新選組隊士名簿
(50音順)

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あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 

の隊士 の隊士 の隊士 の隊士 の隊士

【さ】
佐伯又三郎
(さいき またさぶろう)

壬生浪士組

文久三年 清河らの帰東寸前の三月五、六日の頃 近藤、芹沢ら京都残留組に参加斉藤一など含め四十人ほど一緒といわれている。
新選組と命名のなる前の文久三年八月十日 千本通り朱雀野で長州の久坂義助に斬殺された。

斉藤一諾斎
(さいとう いちだくさい)

司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」では斉藤一の改名として箱館へ渡航しているが実際は一さんとは別人。
二十九歳の時 寺の住職となり以降あちこちの住職を歴任する。
甲州勝沼戦で強瀬に屯集した新選組に全面協力をした。敗退後 上野の彰義隊に参じ その敗退後に新選組に加盟。
会津戦争に参戦、仙台で残留降伏した。

斉藤秀全
(さいとう ?)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数 会津在陣者名簿・・・機会方頭取

上記の斉藤一諾斎?
斉藤清一郎
(さいとう せいいちろう)

幕府召抱え・・・平同志。

島田魁文書(京都より会津)にも名がある。江戸にて脱走 とのこと。
斉藤一
(さいとう はじめ)
別表参照 -----→ (準備中)

酒井兵庫
(さかい ひょうご)

編成表<文久三年三月>・・・勘定役並小荷駄役 <元治元年六月>・・・勘定方 <慶応元年六月>・・・勘定方 

池田屋騒動では十五両の褒賞金を受けている。
厳しい新選組法度に恐れをなして隊を脱走。しかし摂津住吉神社に潜伏している所を捕らえられ 沖田総司ら数人の手にかかって斬殺された。
板橋の新選組墳墓に名ありとのこと。

酒井要二郎
(さかい ようじろう)

箱館新選組一分隊。

弁天台場で降伏。

坂本平三
(さかもと へいぞう)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数

慶応四年正月六日 橋本の戦闘で没す。

佐久間銀太郎
(さくま ぎんたろう)

箱館新選組三分隊嚮導役・四分隊嚮導役。

唐津藩士。仙台において加盟。弁天台場にて降伏。<土岐善次郎>の名も使った。

佐久間顕輔
(さくま けんすけ)

編成表<慶応三年十二月>・・・平同志 <慶応四年一月>・・・平同志(佐久間健助) 幕府召抱え・・・仮同志
箱館新選組二分隊嚮導役。

弁天台場で降伏。板橋の新選組墳墓に 佐久間健助で刻銘されているそうだ。
佐久間荘太郎
(さくま そうたろう)

平同志。(慶応元年上京者名簿より)

慶応元年四月 土方、伊東らが江戸下りした際に面接、加盟した。この時三十七歳。
剣術は一刀流、馬術は神当流、槍術は天渕流を使った。
佐久間登人
(さくま とくと)

平同志。(慶応元年上京者名簿より)

慶応元年四月の土方、伊東ら江戸下りの際に応募、上洛した。歳十八歳。
桜井数馬
(さくらい かずま)

平同志。

京都御香宮の「戊辰戦役東軍戦殉者名簿」というものに 慶応四年正月五日 淀堤において戦士 と記載があるそうだ。

桜井勇之進
(さくらい ゆうのしん)

平同志。

慶応元年四月 土方、伊東らの江戸下りの際に応募、上洛。歳二十六。
壬生 光縁寺の過去帳に記録があるそうだ。同寺の合葬碑にも刻銘あり。

佐々木愛次郎
(ささき あいじろう)

平同志。

永倉新八「同志連名記」によると 平同志。
<隊中美男五人衆>にあげられていることは有名。「古今の美男」歳十九。
彼の恋人に芹沢鴨が横恋慕し、それから逃れようと駆け落ちしたが朱雀野の藪の中で斬られて終わったというが・・・・・

佐々木一
(ささき はじめ)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数 箱館新選組三分隊。

弁天台場で降伏。並河一と改名し大正十五年没した。
佐々木蔵之助
(ささき くらのすけ)

平同志。

文久三年四月から五月の隊士募集に参じた初期の隊士。
まだ『壬生浪士隊』を名乗っていた頃の<幕府提出上書署名一覧>に名がある。
池田屋騒動では十五両の褒賞金を受けている。
指田竹次郎
(さした たけじろう)

箱館新選組 差図役兼教授方

旧幕臣。弁天台場で降伏。
佐治寛
(さじ ひろし)

箱館新選組。

桑名藩士の息。明治元年十月二十四日 七重村で戦死の記録があるが、この時重傷を負って 後に戦病死とも。行年二十一歳。

佐藤房太郎
(さとう ふさたろう)

箱館新選組三分隊。

唐津藩士。弁天台場で降伏。
佐藤安次郎
(さとう やすじろう)

平同志。

慶応二年二月 近藤、伊東らと広島入りの記録あり。
新選組「金銀出入帳」に<慶応三年十一月十七日に百両支払い、
翌年二月八日 刀代八両、同年 馬代として十両支払い>の記録があるそうだ。
真田四目之進
(さなだ しめのしん)

幕府召抱え・・・平同志 編成表<慶応三年十二月>・・・平同志(真田賢之助?) 撃剣教授心得

<剣術に達し 撃剣指南心得を務むも文なし>だそうだ。淀にて討死。

真田次郎
(さなだ じろう)

平同志。

<施山多喜人>とともに 商家の婦女と不義を重ねたため切腹となった。

佐野七五三之助
(さの しめのすけ)

第一次行軍録・・・四番隊 幕府召抱え・・・平同志。

慶応三年の幕府召抱えでは平同志となっているのだが、<茨木司>らと共に幕臣としての取立てに反対を称え、
同年六月十四日 京都守護職屋敷に訴えでたところを 大石や島田魁らによって殺害された。
佐野は大石に槍で腹を刺されたが、その瞬間 抜き打ちで大石に手傷を負わせたという(殺害されたのではなく自刃したのだとも)
佐野は死を覚悟の辞世を懐中していた『二張の弓引かまじと武士の ただ一筋に思ひ切るなり』
遺骸は新選組によって壬生 光縁寺に埋葬されたが 翌年 篠原ら高台寺党生き残りの者の手によって 戒光寺に改葬された。

佐野牧太
(さの まきた)

平同志。

慶応元年七月 商家を脅迫して金策したことが露見し斬首に処された。

佐原太郎
(さはら たろう)
篠崎慎八郎の御陵衛士以降の名。

沢忠助
(さわ ちゅうすけ)

島田魁文書(京都より会津)・・・両長召抱人 (仙台より)・・・土方家来 中島登名簿・・・陸軍奉行附 守衛新選組

土方の馬丁を務めた。京都から箱館まで随行している。
土方の佩刀と仙台候より賜った水色の下げ雄等の遺品を届ける蜜名を帯びて五稜郭から脱した。
これらの品は現在日野の佐藤家に残されている。ありがとうございます沢さん。
新選組「金銀出入帳」に 慶応三年十二月十一日<賄い方忠助に十五両渡し、翌年二月二十八日 忠助妻三両>の記録があるそうだ。
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【し】
塩沢麟次郎
(しおざわ りんじろう)

平同志。

慶応元年四月 土方の江戸での隊士募集に応じて加盟上洛した。この時二十五歳。

小野派一刀流の使い手、荒木流手裏剣の名手。
鹿内主税
(しかうち ちから)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数

局長附の一員。大坂で脱走
宿院良造
(しゅくいん りょうぞう)

第一次行軍録・・・三番隊 幕府召抱え・・・平同志。

古参中老四十七、八歳と川村三郎書簡にあるそうだ。池田屋騒動では十五両の褒賞金を受けた。
<正月三日 伏見にて戦死>とあり。

篠崎新八
(しのざき しんぱち)
幕府召抱え・・・平同志。
篠崎慎八郎
(しのざき しんぱちろう)
御陵衛士佐原太郎の新選組在籍中の名。
油小路事件の後、近藤の妾宅に臥床の沖田を阿部十郎、内海次郎らと襲撃したが 沖田はすでに大坂へ移った後だった。
伏見街道での近藤の要撃に参加。その後は久留米新激隊の副長を務めたが同隊の井口次郎に殺害されたと篠原泰之進はいう。
阿部十郎は中西昇の仕業としている。
篠塚岸三
(しのづか きしぞう)

平同志。

池田屋騒動では十七両の褒賞金を受けている。
篠原泰之進
(しのはら たいのしん)
別表参照 -----→ (準備中)

斯波縁之助
(しば えんのすけ)

幕府召抱え・・・平同志。

慶応元年 土方、伊東ら江戸下りの際、応募上洛。歳二十六。

柴 司
(しば つかさ)

会津藩士。

元治元年六月、<池田屋騒動>の後 長州浪士が報復に出る惧れありと警戒中の新選組へ
会津藩より応援の手勢が派遣された、その中の一人。
隊士と共に出動し、清水三寧坂の<明保亭>において遊興中の土佐藩士を長州浪士と誤って深手を負わしてしまう。
下手をすれば藩同士の戦闘にもなりかねない事態に責任を負って、六月十二日 自決した。
斯波雄蔵
(しば ゆうぞう)

編成表<慶応元年四月>・・・文武師範<文学師範>。

上記の斯波とは演者か?
司馬良作
(しば りょうさく)

平同志。

慶応元年四月の土方、伊東らの帰東時に応募し上洛、歳二十五歳。

柴岡剛造
(しばおか こうぞう)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数

慶応四年 宇都宮戦で戦死。

柴岡万助
(しばおか まんすけ)

平同志

七条油小路において 毛内有之助を斬った<西岡万助>と同一人物かも、との考察あり。
板橋の新選組墳墓に名があるそうだ。。
柴田彦三郎
(しばた ひこさぶろう)

第一次行軍録・・・二番隊 

元治元年 伊東の上洛に同行。板橋の新選組墳墓に名があるそうだ。

芝山徳三郎
(しばやま とくさぶろう)

幕府召抱え・・・平同志。

島田魁文書(京都より会津)にも<柴山徳三郎>の名で見出せる。

島田幸之助
(しまだ こうのすけ)

幕府召抱え・・・平同志。

島田魁
(しまだ かい)

別表参照 -----→ (準備中)

島田弥一郎
(しまだ やいちろう)

平同志。

元治元年 伊東らが加盟上洛した際の上洛名簿に名がある。

清水卯吉
(しみず うきち)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数 会津三代在陣者名簿・・・隊長附 

中島登名簿にも清水宇吉の名で見出せる。白川関門で討死とある。

清水吾一
(しみず ごいち)

壬生浪士組

文久三年 浪士組に参加。芹沢、近藤らに共鳴し京都残留。新選組母胎の一員となる。
が、間もなく<根岸友山><鈴木長蔵><遠藤丈庵>らと帰府し新徴組に参じた。

志村武蔵
(しむら たけぞう)

幕府召抱え・・・平同志 編成表<慶応三年十二月>・・・伍長 <慶応四年一月>・・・伍長
島田魁文書(京都より会津)・・・伍長 中島登名簿・・・大砲差図役 

慶応三年の四月、伊東と斉藤一に面談し、加盟上洛。歳三十二。
<戦友絵姿>にも描かれ、「如来堂で討死」とあるが斉藤とともに死地を脱した可能性あり。。

白井鷹之進
(しらい たかのしん)

平同志。

慶応元年四月 土方、伊東らの江戸下りの際 加盟上洛。歳二十七。
土方の面談において剣術は留田流 馬術は源家古術と言ったそうだ。

白戸友衛
(しらと ともえ)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数 中島登名簿・・・大砲護衛役 会津三代在陣者名簿・・・大砲警備隊下役

箱館にて討死。。

白原七郎右衛門
(しらはら しちろうえもん)

幕府召抱え・・・仮同志。

慶応三年六月の幕府召抱えで仮同志となるのを拒み、
茨木司らと脱隊を望んで京都守護職屋敷に折衝、結局 隊を追放となる。

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【す】

杉村義衛
(すぎむら よしえ)

<永倉新八>が明治平定後、旧藩医の杉村松柏の養子になってからの名。

鈴木乙治
(すずき おとはる)

会津三代在陣者名簿・・・歩兵小頭役

鈴木長蔵
(すずき ちょうぞう)

壬生浪士組。

文久三年の浪士組に参加 上洛。芹沢、近藤らと京都残留。新選組母胎の一員となるも間もなく帰府。
新徴組に参加した。

鈴木直人
(すずき なおと)

幕府召抱え・・・平同志 編成表<慶応三年十二月>・・・平同志 剣術教授心得

慶応元年四月 土方らの江戸での隊士募集に応募上洛。歳二十二。
板橋の新選組墳墓に名が刻まれているそうだ。

鈴木三樹三郎
(すずき みきさぶろう)

編成表<慶応元年四月>・・・九番隊組長 <慶応元年六月>・・・九番隊組頭(三木三郎)
第一次行軍録・・・三番隊(三木三郎)
 御陵衛士

伊東甲子太郎の実弟。元治元年 兄、甲子太郎とともに新選組へ参加。<三木三郎>と名乗ったりもした。
御陵衛士を名乗り、新選組を離脱。月真院に高台寺党を結成する。
慶応三年、油小路の争闘では 辛くも死地を脱し、薩摩の庇護下に入る。
一ヶ月後、伏見街道にて近藤を襲撃する。鳥羽伏見戦をへて 赤報隊に加盟、偽官軍事件に関わるも釈放される。
晩年は警察署長を歴任するなどし、八十七歳で没した。)-----→

鈴木量平
(すずき りょうへい)

箱館新選組一分隊

備中松山藩士。仙台において新選組に加盟。弁天台場で降伏した。

鈴木練三郎
(すずき れんざぶろう)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数 中島登文書・・・?下役 会津三代在陣者名簿・・・歩兵差図役下役

<戦友絵姿>に描かれている。会津勝軍山で討死。歳二十一。

諏訪市次郎
(すわ いちじろう)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数
淀にて討死。

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【せ】

関川代次郎
(せきかわ だいじろう)

箱館新選組四分隊

桑名藩士。仙台において新選組に加盟。弁天台場で降伏した。

芹沢鴨
(せりざわ かも)

別表参照。

千田兵衛
(せんだ ひょうえ)

島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数 中島登名簿・・・下役 会津三代在陣者名簿・・・歩兵差図役下役

津軽藩士。<戦友絵姿>に描かれている。勝軍山で討死。板橋の新選組墳墓にも刻銘があるそうだ。

上へ↑

【そ】

相馬主計
(そうま かずえ)

編成表<慶応三年十二月>・・・平同志 <慶応四年一月>・・・平同志(相馬主殿) 
島田魁文書(京都より会津)・・・局長附人数 中島登名簿・・・隊長役

慶応三年十月 土方が江戸で隊士を募った際に応募上洛。
流山で投降した近藤を救出するため
 勝海舟を訪ねた土方に同行、
松波権之丞の封書を近藤に届けそのまま捕らえられる。近藤処刑の後 野村利三郎と共に釈放された。
箱館にも渡航、宮古湾海戦も土方に従い参戦。箱館市中警備役として弁天台場に入る。
降伏時に新選組隊長に任命され、他の同志達とは別格扱いで東京送りとされる。
坂本龍馬殺害事件に関して口書なる書類が出てきた為 新島に二年間流される。
島の娘と結婚し、幸せであるはずが 突然の切腹死を遂げられたそうだ。-----→

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