああ、言い忘れたが。
約三年間、月一で、地界―――俺たちが住むところで
身体と魂の検査と調律を受けるように。
これをしないと、ヤバイからな。
器と魂の波長が合わなくなって狂う。日本的に言うなら、『鬼』になる。
ちなみに、それは一回50万かかる」「え……?」
香里は少しだけ間抜けな顔になった。
「さっきも言ったろ?
人を生き返らすだけならば容易い。
問題はその後だって」「そっ、それは、逆凪の話でしょっ?!」
「確かにそれも理由の一つ。
けど、叶える奴が少ない理由は大体こっち。
これがまた色々と手間がかかってしょうがないんだ」はっはっはっ、と軽い調子で笑う祐一。
ぷちっ、と何かが切れる音を聞いた。
―――見えたのは、高速で迫る拳だった。
結局、アフターケア入り契約。
腹立たしい。
人を馬鹿にするにも程がある。香里は羽ペンで自分の名を書いた。殴り書きだった。
最後の行に書かれた文字が目に入る。
『必ず自らが代償を支払うこと』
わかってるわよっ!
説明どおり印のところに親指を押し付ける。
離すと黒く染まっていた。黙ったまま、頬を押さえた悪魔に紙を差し出す。
「はい、契約成立っと」
手に持った紙がひらひらと揺れた。
祐一は不備がないか、サッと目を通す。―――表情が変わる。
「……あれ?」
一点をマジマジと見つめた後、懐に手を入れた。
何箇所か探ると、同じような紙が出てくる。
違う点として『代償、弐千万円也』と書かれている所だ。その露骨な変化を見逃す女ではない。
香里の手は神速を超えた。
消えた紙たちが、契約者の手にあるのを見て、祐一は逃げ出したくなった。
「別に変な所は……」
―――表情が変わる。
「これ、何かの冗談? 説明していただける?
事と場合によっては、解約するわよ」美坂香里のサインと拇印がある紙は、
冗談で持っていたはずの―――『奴隷契約書』香里の拳が力強く握られているのを見た。
マズイ。
あれは死ぬ。祐一の腰が少しだけ引けた。
「まあ待て。それを持っていたのは、ただの冗談。その紙自体は、本物だ」
取り返した紙を比べるように並べて見せる。
ちょっとばかりの愛想笑い。それも引き攣り気味である。「ここに召喚労働協会の判があるだろ。その隣は統領府の判。
この二つがあれば、どんな紙でも召喚契約書に早変わり。
これはどんな契約であろうと反故されないという証明でもあるわけで。
悪魔との契約の時は、ここを見るといいぞ」「そんなセールストークが聞きたいわけじゃないって、
当然わかっているんでしょう?」「いい経験じゃないか。契約書はよく読もうって言う。
これであくどい勧誘も怖くないぞ」「そうね。そしてここで学校の勉強が役に立つのね」
ばんっ、と紙の置かれた台をたたく。
「クーリングオフを要請するわ。あるんでしょうね、当然」
「……あるにはあるが、地界のそれは5分だ」
時計で確認した。五分はすぎていた。
「くッ! 時間稼ぎしたわねっ!!」
「仕方ないだろ! こっちだって、ジャム……もとい、命がかかってるんだ」
「なんで逆切れされなきゃならないのよ。
間違ったのはそっちなんだから、そっちで責任取りなさいよ」責任―――悪魔に対して、馬耳東風の言葉のように香里は思えた。
だが、意外とそれは利くらしい。
祐一は出現したときのように表情を消す。
先ほどまでが嘘のように、鋭利な刃物のような目をしていた。「執行前だから契約破棄自体はできる。
だが、当然お前の願いは叶わない。
もう契約もできない。
それでもいいか?」香里は黙ったまま、にらみつけた。
一言、つぶやく。「……卑怯よ」
「悪魔だからな」
悔しそうに唇をかんで俯く香里。
握られた拳が震えていた。絶対的弱者はなんと愚かしいのだろう。
逆らうことを知っていても、することが出来ない。まるで、弾圧されることを知っていても殉教できない背徳者のように。
圧倒的な関係。祐一は彼女から見えないようにため息を吐く。
やられた。こんなに早く介入してくるとは思わなかった。
―――けっして自分の失敗でないのだ。微塵にも思ってはいけない。
わるいな……。
悪魔らしくないと、また笑われる。
我が家でヒエラルキーのトップに立って
財政を含める諸管理を司る少女の姿が浮かんだ。
布団たたきを持って笑っている。帰ったら、彼女に手を合わせて謝らなければならない。
しかたないですね、と微笑むのが予想できた。
それが、心苦しいが……。―――赤字、決定だ。
「香里」
彼女は呼ばれて、顔を上げた。
まるで別人のように見えて、男は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……奴隷の件はこっちで何とかする。
ともかく、2000万は支払えよ。
契約書にも書いてあるけど、
どんな理由があろうと延滞は支払能力喪失とみなされて、
問答無用で魂を徴収、契約も白紙扱いだからな」香里は目を袖でぬぐった。
キッと睨む様に目の前の悪魔を見る。「わかってるわよ。でも、何とかって、どうするの?」
「金を支払うまでの期限付きで、俺名義の奴隷にする。
もちろん書類上だけだ。税金がかかるが仕方あるまい。
非は俺のほうにもありそうだしな」「あなたのほうにしか無いわよ」
当然の如く、旗色が悪かった。
逆凪のせいだと云っても言い訳としか受け取ってもらいないだろう。
当然の如く予想できた。「で、妹の名前は?」
「栞よ。美坂栞」
聞いたことのある名前だった。
しかもごく最近。
一瞬考え、ぽんっと手をたたく。
出来過ぎていて、監視されているのではないかと疑った。「じゃあ、早速栞を探すとするか……な……」
そのとき祐一は虚空を見た。
そして思う。
今日は、厄日かもしれない。
いや、厄日。
断定だ。一難去ってまた一難。さらにもう一難、オマケについてきそう。
早く布団に入りたい。「なにかあるの?」
「お前の願い、叶えられないかもしれない」
「どうして?」
今度は一体なに?と言いたげな表情。
それには答えず、虚空に向かって指を差す。
香里には何も見えない。
祐一はできうる限り丁重に目の前の真実を告げた。
「なんか、死んじゃったみたいだぞ、栞」
後書き
ほとんど説明のない不親切仕様。(後半も同様)
見直すたびに、直すところが続出。直すといつもの俺のSSになっていく罠。
ジレンマです。
ちなみに、
悪魔信仰の教会があるかは、知りません。