新選組隊士名簿
(50音順)

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 

の隊士 の隊士 の隊士 の隊士 の隊士

【あ】
相場薫三郎
(あいば やくさぶろう)

平同志

慶応元年四月二十七日 土方、伊東、斉藤、藤堂ら江戸下りの折に新選組に加盟。 その時二十四歳。

 青木文之進 (?)
(あおき ぶんのしん)

箱館新選組隊士?(新選組同志の関連名簿には名がない)

<松前にて戦死>
青木連
(あおき れん)

箱館新選組二分隊。

桑名藩士。松前で負傷、弁天台場で降伏。
青地源太郎
(あおち げんたろう)

箱館新選組 改め役下役会計頭取。

桑名藩。弁天台場にて降伏。<平松多門>か<岡本四郎左衛門>の変名か?
青柳牧太夫
(あおやぎ まきだゆう)

編成表<慶応三年十二月>・・・会計方(小荷駄方、伍長)幕府召抱え・・・平同志

慶応元年四月二十七日、土方、伊東らの江戸下りの際の隊士募集に応募し加盟。
文才に長け、会計係であったが、戦時には小荷駄方を務め 伍長も勤めたこともある。 
板橋の新選組墳墓に刻名があるそうだ(江戸引き上げの際の富士山艦で戦傷死との説あり)年齢も<上洛時二十八歳>と<五十歳>説あり。
青山次郎
(あおやま じろう)

箱館新選組一分隊差図役。

旧幕臣。弁天台場にて降伏。
明石覚四郎
(あかし かくしろう)

箱館新選組二分隊。

唐津藩士、仙台で新選組に加盟。明治元年十月二十四日の七重村で負傷。弁天台場で降伏。
秋山義三郎
(あきやま ぎさぶろう)

箱館新選組三分隊。

会津藩。弁天台場で降伏。
浅倉早之助
(あさくら そうのすけ)
会津藩六石二人扶持。隊付二十六歳。部下に<赤羽音吉>
赤羽音吉
(あかは おときち)
会津藩。<新選組>というよりは上記の<浅倉早之助隊付>。
土方の下、松前城の攻撃に参加して戦死。行年二十六歳。
浅野薫
(あさの かおる)

新選組編成表<元治元年六月>・・・諸士調役兼監察

名を藤太郎と称する(東太郎と書いたものもあり)
池田屋においては島田、川島、山崎らと探索を務め、報奨金二十両を受けている(沖田、永倉らと同額)
三条制札事件で乞食に扮して斥候を務めるも連絡遅延の失態、隊を除名される。が、その後も隊士と騙っての金策が露見し島原にて惨殺。
足立麟五郎
(あだち りんごろう)

島田魁文書・・・局長付人数

<林五郎><林太郎><足立太郎>ともある。江戸において脱走。
芦屋昇
(あしや のぼる)

編成表<慶応元年四月>・・・諸士取扱兼監察 <慶応元年六月>・・・諸士調役兼監察

<登>ともある。佐久間象山の息<三浦啓之進>と共に脱走。
阿比類鋭三郎
(あびる えいざぶろう)

新選組発足時の同志

新選組結成のきっかけ<浪士組>に参加し上洛。清河八郎と袂をわかち、京都残留。
文久三年四月六日病没(粛清説あり)壬生寺に墓碑があり<阿比原栄三良>となっている。
阿部十郎
(あべ じゅうろう)

編成表<慶応元年四月>・・・伍長・文武師範<砲術> 御陵衛士

新選組加盟時は<安郎信二郎>とも名乗り、伊東一派と共に高台寺に移る際には<阿部隆明>と称する。
慶応三年の油小路の夜は巨椋ヶ池へ出かけていた。虎口を脱した篠原らと共に薩摩の庇護をうける。
伏見街道で近藤を待ち伏せ襲撃。鳥羽・伏見の戦いでは薩摩の中村半次郎隊に属し、赤報隊結成にも参加、奥州路に転戦。
明治平定後、開拓使として札幌へ。後、その地にて北海道果樹協会事務所設立、りんご園を開く。
明治四十年一月六日 東京にて病没。行年七十一歳。
阿部隼太
(あべ じゅんた)

会津三代在陣者名簿・・・歩兵差図役下役。箱館新選組三分隊嚮導役・四分隊嚮導役。

弁天台場で降伏。
甘地一選
(あまち いっせん)

幕府召抱え・・・平同志

<甘地稔>とも。慶応三年六月十日の幕府召抱え名簿に平士とある。
戦死。(江戸にて脱走の記述もあり)
天野勝之進
(あまの かつのしん)

島田魁文書・・・局長付人数 

手負および戦没者と記録。(仙台へ残るとも)会津三代在陣者名簿・・・大砲警備隊下役の天海勝之助と同一人物?
天野十郎
(あまの じゅうろう)

箱館新選組会計方

唐津藩士、本名は<高仲重次郎 藩主<小笠原長行>と行を共にし仙台で新選組に加盟。弁天台場で降伏。
漢一郎
(あや いちろう)

会津三代在陣者名簿・・・籠役 中島登覚え書・・・局長附小頭(会津) 

本名<湊一郎> 会津戦争時には新選組旗頭を務める。 
慶応四年四月二十四日、今市から会津若松へ向かった負傷の土方を護衛して 大内から会津城下七日町の清水屋まで付き添う。
同年八月二十一日 勝軍山にて戦死。板橋の新選組墳墓には<湊市郎>となっている。(中島登の“戦友絵姿”にも描かれている)
新井忠雄
(あらい ただお)

編成表<慶応元年四月>・・・諸士取扱役兼監察 文武師範<撃剣> 御陵衛士

新選組では他に<新井陸之助>を名乗る。(他に変名<荒井俊蔵><成尾退蔵>)後の<新井一業
慶応になって新選組に加盟。三条制札事件では報奨金二十両の活躍
伊東と高台寺党結成。戊辰戦争では軍曹として越羽に転戦。赤報隊に所属し、偽官軍の容疑を受けるも薩摩藩預かりということで放免。
明治二十四年二月十五日没。
新井破摩男
(あらい はまお)

平同志 会津三代在陣者名簿・・・隊長附人数

中島登によると江戸で新選組に加盟、後 会津に転戦。行年二十六歳。
板橋の新選組墳墓に刻銘あり。(“戦友絵姿”にも描かれている)
荒木信太郎
(あらき しんたろう)

編成表<慶応三年十二月>・・・平同志 <慶応四年一月>・・・平同志 幕府召抱え・・・平同志

慶応三年幕府召抱えに平士として記載あり。<江戸にて脱走>の記録と<戦死>の記録あり。
荒木田左馬之助
(あらきだ さまのすけ)

平同志。

文久三年九月二十六日 長州の間者と露見、<御倉伊勢武><楠小十郎>と共に壬生屯所において斬殺された。
板橋の新選組墳墓に刻銘あり。
蟻通勘吾
(ありどおし かんご)

第一次行軍録・・・一番隊隊士 編成表<慶応三年十二月>・・・平同志 <慶応四年一月>・・・平同志 幕府召抱え・・・平同志。

新選組古参隊士。『壬生浪士組』幕府提出上書署名の<蟻通七五三之進>?。池田屋騒動では報奨金十七両を受ける。
三条制札事件、天満屋騒動も活躍。第一次行軍録では沖田の次に名が見られる。
その最後には諸説あり、明治二年五月十一日 土方戦死の数刻前 箱館山の攻防戦で討死・弁天台場で死亡・桔梗野で戦死・・等。
“戦友絵姿”にも描かれている。
安藤早太郎
(あんどう そうたろう)

編成表<文久三年三月>・・・助勤 <文久三年六月>・・・副長助勤 <元治元年六月>・・・副長助勤

京都知恩院の一心寺に入り、後に加盟。『壬生浪士組』幕府提出上書署名に名が見られる。
池田屋にて重傷を負い七月十二日死去。壬生寺に墓碑あり。
(永倉新八記録に「京都一月寺 脱走、副長助勤 病死」とあり)
安藤勇次郎
(あんどう ゆうじろう)

編成表<慶応三年六月>・・・諸士調役兼監察 幕府召抱え・・・調役見廻組並 島田魁文書(京都より会津)・・・目付

元治元年十月、伊東らと同期に入隊。
新選組行軍録の<安藤雅次郎>?(八番隊大砲組 谷三十郎の次に名がある)
三条制札事件では報奨金を得る活躍。
江府にて病死とされている。板橋の新選組墳墓に刻銘あるそうだ。
上へ↑
【い】
家里次郎
(いえさと つぐお)

新選組発足時の同志。

文久三年の浪士隊に参加し上洛、京都に残留し新選組発足の一員となる。
文久三年四月二十四日 大坂において切腹。
五十嵐伊織
(いがらし いおり)

箱館新選組一番隊。

会津藩 明治二年五月十二日 台場で負傷。弁天台場で降伏。
伊木八郎
(いぎ はちろう)

第一次行軍録・・・七番隊隊士

池田屋、ならびに三条制札事件共に褒賞金十五両の活躍あり。
幕府召抱え名簿で平同志の<伊木一郎>?
池田小三郎
(いけだ しょうざぶろう)

第一次行軍録・・・五番隊隊士 編成表<慶応三年十二月>・・・伍長 幕府召抱え・・・平同志 剣術教授心得

三条制札事件では金千疋の褒賞金を受けた。
伊東甲子太郎らの分離後の組織改選時には<剣術指南方>として伍長になる(池田小太郎となっている)
慶応四年一月三日 伏見で戦死(他に淀で討死、甲州勝沼で戦死説もあり)
池田七三郎
(いけだ しちさぶろう)

中島登名簿 島田魁文書(京都より会津)・・・平同志 会津三代在陣者名簿・・・隊長附人数

新選組最後の隊士の<稗田利八>(ひえだ りはち)の新選組在籍中名。
新選組加盟から会津戦争までこの名であった。
石井伊之助
(いしい いのすけ)
平隊士。
石井勇次郎
(いしい ゆうじろう)

箱館新選組 差図役並。

桑名藩。桑名藩の同志と仙台にて新選組に加盟、蝦夷へ渡る。弁天台場で降伏。
石川伊太郎
(いしかわ いたろう)
平同志。
石川三郎
(いしかわ さぶろう)

平同志。

慶応元年四月の土方帰東時に応募し上洛。同年六月 隊規違反により切腹。
光縁寺過去帳に“慶応元年六月二十一日「石川三郎源義元 金壱両三分壱分二朱 頼越姓名新選組内酒井兵庫殿」”とあるそうで、
同寺山南敬助の墓とならんで 慶応元年六月二十一日没とある。
石川武雄
(いしかわ たけお)

第一次行軍録・・・二番隊 幕府召抱え・・・平同志。

新選組在籍時は<竹内元太郎>と名乗る。池田屋騒動では褒賞金十五両の活躍。
甲州勝沼戦後、江戸で脱走、名を改める。
明治二年十一月十二日、結城無二三や岩崎一郎らと共に日野の佐藤家を訪ね、
近藤、土方の名跡取立てについて相談。翌一月二十二日、勝海舟を訊ね無心に及ぶ。

市橋鎌吉
(いちはし かまきち)

平同志

京都の光縁寺の過去帳に<生国尾州産市橋鎌吉義次 慶応二年十月七日土葬>とあるそうだ。
松原忠司らとの合葬の墓碑にも名がある。

市橋秀松
(いちはし ひでまつ)

箱館新選組三分隊。 

唐津藩士。<高橋恭輔> の本名。

市村鉄之助
(いちむら てつのすけ)

島田魁文書(京都より会津)・・・両長召抱人 同書(仙台より脱走後)・・・土方家来 中島登名簿・・・陸軍奉行指揮下

美濃大垣の産。歳十六の若さで箱館まで渡り、土方に付き従い奮戦。
箱館戦争の終結間際に土方は「日野まで遺品を届けよ」と命じ、戦地を脱出させた。
艱難辛苦の末、ぼろぼろになりながらも日野の佐藤彦五郎宅へ遺品を届けた話はあまりにも有名。
今 土方さんの写真が見られるのも彼のお陰である。ありがとうございます。
その後三年ほど佐藤宅にて身を隠し、後 郷里へ戻ったが西南戦争に出陣して没した。-----→

市村辰之助
(いちむら たつのすけ)

島田魁文書(京より会津)・・・局長附人数

市村鉄之助の兄。「江戸にて脱走」。

一色善之介
(いっしき ぜんのすけ)

島田魁文書(京より会津)・・・局長附人数

善之蒸?鳥羽伏見で負傷後脱走とある。「江戸にて脱走」ともあるそうだ。

逸見勝三郎
(いつみ しょうざぶろう)

幕府召抱え・・・平同志 島田魁文書(京都より会津)・・・伍長

慶応元年四月二十七日、土方、伊東らが江戸へ戻った時に応募上洛、歳三十六。教授心得。
正月五日 淀に於いて戦死?

伊東甲子太郎
(いとう かしたろう)

別表参照 -----→(準備中)

伊藤主計
(いとう かずえ)

平同志。

慶応元年四月二十七日、土方、伊東らの江戸下りの際、応募上洛。

伊東隼之助
(いとう じゅんのすけ)

平同志。

慶応元年四月二十七日の土方、伊東ら帰東のさい応募上洛。歳二十三。

伊藤浪之助
(いとう なみのすけ)

幕府召抱え・・・平同志。

三条制札事件では最高額二十両の褒賞金を受ける活躍。薩摩の出身であるためか、鳥羽伏見戦前後に薩摩へ投降。
その後 島原に潜伏していたが寺町通蛸薬師下ルの浄土宗の和尚を殺害し金品強奪。
斬に処せられた。

伊藤鉄五郎
(いとう てつごろう)

第一次行軍録・・・七番隊 編成表<慶応三年十二月>・・・伍長 幕府召抱え・・・平同志 
島田魁文書(京都より会津)・・・伍長 中島登名簿・・・差図役

中島登の<戦友絵姿>に描かれている。板橋の新選組墳墓に刻銘があるそうだ。

稲芳雄三郎
(いなよし ゆうさぶろう)

平同志。

慶応元年四月二十七日 土方、伊東ら江戸下りの際 応募上洛。歳二十一。

稲吉竜馬
(いなよし りょうま)

新選組入隊するも 暫くして身許を怪しまれることあって密かに脱したとされる。
(上記 稲芳雄三郎と同一人物とも言われるそうだ)

井上源三郎
(いのうえ げんざぶろう)

別表参照 -----→

井上新左衛門
(いのうえ しんざえもん)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数

伏見街道藤森神社を過ぎた墨染辺で近藤が高台寺の残党に狙撃された際、供廻りとして従っていた。
芳介という奴とともに討ち死。

井上泰助
(いのうえ たいすけ)

島田魁文書(京都より会津)・・・両長召抱人 

井上源三郎の甥。源三郎次兄の松五郎の次男。安政四年十二月五日生まれ。
慶応三年十月、土方が江戸下りした際、池田七三郎(稗田利八)と共に入隊、近藤の小姓となる。
鳥羽伏見参戦、源三郎戦死の場に居合わせ、首を持ち帰ろうとするも激戦中のことで断念。
「江戸にて暇」とも「箱館渡航」ともいわれている。昭和二年二月十日没する。
妹のはなが沖田総司の長姉ミツの長男芳次郎に嫁している。

猪野忠敬
(いの ただたか)

新選組在籍時<粂部正親> (在隊中の身分詳細は粂部正親の欄に記す)
中島登の<戦友絵姿>で「如来堂にて討死」とあるが、
実は池田七三郎らと虎口を脱し名を猪野に変えて転戦。
東京で謹慎後釈放、新政府陸軍に出仕、中尉まで昇進し明示十二年退任。
明治四十三年九月二十五日 仙台にて没す。享年七十歳。

茨木司
(いばらぎ つかさ)

編成表<慶応元年四月>・・・伍長 <慶応三年六月>・・・諸士調役兼監察 幕府召抱え・・・調役見廻組並

慶応三年の幕府召抱えでは見廻組並として幹部取立てになっているが、
幕臣となることを嫌い、隊を抜けようとする。
元々勤王の士で新選組加盟も国事を尽くすため、幕臣取立ては志と逆行するとして京都守護職へ隊離脱の願いを申しでた。
慶応三年六月十四日 京都守護職屋敷にて望み叶わず自刃とも、大石鍬次郎らに斬殺されたとも伝えられる。
光縁寺に土葬、墓碑がある。後 泉桶寺に改葬。

今井祐次郎
(いまい ゆうじろう)

編成表<慶応三年十二月>・・・平同志(今井祐三郎) 幕府召抱え・・・平同志。

慶応元年 土方、伊東らの帰東時に応募上洛。歳二十二。
慶応二年二月五日 大石鍬次郎の実弟<酒造蔵>と そうとは知らずに祇園石段下で争い斬ってしまう。
復讐に燃える大石を「私の闘争を許さず」として土方が抑えたという。
鳥羽伏見参戦、五日淀で負傷。江戸引き上げの船中で没したといわれる。
板橋の新選組墳墓に名があるそうだ。

岩崎一郎
(いわさき いちろう)

幕府召抱え・・・仮同志。

甲州勝沼戦の後脱走。南一郎と改め沼津に住んだ。
明治二年十一月十二日竹内元太郎や結城無二三らと日野佐藤家を訪ね、近藤、土方の名跡取立てを相談した。
翌十一月十日 勝海舟を訪ね二両の無心をしている。
明治四年 彰義隊の残党に殺害されたとも、やくざとの喧嘩とも
近江屋事件に関わった殺しであったともいわれ死因は定かでない。

岩崎勝二郎
(いわさき しょうじろう)

箱館新選組三分隊

上へ↑

【う】

上田安達之助
(うえだ あだちのすけ)

箱館新選組一分隊。

飯野藩。

上田馬之丞
(うえだ うまのじょう)

島田魁文書(京都より会津)・・・両長召抱人

中島登名簿の上原馬之介?(陸軍奉行指揮下)

植田末次
(うえだ すえじ)

平同志。

慶応元年四月二十七日の土方、伊東ら帰東時に応募上洛。歳二十歳とある。

上原栄作
(うえはら えいさく)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数 

甲州勝沼にて戦死

碓井昇之助
(うすい しょうのすけ)

明治元年十一月五日 松前城総攻撃で土方附属として参戦、戦死す。<碓氷>とする書もあり。

内山栄八
(うちやま えいはち)

箱館新選組二分隊。

桑名藩。仙台にて新選組に加盟、蝦夷へ行く。
明治元年十月二十四日 七重村で負傷するも全快。後 弁天台場で降伏。

内山元次郎
(うちやま げんじろう)

平同志。

慶応四年一月 品川にて脱走とある。

内海次郎
(うつみ じろう)

第一次行軍録・・・八番隊 御陵衛士

伊東甲子太郎らと同期に加盟。三条制札事件では原田左之助らと同額の二十両の褒賞金の活躍。
慶応三年 伊東らと共に新選組を離脱、御陵衛士となる。
油小路の激闘時には阿部十郎らと共に巨椋ヶ池へ出かけていて難をのがれた。
翌月十八日、阿部十郎、佐原太郎と 近藤妾宅で療養中の沖田を襲撃したが、沖田は伏見奉行所へ移ったあとだった。
その数刻の後、二条城から帰参する近藤を目撃し、伏見の薩摩屋敷にいた篠原、加納、富山らに応援を頼み
伏見街道の藤森神社辺りで近藤を襲った。

梅戸勝之進
(うめど かつのしん)

編成表<慶応三年十二月>・・・平同志 <慶応四年一月>・・・平同志 幕府召抱え・・・平同志。会津三代在陣者名簿・・・籠役

十二月七日 天満屋騒動で深手を負う。
江戸へ引き上げの後、各地に転戦したが仙台に残った。

上へ↑

【え】

江川七郎
(えがわ しちろう)

箱館新選組二分隊。

弁天台場で降伏。

越後三郎
(えちご さぶろう)

平同志。

文久三年八月二十五日 桂小五郎が送り込んだ間者といわれている。
荒木田左馬之助,御倉伊勢武、松井竜三郎ら同志三人と入隊。
翌九月二十五日 祇園一力で永倉新八、中村五郎の殺害を企てるも手が出せず、
翌二十六日 間者と露見して沖田、永倉に斬りつけられ 松井竜三郎、松永主計と共に逃走した。
永倉の残した記録には 「国事探偵方 脱走」とだけ書かれている。

江畑三郎
(えばた さぶろう)

平同志。

遠藤丈庵
(えんどう じょうあん)

壬生浪士組

清河八郎らの上洛浪士組に参加、芹沢、近藤らと京都残留し 新選組発祥の礎となるが、根岸友人らと帰東していく。

上へ↑

【お】

大石鍬次郎
(おおいし くわじろう)

別表参照 -----→(準備中)

大内鎗之助
(おおうち やりのすけ)

流山にて脱走。

大河内太郎
(おおこうち たろう)

箱館新選組三分隊・四分隊。

本名<山脇隼太郎>、桑名藩士。越後口にて手負、弁天台場で降伏。

大谷勇雄
(おおたに たけお)

第一次行軍録・・・六番隊 編成表<慶応三年十二月>・・・会計方 <慶応四年一月>・・・会計方 
幕府召抱え・・・平同志 島田魁文書(京都より会津)・・・伍長。

元治元年十月、伊東らが加盟上洛した時の名簿に名がある。
永倉新八によれば「伏見奉行所へ引き移った一員とし、江戸引き揚げの会計方」
島田魁は「伍長」として戦死としている。板橋の新選組墳墓に名があるそうだ。

大谷良輔
(おおたに りょうすけ)

平同志。

本名<大谷良助>光縁寺過去帳に記載あり。
新選組から大谷の家に呼び出しがかかり、家内の者が壬生屯所へ出かけたところ切腹したとのことだったそうだ。
これ以上の記録は何もない。天誅組の田中楠之助は近隣同士で竹馬の友。

大月籐蔵
(おおつき とうぞう)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数

江戸にて死すとも脱走とも。

大野右仲
(おおの うちゅう)

箱館新選組 奉役添役(中島登名簿)

唐津藩士。通称<又七郎>変名<松川精一>
慶応四年四月二十九日 会津七日町 清水屋において土方と会見。
野州の戦況を聞き共鳴、仙台に移動後 唐津藩の同志二十三人を連れて新選組に加盟。
箱館では隊長に推されるが土方の陸軍奉行添役として、安富才輔 相馬主殿らと活躍。
明治二年五月十一日 土方最後の出陣に随行している。一本木関門を越え、朝陽艦撃沈を利して進撃する手筈だったが隊伍を乱し逃走した。
降伏後は弁天台場に謹慎、後 薬王院に入り釈放後は豊岡県参事に任じられ正七位を叙される。
明治四十四年没。七十四歳。

大橋半三郎
(おおはし はんざぶろう)

幕府召抱え・・・仮同志 中島登名簿・・・什長下役 会津三代在陣者名簿・・・歩兵差図役下役

会津戦争後 仙台に残留し降伏した。

大橋山三郎
(おおはし やまさぶろう)

平同志。

弁天台場で降伏。後 尾張藩お預け、島田魁らと共に釈放された。

大場久輔
(おおば きゅうすけ)

平同志。

明治元年十一月五日 松前城戦で戦死

大町通南太郎
(おおまち つなたろう)

平同志。

<綱太郎?>会津戦争後 仙台残留。
板橋の新選組墳墓に<綱太郎>で刻銘ありとのこと。

大宮友賢
(おおみや ともまさ)

会津三代在陣者名簿・・・医者。

斉藤一諾斎(斉藤一とは別人)や大町綱太郎、三品次郎らと仙台に残留降伏とある。

大村安宅
(おおむら あんたく)

元治元年十月、伊東、大石らと新選組へ加盟上洛の途上、幕吏に縛せられ横浜にて処刑される。何があった?

小笠原胖之助
(おがさわら ばんのすけ)

箱館新選組 小隊司令士

唐津藩 小笠原壱岐守長行の実弟。
蝦夷上陸直後の明治元年十月二十四日 七重村戦で死す。十七歳。
本名<千之助>新選組司令士又は差図役となり<三好胖>の変名も使った。
幕軍上陸地の鷲ノ木霊鷲院に埋葬。

岡島品三郎
(おかじま しなさぶろう)

編成表<慶応三年十二月>・・・平同志。

岡田五郎
(おかだ ごろう)

中島登名簿・・・機械方

仙台降伏名簿に名がある。

岡田克己
(おかだ かつみ)

幕府召抱え・・・仮同志。

慶応三年の幕府召抱えに異を唱え 茨木司らと京都守護職屋敷へ出かけ隊離脱を図る。
茨木司、佐野七五三之助、富川十郎、中村五郎の四人は大石ら隊士に斬られた(または自決した?)が
岡田、木幡勝ノ進、松本俊造、仲居三弥、松本主計の六人は新選組追放となった。

岡田米太郎
(おかだ よねたろう)

島田魁文書(仙台より)・・・会計方 中島登名簿・・・会計方(岡田栄太良)

弁天台場で降伏。

尾形俊太郎
(おがた しゅんたろう)

編成表<文久三年三月>・・・助勤 <元治元年六月・・・副長助勤 <元治元年十二月>・・・五番隊組頭 第一次行軍録・・・五番隊組頭
<慶応元年四月>・・・諸士取扱役兼監察 <慶応元年六月>・・・諸士調役兼監察 文武師範<文学教授方>
 <慶応三年六月>・・・副長助勤 <慶応三年十二月>・・・副長助勤 <慶応四年一月>・・・副長助勤 
幕府召抱え・・・副長助勤見廻組格 島田魁文書(京都より会津)・・・目付 中島登名簿・・・大砲差図役(小形俊太郎)。

大古参、大幹部である。文学教授方も務めている。
伊東甲子太郎が加盟した際の近藤の江戸下りや大目付・永井尚司の広島出張に近藤、伊東らと随行している。
鳥羽伏見戦の後も会津まで隊士として活躍、そのまま会城に残った。

岡戸万次郎
(おかど まんじろう)

平同志。

土方、伊東らの江戸下りの際 応募上洛。歳二十歳。

岡村亀太郎
(おかむら かめたろう)

箱館新選組 小隊司令士(中島登名簿)

明治元年十月二十四日 七重村にて負傷と中島登は記している。

岡本四郎左衛門
(おかもと しろうざえもん)

桑名藩士 青地源太郎の本名と思われる。

小川一作
(おがわ いっさく)

第一次行軍録・・・四番隊

元治元年十月加盟。伊東上洛時の名簿に名がある。

小川佐太郎
(おがわ さたろう)

平同志。

慶応元年四月 土方、伊東らの江戸下りの際に応募上洛。歳二十一。

小川信太郎
(おがわ しんたろう)

平同志。

壬生の光縁寺に土葬、合葬墓あり。慶応二年二月十八日 新選組内木村良之助、矢金繁三 と過去帳があるそうだ。

沖田承之進
(おきた しょうのしん)

平同志。

土方、伊東らの江戸下りの際 応募上洛。歳十九。壬生光縁寺の<沖田氏縁者>という女性埋葬記録はこの沖田の?

沖田総司
(おきた そうじ)

別表参照 -----→

奥沢栄助
(おくさわ えいすけ)

平同志。

壬生寺に元治元甲子六月五日卒と刻んだ合葬碑あり。
池田屋騒動での奮戦討死といわれる(近藤の書簡には書かれていない)
板橋の墳墓では病死 変死 処刑者の列に加えられているそうだ。池田屋での負傷が元での死ということか。

尾関雅次郎
(おぜき まさじろう)

第一次行軍録・・・先頭旗役 編成表<慶応三年十二月>・・・伍長 <慶応四年一月>・・・伍長(尾関政一郎)
幕府召抱え・・・平同志(尾関雅二郎)島田魁文書(京都より会津)・・・伍長当時頭取差図役(尾関泉)会津三代在陣者名簿・・・歩兵差図役 
島田魁文書(仙台より)・・・差図役 中島登名簿・・・差図役。

<政一郎>とも称した。<尾関泉>の名もあり。慶応四年四月二十七日 大谷地で負傷。弁天台場で降伏。

尾関弥四郎
(おぜき やしろう)

編成表<元治元年六月>・・・勘定方 <慶応元年六月>・・・勘定方 。

尾関雅次郎の実弟。
池田屋騒動では褒賞金十五両を受ける。第一次行軍録ではしんがり近く、山崎蒸の次に名がある。
慶応三年幕府召抱えには名が見当たらない。
板橋の墳墓には病死の列に名があるとのこと。

尾崎弥兵衛
(おざき やへい)

編成表<文久元年三月>・・・勘定役並小荷駄方。

上記編成表以前のものと思われる名簿に<尾関雅次郎>の名が見られることから
尾関のことを指すのか、もしくは名簿の写しの際に尾崎を尾関と思い込んで混同されたのか?

乙部剛之進
(おとべ ごうのしん)

箱館新選組 嚮導役(中島登名簿)

備中松山藩士 仙台で新選組に加盟、箱館に渡る。変名<式部銀次郎>
明治二年五月十一日弁天台場にて戦死。
中島登の「戦友絵姿」にも<弁天砲台に於いて戦死す>と描かれている。

小原銀蔵
(おばら ぎんぞう)

第一次行軍録・・・使番兼。

元治元年十月十五日 伊東らが加盟時の上洛名簿に名がある<小原険太郎>か?

小原孔三
(おばら こうぞう)

第一次行軍録・・・八番隊 編成表<慶応元年四月>・・・伍長 <慶応三年十二月>・・・伍長
<慶応四年一月>・・・伍長(小原幸造)幕府召抱え・・・平同志 島田魁文書(京都より会津)・・・伍長。

新選組において長く伍長を務めている。「江戸にて脱走」

小幡三郎
(おばた さぶろう)

幕府召抱え・・・仮同志 編成表<慶応三年十二月>・・・平同志 <慶応四年一月>・・・平同志 中島登名簿・・・大砲差図役

慶応四年九月四日会津若松 如来堂で討死とあり 板橋の墳墓にも戦死の列に名があるそうだが虎口を脱していた可能性あり。

慶応三年十二月二十九日の「金銀出入帳」に 小幡三郎+行節渡四両也 の記載があるそうだ。

上へ↑

← 戻る   か行隊士へ→