その日は、馬鹿みたいな晴天がどこまでも広がってた。
 太陽がお前なんでそんなに張り切っているんだと聞きたいくらいに、輝かしく誇らしげに白い雲なぞ欠片一つない空に浮かんでいて、横合いにゆったりとなだらかに並ぶ山々もその下で生き生きと人生を楽しんでいるようだ。
 これまででっけえ蛇がぐでーっと伸びていたような細い街道は進むにつれ段々に太く広がり、さあ、こっちだとでも言うように見事に真っ直ぐに伸びる、いま立つこの場所のより目をやる視線が少し下がったその先に、ここいら近辺じゃこれ以上の大きな町は望めないほどの規模の町がふんぞり返っている。
 小高いこの場所からだと様々な色をした四角い屋根が、まちまちと並んで精巧なおもちゃのように見えた。そちらから寄せる風は久々に嗅ぐ少し据えた潮の匂いをのせている。
 港町、ウォーターシップダウン。
 中心となる大きな港に海の向こうからこちらに吹き付ける風の流れはそんな匂いと一緒にアリア海に置かれた船をもここに運んでくる。それに詰まれた品物や人もついでに運んでくるって寸法でこの町の栄えになる。
 おかげでこの地方の文化の流通の発祥地でもあるし、ともかくここいらなら全てのものがこの町から来ると言っても過言じゃない。
 船の来航に合わせた月に四回の市開きにはまだ見ぬ異国の品物を求めて多くの人がごった返す。
 見知らぬ匂いに充満した太陽の熱で暖められた大気の中を、町の向こう、遥か彼方にすっと綺麗な横線を描く海が、きらきらと光って俺達を招いてるように見えた。
 前方に遥か広がる、海は青かった。海だからだ。
 上空に幅をきかせた、空は青かった。空だからだ。
 両脇をどしりと固めた、山は青かった。山だからだ。
 そして街道を行く、俺は青かった。――――・・・・・・・・・レタスだからだッ!


 ざわめきが辺りを包んで、人が立ち代りに前方から現れては後ろに流れて行く。
 メイスの小柄な身体なんぞその波の中には溺れて見えやしないだろうけれど、それを逆手にとってひょいひょいと騒音の中をくぐって行く、こいつも並みの身のこなしの持ち主じゃない。
 メイスは軽やかな足取りで人の障害物をさばき、それからん、と止まって呟いた。
「愚かな人の群れが大量に集まってる中に身を置くと自分もそれの一員と見なされていることにいささか気分が悪くなりますー」
 周りの奴らに聞かれなかっただろうかと思うが、人の流れは小さなメイスの声なぞどどっと流してしまうらしい。
 それでも俺はなるたけ声を潜めて
「ほんとに、ここにあるんだろうな。」
「ええ、私やレザーさんから漂うお師匠様の力が見えますー。お師匠さまは存外、人が多いところに出没することが多いのですよ。自己顕示欲がとても強い――どれだけ顕示したところで見るものにとっては見たくもないような自己を提示させるなど、視界の暴力と言っても過言ではない迷惑だけを撒き散らす私この世でいらない者は何かと言われればまず真っ先にあげるでしょうお師匠様の特性ですね」
「・・・・・・・・・」
 俺の名前は、レザー・カルシス。
 質の悪い魔法使いに運悪く変な魔法をかけられて、目下、不幸街道まっしぐらな人生の修正を加えようと奮闘中の一介のレタスだ。レタスだ。繰り返させるな、聞き返すな、レタスだって言ってんだろ。
 で、自分の師匠に向かって暴言吐きまくるこっちはメイス・ラビット。まあ家名なんてこじつけでうさぎのメイスとでも思ってくれればいい。なんでうさぎかって? だからうさぎだからだよ。
 人間の身としてレタスに、野生のうさぎの身で人間になってしまった俺とメイスは、同じ目的を抱く身としての縁でここしばらく共に旅を続けている。
 俺はこの身体になってからはもはや何の役にも立ちはしないが、元は一介の冒険者で、メイスはその元凶の魔導師コルネリアスの半強制的な弟子で必然的に魔法使いなんだそうだ。
 ―――魔導師、魔術師、魔法使い、と俺にとっちゃ似たような者の呼び名だが、ちゃんと使い方の違いがあるらしい。
 しかし、メイスと旅を続けて結構たつがいまだによく分からない。魔をいじくる奴らはともかく秘密主義なもんだから。
 まあ、そんなわけでメイスは一応、魔に接する身のため、自分で魔法を構成して俺達にかけられた術を解く術を作っているんだが・・・・・・失敗した。
 まだまだ改良の余地があるみたいだ。そして俺は二度と実験体にはならんぞ。なんでだって? 聞くなっ。
 ともかくそんな紆余曲折をえて、そこでつまづいてしまった俺達は、それまでは選択肢が幾つかあったため、あまりはっきりした目的を見定めてなかったんだが、他の手がかりが極端に乏しい今やっぱりこの世でただ一人、確実にこの魔法が解けるであろうかけた張本人、メイスの師匠コルネリアスを捜すかという結論に落ち着いていた。
「しっかし探すとなると見つからんよな・・・・」
「そうですねー。本当ならそろそろ見つかってもいい頃ですし、私が探し回っても見つからない場合お師匠様はなぜか一定の時間が立つと私の前に勝手に姿を現すことが多いのですよ。あの極悪醜悪卑小な存在で寂しがり屋などとほざくなら私息が詰まるまで笑ってしまいそうですね」
 あっはっはっは、と声をあげるメイスに俺はこの師匠にして弟子ありだと呟く。メイス、お前の場合は「わらう」と呼んで「嘲笑う」と書くんだよ。
 だけど笑うと聞くと思い出すよなー。そろそろ結構、立つもんだけどあいつら元気にしてるのかね。 
 ちょっと思い出にひたっていた俺の前に、誰かが連れてたやぎの顔が突然、横合いからにゅっと出て瞬間に冷水をぶっ掛けられたように現実に返る。
 ヤギは俺を見て横たわった三日月の目をにいぃと満足げに細めた。ぎゃっ!
 素早くメイスが自分の背中に隠してくれたので俺は空恐ろしいヤツとそれ以上、対面せずにすんだ。
 背中に隠されると、メイスのしっとりとした白い髪が絡みつくように身体にかかる。
 しばらくメイスは持ち前の顔に似合わない毒舌で飼い主とヤギを糾弾して
「失礼なやぎさんですこと。人の食料を狙うなんてっ!」
 飼い主に謝られてもメイスはぷんぷんとした様子で言った。・・・・・・失礼な嬢ちゃんですこと。人を食料に狙うなんて・・・・・・。
 さっきも言ったが、俺はこんなもはやもう何も言いたくないような姿になる前は、一介の冒険者だった。
 世間で地道に働いているような奴らから見ると、特別、名でも高くない限りは、ふざけていいかげんで真面目な奴がいないってのが通説で、芸人とまではいかなくてもいささか軽蔑されがちな面もある。
 だが、こちとら大事な命を洒落と浪漫にかける大馬鹿家業。ふざけた奴もいいかげんな奴も、命がかかればその部分だけは真面目になる。
 それがもっともよく現れるのが、冒険をつるむ仲間達の選別だ。
 人間一人の力なんてやっぱりたかが知れていて、気ままな一匹狼気取りがうじゃうじゃいるように世間からは思われていても、冒険者は互いに仲間を作って仕事をこなすことが多い。
 こいつらなら命を預けてもいいし、預かってもいい、って心の底から思えなけりゃ冒険なんてやれはしない。
 その目が肥えてない新人がたまに悲惨な目に遭うこともあるが、一度定めた仲間意識とその信頼はどの職業にも負けないだけの自負が冒険者にはある。
 だから当然、自分を虎視眈々と狙っている奴なんかは仲間になりうるはずがないんだ。
 というわけで言っておくが、俺とメイスは仲間ではない。被害者、という単語がつくならば仲間と言ってもいいが。
 俺のそんな思考はさすがに嗅ぎ取れないメイスは辺りの空気をくん、と匂って不快そうに顔をしかめた。
「人の熱気と潮の匂いで鼻が馬鹿になりますー」
 多少は落ちたとはいえ、うさぎであった頃の五感を今でも備えるメイスは人とは感覚が違う。
 ただ過ぎるとそれも害悪で、この雑多な町の中は鋭敏なメイスの嗅覚には致命的だったらしい。
「人の匂いは嫌いです、私」
 ま、な。うさぎにとっちゃ人なんざただの捕食者にしか思えないんだから、好きだと言う方がおかしいさ。
 なんつーか捕食者にたいする餌の気持ちが最近、身に沁みいるようにわかるんで俺は胸中で頷いた。
「でもレザーさんの匂いは好きですよ」
 不意に不機嫌さを一掃させて、白い花が咲くようにこちらを見下ろしてメイスはにこっと笑った。
 外見は可愛い嬢ちゃんに好きだと言われて羨ましいって? そんなことひがむ必要はまったくないと思うぜ。
 ところで、俺は魚が好きなんだ。それも川魚が好物だ。いきなり何を言うかって? ―――メイスのそれは、俺が川魚が好きだ、と言う意味とすんぶん違わぬ「好き」ってことだ。
「だって素敵なんですもの、心が震えるほど高貴にして陶然たる香り。どこぞの暴虐で浅慮でこのようにふらりといなくなってはただ他人の負の感情を煽る、けれどかと言ってどこかに長期滞在すればするだけその場所に果てしない迷惑と不快を撒き散らすもはや人間生ゴミと言い表すことがもっとも的確かと言う腐臭そのものであるお師匠様によって私、諸国を回らされた件でよく見てきましたがレザーさんほど素敵なレタスはどの市場にも畑にも並べられていませんでしたー」
 ・・・・・・・お前の「素敵」は「美味しそう」と言い換えれるんだよ。市場や畑に並べられる冒険者・・・・・・・・どこまで虚しいもんと比べられてるんだ俺は。
「―――んで、その「お師匠様」の力はどっからしてんだよ」
 悲嘆に暮れながらも、ちょっと話をそらさねばやばい感じになってきたので、さり気なさを装って俺が言い募る。
「はいー、えーっとですねー。」
 のほほんとした様子でメイスが辺りに視線をめぐらしたその瞬間に、唐突に背後でざわっと空気が動いた。
「メイス、避けろ。前に」
 少しの猶予があったため、俺の声は落ち着いていた。
 メイスが前方に飛びのくと同時に、連なる悲鳴があがった。
 飛びのきざまにメイスが背後を振り向くと、死屍累々、と言った不吉な四文字熟語に相応しい有様が俺達の目に飛び込んでくる。
 メイスがそれまでいた場所から中心から一直線に、敷き詰められたように人が倒れて重なっていた。
 おそらく何か衝撃があって、その際にこの広間に詰まるようにしていた人間が将棋倒しになっちまったんだろう。
 この人でごった返す街中は存外、危険が多い。ちょっとしたことで崩壊を招くとあわや人の下敷きになる。
 傍目には愉快でおっちょこちょいな図にも見えるが、これが危ない。下手に潰されて内臓が破裂する奴もいるし、ガキなら呼吸困難で死ぬ奴だって出る。
「あららー」
「メイス、手伝ってやれ」
 うめきが満ちるそこに慌てて周りの奴らが助けに入る中、呑気に一人呟くメイスに横入りを入れる。
「面倒ですよー」
「いいからやれ」
 するとぷくっと白い頬を膨らませて
「レザーさんって結局のところお人好しなんですからー。それでそのように手も足も出せない状態なのですからその皺寄せが私に一気にくるのですよ。そのことを分かっておられるならともかくそのように当たり前な態度でされると人とは違って心が広く穏和な私としてもいささか不快ですー」
 前の褒賞だったレタス食ったのも役人から賞金貰って好き放題野菜買い食いしてたのも全部お前だろうがっ!
 と言う言葉はぐっと飲み込んだ。渋々とながらも、メイスがこっそりと呪文を唱え始めたからだ。
 瞬間にふわりと重なった人間が浮かび上がって、互いに身体がずれてゆっくりと地面に横たわる。浮かび上がった奴も周りの奴らもぎょっとしている中でメイスは素知らぬ顔だ。
 メイスは朝の属性とかいう性質の魔法使いであり、攻撃魔法や荒事は得意じゃないため、あまり自身の魔法をありがたく思ってはいないようだが、この運搬技術だけでも相当に役に立つと俺は踏んでいる。
 誰がやったのか分からない力を目の当たりにしてざわざわと周りのざわめきが耐えない中で、急にはしっと響き渡った声がそれをぴたりと止めた。
 俺達も目をやると、そこには人が作った生垣の中の空間があり、中には二人の人影が見えた。遠目でよくは分からないが、ありゃ冒険者だ。
 それで奴らの立っている位置と将棋倒しが及んだ範囲を考えると、この人間ドミノの原因はおそらくあいつらだ。全く・・・・・また冒険者の肩身が狭くなる。
 渋面になった俺に(悪かったな、レタスに顔なんてねえよっ)しかし、事情はちょいと分かりやすいものではないようだ。
 対峙しているかと思った二つの影はどうもそうではなく、一人はくるりと相手に背を向けていて、背を向けられた相手はしきりにそいつを激しく罵倒しているらしい。
 不思議に思ってメイスを見上げ
「あいつら、なにしてんだ? メイス」
「えーとですね。なんか勝負をしろとか臆病風に吹かれたのかとか言い合っているみたいですよ」
 うさぎ特有の聴覚を持って聞き取る。うーん? 荒くれ者も多い、同業者で冒険者同士のいざこざは決して少ないわけではないが・・・・
「ただもう一人のその、挑まれている方ですか? これが全然反応してないで周りの倒れた方々に目を配っているみたいですー。レザーさんと一緒でお人好しなのですかね」
 よし。冒険者への好感度向上に向けて頑張ってくれよ、同輩ども。
「ちょっと近づいてくれるか。ここからじゃ遠すぎて聞き取れん」
「はいー。」
 メイスも興味をかられたのかひょこひょこと近付いていく。メイスの手に抱えられてる状態じゃ四、五歳のがきくらいの高さの視点しかもてないためか、本当に見難い。
 人々の行き交う隙間にわずかにそれが見えるだけだが、くるっと影が初めて喚きたてる奴に向かい合った。
「あ、あちらさんも怒ってるみたいですねー。えーと、少しでも頭を動かすことを知ってるならこんな場所でこんなことをすればどうにかなるかくらい分かっただろう、この馬鹿、って言ってます。あ、言われた方が剣を抜きましたね。あら、えーと今度は人ごみでお前みたいな馬鹿で剣の扱いも知らない奴が抜くんじゃない、百年早いぞ赤ん坊からやり直して来い能無し、とか怒鳴っておられます。あー、お相手さんも赤くなって赤くなって。蛸のようですね」
 やり取りが面白いのかメイスがくすくす笑う。しかし、すげえ、相変わらず。
 俺にはかろうじてしか見えんし、声なんぞ周りの奴らのざわめきで全くだ。
 この飛びぬけた五感に、運動神経も抜きん出てるし、力がないのを差し引いても、ちょいと鍛えればメイスは相当な格闘術の使い手にもなると思うんだが。
 物見高い奴らが集まっていく中で、メイスも流れに従って人の隙間を縫って近づいてくる。
 その頃になると俺にもようやくわずかに聞き取れるぐらいになっていたが、いかんせん周りの奴らの声ですぐに途切れる。えーと?
 やはり聞き取れずにメイスの実況中継に耳を傾ける。
「つっかかっている人が、言ってます。変な口上で勝負放棄かよ、骨なし野郎、こんな腰抜けなんてがっかりだ、アシュレイ・ストーンもたいしたことなんぞねえな、と」
 俺は一瞬、それを聞いてん、と止まり、次の瞬間、人ごみも忘れて思わず叫んでいた。
「アシュレイっ!?」
 奇妙な場所からの突然の大声に周りの奴らがはっとして発生源を確かめようとする、けれど次の瞬間、メイスの両手からぱしりと俺は攫われていた。


「アシュレイっ!?」
 人のざわめきの渦の中から、一筋の来光のようにさっとその声を耳が捉えた瞬間、全身を電撃が走ったように感じた。
 向かい合う全ての事象も目の前の馬鹿もぷつりとその瞬間意識から消し去って、煌くような赤銀色の髪を揺らし青年は急いで振り向いた。
 茶色の瞳がそれまでには生じなかった真剣さで辺りを巡るも、一重にこちらを見やる人々の中に、鋭いそれを宿した瞳が探る何かは見えない。
 ただこの混乱のさ中に手荷物をスリにでも奪われたのか、甲高い少女の声が「こらーっ、私の非常食を返しなさいっ」と怒鳴っているのが聞こえた。
 戸惑いけれど誘われるようにそのまま駆け出そうとした彼の身体を、がっしりと一つの手が留めた。
「待てよ、おい、アシュレイ・ストーン? 今度は敵前逃亡かよ」
 留めた手の主はこれ見よがしな長髪を肩にたらした一人の男で、薄汚れた旅服に革の胸当てといった風体が冒険者であることをありありと示している。
 いささか浮ついた造作の顔に浮かんでいるのは自分の優位を確信した、増長の笑みに他ならない。
 それを肩越しに振向いてきつく見据えた青年は、一瞥すればまだ少年めいた身体の線を持っていると言って良かった。
 成人男性としては少しばかり物足りない上背と、繊細な骨格の身体つき。首襟にかかる赤銀色の髪は、暁に染まる月のような見事な色合いで、白い首にほっそりと影を添え華奢さを演出している。身体もおそらく引き締まってはいるのだろうが、かなり痩せているためまとっている服のあちこちで布が余り、その後姿はいたいけにすら見えた。 
 しかし振向けばその印象はがらりと変わる。その頬に浮かんだ若々しさとそこにありありと描かれた脈動する野性味が、痩せた狼のように凶暴でそして強烈な魅力となっている。いささか荒削りではあるがぎらぎらと整った顔の中の、若木の幹を思わせる柔らかな茶色の瞳が今は半眼の荒んだ様子で自らの行動を阻んだ男を睨みつけ、彼は不快そうに鼻をならし簡潔に要求を言い放った。
「離せ」
「離すわけにはいかねえよな。いくら話だけのこんなちびの腰抜けだと分かってもお前はアシュレイ・ストーンだ。こんだけ多くの証人になる見物人の前で、この俺に惨めに倒されてもらわなきゃな」
 な、と最後に言いかけた言葉は不自然に横にぷっと飛び出した。目の前に留めた青年の固めた拳が、こめかみに強烈な勢いを持って炸裂したためだ。
 そのまま流れるようにして、ぐらついたそこを一見華奢に見えるほどに引き締まった足が何気なく顎を蹴り上げる。
 うめき声もあがらないままに、大きく後ろに崩れ落ちた相手の右手を踏みつけて剣を手放させると、放り投げるゴミほどの価値も見出してはいないように頭から存在を抹消し、慌てて背を向けて人ごみに視線をめぐらしたが、先ほど見当たらなかったものが今捜して見つかるわけもなかった。
 茶色の瞳にその事実がさっと悲哀を彩る。
「レザー・・・・・」
 力なく呟き、次の瞬間そんな自分の弱気に打たれたようにはっとして顔をあげぶんぶんと横に振った。
「いいや、まだ近くにいるはずだっ! レザーっ」
 自らに言い聞かせるように叫んで青年は軽く身を翻し人ごみの中に駆け込んだ。


 ――実際の話、唐突だとは俺も思うが、お前らはストローボールってスポーツを知ってるか? 
 六人対六人でチームを組んで他愛無い藁で出来たボールを走りながらパスしあい相手を出し抜いて、地面に線を一本弾いたゴールの向こう側までそれを持っていけば勝ちって言う、準備も道具も要らないお手軽スポーツだ。
 馬鹿でも分かるルールと道具の手軽さに、結構、普及しているゲームで大陸中のどこでもガキ共が町外れの空き地や、質が悪けりゃそのまま街中でやっている姿が見れると思う。
 俺は実はこれをやったことがない。別にやりたくなかったわけじゃない。ガキの頃はそれをやっているのを見るたびに凄く羨ましく感じたもんだ。
 通りの景色が流れていく馬車の窓から身を乗り出して、俺はじっと未練がましく同い年のガキ達が、街中で広場で楽しげに子犬のようにかけまわる姿を見ていた。
 ガキの頃の俺は確かにやりたかった。ゲームに参加したかった。それは認めよう。しかし俺はガキ達の間で飛び交うボールとして参加したいなんて思ったことは一度もねえぞ馬鹿野郎っ!!
 俺を両手で挟みこむように掴んだそいつは、きゅっと地面を靴でこすって一つ跳ねて軽やかに
「パスッ!」
 俺は人の頭を超えて高く放り投げられた。瞬間に横合いから掠め取るように小さな手にキャッチされる。
 すると息着く暇もなくまた人の波から細い手が突き出されてこちらに振られる。
「こっちこっち!」
「あなた方っ! 待ちなさいっ」
 メイスの追ってくる声が聞こえるが、一人ならともかくこういう、つまりストローボールのごとくに次々と別の相手にパスすることによって翻弄され、しかも状況が人ごみとあっては俊足で鳴らすメイスでも歯が立たない。
「こらーっ! 私の――・・・を返しな・・・・」
 メイスの叫び声が人のざわめきとこの距離にかすれていく。
 ついにはまかれてメイスの姿が人ごみの中に消えて、ガキたちは大通りの横に無数に伸びる路地裏の一つに入ると、途端に嫌な静けさと薄暗さがかかるその場で息をつき、瞬間にわっと歓声があがった。
「ざまあみやがれっざまあみやがれっ!!」
「思い知ったかっ、あいつらっ」
 興奮がまだ収められないのか、よく分からないことを叫んで無意味に壁を蹴ったりしている奴もいる。
 けれどやがて、奴らは俺を最後に持っていたガキの周りに興奮した面持ちでぐるりと集まってきた。
「やったね? へいずる」
「ああ、心配ないって言っただろう? ファイバー」
 ガキどもが形成する輪の向こうでちょいと年長の坊主とこの中では一番小さいんじゃないだろうか、黒色の髪のガキがぱんっと両手を打ち合っているのが見えた。
「評判の魔導師の水晶だ、高いんだろうな」
「でも変だな・・・・なんだか、ただのレタスみたいな感じ」
「カモフラージュに本物そっくりにしてんだよ。魔導師ってほら、用心深いしな」
 ガキどもは口々にそう叫び、俺を持つガキは熱心に何かの鍵を探るみたいにさわさわと全身を撫でる。
 ・・・・・・いや、実際のところ、俺はよくもったほうじゃないか? 突然に攫われて、ボールのごとくにぐるぐると乱暴に投げ交わされて、それであたかも戦利品を前にしたかのごとく(ってかそのまんまなんだろうが)わいわいと品定めに騒がれて。
 人間としての尊厳を自覚している身としては、よく我慢した方だと思わないか? 別に分かってくれなくても構わん。非難するならお前もされてみろっ!
 俺は次の瞬間、煮え繰り返った心地で出せうる限りに奴らに向かって怒鳴りつけてやった。
「いいかげんにしやがれっ、くそがきどもっ!」
 俺の怒声が響くと、ぴたりとその手が止まった。
 すす汚れた黄色の髪をしたガキは一瞬の硬直の後に、俺を見下ろす。声を発した俺を確認して、他の小さなガキ達もひくっと痙攣した。俺に触れている手の部分が震えだした。
「え・・・・・・・・・?」
 愕然と呟き、それからさあっと青ざめた奴らの顔を見ていると、俺はこの状況で何が一番効くかを敏感に察した。ので、地を這うような声で一言、こう言ってやった。
「お前ら全員、呪いをかけて俺と同じ姿にしてやるっ・・・・・」
 次の瞬間に
「キィヤアアアアアアアアアっ」
 とぬか釘でガラスを引っかいたような、甲高い物凄い声があがった。持ってた小さな手は俺を放り出し、地面にころりと転がると、群衆の中に蛇を投げ込んだような有様の連中の様子が見えた。
 逃げることも忘れたようにその場でへたりこみ泣き喚き始めたがきとか、慌てふためき走り回って互いに正面衝突してぶっ倒れる奴らとか、それでも連中を庇うように前に乗り出したのっぽのガキが拍子に誰かを蹴倒したりと、その場は一種の集団ヒステリーみたいなパニックに陥った。
 それを見てちょっとやりすぎたかと一瞬、俺は反省した。
 まあ事情を知らないガキ相手に俺も大人気なかった。
 ところで、そこまで慄き怖がるほど、自分がレタスになるって人間として凄く絶望的かよ嫌かよ・・・・・そうかよ、そーだろーなー・・・・・・・・・・・・・・・・ふんっ。
 悔しいので俺はしばらく路地裏に転がったまま、そいつらの狂乱を収めようとはしないで不貞腐れてみていた。


 人ごみの中を懸命に少女は波間を縫って駆けるが、大海に落とした一つの指輪のように一度見失ってしまったものを再び見出すことは、ひきりなしに現れる人々の群れの中では、困難なことに思えた。
 苛立ったように立ち止まりくんと匂いを嗅ぎ取るも、大量の人々の流れは込み合い混ざり合い凄まじい刺激臭として嗅覚を打ち、その中のたった一つの匂いをかぎ分けるなど限りなく不可能に近い。
「ああっ、私の貴重な実験台でボディーガードで最後には類を見ない高貴な非常食としてどこまでもお役立ちのレザーさんがレザーさんがレザーさんが」
 頬に添えた白い指がぶるぶる震えて、さすがに青ざめてメイスは辺りを見回すが、一向にそれは見えはしない。
 この瞬間にもあの気が遠くなるくらいに素晴らしい芳香を放つ非常食を、奪った相手が食べようとしているのではないかと思えば、きりきりと嫉妬にも似た激しさで胸が軋んだ。
「私以外の誰かがあれを口にしようなんて許せませんっ!」
 何よりも強い食い物の恨みを抱いて、架空の相手に対する怒りに燃える少女の横を不意にさっと一陣の何かが通り過ぎた。
 尋常ではない動体視力を持つメイスも一瞬、捕らえられなかったそれは瞬間に、がしりと前方にいた誰かの肩を掴んで無理に振り向かせている。
「レザーかっ!?」
 ぴんとその名前に反応して注視したメイスの前で、輝くような赤銀髪の男はふりむかせた男に鋭い一瞥を投げかけた。
 面食らったように振り向いたのは蒼い髪をして、少しだけ間延びした愚鈍な輪郭を描く中年の男だ。
 次の瞬間、赤銀色の男は途端に嫌なもので見たかのように舌打ちしてさっと手を離し顔をそむける。
「違うっ、俺のレザーはもっと顔がいいっ! こんな団子が歪んだような顔じゃないっ」
 突然に呼び止められた男が思わずぴくっと青筋が立つようなことを言い放ち、再び横をすれ違った相手にはっとして風のようなぎくりとする速さで回り込む。「レザーっ!?」
 けれどそれも失敗に終わったようで、ぎょっとして目を見張る青年を前に落胆と身勝手な憤りを持って喚いた。
「違うっ、俺のレザーの髪は深い蒼だっ!!」
「ちがあああうっ! レザーの身体はもっと引き締まってるっ、なによりあいつは自分の剣を肌身はなさず持っているんだっ!!」
 どう考えても無茶な勘違いを抱きそして即座に自ら否定を放つ、その繰り返しを次から次に飽くことなく続けて、はたから見れば錯乱しているとしか思えない若い青年の周りには、身に覚えのない災害を避けようと徐々にごった返すこの中でも空間が開いてきた。
 メイスは少しの間それを見ていて、やがて肩をすくめてくるりと騒ぎ立てる青年を見限り背を向けて、彼女の様々な事情において二重三重にも大切な相手を探すために駆け出した。


 ガキってのは、ここまでやると誤解されそうだが、俺はそんなに嫌いじゃない。確かに質が悪いところはあるが、なんとなく憎めない存在ではある。
 俺が多少はガキを認めるのも一つには時に拍子抜けするほど素直ってところだな。そしてけろりと根に持たないところも、たまには好きだ。
「ごめんなさい、まさか大魔導師様の使い魔だったなんて知らなかったんです」
 俺を大切そうに持つ、鳶色の目をした年長のガキはヘイズルって名前で、居並ぶ七人の他のガキの名前も聞いたんだが、とりあえずいっせいに喚きたてられても、俺は十人の話を同時に聞き分けたっていうガーディ地方の歴史に残る名宰相ショーナーでもないんだから分からん。
 えーと、一番ちっちゃな巻き毛の黒色の髪をした嬢ちゃんがファイバーって名前なのだけはなんとなく分かった。
 さっき俺を囲んでいた連中から一人外れてヘイズルとぱんと手を打ち合わせてた子だ。最初は坊主かと思ったが、よくよく見れば嬢ちゃんだったらしい。
 片手のひらに包めそうなほどちっちゃい頬に、くるくると修復不可能なくくらいに丸まった黒色の前髪の向こうから、びっくりするくらい大きな黒い瞳が覗いている。
 今はどこもかしこも、薄汚れているが、綺麗にしたら可愛くなるんじゃないだろうか。まあ、ガキは小汚くても可愛いもんは可愛いもんなんだが。
「知らなかったなら仕方ねえ、もういいさ」
 素直に真っ直ぐ謝ってこられると怒りも消えた。ただちょっとした懸念に俺は考え込む。
 メイスの噂は段々、侮れないくらい広がってきたようだ。
 あの街中歩いているときは誰も気にした風ではなかったので、さすがにここまで届いていないかと心中、ほっとしていたんだが、来訪人はあの人ごみの中じゃ誰が歩いていても気にもとめないらしい。
 ―――アシュレイだって、あれで相当、名と顔が売れてるもんな。あいつ、目立つ奴だし。もっと早くに騒ぎにならなかったのがおかしいくらいだ。
 アシュレイか。久々に見たが、変わってねえなあ、あいつ。
 ちょっと思い出して、せっかくばったり会ったのに結局話せなかったなと胸中で呟き、それから俺ははっとした。
 ち、違う違う違う。こんな姿であいつと会ってどうしろってんだよ。抱腹絶倒で地面にぶっ倒れ笑い飛ばされるだけだぞ。
 なんたってあいつは俺に笑わせて貰うのが生き甲斐だって公言して憚らない、質が悪い奴だ。本質はいい奴ではあるんだが、今の俺にはきつい。
 となると、結果的には攫われて良かったということになるな。うーん、人間万事塞翁が馬とか長ったらしく言うが、確かに何が幸いになって不幸になるか分からん世の中だ。しかしレタスになることで幸いなことは一切ないからな。
 考えてるとなにを誤解したのか深緑の髪のガキが心配げに横から
「その・・・・魔術師様には、取り直してくれるってほんと?」
「ああ、事情話せば分かるだろ。あいつも悪い奴じゃないからな」
 いい奴では決してないが。
「でも変わってるね、まじゅつしさん。レタスさんをつかいまさんにするなんて」
 レタス、好きなのかなと、ファイバーが下からくりんとした目で俺を覗き込む。魔術師、の部分がちょっと舌が回ってない。そして言ったことも当たらずとも遠からずだから質が悪い。ああ、好かれてるよ・・・・・・・好物、としてな。
「いいや、そうでもないよ。東方では、ほら、吸血鬼だってスイカやかぼちゃを使い魔にすることもあるって本で読んだことがある」
 さすがに吸血鬼と一緒にされるのは魔導師も気の毒だが・・・・・スイカ? よっぽど東方ってのは蝙蝠やら狼やらがいない場所なんだな。
 諸国を回り続けている俺もとんと聞いたことのない事を言ったのはヘイズルだ。
 少し見ただけですぐにこいつがこの中のリーダーだってことが分かる。のっぽで痩せた身体に賢そうな目をした奴で、喋り方もまたはきはきしてる。
 面倒なんで俺は今度はメイスの――つまり魔法使いの――使い魔ってことにしてる。前は水晶だったが、好奇心たっぷりのお子様に水晶でなんか映し出せって言われても困るしさ。ってかさすがに無機物はどうも、ただのレタスよりかは使い魔の方がましだ。
 多分、俺を手に入れて売り飛ばそうとしたんだろう、この街の孤児院の孤児達だと名乗った奴らを俺は見やって
「――お前ら、なんか困ってんのか? 飯がないとか」
「・・・・・・・・・・・・・」
 俺の質問に、がき共は俯いてそれからちらちらと困ったように視線を交わした。
 一目で古着とわかるつぎはぎだらけのサイズのあってない服に、すす汚れたところが目立つ髪や肌。皆、一様に痩せている。
 ――が、それほどひどくもない。俺は色々な街のガキ達を見てきたから分かるが、普通のガキよりかは痩せているものの、こいつらには飢えの色がそうは濃くない。最低限の飯は食ってる奴らだ。
「別に」
 ちょっと反抗的そうな色の薄い髪のガキがしばらくしてぽつっと呟いた。
「つまんないから、やろうと思っただけだよ。理由はそれだけ」
 それはまた単品で見れば殴り飛ばしたいほどのむかつく理由だが。
「なんでつまらないんだ?」
 枯れた葉の色を、朽ちたそれを思わせる褪めた目をしていたガキどもが、その質問につと鳩尾を突かれたようハッとして、こっちを見た。それから少し奇妙な顔をしてみせる。・・・・・・・・・・悪かったなッ、シリアスな空気が似合わないレタスでっ!
「メイスのことはまた後でいい。」
 俺は言って奴らを(心持ち)見回す。
「お前らもそこいらのガキよりは物を知ってるだろ? そっちの話を聞かせて貰おうか? それは正当な被害者としてのこっちから見れば当然の権利だよな」


 賑やかな街の奥の奥、しまいこまれて忘れられた片隅にその教会はあった。割れた部分に新しいガラスをはめこめられず、内側から布で覆われている。
 くすんだレンガはそれでも綺麗に磨かれていて、人の手は端整にこめられているのが見て取れる。それはこのガキどもの手なのかとちらりと思う。
「レタスさん、きりふき、いる?」
 俺の乗った机に右頬をつけてファイバーがにこっと笑っていった。邪気のない笑顔と共に手の中に植物の鉢植えに吹きかけるための小瓶。
「いらない」
 さすがにこんだけ小さいとやいやいと怒鳴るわけにもいかないで、俺は渋面で答えて
「レザー、俺はレザーだ。今度言ったら答えんからな」
「れざぁさん」
 素直でよろしい。いささか舌足らずだが。
 しばらくファイバーはれざぁさんれザぁさんと繰り返してようやくレザーさんと言えて微笑んだ。
 俺は今、この教会の二階の小さな部屋の窓脇に置かれていて、一人留守番に残ったこの嬢ちゃんの相手している・・・・――――いや、相手をされてる、か。虚しい。
 ガキ共は結局、俺の話を聞かないで事情もがんとして話さないで、メイスを探してくると街中に散らばっちまいそれまでと俺は奴らの孤児院であるここにそれまでと案内されたわけだ。
 可愛くねえな。孤児ってのは独立心が強いから妙に意地を張るもんだが。
「みんな、帰ってこないね」
 椅子をよいこら持ってきてその上に乗り、窓の外にぺたりと顔をつけて、薄暗くなった外を嬢ちゃんがのぞく。
「見つからないのかな? だいまじゅつしさん、目立つのに」
「あー、えー、嬢ちゃん?」
「ファイバー。ファイバーはファイバー。レタスさん、こんど言ったらこたえないよ?」
 不思議そうに彷徨う瞳をこちらに向けて首をかしげる。・・・・・な、なんか苦手だな。こういう子も。
「分かった。ファイバー、その、なんでなんだ? 嬢ちゃんの仲間達、みんななんか意地張ってるようだが」
 聞くと嬢ちゃんの顔も負けずに頑固に強張っていた。
「ヘイズルも、ブラッドベリも、シルバーも、ホリーも、ブルーベルも、ピプキンも―――、みんな、わるくない」
 言ってちょいとだけ泣きそうになる。
「レザーさんを、だいまじゅつしさんからとったのはいけないことだったけど」
「あ、いや、それは別にたいしたことないから、な。な。」
 苦手なんだよ。泣く生き物はどうも。
「だからなんか理由があるんだろ? な?」
 すると急にパタンとドアが開いて俺は咄嗟に口を閉じた。ドアの向こうの主は、あら、と声をあげた。
「ファイバーだけですか? 他にどなたかの声がしたような気がしたのだけど」
 ここの主人なんだろう、年老いた物腰が穏やかなシスターだ。
 小さなボロの眼鏡をかけた顔には、優しげに皺が刻まれて、目元にも深い笑い皺、人生を有意義に過ごしてきたんだろうってのが一目で分かるいい婆ちゃんだ。
 婆ちゃんシスターはファイバーの様子を見て取って、それから近寄り包み込むように小さな身体を抱きしめた。
「みんな困った子達ですね、泣いてるあなたを一人にしているなんて」
 呟くとううんとファイバーが首を振る。
「ちがうよ。みんな、わるくないのわるくないの」
「悪いなんて言っていません。あなた達、みんな。みんな、ね」
 シスターの腕の中、堪えきれないようにかみ殺したすすり泣きが漏れる。
 俺はちいと居心地が悪いまま黙っていると、婆ちゃんシスターはしばらく嬢ちゃんを思う存分泣きたいように泣かせて慰めると、それからベッドに寝かせた。
 しばらく聖職者らしく神の希望の教えを幾つか語り、嬢ちゃんの気分が良くなったのを見てとると、優しく笑って部屋から出て行った。
 パタンとドアが閉まるのをじっと見送ってから、ベッドに横たわったまま、嬢ちゃんはこっちを向く。泣きはらして少し目元が赤いが、黒くてでかい目だ。そこから嬢ちゃんはえへへへと笑った。
「シスター、優しいでしょ? みんなのね、お母さんなの」
「ああ」
 懸命にファイバーはなぜだか、懸命に言い募る。
「いい匂いがするんだよ、シスターはね。ね、すごく優しいの。すごく、すごくね、シスターはねりっぱな人なんだよ。シスターはわるくないのぜんぜんかんけい、ないの。わるくないの」
「ああ」
 やがて沈黙が来た。きてから小さな手を組み合わせてファイバーはしばらくして俺を呼ぶ。
「・・・・・・・・・レザーさん」
「うん」
 こくり、と小さな喉が唾を飲み込んで苦しげに揺れた。それからゆっくり震える声で言葉を紡いだ。
「ごめんなさい」
 ・・・・・・・・・・・・・・・
「いい。許す。もう遅いから寝ろ」
 言うと幼い顔が歪んだ。安堵ではない、それだった。それからふっと顔を背けたその瞬間に、傾けた細い首筋に生々しい色をした、大きな一筋のアザが見えた。


 さあっと辺りの世界が変わるように、薄い窓ガラスの向こう側から一切の熱を持たない硬質の光が差し込んでくる。
 青白い光に闇が追い払われると少女だけが眠る部屋には、寂しげな部屋の中の様子を描いた絵画の空白部分に、まるで誰かが新たに描き足したかのような錯覚にも似た静かさで、そこには一人の男の姿が加わっていた。 
 横合いから侵略するように差し込める光がその身体の線を描き、背中に垂れた一つくくりの髪が前に流れて、男がふっと身を傾けると照らし出す光もまた彼の輪郭をこぼれ落ちる砂のように斜に流れる。伸ばした手で静かに眠る少女の肩元まで薄いかけ布団をあげた。
 用を成して布団から離れた手の、骨ばった長い指先は少し思案したように沈黙があった。
 彷徨うように寄る辺のなかったそれは、しばしの時を有してからやがて覚悟を決めたらしく動き出し、触れるとそのまま絡みつくような弾力のある巻き毛を、くしゃっ、とかきあげ一撫でしてから、音もなく部屋を出て一階に降りていった。
 まだ帰らない子ども達を待っているのか、薄明かりを点す礼拝堂の入り口近くの椅子に腰掛けて、頼りない一つのローソクだけで編み物をしていた老シスターは顔をあげ、こちらを見て驚いたように目を細める。
 不必要に彼女を脅えさせない術を、男は心得ていた。
「あなたの家に無断で入り込んだことについては深く謝罪させてください、親愛なるシスター。このような状況でお会いしたことの無礼は弁解のしようもなく、あなたが不信感を抱くのも当然のことかと思います。ですが、私は私の命と同等の重みをたくした剣と、永久の尊敬を誓う聖カリスクの名にかけて。この教会に関わる全てのことにたいし不埒な思いを抱いて来訪したわけではありません、どうかそれを信じてください」
 まるで高貴な女性を迎えるかのように、片膝をつき、左手でマントを掴み横に広げて、恭しく述べる姿に彼女は目元を和らげた。
「信じましょう。神の家で偽りの言葉を吐くには無理なほど、あなたの言葉には誠意が溢れているように思いますわ。―――ただ、私にはまことの名を告げられないことだけが、少し不思議です。その佇まいに、振る舞い、お姿はここが薄暗いせいでよくは見えませんが、あなたはその名を持つことを一切恥じる必要のない、高潔な騎士の方であることに間違いがないと思います」
 立ち上がり薄闇の中を歩み寄って、極めて丁重に男は頭を下げてから言った。
「騎士ではありません、私はレザー・カルシス。何一つとして定まった肩書きなどは持たぬ、一介の旅行者です。無作法にも突如現れ、このような不躾な質問であなたを戸惑わせることについては幾たびの謝罪を申し上げても尽きぬこととは存じますが、一つお尋ねしたいことがあるのです。それはここの子ども達に関わることです。無礼をお許しください、シスター。少しあなたのお手間を割いて、それを尋ねる許可を私に与えてはくださいませんか?」
 一拍を置いて、編み棒を掴む手がそれをそっと机に置いた。彼女は立ち上がり、それから唐突にこの教会の内部から現れた身も知らぬ青年を招いた。


 海の香りを載せた風が吹いた。
 青い空、青い海に降り注ぐ良く晴れた太陽と鮮やかに描かれた光景には少しそぐわない、触れれば消えてしまいそうな、雪色の細い髪がさらりとそれに浚われて後ろに流れる。
 それがくすぐる頬も、一瞬眼前を塞いで切なげに揺れる赤い瞳も、白い霞は途切れさせてしまう。
 道路の迎い側にいた三人組みの青年達は彼女に気付いた瞬間に、どこか落ちつかげなく互い互いをつつきあい、顔を見合わせあって興奮したように話し出した。
「おい、あれ見ろよ」
「――可愛い。こんな田舎町には珍しいくらい一品だな。ちょっと若いが、全然オッケーだ」
 道の端の方で立ち止まり、身体を反転させてたとえ言葉を発せずとも、雄弁にその憂いを語る表情で来た道を振り向く少女は、雑多な街中で自分の在り処や自分の意志を見失うまいと必死にしがみつく故に、周りを見ることがほぼ不可能に近い人々の視線をも捕らえて心を揺るがす。
 凛と上品に整った横顔は彼女の外見上の幼さを全くなくして、どこか遠い所を見る眼差しは不思議に透き通りそして霧霞む。
 堪えきれなくなったかのように、道の横側からずかずかと彼女をめがけてやってきた若者達が少女に声をかけた。
 少女は初めは拒否しようとしたが、どうやら冒険者らしいと見てとって軟化した。言葉巧みに、身振り手振りや多数での気さくさを持って懸命に彼女の注意を引こうとする。
「ねえ、君、一人旅? 危ないよ。この街は結構、揉め事が多いらしいよ」
「そうそう。さっきの広間の事件知らない? あのアシュレイ・ストーンが大騒ぎ起こして怪我人まで出したってさ」
 しかし少女は反応を見せなかった。高名な冒険者の名を出しても利かないかと、一人が方針を変えて
「街の孤児院の奴らが凄く質が悪い真似ばかりするとかさ、ともかく一人は危ないみたい」
「孤児院・・・・・・?」
 それまで肩を落としていた少女はふと顔をあげた。
「私、先ほど大切な物を子ども達に捕られたのですが・・・・・」
「あーっ、それきっと孤児院の奴らだよ。な? 質悪いだろ」
「あの、孤児院とはどちらに? どうしても取り戻さないと・・・・・・」
「それは難しいと思うな。奴ら、逃げ足も速いし、すぐにうっぱらったり壊したりして、盗られたもんで、戻ってきたものはないってさ」
 その言葉に少女は完全に打ちのめされたようだった。青ざめても綺麗なその白い顔は小刻みに震えて唇を噛み締め俯いた。
「な、一人旅がどれだけ危ないか、分かったろ」
「君みたいな可愛い子がさ」
「・・・・・・・・・・一人旅ではないですー。連れがいたのですが、この町ではぐれてしまいまして」
 ひどいショックで彼女は泣き出しそうにも見えた。赤い瞳が鮮やかさの膜を被ったかのように煌めいて潤む。可憐な少女にここだとばかりに畳み込んで
「そりゃあやっぱり心配だよ。ね、元気出して。じゃさ、俺達が君の連れになるから。一緒に旅しよ?」
「あ、それがいいよ。俺達は役に立つよー。なんたって冒険者だし」
「役に立つ・・・・・・・」
 ぽつりと虚ろに繰り返した少女にうんうんと笑顔で頷いた彼らだが、しかし瞬間にそれまでがっくりと肩を落としていた少女はキッと顔をあげた。
「役に立つとおっしゃりましたが、ではあなた方は一人で何十人の盗賊に勝てますか? 都合よくも私の実験体として適するお師匠様の魔法にかかっていますか? レザーさんはその二つの条件を見事にクリアして有り余るほどの方でした」
 言い切って突然の迫力に押された彼らなどを気にせずに、メイスは新たな衝動に突き動かされるように
「いいえっ、そんなことはどうでもいいのですっ! たとえ子ども一人にも勝てなくても、実験体として価値がなくてもいいのですっ!! ああっ、いなくなって初めて気付くなんて私としたことがまったくの即物的である自らがそれを俗物と呼び現ししかし誰もがそうであることを不自然に隠してそれ自体が隠すべき恥辱であることにも気付かないような愚かな人間と同じ事態に陥るなんて! ―――けれど、過ぎてしまったことを悔やんでも仕方ないのですそう私はこのように愚かしき人間の轍を踏む事態に陥ってから初めて気付きましたっ! 私がどれほど、どれほどレザーさんをっ・・・・・・」そこで握り締めた二つの手を力を入れすぎるあまりぶるぶると震わせて、少女は容易に振り切ることは出来ぬ無念がひしひしと伝わる声音で言い放った。
「どれほどレザーさんを食べたかったのかっ!!」
 人が溢れる街中を少女特有のかん高い声がくわんくわんと響く。
「食べたかったんですっ! 一口でも良かったっ、ああっやっぱりかじっておけばよかったですっ、レザーさん自力で転がることが出来たから一口下手に味見をして警戒されればことが面倒だと変に二の足を踏んだのがまずかったのに私としたことがそれほど臆病になるほどにレザーさんが食べたくて食べたくて仕方なかったというのにっ!!」
 ひとしきり喚きが静まると、彼女に声をかけてきた青年達はその前から姿を消していたが、それは特には気にならずメイスは、何かを恐れるようにこちらを見やる人々の中を、億劫げに足を動かした。拍子に落胆と絶望の欠片がぽろぽろと可愛らしい口からこぼれ出る。
「人ごみで匂いは分からないし、お師匠様の力もさすがに薄れて来ていますし、本当になんて忌々しい町なのでしょうか。元来人はウサギ小屋などと兎の住処をもっとも卑しく貧しい家の比喩表現として用いますが、このように非効率的でごみごみと固めあったこのような場所が彼らの言う居心地の良い住処であるとしたなら、そのような言を作り出したことは全く持って失礼かつ自らの愚かさの露呈行為以外の何者でもないところですー」
 言って忌々しそうに立ち並ぶ家々を、行きかう人々を、今、港から出るのであろう先に見える白い帆船の帆を全てをメイスは睨みつけた。それから再び歩き出す。
「どうしてこのような街にわざわざ寄ってしまったんでしょうかー。レザーさんとははぐれてしまいますし、手がかりは一向につかめませんし・・・」
 ぶつぶつと呟きながらふと彼女は何かを感じ取ったように足を止めて、小さな顔をあげて辺りを見回した。やがて突き止めた先には、簡易の雨避けの布を骨組みに被せただけの瀬戸物市だ。
 滝下から泡が生まれるように、メイスは唐突に先ほどまで自分がぼやいていたこの街に寄った理由を思い出した。
 足を踏み入れる。間違いようもなく、自らにもかけられた師の魔力の気配は近くなっていた。吸い寄せられるようにふらふらと奥に進んで行ったメイスはそこでぱたりと彼女を引き寄せたものを発見した。
「・・・・・・・・・お師匠様の・・・・・・・魔力」
 どこか呆然とした呟きが消えぬうちにいつの間にかにゅっと横から
「はい、綺麗なお嬢さん、何か気に入ったものがありましたかね? こんな可憐なお嬢さんに使われるならば商品も本望というものでしょう。特別お安くしておきますよ、さあいかがですか?」
「え、ええっと・・・・・・」
 メイスは白い髪をかきあげ、いまだに「それ」から視線を外せないように少しぎこちなく、けれどやがて「それ」を指し示し
「・・・・・・あれを、ください」
「はいっ、毎度ありっ!! いやーっ、さすがにそんな綺麗な瞳であらせられる分にはお目が高いっ、これはいいですよ、叩いても落としても罅一つはいりゃはしません。一生分は持っていけること請け合い。お嬢さんがそりゃあ綺麗なお嫁さんになられるときももちろん持っていけますとも、何かに包んだ方がよろしいですかね」
「い、いいえー。そのままで・・・・・・結構です」
 受け取って金を払うと、威勢の良い店主の声を後にメイスは「それ」を抱えてふらふらと外に出た。
 行きかう人々の熱気を浴びてようやく我に返ったように今度は幾分かしっかりとした瞳で両手に抱えた「それ」を見下ろす。少しだけ複雑な気分になった。
「・・・・・・・・・・・・・今度は食べ物ではなくて、残念です」
 それからふと、彼女は気付いてぽつりと付け足すように呟いた。
「そう言えばこの街、素焼きの産地で有名でしたっけ・・・・・・・」
 このカナン地方では一、二を争う栄を誇る港町ウォーターシップダウンの市日の道路の真中で、大きな土鍋を抱えた少女が呆然と突っ立っていた。


 世の中に溢れている何事にもありがちなことではあるけれど、それは最初はほんのつまらないことだったらしい。
 もはや今更言うまでもなくここは近隣一の栄える港町だ。川の流れにも似て、人も物も珍しい生き物だってどどどっと集まって互いにすれ違い別れて行く。
 習慣も価値観も違う行きずりの奴らがすれ違えば、見たことがないもの、使い勝手も分からないものがやりとりされれば、街が奔放自由に栄えれば栄えるほど、そこには大小のトラブルが生まれる。
 そのうちの一つが、奴らのせいにされた。まあ実際に些細なことだったらしい。した方だってまさかこんなことになるとは思わない、軽い気持ちだったんだろう。
 流れただ通り過ぎていく者達が放り出した小さな揉め事や厄介ごとはぽいと放り捨てられると、水が高地から低地に流れるように、一番弱い立場であるこの町の孤児達に集まっていった。
 それだけの話だ。だけどそれが便利だと目をつけられた。あんまりこんな言い回しは使いたくはないが言おう。
 つまりはやつらはこの街のゴミ箱にされたんだ。こんなちっぽけな一つの紙くずだからと、誰もがなんの良心の呵責も覚えずに自らのゴミを放って投げ込むゴミ箱に。
 この街でなしたことは小さな悪戯からいささか洒落にならないことまで全部が奴らのせいだと囁かれ言われた。他人から聞いた話に、自分のささやかだと思っているゴミを追加してまた誰かに渡して。
 それは続けられるうちにとんでもなく勝手に広がってしまった伝言ゲームだ。しかも意図的に内容を変えてる奴もいるんだから質が悪い。
 それで街の奴らは、ゴミ箱だと思っているからゴミも好き勝手に投げ込んでいい。ゴミ箱だと思っているから、好き勝手に蹴飛ばしても構わない。そう考えたらしい。
 お偉いさんのゲームの中の、世の中のことなんて知らねえよとお気楽極楽冒険者でも、いつも人に戻りたいと叫ぶ俺だってたまには人間が嫌になる。人間であることも嫌になる。メイスの人間蔑視から来る意見にだって賛同してしまいたい時がある。
 けどそこで立ち止まってもいられない。
 俺はやっぱり人間であるわけで、虐げられたあいつらだって人間なんだ。そこのところはきちんとわきまえて、人間不信で目をそらす前に、まずは物事を見据えなきゃ成らん。
「ってわけで、お前ら、起きろ!」
 置かれた棚の窓からさんさんと朝の白い空気が入り込んでくる部屋の中で俺は大声で、けれど一階のシスターには聞こえないように叫んだ。
 まあ、あのシスターは今は外に出て教会の周りを掃除しているから大丈夫ではあるだろう。
 メイスは結局、見つからなかったようで残りのガキどもはすごすごと本当に夜が更けてから帰ってきて、シスターにこっぴどく怒られた。
 なかなか厳しいところもあるもんだと思ったけど、確か教会なんてもんは朝の礼拝とかがあるはずだから、とっくに日が上がったのにまだ寝かされている辺り、睡眠時間が足りないと大目に見ているんだろう。
 面々はまだ眠そうに身を起こす気配がないが、ちゃんと定時に眠ったファイバーは元気そうに飛び起きて来て
「おはよう、レタスさん」
「レ、ザー、さ、ん。もう一度、嬢ちゃん」
「ふぁ、い、ばぁ。もういちど、レザーさん」
 にこっと笑われるとどうにも弱い。最近、どこぞの鬼な嬢ちゃんばっかり相手にしていたせいか、純粋に可愛い嬢ちゃんは面食らう。
「・・・・・・おはような、ファイバー」
「うん」
 ぶかぶかのカーディガンを引っ掛けてファイバーはみんなを起こすの? とまだベッドで呻いている仲間を見回した。
 俺が頷くように前方に少し揺れると、ふわああと不明瞭な感嘆の声をあげてただでさえでかい目をさらに大きくさせまるで称えるかのよう、手を叩いてくれた。・・・・・・・嬉しいような、悲しいような。いや、悲しいか。はっきりと。
「みんなーっ、おきてよっ、レザーさんがなにかいってるよー。しかもうなずいてるよーっ」
 どっちかと言うと、俺の要請よりかは自分が目撃した後者の事実を知らせる方に興奮して声を強め、ファイバーが東方に伝わるワニの背に乗って島を渡った白兎、という伝承のようにベッドからベッドへと飛び移り、そこにあるふくらみを踏みつけていく。
 しかし、手ごわい奴らは踏まれても呻くだけでぴくりとも起きようとしない。
 そんな中、ぼさぼさ頭でそれでも真っ先に起きたのはヘイズルだった。
 ベッドに上半身を起こし、もろにわき腹を踏んづけたファイバーの肩を掴んで引きとめ、利発そうな目も今は少しとろんとしている。
「はいー・・・・・・・?」
「起きろっ、全員起床! やることあんだからさっさと起きて、服を着替えて、飯を喰えっ!」
「えーと・・・・・・」
 しばらく目をごしごししていて、ようやくヘイズルははっきりと目を覚ましたように
「何か不都合でもありましたか? レザーさん。ファイバー、お前、ちゃんと霧吹きやったか?」
「いらない、っていったよ?」
「霧吹きは関係ないっ、起きろっ、いいから全員を起こせっ」
 俺の突然の要請にヘイズルは戸惑ったようだが、訳があるのだと了解してくれたのかファイバーに何事か言った。
 するととてとてとファイバーが駆けて行って、すぐにたっぷりの水を入れた淵の広い桶を持って帰って来た。・・・・・危なっかしいな・・・・・・。
 うん、と頷いてヘイズルがファイバーを呼び寄せて、一番手近なベッドで寝そべるがきの毛布を剥いで後頭部をひょいと鷲掴みにすると、そのままなんといきなりファイバーが持つ桶に突っ込んだ。
 一瞬の声にならない悲鳴が聞こえたように、がぼっと何かがあわ立つ音がする。それと共に頭を突っ込まれた奴の身体がじたばたと動き始めた。おいおい・・・・・
 それを見計らってヘイズルが抑えていた手を緩めると、すぐに桶からびしょぬれで顔を出したそいつの頭に、タオルを放る。
 咳き込み、何事だと辺りを見回すそいつの目には確かにもう睡魔はどこにもない。なるほどこれなら顔洗いと髪洗いと起床とが一気に出来るな。にしてもたくましいというか荒っぽいというか・・・・・。
 見事な連携プレーですぐに奴らは目覚めて俺の前に並んだ。
 ファイバーとヘイズル以外に、髪からぽとぽとと雫を垂らしているのがほとんどだったが、奴らはあまり気にしていないようなので俺も気にしなかった。
「で、なんですか? レザーさん」
「とりあえず五分で飯喰え。それから、全員っ、即効でシスターの手伝い始めろっ!」
 俺の一方的な言葉に一瞬奴らは不思議そうな顔をして、それからぴんと思い当たったように髪から飛沫を飛ばしていっせいに窓に駆け寄った。狭い隙間に押しかけるものだから、おかげで幾人かはベッドの狭間で潰れている。
「あーっ、もうっ、シスターいいって言ったのにっ」
 窓の外から一目見るなり、がきどもはくるりときびすを返して我先にと部屋を飛び出して廊下をがたがたと駆け下りて行く。それで誰かが足を滑らしたんだろう、ちょっと耳を塞ぎたくなるような激しい音と悲鳴が巻き起こった。
「あーあ」
 もう諦めているのか、ぽつんとここに残ったヘイズルが少しそばかすが残る頬をかいてため息を吐き、ファイバーがよいしょと俺を持ち上げた。
 それから気付いたようににこっと笑う。俺も笑った。見えてなくても、レタスには笑いを表現する器官がなくても、俺は笑った。
 人間に絶望すれば人間に救われる。それは一進一退でどちらも極端に決められやしやしない。
 様々すぎて区別するにも疲れる人間達を静観してるのは疲れるが、やっぱり、一くくりに完全に完璧にそんなにすぐは、見捨てようとするもんじゃないんだって思い出しただけで、とりあえず今は充分だ。


 昨日は薄闇がかかっていたせいでよく分からなかったが、教会を取り巻く壁は結構に惨憺たる有様になっていた。
 灰色の漆喰のそれは一部が崩れ、後は一目でそうと分かる嘲笑や罵倒の文字が折り重なるようにしてそこに描かれている。
 それがこいつらに向けたものだと分かっている以上は何一つとして口にしたくはないが、死ねとか消えろとかなんて類の言葉はまだ大人しいって基準くらいは言っとくか。
 こんな下らんことで、書くという行為を貶める馬鹿どもは、当然文字の強さを知ろうともしやしない。奴らの耳を引っ張って僧侶であり聖筆とも呼ばれたソルド・ティナーの言葉を聞かせてやりたいもんだ。
「文字を記すという行為は、果てしなき力を秘めて、尊く、反面とても恐ろしい行為でもある。言葉は耳に届かなければかき消える。けれど今、書き出した私のこの文字は私が神の元へと旅立った後も、何百年立とうともこの地に在り、誰かに力を分け与えることが可能なのだから」
 ま、偉い坊さんの言葉を、こんな下卑た行為に当てはめようとする時点で坊さんに失礼か。
 立派な奴が立派だと称えた行為も使い方と使う者次第で、ただの悪意と身勝手な鬱憤の晴らしどころにまで貶められる。
 人は多分、反面、誰かを傷つけることがとても好きな部分があるんだろう。だけどそれは社会的にも人道的にもそして自分にだって認められず、いつもはこっそりと押し隠しているけれど、ちょうどいい生贄が見つかって正義を背後に背負った気になった瞬間に大攻勢になる。
 遠くから石を投げて傷つけて、当然なんだと有頂天で世論に乗って、自分の目では何一つ判断しようとはせず、尻馬を叩いて誇る。
 俺の今までの経験から言えば孤児院のガキってのは馬鹿では決してない。
 正式な学こそないが、他の子供よりも生きることに困難であり、強かであることが奴らに年不相応な知恵と鋭さを身につけさせる。たとえ文字が読めなくとも、この行為の裏の悪意を感じ取ってない奴はいないだろう。
 しかもここのガキどもは尊敬すべき婆ちゃんシスターの下で読み書きを習ってるんだから、こういう時は知識も仇になる。
 知らないふりは、ちいと疲れる。人間は他人を偽る生き物ではあるが、それに輪にかけて自分自身をも平気だよと偽らないといけない時は、疲れる。
 でもガキどももシスターもそれを続けて、壁に描かれた悪意を笑って平気なふりで流していく。手を貸してやりたかったが、なにしろ出来ることと言えば表面の葉をひらひらと揺らすくらいの、手も足も出ない悲しきレタスの身。
 それに万一手伝えたとしてもこいつらは拒むかもしれない。
 確かにシスターとガキどもが力をあわせて壁を掃除する光景はどこか、邪魔をしてはいけないと、神聖さをもって他を拒むようなところがあった。
 力も背丈も足りないで、直接的な壁磨きは手伝えないファイバーが俺を持ってくるくると壁を見回って、特にひどい箇所を指摘して他の子どもに知らせている。
 唯一、多分、ファイバーだけは書き殴られていることの正確な意味が分からないのだろうが、それでもその文字という攻撃で塗りつくされた壁から向けられるものを感じ取るのだろう。
 たまにぎゅっと怖そうに俺を抱えた手に力を込めて、壁に向かって居心地が悪そうに後ずさり、けれどひどい箇所を捜したりを繰り返していたが、教会の真後ろに周りこんでふと、ファイバーは止まりそれをぽかんと見上げた。
「レザーさん、あれ、なに?」
「ん? なんだ」
 よいしょとファイバーが俺に見せるように頭の上にまで両手で俺を押し上げる。まるでそれ自体が紋様となった壁の中で薄汚れた手書きの紙が貼り付けてあった。
 それもまた中傷の類かと俺は身構えたが、そうではなかった。それは個人への攻撃ではなく、ただの大多数への発信だ。
 いささか場違いに思えるそれは、きっとだいぶ前に張ったのだろう。
「別にたいしたもんじゃねえよ。ただ―――・・・・」
 言いかけてふと俺は言葉を切る。
「ファイバー、この紙、取れるか?」
「えーと」
 ファイバーは押し上げていた俺を降ろして、紙を見上げた。そんなに高い場所に張ってあるわけではない。
 それから左手に俺を抱きこむと、覚悟を決めたようにぴょんと垂直に壁に飛んだ。あどけない手がひらひらとはがれかけていた端を掴んで壁からその紙がはがれる。
「わっ」
 小さな足で着地しようとしたファイバーがその瞬間、バランスを崩して、引っ繰り返った。
 咄嗟に両手を広げたせいでぽーんと放り出された俺は一瞬、地面に叩きつけられると思ったが、不意に背後でさっと気配がして向かってくる途中だったヘイズルが、膝を曲げ低くしゃがみ込んで俺を両手でしっかりキャッチしていた。いい動きだ。
「なにしてるんだ? ファイバー」
 くるりと後ろ向きに地面に横になってるファイバーはヘイズルを見て身を起こし、こっちに駆け寄って来て両手を差し出した。
「レザーさんは、ファイバーが持つの」
 返して、とでも言いたげなしぐさにヘイズルは一瞬、どこか面くらい、それでいて複雑な目で手の中の俺と一身に手を差し伸べるファイバーを見返して俺をそっと返した。
 手の中に俺が戻ってきてファイバーは嬉しかったようだ。そのままヘイズルには何も言わずにきびすを返して、たたたとかけて角を曲がってから俺に少し誇らしげに、掴んでいた紙切れを見せた。
「ね、レザーさん、ファイバー、ちゃんと取ったよ」
「おー、よく届いたな。」
「えらい?」
「偉い」
 くるくると丸まった黒髪がかかる頬で、にこっと笑ってファイバーは地面にそれを広げて興味深そうに目を光らせてしゃがみ込んだ。小さな身体がのしかかるように邪魔して俺にはよく見えない。
「えっと・・・・・・ス、ト・・・・・・・ば、しょ・・・・・・・」
 途切れ途切れに読んでいたファイバーはちょっと難儀していたようだったが、急に顔を輝かせて立ち上がった。
「わかった、これ、知ってる。」
「ん?」
「これ、知ってる。ゆうめいなんだよ」
「なに? なんだ、これの何を知ってるって? 嬢ちゃん」
「ファイバー」
「ファイバー、それでこれ、有名なのか?」
「うん。あのね、これは―――」
 ところどころで舌が回ってなくても、ファイバーはだいたいの点を踏まえて説明してきた。ふーむ? ファイバーからそれを聞き終えた俺は少し機嫌がよくなった。
「どうしたの?」
「いや、ファイバー、これ持っといてくれ。ちゃんと失くさないようにな」
「うん」
 ファイバーに大きすぎるんだろう、裾や袖を何重にも捲り上げたズボンのポケットにそれをしまいこんで、お手伝い再開しようね、と言った。異論はなかった。
 そんなちょっとした俺とファイバーのしたことにも気付かずに、壁の回りにへばりつきせかせかと駆け回るがきどもはそろいもそろって本当に、すばしっこくて身が軽い。見てるだけでさしもの俺も目が回りそうだ。
 さすがにこの人ごみの町で育っただけはある。俺はそれをじっと見ながらある考えを形にしていた。
 そうこうしているうちに、とりあえずは壁は文字がもう読めなくなるところまで落ちた。まあ滲んだような汚れ自体は仕方ない。
 本当なら上からペンキで塗りつぶした方がいいんだろうが、何度もやられているらしく、ペンキ代が勿体無いのだそうだ。嫌がらせという頭に血が上りやすい状況の中で経済的、現実的な判断ではあるな。
 皆で一汗流してから、朝飯を取る頃には机についたガキどもの中、シスターが俺をちょっと不思議そうな目で見てきて、どうやらガキどもの中で俺の持ち係に確定したらしいファイバーに、そのレタスは食べないのですか? ファイバー、と聞いてきた時は、尊敬に値する人物ではあると思うし、無理もねえと分かってるんだが、それでもやっぱり食料に写っているのかと思うと悲しい。
 しかし、滑稽丸いレタスには悠長に黄昏ている余裕もありゃしない。いいよな、人間は情緒や悲哀に浸れるだけの暇があってさっ。
 ファイバーがそれにうんと頷いて答えた次の言葉に、俺は憂愁を帯びた世界から引き剥がされた。
「うん。たいせつなレザーさんだからたべない」
「レザー・・・・・?」
「そう。たいせつなつかいま―――・・・・・・」
 さんと言いかけたところでヘイズルが素早く、片手を脇の下に差し入れてファイバーを椅子からすくいあげるようにさらった。ナイスだっ、坊主っ!
 そして引っ込みどころがつかなくなったのか、上手く言い訳できる自信がなかったのか「じゃ、じゃあ、シスター。行ってきますっ」と口早に言って慌ててそのまま戸口へと駆けて行く。それを見てたがきどもが慌てたように
「行ってきますっ」
「行ってきますっ」
「行ってがはっ」
 誰かまだ食い終えてないのがいるぞ。
 若干、咳き込む奴も見られたが、ヘイズルに続いて次々に席を立ったガキどもが後を追う。
 ヘイズルが掴みあげるファイバーのぶらぶら揺れる手の中から、どんどん遠ざかるシスターはあれあれと呑気そうにこちらを見て今日はみんなちゃんと時間通りに戻ってくるのですよ、とだけ言った。
 はいはい。それはきちんと責任持って俺がさせますからご安心を、シスター。
 しかしそれにしても。ふいー。カミサマに守られる神聖な大聖堂の中でも、レタスの身は疲れるもんだ。


 ようやくに抜け出してきて、慌てて追いかけてきた(中にはパンを片手に持った奴もいた)皆が合流すると、ヘイズルはほっとしたようにかつぎあげたファイバーを降ろして、
「ファイバー、シスターにはレザーさんのことは秘密だぞ」
「しみつ?」
 また舌が回ってないが、ヘイズルはうんと頷いて
「そう。俺達があれだけ慌てたみたいに、シスターがびっくりしちゃうだろ。だから黙って置くんだ」
 ファイバーが昨日の皆の驚きぶりを思い出したのか、やがてこくりと頷いた。こいつらの教えの聖母リディア信仰では、確か黙秘もまた罪かなんかになるような気もしたが・・・・。
 まあ、ガキどもを宗教の教え一色にするってのもぞっとしないからいいか。リディアだって母親だ。ガキがなにより可愛いだろうし、大目にみるさ。
 街中はまだ朝の海から来る塩の匂いがする霧に包まれて、沈むように霞んでいた。
 人々の数もまばらでたまに昨夜は酔いつぶれてどこかの路地裏で眠ってしまったのか、ずたぼろの風体の船乗りがふらふらと港へと向かって行く姿が垣間見るだけだ。
 朝っぱらからお子様は元気にそんな街を特にあてもなく歩いていく。たまには霧の中に見える人影にびくっと身体を震わすガキもいたが、なんとか。
 それから段々とどうして自分達はこんなことをしているのかな、と思い当たったようで俺を見てきた。全員の関心がこちらに向いたところを見計らって俺は奴らに向かって
「お前らは多分、大人に頼らずに生きる習慣が身についてるだろ」
 へ? という顔が一様に浮かんだ。細い肩を寄り添わせて、それでもどこまでも駆けて行きそうな焼けた手足をしたガキどもを見回す。
「頼れるときは奴らに頼れ。だがな、頼れんときは自分らの力でどうにかしろ。それができるだけの根性も体力も精神力もお前らにはあるはずだ。なにしろ、そこいらのなよなよ坊ちゃまとはキャリアが違うからな」
「あの、レザーさん・・・・・?」
「やられっぱなしをどうにかしようってのは、悪くない方向転換だったが、その要素に不貞腐れを入れたのは駄目だった」
「・・・・・・・・・・・」
 メイスから俺を盗ったってことを言っているのが分かったのか、奴らの顔にさっと気まずげな後悔の色が浮かんだ。
「俺はメイスに関係があるが、別にメイスの物ってわけじゃない。だから盗んだことはもう俺、当事者が許すから不問にする。」
 ヘイズルが覚悟を決めた顔で踏み出してびしっと背筋を伸ばして俺に頭を下げた。
「――ごめんなさい。レザーさん。俺が言い出しました。全部、俺の責任です。本当に申し訳ありませんでした」
 口先だけじゃない謝罪はその奥に秘められた早熟の知性を感じさせた。人の中の時間は必要によって急がされ早められることがある。
「分かった。もうそのことはいい。やったことは結果的に感心しなかったが、方向性としては間違っちゃいなかったんだ。やられっぱなしで黙っているな。だだし噛み付くんじゃない。噛み付けばまた噛み付き返されるだけだ。証明、しなきゃならん」
「証明?」
 面食らってヘイズルが呟く。
「そうだ。ファイバー、さっきのあれを出してくれ」
 言ったのでファイバーが四角に畳んだ紙切れを出してそれをはらりと広げた。なんだと見ようとしてガキどもが危うく押し合いへし合いになるが、さっとヘイズルが手を広げてそれを阻む。
「この町で開催される本格的なストローボールの大会。町長が主催者で、結構、大規模な催しらしいな。観光客も見物に来るんだって? 好都合だ。日にちは今から十日後。これが今ひとつだが、なんとかなる。」
「レザーさん、何が言いたいのですか?」
 ヘイズルが聞いたので俺はにやっと笑った。・・・・・気分だけ、な。
「お前ら全員、これに出場して」
 俺は一つ言い切って様々な顔を浮かべるがきどもを見回してから、言った。
「優勝を掻っ攫うんだ」


 降り注ぐ太陽がその赤銀色の髪に跳ね返り、一際華やかに青い空の下に見える。
 その輝きに心惹かれた街の少女達は互いの袖をつつきあい、その持ち主を少し頬を染めてそわそわと指差し視線を交し合っている。
 乙女達の慎ましやかな注目を浴びる、その広間の青年は憂いているようだった。
 清らかな、けれど幾分塩味が混じる水を空に打ち上げる噴水の淵に腰掛けて、座り込む足の横に垂れる手は力なく、茶色の瞳が切なげに揺れている。
 彼が、空をあてもなく見上げる様は一枚の絵画のごとき麗しさとどこか気品がある様を漂わせ、少し苦味の残ったため息を時たま吐き出すたびに辺りの少女の心を騒がせている。
 けれどその彼女達の心をときめかせる一時を無残に破る無粋者がいた。邪魔な辺りの人間を乱暴に脇に寄せてずかずかと近寄ってくる男だ。
 押しのけられた彼女達は一瞬、顔をしかめてそれからその男の様子を見やるとぎょっとしてそそくさと身を引いて行く。
 注目にさらされる青年の前に人々の流れをかきわけて一人の男が顔を出した。
「アシュレイ・ストーン」
 声は低く唸るようだった。赤銀色の髪の青年はちらりとそちらを見やり、ふーっと深い失望のため息を吐き出し首を横に振った。
「誰だか知らんが、今は放って置いてくれ。」
「置けるわけがねえだろう。昨日の報復、お前が泣いて這いつくばって謝るまでたっぷりとさせて貰うぜ」
 昨日、の言葉に茶色い瞳をつまらなげに細めて
「ああ。誰かと思えば、昨日の迷惑バカか。怪我人に謝り倒してきたか? どうした? 顔が昨日よりも膨れ上がってるような気がするが。一日で不細工にも拍車がかかるのか」
 そこでまたため息を吐き出して、見たくないと言うように視線をそらした。
 態度に苛立ったのか、歩を詰めていまだに腰をあげようとしない年若き青年の前に男は移動した。
「ふざけんなよっ、アシュレイ・ストーン! お前の奇行で他を欺いて、隙をつくようなこすい戦法はもう見えてんだよ」
「顔を近づけるな。悪いな、昨日の昼までなら別にお前が豚のような顔をしようが、眠りかけの牛のような姿だろうが、気にならなかったんだが」
 ひらひらと追い払うように手を奮って
「レザーを捜し求めている状態の俺の、存在の美意識にお前はあわない。レザーの姿を思い浮かべている目にとっちゃ、お前は視界の暴力だ。とっとと俺の視界から消えてくれ」
 もはや男は言葉もなく、昨日の一撃で膨れ上がったこめかみのこぶがきゅうっと赤くなり、全身が怒りに震えた。
 それを目撃していた誰かがあげた悲鳴と共に、振り上げて一拍の間を置く事もなく襲来した拳を、赤銀色の髪の青年は腰掛けたままろくに見もせずにひょいと首を傾ける最小限の動作で避けた。拍子に後ろに吹き上げられていた水の柱に拳が触れて細かな丸い水滴が散る。
 そこまで目を細めて気のなさそうに動いていた彼はふと、何かに思い当たったようにやる気のない表情が一変してさっと立ち上がり
「――って俺が昨日、レザーを見失ったのはてめえのせいじゃねえかっ!」
 急に火薬に火を近づけたよう、怒鳴り声とともに左足でよろめいた男の軸足を払うと、身体をひねって飛び上がり無防備にさらされたその後頭部を体重をかけて蹴り飛ばした。
 赤銀の髪の青年はふわり、とまるで体重がないような身のこなしで着地する。鮮やかなとび蹴りを喰らい、なすすべもなく男は噴水の中へと倒れこんで、派手な水しぶきとぶくぶくと生まれる白い泡によって姿が見えなくなった。
「今度俺とレザーの邪魔しやがったら、重石つきで海に沈めてやるからな」
 それだけ言い捨てると青年は憤然と歩き出したが、怒りが生んだ覇気も一時期のようで、やがて気落ちしたよう肩を落とす。
 ぱしゃぱしゃと水を噴き上げる背後の噴水の中、しこたま後頭部に強い一撃を喰らった男からの動きはない。
「レザー・・・・・」
 はあ、とまた一つため息をついて青年は足を止めた。昨日からすでに一ヶ月分のため息は消費したと思った。
「どこにいるんだ、一体・・・・」
 気弱さに包まれた頭が馬鹿な考えを生み、一瞬にあれは幻聴だったのかともよぎったが、即座に断固と首を振った。その拍子に、豊かな財宝のように輝く赤銀の髪が落とされた日の光をぎんっと斬りかかるよう攻撃的に、辺りに鋭く跳ね返す。
「いいやっ! レザーが俺を呼ぶ声を、俺が聞き間違えるものかっ! 幻じゃないっ、錯覚でもないっ! 俺の耳はなんのためにある? 俺の目はなんのためについている。偉大な過去の王、イゾルデ=ラドクリフ一世に誓ってどんなざわめきの中でだとてレザーの声は聞き逃さないっ、どんな群集の中でだとてレザーがそこにいれば俺は見つけ出せるんだっ!!」
 まだ日もあがりきっていないうちから、誰かが沈んでいるのかぶくぶくと泡が生まれ波紋で揺れる噴水で、一際目を引く容姿の青年が叫んでいるその十数歩前、何事か思案するように顔をしかめたまちまちの年齢の少年少女達がぞろぞろと通りかかっていた。
 中で一番前方を歩く幼い少女はその両腕でしっかりと、一つの丸いレタスを抱えていたりする。


「なんか噴水の方、騒がしいね」
 ぽつりと灰褐色の髪のガキが口に出したが、本人もそう別に特に気を引きたくて口に出したわけじゃなさそうだ。
 思案が生み出した沈黙が少しでも紛らわせたらとの配慮だったが、賛同する者も興味を引かれた者もなくそのままとぼとぼと奴らは歩いて行く。
 まあ、確かに。正当な反応だとは思うさ。少なくとも奴らは笑い飛ばしはしなかった。ただ重い荷物を背負わされたように、顔色が冴えずに誰もが無口になった。
 しばらくして誰ともなく街角で力なく立ち止まる。ファイバーだけはいつも通りにてくてくと歩いているだけで、後ろの皆が急に立ち止まったことに数歩気付かずに進んでそれから振り向いてきょとんと首をかしげた。
「どうしたの? みんな」
 無邪気な問いかけに、全員が顔を見合わせてそしてやっぱりヘイズルが出てきた。
「レザーさん。あなたのことは本当に、幾ら謝罪しても償いようのないことだとは思います」
 いいと何度言ったって、こいつらはすまないと思うことはやめない。ここいらはガキらしくない。責任と権利が分かっている者の態度だ。
「でも、その、先ほどの申し出はあまりに突拍子というか、その、俺達には・・・・・」
「話がずれてるぞ。俺にすまないと思うから、申し出を受けたり、それを断るのに恐縮してどうする」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 ファイバーがキョーシュク?と呟いて首をかしげた。
「――無理、です」
 一言に、万感を込めてヘイズルは言った。
「情けない、言葉だな」
 ヘイズルは頭を垂れた。言い返せばいいのに、何かをぐっと中に押し込める。
「無謀で無鉄砲で、がむしゃらで、そういうものも必要だぜ、何かを破るときには」
「・・・・・・・―――僕はもう、これ以上、みんなに辛い目を遭わせたくないんです。そんなことをしたら、衆人の目にわざと触れさせるような真似をしたら、もっとどんなことになるか分からない」
「臆病なまま生きていくには、お前達は正直すぎる」
 もう一度だけ言ったが、後は続けないつもりだった。その道を選ぶならば、これ以上の言葉を投げつけられるのは酷だ。
 俺はいい加減に踏み込みすぎている。楽な生き方は楽しい生き方と同義ではないし押し付けることは時に暴力だ。
「じゃあ、レザーさん、あっちなら今は船がついてないから場所、あいてるよ」
 不意ににこやかに微笑んでそう言ったファイバーに、全員の視線が集まる。
「港?」
「練習する、広い場所ひつようでしょ?」
 その意表をついた言葉には俺もえ、と思ったが、ヘイズルはぎょっとして
「な、なにを言ってるんだっ、ファイバー。まさかお前、やろうって言うのかっ!?」
「え? なんでやらないの?」
 きょとんとしてファイバーは逆に聞き返した。ヘイズルが絶句して、子供たちは呻いた。
「レザーさんがせっかく、案だしてくれたのに。楽しそう。ゆうしょうはむずかしいかもしれないけど」
「それだけじゃないんだっ、ファイバー」
 苦々しくヘイズルが言って、駆け寄りかがみこむと、それから躊躇いがちに細い首筋辺りをそっと触り、そこにあるアザを目にしたのか顔を辛そうにしかめた。
「みんな、分かってくれないんだ。分かってくれてないんだっ。そんなことしたら、俺達は公の場所に顔を出さなきゃならなくなる。もっと、ひどいことを言われたり、ひどいことをされたりするんだ」
 ヘイズルは多分、ファイバーがそこいらを分かっていないから言えるのだろうと思っていたのだろうが、けれどファイバーはヘイズルをよいしょと押しのけて平然としていた。
「もう一度、殴られたり石を投げられたりするのはすごくやだけど、それやってたらがまんも今よりいっぱいできるし、そんなに痛くないと思う。もう怖くもないもん、レザーさんもいるし、レザーさんが考えてくれたことだから」
 言われた俺もなんだかえらく、信頼されているというか、懐かれたなあ、と思ったもんだが、ガキどもも同様だったらしい。
 半ば唖然と自分を見てくる連中を、ファイバーは無垢な瞳で見上げる。
「なにかしたかったよ。でもおんなじことのしかえしはやだ。なぐられると痛いもん。蹴られてもいたかった、やだ」
 その言葉に誰もが息がつまったような顔をした。
 この嬢ちゃんの首には痣がある。勝手に転んだり、擦りむいたりしたわけじゃないアザ。
 それは、いいシスターの元で、すくすく育ったこいつらにまでその信頼を欺いて駆り立てさせた元凶。繰り返すさ。―――人間は、時に、死ぬほど情けない奴らもいる。
「ストローボールは殴ることでも蹴ることでもないでしょ? それにたのしいし。」
 ファイバーはにこっと笑った。それを見た瞬間、俺はなんとなく自分の勘違いに気付いた。
 こいつらを仕切っているのは、リーダーであるヘイズルだと思っていた。が、本当の主導権を握るのは、俺を抱えてるこの一番、ちゃっちゃな嬢ちゃんなんだ。
 その嬢ちゃんは圧倒的な強者の、とどめの一撃を笑顔のまま放つ。
「なんでやらないの?」
 

 噴水の縁にそっと乗せて、視線を合わせるためにしゃがみこみ、彼女はそれをただじっと眺めやる。瓜を思わせる少しなだらかな曲線に、外側は飾り気ない素焼きのままの土の色だ。
 少女の目の前には土鍋があった。何の変哲もない、それではある。
 あえて言うならば、大きな蓋の部分に少しばかりの異質が見受けられる、巨大な蓋が開かぬようにと両極端に不思議な文様が墨で描かれた紙の封がしてあることだろう。
 メイスはそれをじっと見つめて、顔をしかめる。
「お師匠様の字に、間違いはなしと」
 呟いて確認すると余計にそれが邪魔苦しいものに思えて仕方なかった。手の平をすっと向けて何事かを口元で呟く。
 傍目には何も起こらなかったように見えたが、彼女は目を見開き渋々と手を降ろした。
「魔力も感じられる、と」
 それから今度はおそるおそると手を伸ばして表面を、何かを確かめるかのようにすっと撫でて、それから思い切ったようにこんこんといくらか叩いた。
 音の感触は、素焼きの表面であり、空洞の器を叩いたものとなんら変わることはない。
 そこでメイスはふむと隣に腰掛けて俯き加減に腕を組んだ。白い髪が思案する少女の頬にさらりと流れる。
「・・・・・・・・・どうやら、レザーさんのように人間であったり、もしくは別の生き物が姿を変えられた、ということではなさそうですねー」
 幾分かはそれに安心できたが、そのかわりとでも言うように今度は別の疑惑が飛び込む。
「嫌な感覚がするのですよね、この感触。何かを閉じ込めている―――しかも、何かを魔力で凝縮している。まさにお師匠様でしょうね。まったく私が軽蔑してやまない人間達全ての存在を合わせたよりも、お師匠様一人をこして薄く広げたほうがよほどに世界の質の悪さは上昇の一途をたどることが分かりきっている魔導師になる前にせめて人間になってくださいませと頭をさげてもいいくらいに切に望まれたお師匠様らしい手土産に違いはありませんねー」
 呟いて、少し息を補充する。
「一体、これをどうしたらいいものでしょうかねー。ね、レザーさ・・・」
 と何気なくメイスは辺りを見回して、辺りにあるのは横の土鍋とそしてただの異邦人の群れだと気付いてから、ふっと我に返った。
「――――・・・そうでした。レザーさんはいなくなってしまったのです。実に惜しいレタスを食べ逃しましたー。でも強くならなければいけませんし未練も断ち切らねば私はレザーさんを食べれなくても何かを食べて生きいつかは兎に戻っていかなければならないのですし、実際に人間世界などいらぬ物だけが溢れに溢れ出た私達から見ればゴミ山のような場所ですが唯一の利点として食べ物ならばいっぱいありますー」
 言いながらリュックを降ろして手を中に入れて探り、おもむろに一本の細い人参を取り出してそのままがりがりと食べだした。
 辺りを行き交う人間は、凄い音を立てて生人参を食する少女にいささか恐れおののいたような目を向けるが、構わず土鍋の隣に腰掛けた少女は、瞬く間にそれは姿を消して萎びかけた葉も丁寧にぺろりと食べてしまうと、うんと頷いた。
「お腹が一杯になったら、少しは未練も消えるでしょう。」満足したように噴水を囲んで並べられた石淵から腰を上げて、そこでふと淵に貼り付けられた紙に気付いた。ちょっと気を引かれて並べられた文字に目を通し、その内容を見ると笑って
「人を落とすな、ですってー。要点を掴まずに意味を成さない文句ですね。誰かをこんなところに落とした愚か者がいるのでしょうかね」
 ころころと笑い、そこでしばらく言葉を切ったメイスは、自らが作り出したにも関わらず訝しく思えた沈黙に、ふと自分の意見への返事を無意識に待っていたことに気付いた。
 それを悟ると、困ったように軽く舌を出して
「未練を無くす前に、いないことに慣れないといけませんねー。考えてみればレザーさんとは結構にご一緒していましたね。人間でお師匠様以外であれほど多くいた相手はいなかったですし、早いところ調子を取り戻さないと。どうやら土鍋さんも喋ってはくださらないですしー」
 土鍋を持ち直し、苦笑いをしようとして自分の異変に気付く。
「あら?」
 空腹が満たされても一向に、自分がレタスの姿を捜し求める未練は消えていなかった。ぐるぐるととぐろを巻いた蛇が呻くように、食欲ではない何かが疼いている。
「あらー?」
 どことなく気分の悪い胸に手を置いて、メイスは少し首をかしげた。


 そうと決まれば奴らの切り替えは早かった。あ、という間に散らばって、い、と続ける前に一抱えのわらを持ってきた。それを地べたに座り込み、先を足で押さえ込んで器用にするすると編んでいく。
 実は俺はストローボールの作り方は知らないので、ほーと珍しげに見ているうちにいくつかのボールが完成して道に転がった。たいした早業だ。
 奴らもボールが出来た辺りから、急にわくわくし始めたようで目に輝きが宿り、すぐにもやりたそうな勢いでなんとなく可哀想だったがひとまずそれはお預けだ。
 まずは基礎からと、ちょいとこいつらの特性を知るために人の少ない港で短距離をやらせてみた。まずまず。
 次はジャンプ力と機敏性と最後に長距離走をと言うと、ガキどもは不服そうにしていたが、ヘイズルだけは妙に理解を示して
「有意義なことだよ」
 言って頷く。
「レザーさんの案は凄く、効率的だと思う。そもそも、俺たちのことをレザーさんは知らないんだ。なにが得意か、何が不得意かとか。ストローボールではどんな点が武器になるか、とかね」
 こいつに任してると何も説明しなくていいような気がするな。
「なら、俺はキャッチだよ。皿洗いの時の皿飛ばしも、一つも受け止め損ねたことないんだぜ」
 栗色の髪の小さな坊主が誇らしげに言ってくいっと自分を指す。へえ皿洗い当番の時、そんなことしてたのかお前、とヘイズルが冷たい声でいい、あ、と口を押さえた遅いガキの頭にごんと拳が振り下ろされた。
 ヘイズル自身は気付いてないようだが、そのやり取りの間、他にも後ろめたそうに視線を彷徨わせてた前科ありそうな奴らが何人かいた。ま、いっか。ガキが何人か集まればそれくらいはやるのがむしろ当たり前だ。
 栗色の髪の坊主がうーと頭を抑える横で、気を取り直したように
「俺はジャンプ。木に引っかかったボール、俺が飛んで取ったろ」
 赤毛がぴょんと飛び上がった。次々に小さな手がはいはいと上がるが、ヘイズルは首を振って
「自己申告は当てにならない。それに、ほら、こういうのを総合的に見てもらって分かる、隠された長所だってあるかもしれないし」
 説得のつぼを心得てるなー。思っていたより楽だ、これは。
 それでもガキどもはちと渋っていたが、不意に
「なんで俺がシルバーになんかに負けてんだよっ」
 あがった声に全員の視線が集まった。見ると、みなの結果を拙い字で書いているファイバーの張り紙の裏を見やって、ガキの一人が不服そうにしていた。
 ええっと。黄銅色の髪に負けん気の強そうな顔、ブラックベリか。奴は挑戦的な目つきできっと俺を振り向いて、
「タイム、間違ってるんじゃないのか。時計もなしでちゃんと測ってんのか」
「あいにくだが、俺は動体視力には多少、定評がある。十分の一秒単位までのタイムならまず間違いない」
「だよ。レザーさんはちゃんと計ってるもん」
 地べたに寝転がって書くファイバーが見上げて言うと、ぐう、と詰まったような顔をする奴の後ろから、ぽんと小さな手がかかった。
「まあ。一緒に走ってないからな、はっきりと結果が見えないと自分のとろさがわかんないって言うかさ」
 ブラックベリとはほとんど同い年らしいので、よくやりあうシルバーが、やれやれと芝居がかかったように首を振っている。
「誰がとろいって?」
「お前」
 しれっと言ってシルバーはべえと舌を出すが、目が笑っている。けど嘲笑うってほどではなく、からかうってくらいの。しかし、さすがに同い年。レベルは対等だったようで、いきなり沸騰したりはせずにブラックベリは剣呑な目つきでじっとシルバーを見やって
「前、犬に追いかけられて悲鳴あげてた臆病もんは誰だよ? お前だ」
 反撃に痛い点を突かれてぐっとなり、けれどシルバーは持ち直して
「あれは、俺だからあれだけの傷ですんだんだよ。お前が追いかけられてたら、もう駄目駄目大惨事だったさ」
「ふん、あの後泣きべそかいてシスターに甘えてたのは誰だったか? お前だ」
「泣いてなんかねえよ、この洟垂れっ」
「いつ俺が洟垂れたっ!」
「こらこらー」
 泣こうが洟垂れようがどうでもいいとは流せないのが、男の意地だ。かなりつまらん内容だが。
 真剣になるのはいいんだがなればなるとで、流せない悲しさがある。鼻と鼻を突き合わせて睨む二人は、そこでふんっときびすを返して背中で「勝負だっ!」と叫んだ。
 臆病もんで泣いてて洟垂れまで発展した話が、なんでいきなり勝負に戻れるのか。がきには特有の不思議な理屈がある。
「短距離は一回でいいんだ」
「あれが俺の実力だと思うなよっ」
「計りなおせば下がってるのがオチだよ」
「聞けよ、話を。」
 聞かないままに、スタート位置までなんだと言い合いながら、並ぶ。ああ、もう勝手にしろ。
 見放して、俺が転がって他のガキどもに目をやると、他の奴らもシルバーとブラックベリのやりとりを見て、なんとなく煽られたのか、はたまた自分のタイムが気になったのか、文句を言うのをやめて我も我もとファイバーの書いている紙を見に集まり―――予想はしていたが、いっせいに騒ぎ出した。えーっ、俺こんなに遅くないよとか、嘘だっホリーに負けたなんてっとか文句があがる。
 俺は奴らのもとまで転がって行って
「ほら、短距離はもういいんだよ。ここで負けてたら他で勝負しろ」
 未練がありそうにしてる奴をほれほれと追い立ててると、レザーさんっと声がした。
 見やると、ちょうど走り終わった後なのかそろってぜえはあと肩を上下させるシルバーとブラックベリが立ってた。汗だくで息が乱れたままなのに勢い込んで声を見事にハモらせ
「どっちが勝ってたっ!?」
「すまん、見てなかった」
 言ってやった奴らの様子はちょっと見ものだった。はっきりと本人達がわからないってことはほぼ同着ゴールだったんだろう。
 そこで素早く次の反復横飛びで勝負しろ、と論点をすりかえると、ようやく息を整えてそれから指を突きつけて宣戦布告をしあった。お前ら無邪気でよろしいというべきか、お手軽すぎるというべきか・・・・。
「うまいですね。のせるの」
 ボールを手に持ったヘイズルが関心したように言った。うーん。
「のってくれてる、ってのもあるかな」
 言うとヘイズルはちょっとこちらを見て、それからどこか淋しげにくすっと笑った。大人びた顔をする奴だ。
 ファイバーがどこから持ってきたのかメジャーの用意途中に、うんと伸ばしてしまったそれに半分絡まりながら、それでも測定が始まるとぶんぶん手を振ってがんばってねー、と叫ぶ。
 たまに知ったかぶった奴が子供は遊ぶのが仕事だとか言うが、そりゃ間違いだ。子供は生きること自体が遊びなんだよ。仕事どころの話じゃないさ。
 な風にして一日中、走らせたりぴょんぴょん飛ばせたりしせていると、さすがに元気なお子さま達もくたびれたようで、シスターとの約束があるのできりきり歩いて帰れと言うととぼとぼ歩き出した。
 そーいや結局、ブラックベリとシルバーの決着はどっちがついたのかとふと思い出してちらりと目をやったが、全ての測定に張り合い続けて、今は口を利くのも億劫そうに黙々と並んで歩く二人の様子を見ていると、なんとなく予想がつき聞くのもむごいのでやめといた。
 ちとやりすぎたかなと疲れた顔の奴らと無言の道行きを見て俺は思ったが、暮れかけの街角の噴水で、一休みすると奴らは汗と土で汚れた手足をばしゃばしゃと洗っているうちに、空に水を跳ね上げたりかけあったりして歓声をあげはじめた。・・・・・――――ちと見通しが甘かったな。まだまだ充分に余力はある。明日はもっとしごいてやる。
 オレンジと赤を混ぜた暖色に包まれる街の中、賑わいのほとんどは船乗りや異邦人によるものであるためか、住民区から人々は姿を消して今度は色街だの酒場だなどのいわゆる夜の通りへと移っている。
 みんなの様子を見てファイバーは俺を脇に置き、噴水の端に登って腰掛けようとして高さがきついようでもがくように格闘していると、ヘイズルが後ろからふわっと抱き上げて乗せてやった。乗った途端きゃあっと言ってファイバーはガキどもの中に飛び込んでいった。
 噴水の水が無数に空に舞って、夕日の朱色にきらりと輝く。ガキどもの笑い声だけが夜の天秤へと傾きかけた街中に響いている。こりゃ汚れて帰りそうだ。
 ふと、へりにちょこんと置かれた俺の隣に、ヘイズルが座った。手持ち無沙汰でぶらぶらと揺らす足がぶつかって靴の金具が少し尖った音を立てる。
「あの、レザーさん」
「なんだ?」
 聞き返すとヘイズルは噴水で遊び仲間たちを心配げに見やり
「レザーさんのやり方は凄く合理的なものだと思います。今日一日で、よく分かりました。あなたの指導は優れているものだし、僕らだって同年代の子供には絶対に負けないだけの自負があります」
 そこで歯切れが悪く、大人へと向かいかけたこけた頬に苦味が走る。
「ただ、その、あの大会は凄く大きいもので、会場だって街の闘技場でやりますし、賞金もそれなりに大きな額がでます。・・・・・・・だから、参加者の多くは大人なんです。僕らよりもよっぽど背が高くて力も強い・・・・・・・」
 言わんとすることは分かった。俺はにやっと笑った。――――心情的に、な。
「百も承知さ。ヘイズル、お前、いくつだ?」
「?・・・・・・・・十四、です」
「いいか、奴らに歯向かうんだったらよく覚えとけ。力がある、背が高い、それだけで大人は子供に勝てると思ったら大きな間違いだ。坊主、お前は確かに同年代のガキより多分、いろんな多くのものに恵まれてる。持って生まれた資質とかそういったもので。だけど、そのせいで一つ、穴にはまってる。いいか。」
「・・・・・・・・・穴?」
「それがなにかは今いうことじゃない。ただ――――諦めるな。時に下手にちょいと頭がいい奴に、ただの馬鹿が勝つのはそのためさ。諦めるな。世間なんてあの港に浮かんでたでっかい船みたいなもんさ。ぷかぷか浮いて安定しない。決まりきったことなんて、少なくとも自分が考えてるよりかは少ないもんなんだよ」
 不意にはじけるような笑い声と共に俺はひょいと持ち上げられた。う?
「レザーさん」
 ファイバーが濡れて艶やかな黒髪から雫をたらし、見下ろしてくる。
「どした?」
「あのね」
 ファイバーはくすくす笑って、ヘイズルの前から俺を持ち出し、縁に沿って細い噴水を囲む石の上を、器用に走る。―――と、大丈夫か? それから裏側に来てぴょんと飛び降りると
「見て」
 小さな指が指し示したのは、淵の角に貼り付けられた妙な張り紙だった。奴らが跳ね上げた噴水の水でいささか濡れてはいるが充分に読める。
『フンスイニ、ヒトヲオトスベカラズ』
「なんじゃこりゃ」
「おかしいでしょ?」
「まあな」
 確かに変な張り紙ではあるが、別に腹を抱えて笑うほどのものではない。けれど、どこかツボに入ったのかファイバーは震える手で俺を噴水の縁に置いて笑い続ける。
 鈴を転がすような子供らしい屈託のないそれに他の奴らもつられたのか何人か笑い出して波紋のように広がった。
 俺はころりと一回転して噴水の向こう側に立つヘイズルの方を見た。ぱしゃぱしゃと吹き上げる水に断片的に映るヘイズルの顔。奴はたったまま、こちら側のファイバーの元に来ようとも、ちょっと横でいまだに楽しげにはしゃいでいる仲間の元へと行こうともしなかった。
 ヘイズルののっぽな肩の向こうに、赤々と燃えた夕日がかかって、街の家々は黒く実態のないただの影に見えた。
 逆行でこちらを向いているヘイズルの顔には褐色の影がかかって、はっきりとその様子は判別できはしなかったが。
 俺は苦笑した。
 俺にもそれは覚えがある。まあどいつもこいつも一度くらい、そういう道を通るもんだ。


 可愛げのない若造だと、一瞥して思う。
 目の前のソファに腰掛けた青年は、まるで生まれてこのかた笑ったことなどないように、端整な顔はむっつりとしかめられて、赤銀の髪がちらちらとかかる茶色の瞳が放つ光は不快の一言に尽きて揺るがない。
 隣の中年にさしかかり、腹が出て頭がはげあがった町長はあたふたとしきりに丸みを帯びた顔によれよれのハンカチをこすり付けて頼み込んでいるが、たかが少し名と顔が売れただけで威張り腐った、世界の屑は一向に気のある反応を見せず、時をおうごとに刻々とその機嫌は悪化の一途を辿っているようだ。
「で、ですから、アシュレイ殿にはですね、いっ、一週間後に」
「行われるストローボールの大会に来賓として出て欲しい」
 青年は腕を組み瞳を閉じたまま素早く言葉尻を捕まえていい、それから半分だけ目を開きじろりとこちらを睨んだ。
「四回目」
 同じことを繰り返すしか能が無い町長にはこれはいい攻撃だった。うっと詰まってそれかしどろもどろとおちょぼ口が紡いだ言葉は不明瞭で小さかった。
(見ていられないな・・・・・・・) 
 心の中で舌打ちして、ふと従業員が呼ぶ声がドアの向こうから聞こえたのでこれ幸いにと礼をして席を立った。
 こんな奴と二人きりにさせられると青ざめ縋るような町長の様子にも知ったことかとドアを後ろ手で閉めると、ふうと息を吐き出して、パイプを取り出した。すると、受付で働いている若い職員が小走りで近寄ってきた。
「エルさん」
「なにがあったんだい?」
 タバコを詰めながら聞くと
「その、大会の概要と申し込み用紙を取りに来た方がいらっしゃって・・・・」
「こんな時間にか」
 パイプを持って外を見やる。とっぷりと日が暮れて窓からは煌々と輝く銀の月が見えた。少し斜め上が欠けていたが、ほぼ満月に近い。マッチをすり、パイプに火をつけた。心を落ち着かせる匂いが鼻腔をくすぐる。
「ええ。受付時間は終了したのだと言ってもこの時間にしか取りにこれないと言い張られて」
 なんだと思わず笑ってやった。別にたいして手間がかかるわけでもなく、受付の者もこうして残っている。時間が外であるくらい、なんだというのだ。わざわざ取りに来た相手に門前払いを喰らわせる必要は全くない。
 こんなところは手際の悪いお役所仕事らしいと思い、
「お渡ししてさしあげなさい」
 言うと少し驚いたようにいいんですか? と聞いてきた。頷くと、はい、と答えて用紙のしまい場所なのだろう近くの机の棚をあけ
「でも珍しいですね。冒険者の方が参加条項を取りに来られるなんて」
「冒険者?」
 すうっと煙を吸って一服していたエルは、びしっと浮かべた笑みに亀裂が入ったが、受付嬢は気付かずに書類を引きずり出すと、はいと相手にしているもう一人の女性へと渡した。
「申し込み用紙と大会の概要をかいた説明書はこちらになります。では、受け取りにはこの紙に署名をいただけますか。これは 入館署名と同じになっております」
 ここからではカウンターの向こうの主は見えずに、机に差し出された紙がすっと下がっていって、受付嬢から羽ペンを受け取る男の骨ばった手だけが見えた。
「はい。署名を確認しました。では、どうぞお持ちください」
 差し出されたそれを手が受け取り、
「ありがとう」
 一言だけ手の主がそう言った。姿を見ずともそれを聞くだけで、声の主が穏やかに微笑んだのが分かるような、真摯で耳にじんと響くいい声だった。応対していた女子社員がほわりと顔を赤らめる。
 冒険者めと苦々しくくわえたパイプに歯を立ててふかしていた町長秘書エル・アライラーもそれには毒気を抜かれて、どんな相手かとひょいとカウンターに身を乗り出してみたが、一足遅かったようで目にしたのは無人のドアが閉められた拍子にぶらぶらと、数度定位置を通り越して交差するそれだけだった。
 受付嬢は白い手を少し赤らんだ頬に添えて
「礼儀正しい方もいらっしゃるんですね、冒険者って」
「特殊、だろうさ、そんな奴は」
 ぼやいてパイプの火を消してしまいこむと、また町長の部屋へと戻った。戻った先の中の事態は一向に進んでいないように見えた。
 石像を固めたように揺らぐことの無い不機嫌なその横顔は確かに整っていて、そこにぽいと置いておけばいい客寄せにはなるだろう。
 仕方なくエルは腰掛けて
「アシュレイさん、私どもも大会の成功を祈っているのですよ。なにしろ、孤児院が犯罪まがいの真似を繰り返して街の治安は悪くなるし、ほら、先日は街中で通行人が将棋倒しになり怪我人が続出という嫌な話ばかりでしてね。うちの街についた悪いイメージをここいらで一つぱあっと大会を盛況にさせて、一掃させてしまおうと思っていまして」
 ふいに確かに人目を引く赤銀の髪の青年は、こちらを見やった。ようやく茂みから飛び出して来た獲物を迎える、熟練の狼のような瞳だった。
「つまり責任の一端を含んだ俺に、その償いをしろ、と?」
「そこまでは言ってませんよ。」
 はははは、と笑った胸のうちでそこまであからさまにはな、と付け足す。
「俺は知り合いを探していて、それを聞きにここに来て、今、不当に留められているのはストレスだ。あいにくと、権威や権力とはそりがあわなくてね。自由を何より愛する冒険者なもので」
「ははは。どうも説明下手なもので伝わらなかったようですね。この街が冒険者に、ということではなく、我々があなたに、ということで「お願い」をしているわけですよ。不当とはいささか。ご高名なアシュレイさんなら、その名に付きまとうこの手のことは多いでしょう」
「――――うぜえんだよ」
 急にぼそりと呟かれた声の低さと、それが含む物騒な気配に、相手のいう言葉を半ば無視して一気にまくし立てペースをもぎ取ることを得意としたエルもその滑らかな舌を強張らせた。
「俺は知り合いを捜しに来たんだ。てめえの二枚舌なんか聞きに来たわけじゃねえ。」
 そう言って見事な赤銀の髪に無造作に手を突っ込んでかき回す。こらちをむいた男の唇は、かすかに笑うように薄く開いた。
「ただでさえ見つからなくてむしゃくしゃしてるのをつき合わせて、これ以上、つつくようなら聞くぜ。火遊びの覚悟は、ちゃんと出来てんだろうな?」
 ひっと隣の町長が喉奥から情けない声を出したが、それを吐き捨てることはできなかった。自分の固まった頬に一筋の汗が流れる感触がする。
 自らの言葉が与えた効果をろくに見ようともせずに青年は未練なく立ち上がり、きびすを返した。固まったままの耳に、事情を知らない受付嬢が呼び止めて退出の署名を求めている。
 時間が止まったままなんとか身体を動かそうと、喉奥に唾を押しやると急に閉まったドアの向こうからどたばたと慌しい足音と共に、それが吹っ飛ばされそうな勢いで開いた。
 てっきりもう帰ったかと思った赤銀の青年は明らかに先ほどとその様子を異としていた。目の色を変え、こちらの前まで駆け寄り、唾を飛ばさん勢いで
「参加者リストの閲覧許可をよこせっ!!」
 一拍置いて、はげかけた頭にたらたらと汗をかく町長の、隣に腰掛けたエルは
「――――はあ?」
「その大会とやらの参加者リストだっ!!」
 何を言っているのかにわかに理解できずに固まったままのエルに、アシュレイの後ろから慌てて追いすがった受付嬢が
「あ、その、す、少し前に案内をとられにきただけの方ですから、おそらくまだ参加者リストには・・・・」
 ばっと赤銀の髪の青年は振り向いた。その勢いに思わず心が身構えたが危惧に終わり、まだ若い女性相手には乱暴な態度にでるようなこともせずに、青年はいささか気を落ち着かせて
「案内を取りに来たってことは参加するのか?」
「え、あ、まだ決まったわけではないと思いますが・・・・少なくとも興味はおありかと」
 その言葉に半ばぶんどるようにして脇に抱えていた署名を、呆けたような顔つきでまじまじと見やる。食い入るようなそれは、ある一線を越えて不意にさあ、と素顔のまま晴れやかな笑顔になった。
「レザーっ!」
 言って愛しげにひしっとそれを抱きしめると、背に当たる部分は銅を薄目に延ばして出来た丈夫な板が、腕の中でぐにっと曲がるのが見えた。
「・・・・・・・・・・・・・」
 もはや生気のない操り人形のようになった町長の横でエルはすっくと立ち上がり
「どうでしょうか。アシュレイさん。特別席は観客も選手もそれはよく見える場所を用意させますが」
「その来賓の件、受けよう」
 ろくにこちらを見ようともせずに、腕の中のそれに書かれた素っ気ない一つの名をうっとりと見やる青年に
「ありがとうございます。これで大会も盛り上がるでしょう」
 よどみなく応えたエル・アライラーはその瞬間、自分は次回の町長選には勝てると全く意味のない自信を得た。


 闇の中でふと誰かに呼ばれた気がして、少し足を急がせていた青年は立ち止まり振り向いた。急激な動きに束ねた髪が背中で踊る。
 一瞥して背後にはただ明かりを灯す家々が立ち並ぶだけだと分かり、再び身を反転させ彼は空の月の位置を見た。そこからおおよその時間を割り出してタイムリミットにふう、と息をつく。
「アシュレイはともかくとして、メイスは捜しちまいたかったが・・・・」
 せっかくに放浪の最中に街に入れば宿に泊まる自然さをといて、最近ではメイスも従うようになってきたのに、また野宿癖が出たのかと渋面になる。どの宿屋を回っても人目を引く白髪赤眼の少女は話にも登らなかった。
 その事実の先にあるものは、今もまた野宿癖が再発してどこかの野原にいるのか、それとも情なしとは言わないが人とは感性が異なるメイスが自分に見切りをつけて、もう街から出てしまったという、あまりたどり着きたくはない結論である。
 この身に理解ある保護者を失ってしまえば、単身その後を追うことは極端に困難なことになる。呪わしい身にはやはり、いささか保護者自身が危険としても互いに依存すべき相手が必要だった。
 それに。
 自分と関わることで不必要に彼女を高名にしてしまった。目立つ少女の一人旅にこれまで以上の厄介事が降りかかることは必死だろう。
 ただの少女ではないが攻撃手段はあまりない。飛びぬけた足も、大勢を相手にすれば、どこまで通用するかはっきりとはわからない。
 そこまで考えてふと苦笑して、青年は同意を求めるように自分に確かな輪郭を与えてくれる月を見上げた。
「一緒に旅をしてりゃ羊だって、狼に情がわくもんかね・・・・・」
 月は身に沁みるような白い光を投げかけても、答えをよこしはせず夜の城にただ穏やかにたたずんでいた。


 地面に横たえた身体は、なだらかな野原と輪郭を一つとして、つややかなシルエットとしてそこに存在する。そう離れていない場所にある海はざざっとよせる音を繰り返し、それすらも取り込んで夜は静かだ。
 けれど闇にきらりと光る、恍惚と禍々しさを同時に覚えさせる、赤い瞳が瞬くことなく開き、闇の野から星のように輝いていた。夜風も慣れない潮の香りを含んで海の近くは、ざわざわと音立てるその波が休ませはせぬというように心を乱し騒がせる。
 無理矢理にこのような不恰好な人の姿にしたてられて、師の手に引かれて人の世界へと出た。
 人の中に群れて様々な奇妙なものを見たが、海ほど驚いたものはない。故郷の森の中はこんなにも圧倒的な青の塊はついぞなかった。
 その海も今は暗い。手招きするように、蠢く闇色の波が寄せて返す。
 寝入られずに横向きに立てた身体をむずがように転がして仰向けになり、数度、瞬いた目に、ほんの少し欠けているが、ほぼ満月に近い月が空に巨大に輝くのが見えた。
 頭の斜め上には、どこにでもあるような土鍋が無造作に置かれている。
 ちらりとそれを見やってから、愛想をつかしたように顔をそらして再び反転した。不貞腐れた幼子のように決して柔らかくはない大地に身を縮めて傷ついた獣のごとくその身体はじっと動かない。
 どれだけの時間を、間近に寄せることで濃厚な土の匂いをかぎ取れるその状態で過ごしたか。
 身動き一つしなかった少女はなんの脈絡もなく、がばっと身を起こして服についた草がはらはらと落ちる中、足元に放り去ったナプザックを掴み、乱暴な手つきで中を漁って一つの頭ほどの大きさもない塊を取り出した。
 それを闇に光る赤い目でじっと睨み、少女はしばらくその形をひたひたと手で確かめていたが、やがて力なく手をおろしまだ夜明けには程遠い空を仰ぐ。ぐっと目を閉じて白い首筋が無念だとでも言うようにそらされた。
「・・・・・・・・・・もしかしたら、まだ、食べられていないかもしれませんー」
 散々に捜した結果の末に、ここにいる以上は、決して可能性が高い言葉ではなかったが、わずかな期待は生み出された途端、ぐるぐると身体中を回り、うるさく喚きだした。
「戻って、みましょうか」
 ぽつりと何気なく呟いた言葉は、口に出すと驚くほど胸を軽くさせた。
 決心が固まれば彼女の行動は早く、躊躇いがなかった。メイスは素早くナプザックを肩に引っ掛け、土鍋を持ち上げるとまだ闇が深い中を歩き出す。
 左手に土鍋を抱え、不安定な視界をものともせずに細い足で颯爽と歩く少女の後に、空に広がる星星と月は従者のように恭しくついてきて、彼女が歩きながら先ほどナプザックから取り出したレタスを齧る音が、ぱりぱりと静かな夜に響いて溶けた。




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