その花の名前は〜番外編競作企画〜テンプレート
番外編競作 その花の名前は 参加作品

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 人質とあたし番外編

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夢の花

葉山郁

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  初夏の空気のやるせなさは、森の傍にいけば少しはましになる。途絶えることのない蝉の声が世界を支配して、ふっと熱で歪んだ空気の合間に入り込んだように、奴の姿が見えなくなった。
 だけど幻想とは程遠い神隠し。御伽噺や神話が入る余地もなく別に不自然でもなんでもない、十にならない子どもはみんな迷子予備軍で、少し目を放せば風にのるタンポポの綿毛よりもかるーくどこかに飛んでいく。
 あたしはこめかみを押さえた。痛む部分を指の腹で向こうに追いやるようにして考える。
 まさか森に入ったんじゃあ、ないでしょうね。馬鹿から大馬鹿の呼び名に変えた方がいいかもしれない。いやもうなんというか、ラーシャって名をいっそ馬鹿の代名詞みたいにした方がいいかもしれない。
「鈴をつけるか、ポケットに石を突っ込ませて落としていかせればよかったんだわ」
 あたしの不平を聞いても森は悠然とそびえて、あの馬鹿を出してはくれない。森の中で野垂れ死にする大貴族。馬鹿だ。
「ラーシャ」
 呼ぶ。
「ラーシャ、ラーシャ!」
 苛立ちをどうしても混じらせてしまう声で呼びながら、八つ当たりするように辺りを乱暴に歩いた。
 そこで見つけてしまった決定的なそれ。かき分けられて折られた茂み。
 暗澹たる気分になりながら、しゃがんで顔を近づけて確かめる。高かさといいこの破壊の規模の大きさといい折られた枝の新しさといい、こっちから森に入っていた進路はもう間違いない。
「馬鹿」
 立ち止まって呟いた言葉は意外に平静に響いて、
「大馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っ!」
 かきわけて鬱蒼と頭上からの光の供給を途切れがちにして、静かな痕跡が残る奴の後を追いかける。最後に特大の息を吐いて森の中で怒鳴った。
「あの馬鹿っ!!」
 鳥が数羽、驚いたように近くの木々から飛んでいくのが見えた。



 木の枝に顔を引っかかれて、茂みには手足を無理に引きとめられる。それを振り切って時には枝を折って進む、正規の道もない森は、慣れていたってなかなかに歩くのは困難なもんだけど、特にこの森は歩きにくい気がして余計あたしを苛々させる。
 痕跡は注意深く見ないと発見できないところも多かったけど、そのうち静かな水の匂いが鼻についてきたので、しばらく立ち止まってとりあえずここの痕跡はそこに向かっていることだけ確認すると、後は探さずに水の方へと向かっていった。
 木の幹の陰と重なる葉の隙間から、どうやらぽっかりと空間を広げた場所が向こうにあるのを見てとって足を速める。その直後に油断したつもりはなかったのに思わず足をとられ、たたらを踏んだ。
 転ぶことはなかったけど、こんな間抜けをしたことは久々。やだなあ、無意識に張ってる注意が不注意の段階にまでいってるのかもしんない。
 そこで茂みを折って誰かが通った後が目に入った。とりあえず、迷うことだけはしてないみたい、うん、まだ大丈夫。
 その空間を隠すために垂れ下がるよう、うな垂れる枝の上にまた蔓だなんだのが重たげにかぶさって周到に光の通過を許さないベールになっていた。物陰で何かが息を潜めて森はいつも違う命を感じさせて人を安心もさせ怖がらせもする。
 近付く先に、こんこんと森を生物と例えるならば皮膚の下に走る幾筋もの血管の一つから吹き出た清い水が、鬱蒼とした森の中に嘘のような異空間を作り出していた。
 真中にある水鏡のようなほぼ完全円形に近い形で湖は広がって、色は瞳に染み入るような薄い青なのに不思議とその中の様子をいっさい外に漏らすことがない。何も語らないから、神秘というのかな。
 その湖が辺りの木々を押しやったのか、ぽっかりと広いドームのような空間から空が見えて神聖な恵みのように綺麗な光が舞い降りてくる。
 湖のほとりはその水が育んだ柔らかなクローバーの群生がカーペットのように深く敷き詰められていて、そこに埋もれるようにぺたんと奴は座っていた。
 葉越しに見えたそれにむかついて邪魔ではあるけど罪のない枝を盛大に横に押しのけて折ると、その物音に気付いたのかラーシャは振り向いて、日光のその下でぱっと暗い森を抜けてきた目にはきつい降り注ぐ眩しさに負けない明るさで笑った。立ち上がる、腕には赤紫と白の蓮華で作った花束をかけて、手を振って駆け寄ってきて
「ミリ――」
 殴った。
 問答無用でこめかみ辺りを横殴りにして、それでぐらりと傾きかけた体を襟首を掴んで引き止め顔を近づけてすごんでみせる。
「あんた、なにしてるわけ? ああ、ここでなにをしてたわけ?」
 特に意識してなくてもそこいらの地上げ屋のように物騒で、やたらと冷たい声が出た。ラーシャがへら、と笑うのに襟首に込めた力を強めて
「あんたいい加減にしないと殴るわよ」
「もう殴ってますよ」
「教育的指導よ」
 低い声で言ってやると、ちょっと面食らったようにラーシャはぱちぱちと目を瞬かせて、それからゆったりと笑い
「愛を感じます」
「ないものを感じるなっ!」
 襟首を投げるように離すと、ラーシャは軽くステップを踏むように体勢を立て直して、照れなくてもいいのに。とか抜かしやがった。このアホ。
「はい、どうぞ」
 頭になんかふさあと軽いものが載った気配がした。怒鳴った先でちゃんと立てばあたしよりかなり高い背を屈めてラーシャが頭に何かを被せ、顔を近づけて微笑む。
「思ったとおり、よく似合います。綺麗ですよ。これなら聖母リディアの従姉妹、花と美の女神ルーシーもたち打ちできませんよ」
「・・・・・・・・・・・・」
 視界の端にはみ出た蓮華の花が揺れてるのがちらちら映る。どうもさっき腕にかけていた花冠を頭にのせられたらしい。
 女神ルーシーってのはさ、この世に咲く全ての花で作られた鮮やかな冠を頭にのせて野を白い素足で舞うように歩く、どんな男も恋せずにはいられないって言う絶世の美女。聖母リディアが永遠の母なら、女神ルーシーが永遠の恋人っていわれてる。
 それがどこをどうしたら蓮華の花輪かぶったあたしと比べられるのよ。
 なんだか怒るよりも一気に脱力して、思わず座り込んでしまうと、その先でラーシャはほいほいとどこから取り出したのか
「他にもありますよ、腕輪にネックレスに指輪に」
「アホーっ!!!」
 脱した勢いが即座に戻って座り込んだ先にある足を払うと、わっと沈んで腰をついた体勢になり、そこで同じ目線になったことに気付いて笑う。
「ああ、ちょっと装飾過多でしたか」
「そういう問題じゃないっ!」
 花冠つけて怒鳴ってても馬鹿みたいなんだろうで、とりあえずそっと外して横に置く。馬鹿には罪があっても花には罪はない。
「あんたは、人が急いで旅をしてるときに、勝手に迷いやすい森に入り込んで、さらに勝手に危険な野生動物がきやすい泉のそばにきて、そんでなんでそんなことしたかと言えば、花摘みって抜かすわけね。抜かすわけね?」
「はい」
「抜かすなっ!!」
 怒鳴り声にまた鳥が飛び立っていく音。
「言えばいいのか悪いのかどちらなのですか」
「あたしはやるなっていってるのよ!」
「ああ」
 初めて了解したように(ようにじゃないっ)頷いて、白い手があやすようにあたしの頭を撫でる。
「でも、よく似合ってましたよ」
 もうやだ。こいつ捨てたい。捨てたい。座り込んでしくしく泣きたい心地に襲われて頭を垂れる。するとなにを勘違いしたのかさらによしよしと撫でてくる。
「それでですね、泉の向こう側、花を見つけたんです。これを作ったらミリアを呼んでこようと思ったんですよ」
 ざけんな馬鹿につきあってる時間はないっ! 
「いらない。あたし戻る。急いでるの」
 膝をおこしてきびすを返して言うと、ひょいと手が伸びてきてラーシャが肩を掴んで振り向かせてから
「少しだけですから、ね。ミリアが見てくれたら私もすぐ戻りますから。凄く綺麗なんですよ」
「どんな綺麗な花もあんたと見てたら汚くみえるわよ」
「少しだけですから」
 急にラーシャが手を奪って、あたしをぐいぐい引っ張っていく。花なんか見てたい気分じゃないし状況でもない。のになんだか妙に強い力だった。
 ぐるりと泉を回った先にはクローバーの群生じゃなくて雑草がまばらに生えていて、その中でひょろりと伸ばす背の高い薄紫の花が円を描くように並んでいるのが見える。
「これです」
「これ?」
 不審そうに尋ね返すと、そうです、と頷くラーシャの横で、あたしは見下ろす。なんというか、花には悪いけど不恰好な気がする。
 茎を伸ばした花は重たげにしょげてるようで惨めだし、花びらも幾重もの皺が寄ってちゃんと咲いているのにお婆さんみたいにしなびた感じであまりぱっとしない。葉っぱの色はこれまた腐ったような深緑。貴族のラーシャが目に留めるような花ではとてもなさそうだけど。きっとルーシーの花冠にもこの花が飾られることはないだろうな。
 でも、ルーシーとは全くどこまでも違うあたしにはこういう花が一番似合うかも。綺麗な花冠にはなれなくても、花壇の中じゃなくて一応健気に自生してるわけだしね。
 そんなことを思いながら顔を近づけると、瞬間に鼻の奥を刺すような強い芳香がきた。思わず少し顔を引いて
「野生の花にしてはえらく香りがきついわね。香水みたい」
「そうですね。」
 よく嗅いでみると、辺りからは匂い立つような芳香が放っていた。・・・・・・おかしいな、なんでこんな強いにおい、さっきまで気付かなかったんだろ。
 ぼんやりともう一度、親近感を覚えるほどあたしそっくりの地味でみすぼらしげな花を見やる。
「ミリア、大丈夫ですか? どこか顔色が悪いような」
 ふとラーシャが間近に歩を詰めてきて、肩を掴んだ。なんでもないわよ、と応えかけてけれど自分がその手を振り払えないのに気付く。ん・・・・・・
 心配げに覗き込むラーシャをおさめた視界が少しだけ揺れた。こいつが言った顔色が悪いってのはほんとかもしれない。さっきまではなんとも、さっき・・・・・さっき、っていつだっけ・・・・・・
 身体が支えていられなくなったけど、あたしは地面に倒れなかった。ふわふわと浮いているようで少し身体が楽になった。こうなるとさっきまでの身体がずいぶん重かった気がする。視界には藤色の花、そう言えば森でもあんな花、見たことなかった気がする・・・・・
「・・・・・花・・・・・」
 ラーシャに視線を移す。光の中で悠然と佇む姿が近くて、背の高さが違うから見上げなきゃ目線が合わせられない、いつまにかこんなに間近にいる。
 けどそれでも疑問が差し込む前に視界が揺らいで世界が確立できなくて、今の状況には関係ないのに頭の端に引っかかっていたことだけが勝手に口から飛び出た。
「あの・・・・・花、なんて、名前なの?」
「教えて、欲しいですか」
「・・・・・・・うん」
「教えてもいいですよ。でも、ミリア、その前に少しだけ私の話を聞いてください。いいですか」
 綺麗な顔が笑う。なんで笑ってるの。と思いながら寄りかかる。服の感触が鼻先にある。ラーシャは相変わらずなんの匂いもしない。あたしはうん、と頷いた。
「君は、私がこの道の途中で疲れたと言い出したので仕方なくこの森の傍で今日は休んで夜を越すことにしました。焚き火をしているうちにいつの間にか眠りに入ってしまって、そして朝を迎える。君はそう今日の記憶を持っている。いいですか」
「・・・・・・・うん」
「その通りに事が運ばれた。花も泉も何も見なかった。記憶があったり目にしたことがあるような気がするのは、夢で見たのですよ。これは現実ではない。決して現実ではない。いいですか」
「・・・・・・・うん」
 言うと満足げにラーシャが一つ笑い
「では。お教えしますよ。この花の名前はですね・・・・」
 聞きたかった声が遠くなった。



 腕の中でくたりと全ての力が抜けた少女を抱きとめて、泉の前で青年はもう届かないと分かっている名前を呟いた。薄く笑みを形作る唇が続けて
「精製されていない野生植物の中では稀にみる強い睡眠作用を要します。摘んで煎じても睡眠薬として使えますが、咲いている時に近付けばその動きを察して危険を払うために放つ芳香には、暗示作用も含まれます。滅多に見れない珍しい花なのですがね、この毒牙が効かない場合はこの花の近くほど安全な場所はありませんよ。獣も絶対に寄ってこない」
 そう言って身をかがめ、膝をさらって力のない身体を抱き上げた。
 瞳を閉じる少女の頬には、起きて動いているときには感じさせなかった降り積もった焦燥と疲労が色濃くあらわれている。それを見てとって小さくため息をついて歩き出した。
「無茶をする」
 酷使に痛んだ身体はあっけないほどに薬の作用を受け入れた。はたから見ていても心身共に限界に近いそのことに、彼女だけが気付いていないのか、それとも一歩沈んだ意識化で気付かぬふりをしているのか。どちらにしろ薄い刃を喉元にさらしてるがごとくに危険極まりない状況だった。
 愚かさを詰めたか細い身体はしなやかな鋼のようだが、その屈強さも今は疲労に腐食され折れそうなほどに痛んでいる。
 かくりと力なく首が折れて小さな頭をこちらの胸に埋める無防備な横顔に、一抹の哀れみと愛しさを覚えて、生の証としてかすかに上下するその胸に前もって摘んであった花束をそっとのせた。
 彼女が冴えないと評した紫色の花は摘み取ってしまえばもう芳香を放たなくなるが、それでもまだ匂い香は残っている。正常な呼吸の合間に、空気と共にその花に残る強くそしてわずかに甘い香りを吸い込んで彼女の眠りを深くした。



 辺りの闇をぼんやりと温かみのある刃で削りながら火がはぜる。彼女がおこしたことになる焚き火を作り、手の平ほどの小さな鍋をのせると、そこになんの躊躇いもなく摘み取った花を投じた。
 悲鳴をあげる間もなく炎に撫でられて、すぐに無残に黒こげになった燃えカスを石ですりつぶしてから、取り出した小瓶に手際よく灰をつめる。黙々と作業するその隣で毛布を肩にかけた少女は身を横たえて眠りについている。
 蓋をした瓶の中身に満足げに目を細めて服の中にしまい、新たな薪を取ろうとして振り向きふとその先の地面に、一輪の花が落ちていることに気づいた。持ってきた花は全てを投じたと思っていたのだが途中で落としてしまったようだ。それを手にとってみてくるりと回すと、傍らで眠る少女の顔の近くに贈るように置いた。
 しばらくそのまま、炎に照らされて振り向いた青年の視線が優しく少女に留まる。けれどやがて何かに気付いたように、綺麗に弧をかく眉がかすかに動いてその下の鮮やかな夏の空と同じ色を誇る目を細めた。
 安らかに眠る横顔から、一筋の涙が炎に照らされて赤く光りながら、滑り落ちてきている。指の背で拭うと、その冷たさが痺れるようにつたわってきて、寄り添うようにそっと近づいて、彼女の眼前に同じように身を横たえて目線を合わせた。
 白い頬の前で藤色の花弁が揺れる。安らかなそれは愛しさをかきたてて、この眠りをいつまでも守りたいとの庇護の意志を覚えたが、同時に今すぐ無理矢理にも揺すり起こしその瞳を開かせてそこに自分を映させねば気がすまない衝動も確かに同時に存在した。
 深い場所から響いてくる異なった二つのそれとは、まるで無関係な他人のように平然と飽きもせずに転がった青い瞳はそれを楽しげに見つめ続けていたが、やがて優美な口元からくっと一つ笑いがおこって、彼はしばし肩を震わせて漣のような細く長い声をたてた。
 少しでも負の感情を知る者が、それを聞けば青ざめたろう。掠れた笑い声に秘められていたものは、広大なまでの禍々しさと目もくらむような歪みを、隠すどころか誇示するようにさらけだした、顔をそむけたくなるほど醜悪でありながら一方でその華々しさに惹かれずにはいられない、過ぎた純真さと狂った熱だった。
 獲物の前の狩人は身を起こして、寒さを感じるように無意識に身を縮めた彼女の向こう側に手をついた。美しさで全てを惑わすための、輝きを放つ金の髪がゆっくりと揺れて、かかっていた髪を取り払い現れた耳元に寄せた唇が秘密を囁く。
「君が欲しい」
 混じる吐息の熱っぽさとかすれ具合は、確かに睦言には違いなかったが、相手をおさめる空は恐ろしいほどに晴れて、その色によく似合う冷静さに彩られている。
 彼も欺くものは何もないと分かっているのか、次の瞬間茶目っ気を見せた芝居をからりとなくして、何事もなかったかのように平静へと戻った。
「君が欲しい」
 同じ人物が同じ言葉を紡いでいるとは思えぬほどに、込められた意味すら先程とは違って見える。何の気負いも熱情もこめずに、呆気なく言葉をつげてその横に倒れてゆっくりと笑う。
 瞳の空の中に、狂気がある。放り出されたようなわずかなそれではなく、空そのものが狂気として無限に広がり、そしてかすかな虚ろさを圧倒的な冷静さの大海に落としたように、不気味なほどにその狂気は静かに形作られていた。
 とりみだすことや我を忘れる狂気は、確かに理解が届かぬ故に人を恐怖に突き落とす。が、けれど理解の及ぶ狂気こそが、どうあっても揺るぐことのない、一片の救いもない有様を人に突きつけるものだ。
 理性と冷静さすらも混在したその果てには、見えぬ不安定さ故の恐怖すらもあっさりと凌駕する、あまりに実在的な実感的な狂気があった。
 それで包むようただ目の前に横たわる少女から視線をそらさない。少女の稚拙な取り繕いは、帝都から遠ざかり目的の場所へと近付くうちに、安物の漆喰のようにばらばらと剥がれていき、その向こうに言いえぬ罪悪感とけれどそれを越える意志が垣間見え始めた。何を望んで、何に急かされて、彼女がこうまで無理な行程を強行するのか今はまだはっきりとした判断を下せはしなかったが。
「いいですよ、何を望んでも。望むなら、全てを叶えてさしあげます」
 そこにあるのは神のごとき傲慢さと、
「そのかわりに私に」
 敗北を知らぬ故の驕慢さ。
 指先がかすかに喉に触れた。眠る少女に語りかける青年は、獲物を前にした制圧者に間違いはなかったが、不思議とそこには下卑たものはなく、欲望の全てを自らの足元にひれ伏させた驚嘆すべき精神力と屈することなき不遜さが現れていた。
 自らを操縦する術すら手に入れた人の形をとったものは、一房の髪をすくいあげて口付けると、歯噛みするほど悠然と構えて、当然のように求愛を命として下す。
「私のものに」



 どこまでも沈んでいくような闇の中で意識は驚くほどに鋭敏だった。
 研ぎ澄まされた感覚は全てを手に取るように伝えてきて、立つ場所すら定かではない場所で、脅えるわけでもなく平然とそこに在る。
 深い常闇の中で、その声が耳をかすって彼女は振り向いた。泣き声だと分かると全てのしがらみと躊躇いは掻き消えた。
「どこ?」
 問いかけて、首は忙しなく辺りを見回す。目印になるようなものは何もない闇の中で、けれど彼女の瞳は全てを見渡せるのだとばかりに捜し求める瞳は無闇に迷うことはなかった。それでも頑強に見つからない相手に、焦れて足が踏み出された。
「どこに、いるの?」
 広がる闇の中、同じ迷子は心配げな様子を見せながらけれど、瞳には一抹の嬉々とした輝きを宿して、はしゃぐような足取りで駆け出す。
「怖くないよ、おいで。出ておいで」
 ねえ、と呼びかける、声はかすかに甘く。何も映し出し、形作ることはない、視界の死が訪れた世界に響き渡る。
「怖くないよ」
 おいで、泣かないで、と。
 夢見るように、少女は闇に呼びかけた。



 静かに目を開けると、まだ世界は目覚めていずに、そこにはひっそりと息を潜めて影が躍る。茫洋とした瞳が彷徨い、そしてあまりに間近すぎて逆に一瞬、見ることのできなかった姿に出会う。
 互いの身体のほんのわずかな動きでも伝えてしまう、隠し事のできない距離だ。薄闇の中で眠るその姿は罪なき――もしくは罪の意味すら知らぬあどけなく待ちくたびれた幼子のようで。
 「自分」と「彼」の二人が首を動かせば額に触れるほどの位置まで接近して眠っている訳はとんと不明だったが、不恰好な疑問は生まれる前に瞳に宿った光に殺される。不審に思うことなどありえずに、傍へとにじり寄って自分にだけかけられた毛布を自然な動作で相手の肩まで伸ばした。
 かすかに小首を傾げて、初めて目をあけた森の中の小鹿のよう瞳を大きく見開き、しげしげと眠る青年を見やる。初めは意味を考えるような不思議そうなそれは、やがて全てを了解してゆっくりと笑みが広がった。
 こんなところにいたのだ、泣き声の主は。
 軽やかに胸が弾みだす。見つけた、とあがった小さな歓声はすぐ間近で同じように横たわる花の芳香のごとく甘くじんと響き、唇からは我知らずくすくすと笑い声が漏れ、見つめる瞳には虚ろがかかり。
「もう、泣かないで。」
 砂漠に落ちた数滴のわずかな甘露のように陶然としたその声は無防備な犠牲者にゆっくりと染み込んでいく。
「泣かないで」
 悪夢と絶望にうなされて闇の中、その手はやってくる。震える腕を突き出して無我夢中で探る何も見えない闇の中、必死に彷徨い見つけ出した瞬間に息もできないほどに引き寄せられて抱きしめられる。柔らかさと甘さと喜悦の、抗えられない暴力的な愛情だった。
 咽び泣く、愛しい人。罪に濡れて脅えるいとしいヒト。それは加虐的な優越も含んでまたしっとりと濡れる感情だ。
 もはやいっぱいに満たされた虚ろな瞳には今と過去を識別することなどできるはずもなく、ただ歓喜の愉悦が浮かんではぜる。
 雲に身を沈めるような心地で硬い大地に横たわり、幸せそうに、この上もない至福の中を漂いながら、痺れるほどに甘く罪深い唇は何も変わることはなく同じ絶望を紡ぐ。それは彼女が幼い頃に、世界とも全てともつかぬ相手に与え続けた言葉だ。
「あたしがいるから、泣かないで」
 抱きしめようと伸ばされた腕は、けれどそれでは眠りを破ってしまう、と完全な自我が崩れ落ちた頭が、奇妙なほど冷静に告げたので途中で留めた。その分までというように、瞳は一途に優しさと慈しみを満ちさせてその姿を吸い込むよう納め続ける。
 何も知らぬ含まぬ第三者がその様子を目にすれば、この少女は目の前の青年を何にも変えがたいほどに深く愛しているのだろうと、なんの躊躇いもなく了解してしまえるほどに。
 彼女は微笑んだ。その発露は深い水底から新たな清水がわきあがってきたよう自然だった。
 柔らかな茶色い瞳がその中に収めきれぬような光を放って、琥珀にも似た茶色の輝きが踊るように折り重なり浮かんだ微笑みは美しい。
 唇はいつまでも囁く。どんな睦言よりも、無邪気に。どんな甘言よりも、老獪に。
「あたしがいるから、泣かないで」
 横たわる彼と彼女の合間に存在し、この世で一つきり異なる秘密の両方を聞き注がれたその花は、けれど何も語ることはなくただ夜風に萎れかけた花弁を寂しくふっていた。



 あたしは目を覚まして、身を起こした。なんだか凄くよく眠ったような気がして、意識が冴えている。
 意識の冴えとまだ焦点のあわない視界がうまく一致しないで、辺りの真っ白さがいやに目に付いて眩しい。
 寝ぼけ眼で辺りを探ると、もうすでにおきていたラーシャがいてくすぶりかけた薪を木の棒で弄っていた。ああ、あたしが昨日おこした焚き火、もう消えちゃったか・・・・・・・。
「おはようございます」
 白っぽさが混じる視界の先でラーシャが笑った。あくび混じりに返事を返す。それと同時に首を左右に曲げると、こきこきといった。はて、そんなに長く眠っていたのか、ずいぶんと身体が軽い気がする。
 んー、なんだか妙な気分がしないまでもないけど。ふと昨日のことを思い出して
「もう、あんたは元気でた?」
「ええ、ミリアが休ませてくれたから、もう大丈夫です。今日はだいぶ進めますよ」
 厄介なわがままだったけど、仕方ないか。こっちが無茶をさせてるんだし。
 とりあえず返事に満足して立ち上がろうとして、ふと地面についていた手にかさっと何かが触れた。見やると一輪の萎れかけた花がそこにある。はて――なにこれ?
「あ、私が摘んできました。贈り物です、ミリアにあげます」
「って萎れかけてるじゃない。」
「今日も暑くなりそうですからね」
 なんだか可哀想になって手に取る。うなだれる見たことがない地味な藤色の花。・・・・いや。手の中で茎を回すと、揺れるこの花びら。
「・・・・・・って言うんでしょ、この花の名前」
 言うとラーシャは少し驚いたように目を見開いた。それから、あたしも気付く。この花を、あたしはどこで見て、どこで名前なんか知ってたんだっけ?
「あれ、あたしなんで知ってるんだろ・・・・・」
 答えだけが歴然と記憶にあって、過程はとんと見えてこない。口に出して呟いて見ても、一向に変わらなかった。しばらく茎を回して花をふりながらあたしは考えて、寝起きに相応しい少し寝ぼけたことを呟いた。
「なんか、夢で見た気がする」
 言うと、こちらを見ていたラーシャが笑った。寝起きのせいかな、昨日は苛々して見てたそれも、今はなんだかしょうがないなあ、と思えたのであたしは小さく苦笑を返して、花を持ったままじゃあ行くわよ、と言って立ち上がった。
 その際にはらりとあたしの手元から花びらが一枚散った。


FIN




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その花の名前は

短編

  夢の花

 葉山郁

番外編紹介:

荒野を旅する二人の奇妙な関係の男女。明るくきつい誘拐少女に、すっとぼけた人質青年貴族。泉のほとりで摘んだ花を青年が差し出し、そして訪れた夢の中で隠された魔物が動き出す。夏の一夜の真実を、知るのはその紫の花一輪

注意事項:

注意事項なし

(本編連載中)

(注意事項なし)

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本編:

人質とあたし

サイト名:

氷の花束

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