波止場にはいつもカモメの鳴く声がして、少しだけ汚れた灰色の翼が風を切っている。
 さすがに栄える港町なだけはある。今日は空とよく似た色をした海にぷかぷかと浮かんだ、何十人もの人間が何ヶ月もの航海に耐えられる巨大な船から一人二人しかのれないような日帰り用のこじんまりとしたボートまで、数え切れない幾曹もの船がそれぞれの区画にきっちりと分かれてかすかにもやい綱が揺れている。
 船の甲板から港の整備された石畳まで伸ばされた渡し板の上に、新たなる旅に意気揚々とした心持ちで、しかし薄っぺらい板に足をのせるときは、足場の不安定さに手すりにしがみついてへっぴり腰になる。
 そんな風に手元にもてるだけの小さな荷物を持って乗り込む旅行者から、その足取りに跳ねる足元のやわな板の足場など気にも留めず積荷を降ろし上げる人足の仕事もこなす船乗り達が一人ずつ行き来し、海に面した街の港は、寂しさとは縁がない活気溢れる場所だ。
 暑い日差しの中での重労働は定期的な水分と休息をとらねばやっていけないはずだろうが、それでもけろりとした屈強な船乗り達が昼食の休憩にごろごろと建物の影に転がっている。
 そいつらに向けて放たれた、その一言がもたらしたものはしばしの沈黙だった。やがて
「は?」
 と、声があがり、驚いたように船乗りが太く日に焼けた指で自分を示す。
「俺達が?」
「そう、れんしゅう相手」
 休憩中のがたい兄ちゃん船乗り達捕まえてそんなこと言うガキってのは相当に珍しいのか、船乗り達は一様に目を白黒させた。びしっと俺を抱えて指すファイバーの横で、ヘイズルがそつなく
「あのですね。僕らのコーチが最後の仕上げにあなた方と一緒に試合をさせてもらえと申し出たんです。試合に向けての最終調整だそうで」
「兄貴がっ!」
 俄然身を乗り出してきたのが、あの殴りすぎて頭の神経が一本とんだ野郎だ。奴はどこぞに姿がないのかと猛然と辺りを見回してやがてうっとりと
「兄貴が言ったのかっ! ああっ、兄貴が俺にっ」
 俺はてめえみてえな弟もった覚えはねえっ!
 口の中でぐっとこらえながらも、反応を待つ。馬鹿を抜かしてもどことなく面白げにがきどもを見下ろして
「俺達が練習相手に? いいが、ちょっと大きすぎるんじゃねえか?」
「背も高すぎる」
 かすかに笑いが漏れて顔を見回す。
「大丈夫です。大会では船乗りさん達みたいな大人達を相手にするんですから」
 かすかに不安の色を押し隠してヘイズルが堂々と交渉する。
「やってみればいいだろう」
 不意に声がかかって、一人の男が進み出た。やっぱりあのターバン野郎だ。こいつにはあんまり参戦してもらいたくはないな、と思ってたら奴はくい、と顎でしゃくって
「そのスリアラーに、バックソーン、ダンディライアン、エイコン、ホークビット、後一人、――俺も参加するか」
 ちっ。


 さすがに同じ場所に立つと屈強な船乗り達と孤児のガキどもとの体格差は凄まじい。案の定、相手からは困惑と苦笑を持って迎えられるが好都合。はっきり言って対格差があった方がいいし、それに乗り越える山がでかけりゃでかいほど自信はつくもんだ。
 まずは先行のボールをしっかと抱えてピプキンが空き地の地面へと軽やかに飛び込んでいった。反射なのか意志あってかざっと立ちはだかった男の影がさっとその小さな身体全てを覆い尽くして。誇張ではなくその体格差はピプキンの五倍はあった。俺はすうっと息を溜めて
「ピプキン、そいつはタコだ! 海の大タコ、タコ入道だっ!」
 飛ばした大声にひき、と目の前に立ちふさがった船乗りの肩が跳ね上がり、ガキどもの幾人かは堪えきれず噴き出した。それに俺は心の中でそっと謝る。
 ――すまん、あんちゃん。
 無意味に人を罵るのは好きじゃない。しかし、効果は狙ったとおり、ガキという生き物はそういう低レベルの冗談をやたら面白がる癖がある。
 我らが切り込み隊長ピプキンの動きはスムーズになりふっと小さな身体をさらに沈めたものだから、眼前の男に虚が生まれる。
 そこを小さな身体が小ささを生かしてすり抜けた。瞬間、ピプキンに集まった視線にけれどよく見れば気付くだろう。その両腕に抱えたストローボールはない。
 ホウセンカが破裂するようにヘイズルが駆けた。群を抜いた速さを見せ付けるヘイズルの走りにさすがに少し危機感を煽られたのか数人が足の先を向け、俺を隠し持ったファイバーの手がぎゅっと汗ばむ。そこは両脇からブラックベリとシルバーがあがってくる。計ったようにぴったりと。――負けず嫌いが生きてるが肝心の作戦を忘れるなよ。ブルーベルとホリーは守りなんで相手の陣地にはいない。
 ようやくここにきて本腰を入れて追いかける船乗り達もさすがに速い。体重の軽さ故の瞬発力を抜かせば、唯一人、大人と渡り合えるスピードを持っているのはヘイズルだけだが、自分に追いすがって迫る二人へと警戒を怠らず、シルバー、ブラックベリをマークしている船乗り達がつられたようにこちらに走った瞬間、ブラックベリへとボールを投げた。
 まだその方向転換は簡単だったので、それまで急スピードで走っていた連中がわっとそこに殺到する。最初は苦笑気味だったのにいつの間にか本気になっているのがスポーツの魔性という奴だろうか。
 伸ばし掴んだその瞬間にヘイズルに向かってボールが跳ね返る。さすがにこの急な方向転換は不可能だったが、軒並み引っかかった中で、何か策があると踏んで殺到しなかったあのターバン野朗だけが食いついていた。ちっ、やっぱりくると思ったぜ。
 空に浮かんだボールめがけてヘイズルが高く飛んだ。手がさっと空に伸ばされる。しかしその瞬間、その手は受け取るのではなくひょいとしならせて思い切り背後へ向けてストローボールをはじいた。唯一ここまで予測していたターバンの男もこれには眼を見張った。
 その背後にはシルバーがいた。シルバーしかいなかった。ジャンプするわけではなく確実に地面で構えてボールを掴むと、負けず嫌いの足が一直線に大地を蹴って進む。
 っしゃあっ!と俺が思わず声をあげるが、誰もそのことには気付かない。唖然とした空気が透明に世界を彩る。その中に、ただやけに鮮明に
 ファイバーの歓声が響いた。


 勝ち負けだけが全てというわけではないけど、勝利はやっぱり熱狂を呼ぶ。その勝利にすっかり感心、感嘆して負けたにも関わらず最後はガキどもと一緒になって大騒ぎした気のいい船乗り達がどかどかと無造作によこした魚を、可愛らしく目をぱちぱちとさせるシスターの前に積み上げてガキどもは一向に興奮が収まらないように騒ぎ続けた。
 歓声と埃をまきあげてばたばたと走り回る奴らにもう少し外にいなさい、と言い渡されたのは当然だが、表の通りで騒ぐ声は多分中にいても聞こえただろう。
 やがてシスターのお呼びがかかって入ることが許されると、そこには勝利の祝いにはぴったりの晩飯が用意されていた。
 元々、聖母リディア信仰は神官にも肉食が戒律で許されてる珍しい宗教だ。その元には全ての偉大なる母リディアが与えた命を紡ぐために、植物でも動物でも、命から命の源を貰うことは同じなのだというごく近代的な考え方がなされている。
 聖母リディア信仰の創始者の名は歴史には伝わっていないが、今よりもっと信仰深く目先のパフォーマンスや自らの感情に流されるままに従っていた昔に、斬れば哀れっぽく悲鳴をあげてのた打ち回り、抵抗や断末魔の声、向けられる瞳からいやがおうにも殺生の文字を突きつけられる獣達と、物も言わずに抵抗することもなく摘まれて食べられる植物達を同一視するっていう、こういう視点での考え方が宗教に刻まれるほど断固として確立されていたというのはなかなか尋常なことではない。
 そもそも宗教の戒律に置いては何かを食べるな、と書かれることは多くてもその逆はまずありえない。ここで半ば奨励するように食べても良い、と書かれていること自体がすでに珍しいそうだ。
 俺にそう言った教師の顔はもうぼやけて思い出せないものの、自分自身でもそのことについて不思議に思っていることが分かる口ぶりを聞いて、母だから子どもには何をしても生き抜いて欲しいって思ったんじゃないか、とぼんやり思った自分の思考を思いだした。
 始終一貫して穏やかで慈愛と平和を唱える聖母リディア信仰の中で唯一過激であり異色でその教えにそぐわない点として、今でもその教えには多くの疑問符を投げかけられ、多くの学者が長年の論議、論争の的にしている。
 こうして覚えているぐらいの興味はあったとは言え俺も少し前まではへえ、と人事のように思うだけだったが、今の俺は激しくその考えに首肯したい。植物だってレタスだって生きてんだよっ喰われたくなんかねえんだよ馬鹿野郎っ!!
 ――まあともかく。
 話がそれたが、教会のイメージには少し似合わないほどに、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、手掴みでかぶりつきたくなるような魅力的な姿をさらす、シスターの手料理がテーブルに並んでいるのを見ると、その晩餐のガキどもは喋るかはしゃぐが食べるか飲むかのどれにしろと言う声も挟めないほどだった。狂乱というに相応しいそれを前に、けれどシスターは微笑んでいた。いい婆ちゃんだ。
 しかしさすがにどこかで止めなければとシスターも分かっていたようで、その笑顔のままにあれ? とやられて初めて気付くようなさりげない手際でガキどもをさっさと二階に追いやり、巧みにベッドにもぐらせると一人一人について寝かせた。うーん。ここいらの手際は年季が違う。
 物足りなさそうな顔が寝床に入ればとたんにとろんと垂れてくる。そりゃあな、あれだけ騒げば疲れるさ。
 規則正しい寝息が響いてくる頃に俺はファイバーに優しく置かれた棚で窓の方を見た。夜は迫って雲は切れ切れだが明るい。その向こう側に月が今にも顔を出しそうな気がするが、なんとも微妙だな。
 シスターは話し相手としてもそれは楽しいが、頻繁に現れるわけにもいかないし、ここのところ月夜は窓から抜け出して無意味にぶらぶらしたりメイスの情報を聞くだけにしている。
 しかしレタスのままでは窓から飛び降りるのは無理だ。っていうか、まず窓が開けられん。
「・・・・・・・・・・・・」
 しばらく考えた後、俺は棚から転がって床に落ちた。いて、と小さく思ったが口にはださずにそのまま、ガキどもがぐっすり眠るベッドの隙間をころころ転がって通って運良く開いていた(というか壊れていつもぶらぶら揺られている)ドアから廊下に出た。
 古いが綺麗に磨かれている廊下を転がってその突き当たり、一階に繋がる階段の前で俺はしばし動きをとめる。
 ファイバーの手に持たれてとんとんと上がった時は何も感じなかったが、レタス視点からなら一階から見上げればずおおおんとそびえたつのだろう、こちらから見下ろせば暗く遠く果てなく異界に繋がるような暗雲立ち込めるそこに一つ覚悟を決めた。ええい。降りるくらいなんだ。登れない身としてはここは根性で。
 俺が悲愴な覚悟を決めて転がりかけたその時、傾いた身体がひょいと持ち上げられた。ぎょっとすると薄影の中でがきどもにしてはひょろりと高い背の影が見える。
「レザーさん」
 ひっそりと紡がれた落ち着いたこの声は――ヘイズルだ。いつの間に目覚めて近付いたのか、如才なくすでに寝巻きから普段着に着替えて立っていたヘイズルは俺を顔の高さまで持ち上げて大人びた顔でしっと唇に手をあてて
「外に出たいんでしょう? シスターにばれないよう裏口の方がいいです。一緒に行きましょう」
「お、おい」
 俺が示された通り声を潜めて呼びかけると、薄影の中でヘイズルはどこか寂しげに
「僕も少し昼間で興奮して寝付けなくて散歩したいんです。つきあってください」
 汗(でないが)が一気に吹き出る(でないが)ような心地だ。いや、とか待て、とか必死で小声で呟く俺に構わずヘイズルはあっさり階段をおりきり、静かに裏口から教会の裏通り出た。ま、待て。
 幸いなことに月はまだ雲に隠れていた。それでも明るいその中に闇と影の濃淡があちこちに潜み、静まり返った夜は密やかだった。ここいらは貧しくても治安は悪くない。――なんて呑気に考えている暇があったわけじゃない。なにしろ月に隠れてもこの明るさ。ぎりぎりの均衡を保っているが、薄い雲越しにすでに空に浮かぶ一部の雲には隠れた月に照らされている白さが見える。やばいんだがやばいのだがどうせ今の俺はレタス。手も足もだせねえ。唯一出せる口で
「な、ヘイズル、俺はちょっと用が」
「勝ちましたね、レザーさん」
 俺を抱いたままゆっくりと表街道へと歩みながらヘイズルがそっと話しかけた。俺の話はまるで聞こえていないように、かすかに空を見上げる顔が明るい夜の中に浮かぶ。首筋はまだ細くて頼りなげでその輪郭は少女のようにも見えた。
 ひやひやして気もそぞろだった俺は適当な相槌をうったが
「ありがとうございます、レザーさん。」
 神妙に礼を言われたその響きに俺はヘイズルを見上げた。やはりくっきりと見える姿で、小さく笑いながらヘイズルは俺を持って行くあてもない夜の中をゆっくりと歩いていた。この夜に風はあまりなく、温度は部屋の中とほとんど差を感じさせないほどで、温かさが混じる空気が歩くとこちらに吹き付ける。
「いくら感謝しても足りません。本当に、数ヶ月前とは比べ物にもならないくらい。みんな、目の輝きが違うんですよ、全然違う。どうしようもなくどうしようもできなくてみんなどん底にいたのに」
 ヘイズルは笑う。その姿がさっきよりもっとはっきりと分かる。明るくなったのか。月がもう姿を現す前兆なんだろう。
 噴水の向こうで影になって立ってどこへも行こうとしなかったこいつ。
 ガキどもの主張の中で自分のものは何一つ口にしなかったこいつ。
 俺は見上げて低く言った。
「礼なんかいらん。言いたいことを言え。聞いてやる」
 言うと一瞬驚いたようにヘイズルが目を丸くして、それから笑おうとして失敗したように無残な顔になり、苦しげにそらし片手で顔を覆う。それでも手の切れ間から無理に小さく笑って
「・・・・・・・凄いな、レザーさんは。凄いな・・・・・・・・」
 そしてひくり、と喉が鳴って何かに諦めたようにヘイズルが吐いた。
「――ずるいな、ずるい。僕があれだけやってもどうしようもできなかったのに・・・・・・・」
 手元にいた俺にぽつぽつと冷たい水滴が降ってきた。空には悪戯をするように月を隠す雲がかすかに散らばっても全体的に晴れていた。ぽつぽつと冷たい水滴が降ってくる。空の一番明るい部分にかかっていた雲が薄れ離れていくのを俺は感じ取っていた。
 それでころりと転がって俺が地面に着く前にさっと切れ間から月が現れてここを硬質の光で照らした。


 肩を掴まれてぐいと少しだけ乱暴にその身体を引き寄せられた少年は、喘ぐように喉をそらし息を吸い込んで苦い涙と共に反せずすぐ傍にあった服を掴む。
 まだ少しだけ子どもらしさを残した肩は、瘧のように震えてやるせない感情を言葉よりも素直に伝えてきた。
「僕にはっ・・・・・・僕にはなんにもできなかったのに・・・・・・みんなに何もできなかったのに」
 胸へと押し付ける動作の合間にふわりと頭に大きな掌がのせられる。温かいそれに包まれて、その肩はさらに大きくぶるぶると震えた。
「やろうとした。」
「僕は、なにも・・・・・・なにもしてあげられなくて」
「――背負いすぎだ、お前は」
 広く温かい掌が、そこにしぶとくこびりついた何かを剥がすようにぱっぱと優しく確かに肩を叩く。
「だっ、だって・・・・・・だってだって・・・・・・っ!」
 自らが必死に面倒を見ていた少女と大差なく幼く無力に、大人びたものなどその顔にはどこにもなく、自らへの深い失望と絶望に支配されて後はただ何かを必死に否定して首を振る。
 震えるその身体がずるずると崩れ落ちそうになり、それを支える目の前の主の手に力がこもる。細い身体を掴んだ手は大地に崩れ落ちるのを留めるだけではなく、ぐっと持ち上げた。
「っ!?」
 突如として全身を包んだ浮遊感に、少年ははっとしたように急いで顔をあげ、地面から離された足は宙を蹴る。涙を飛ばしながら見開いた視界に、夜空とそこに浮かぶ月がぐうんと近付いてくるような錯覚を覚えた。
 何か抗いようのない大きな力で一思いに身体を持ち上げられて、気付けばそれほど幅がない肩に座らされて腰に回された右手一本で支えられている。
 月の光と共にそこに現れた人影は、背は高いが引き締まった肢体は細いと言ってもよく、巨躯では決してない。それでもそこから生まれる力は大きかった。遅ばせながらそこで少年は事態に気付いたよう目を見開き
「う、うわあっ」
 と声をあげ、不安定さを感じて思わず頭に横抱きにしがみつき安定を取り戻すと、その頭に向かって小声で「お、おろしてください、レザーさん」
「ま、しばらくそこに乗ってろよ」
「の、乗ってろって」
 軽い返事に絶句して、それから紅潮した頬で心細そうに辺りを見回す。その途中でふと気付いたようにそこから空を見上げた。高さが変わると周囲の邪魔な建物の影も気にならなくなり、夜空は大きく広がるいつもよりぐんと近くもあった。
 顔に及ぶ手を左手で少し動かして視界を確保すると、頭の主は肩にのせた少年を見上げて
「なあ、俺も、結局なんにもできねえんだよ」
 少年はその言葉に一瞬戸惑い、やがてじんわりとした怒りが湧いてきたように間近で見下ろし
「そんなはずないでしょう。レザーさんが何をしてくれたか、それがどういう結果に繋がったか、僕は痛いくらい思い知らされた」
 非難と悲しみが混じった反論にも影の主は静かに
「そんなの、ちょっとばかり世の中に慣れて、老獪ぶっただけだ。それで欲しがる言葉の幾つかやれるようになってもそんなの表面一枚だけの話だ。すぐにぼろがでる」
 かすかに首が動いてその顔がこちらを見上げる。ヘイズルが捕まる首筋にさらりとひとつにくくった髪が触れた。
「お前らだって救えない。だから励ますだけで、お前らに自分を救わせてる」そこで小さく笑ったのが空気の動きでわかる「正直言えばお前を今こうして持ち上げてるのも結構重いし無理してる。卑怯でかっこつけてるだけだろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「なんにもできねえし、なんにも分かってない。分かってないってことが分かったくらいか。あんま例にも出したくないけど、レタスの時の状態みたいなもんだな。不恰好で無様で手も足もでない、あんなのだ。なんにもできないんだ、結局。まだなんにもみえちゃいない。」
 その言葉にずっしりと重みをかけられるように横を向いてうつむき、そのまま少年は身動きしなかったがその口元がやがてかすかに痙攣するように動き
「・・・・・・・・・・じゃあ」
 小さな憤りの震えと共に少年は涙にぬれた顔をきっとあげた。まだ幼さが残る顔立ちには怒りの色があった。
「じゃあ僕はどうすればいいんですかっ、レザーさんがなんにもできないっていうなら、レザーさんに届きもしない僕はどうすればいいんですかっ」
「年をとれ」
 簡潔に吐かれた思いもよらない返答にヘイズルの勢いがくじかれた。
「だらだら過ごすんじゃねえ。ちゃんと年をとれ。俺がお前の年の時、今の俺の年まで十年があったぞ。お前が今の十歳年とる前は四歳だろ。自分が四歳のガキの頃なんて、お前覚えてるのか?」
「・・・・・・・・・・・・」
「自分の存在も覚えてないような頃から、お前ここまで来たんだろ。それが十年間だろ。今の段階で並ばれたら、俺が、立つ瀬ねえよ、四歳の年にお前になんなきゃいけないんだぜ。」
 そんな四歳児いたらいやだろ、との軽口も、肩の上の少年は反応しなかった。やがて長い沈黙の後に
「・・・・・・・・・一つだけ聞いても、いいですか」
「なんだ」
「レザーさんも・・・・・・・僕ぐらいの年の時、目指すものがあってなりたい自分があって、でもどうしてもできなくて、どうしてもなれなくて、どうしても届かなくて、なにやっても、自分の力が全然及ばなくて、それが苦しくて悔しくて・・・・・・・悔しくてっ!」
 仮定の言葉の中にも自らの激情がこもり跳ね上がったその後に、一呼吸の間ほど少年は息を詰まらせて首はかくりと折れるように垂れて、そこからか細い声が続いた。
「・・・・・・・・そんな風に、泣いたことありますか?」
「あるさ」
 即答と言っても良い速さと屈託のない軽やかさに、逆に疑わしげな顔をする少年の様子が手に取るように分かるのか、苦笑に近い笑い声を漏らし
「お前に比べたら毎晩泣いてたようなもんだ。なんだろな、自分がいなきゃ全てが始まらないと思ってた。俺がやらなきゃ登りつめなきゃいけないと思って自分で崖に寄ってた。毎晩でも、悔しくて届かなくて泣いたさ。なに目指してたかはあんまりだからいわねえけど、どう考えても無茶苦茶なもんを死ぬほど思いつめてた。あそこまでいかなきゃって。世界全部が俺にそうしろって言って追い立ててるみたいで、でもふとしたら世界は俺なんか知らなくて俺を見てる奴なんか一人もいないんだって。自分がでかいつもりで時たま必要以上に小さく見えて。そんなのの繰り返しばっかだった」
 少年はしばらくその言葉を吟味していたが、偽りや作り物は見受けられなかったようで、
「・・・・・・・・・そんなに欲しがってたものって、何だったんですか?」
 そこで黒い影の主は笑って空いた左手で空を指し示す。
「月」
「・・・・・・・・」
「――が、欲しくて手を伸ばしてたようなもんだな。そこいらの姉ちゃん顔まけの夢見がちだったんだろうな。伸ばして伸ばして死に物狂いで伸ばしても、どこまで行っても月は月でさ。でも届くと思いあがってた。あの頃の俺は。でも十年たって、背も伸びても、月の遠さはほとんどかわっちゃいない気がする」
 肩の上に不器用な鳥のようにとまる少年は、ぼんやりと言葉を聞いていたが、やがてその視界にもたらした新たな変化も無になるように風景がぼやけていく。どこかの留め金がはじけ飛んだのか肩の上の少年は神経質そうにぶるぶると身体を震わし
「強くなりたい・・・・」
 呟きは暗く冷たく、そして次の瞬間圧倒的な熱量をもってほとばしった。
「なりたい、力が欲しいっ! 力が欲しいっ、強くなりたいっ! こんな想いをしなくてすむような力が欲しい、強さが欲しいっ!!」
 突然に手足が暴れだし、さすがに肩にかつぎあげてはいられなくなったのか、影の主が手を広げてもはや落下も意に介さない身体を前に抱えなおす。しなやかな腕に封じ込められた少年は直も目の前の胸を叩き、首を振って涙を飛ばす。
「強くなりたいんだっ! なりたいのに届かないっ! 助けたいのに助けられないっ!」
 爪を剥き唸り声をあげて逆上する子猫のようなその相手を、影の主はまるで愛しむように強く抱きしめて
「俺も、そう思ってたよ」
 びくりと腕の中の身体が震え、嵐は停止した。自分がとまればすると拘束の力も抜けていき、気付けば足が地面に立っていた。放り出された少年はかすかによろめいて地面を向いていた後に、やがてそこで一つ顔をあげて夜空を見る。
 滲む夜空には地に下りても先ほど担ぎ上げられてみた時と同じく星も月も変わらずそこにあったが、少し狭く少し遠くなった。体裁も矜持もかなぐり捨てた末の、意識の空白に魂を抜かれたようにそれを見上げる。
「・・・・・・・・っ!」
 やがて見上げる瞳に涙が次々とわいてきた。
 影の主が優しい手つきでその肩を引き寄せると抗いはしなかったが、それでも最後の堤として両手は縋ることなく体の横に垂らしてそこで血が出るまでに握りしめた。
 声を殺して肩を震わす頑なな少年の背を促すようにゆっくりと確かに叩いた。とんとん、とまだ華奢な肩には強く響き、その重ねられる強さが一つずつ、堤を壊していく。
「泣いとけ。今は少しぐらい視界が低くても、お前もまたここに来るんだ」
 その声が届いていたかどうか定かではない。ほとんど同時に切り裂くように息がつまる音があがったからだ。
 それが最後の砦が崩れ去った合図だった。その後にあがった少年の激しい慟哭を聞いていたのは雲から逃れた月だけだった。


 まだ半分眠っている全身に白い光は染み入るように渡ってきた。眩い世界の中で、俺は俺であることを意識して身体を揺らす。
 反動がついてゆらゆらと揺りかごのように数度揺れる。光は葉の部分を通り葉脈の部分だけがすかしで浮き上がり、そこにぴんと張りつめたエネルギーが溢れ満ちて流れているように気分がいい。そこでも一つ大きく揺れると
「あ、レザーさん起きた?」
 と声がかかった。見ると手桶に顔を突っ込まねば目覚めなかった寝起きの悪さはどこに退散したのかガキどもは全員すっきり目覚めた顔で服に着替えたり、着替えが終わって自分のベッドのシーツを剥ぎ取ったり朝とは思えぬほどにてきぱきとそれぞれ自主的に動いていた。
 その様に気を取られている俺にさっと影がかかる。見上げるとヘイズルだった。目尻に少しだけ泣き疲れの後があり、さりかけた影がそっと頬に寄り添っている。
 ヘイズルは一瞬真面目くさった顔をしたが、すぐにその顔が和んで少しだけ恥ずかしそうな照れくさそうな、だけれど気負いはない肩の力が抜けた表情だった。何かが吹っ切れた後の人間の顔だ。
「おはようございます、レザーさん」
「ああ。」
 言ってひょいとヘイズルが俺を持ったが早いか横から目ざとくファイバーが寄ってきて
「レザーさん」
 と言って手を差し出す。ある意味暴君だな、この嬢ちゃんも。すると静かな目でヘイズルはじっとファイバーを見て
「一階まで、僕に連れて行かせて。ファイバー」
 優しくともなんだか有無を言わせぬ一言だった。すぐ近くのベッドで着替えが終わり、シーツを剥がしていたブルーベルとホリーも手を止めてこっちを見た。ファイバーもぽかんとしている。多分ヘイズルには、甘やかしすぎなところもあったんだろうな。
 そんな視線を振り切ってヘイズルは廊下を出て階段を下りていく。
「レザーさん」
「ん、」
「昨日は、ありがとうございます。」
「ああ」
 ヘイズルが笑った。可愛いガキの笑顔と大人の落ち着いたそれが入り混じって、でも自然な笑顔だった。
「一緒に、がんばりましょう」
 ――俺も負けてはいられないらしい。
 

 記憶の中ではそれまでの時間は短かったのか長かったのかわからない。ただ気づけばよく晴れた太陽の下で闘技場の前へと俺たちは並んでいた。
 実際のところ、俺もちいとばかりその大会とやらの規模をなめてかかっていたようだった。上がる歓声、ひしめく人の波波波。そしてでっけえ半球形の闘技場。ボール遊び一つにここまで盛大なものを開けるとは、この街の力は侮れない。
 閑古鳥鳴いてる教会を閉じて、あれあれと小走りになって目を細めるシスターの手を元気よく引いて闘技場までやってきた。選手用の入り口は、人がごったがえす観客用とは反対側にあるためかひっそりと静かに細長の机を置いただけの簡素な受付があるだけで、そこに座っていた職員に一度引き止められたが申込書を見せそれと俺達を奇異な目で見比べる職員の前をさっさと通り過ぎ、闘技場へつながる細い一本の通路を進んでいく。
 多分このどでかい建物は、昔の半分遺跡同然の闘技場を改装して利用しているんだろう。
 外から見ると上から漆喰で塗りつぶしたのかその外壁は真っ白で真新しさを誇っていたが、中の通路や小さなホールは硬いレンガを積み上げられてできていて、その造りは城造りに近い構造をもち、ところどころのホールに古く凝ったレリーフや彫り細工が施されている。
 見た目と内側では格段に印象として与える年月が違う。その細工の中で一番目につくのが火を噴いている火とかげの雄雄しい姿。火とかげの紋章ってのは確か古代の王イゾルデ=ラドクリフの旗印だったはずだ。
 そこでイゾルデから連想としてちょっとアシュレイを思い出してしまう。そいや、ここルドル地方はイゾルデ発祥の地か。もしかしたらその関係であいつこんな所にいたのか。
 と物珍しい建物に興味を引かれて俺は横道にそれたことを考えてしまったが、それは俺に限ったことではなくガキどもも自分らの町の建物だが、中まで入ったことはないのか物珍しげに見たり触ったりしながら進んでいる。
 やがて細い道を抜けて広間に出た。ずらりと人間がそろっている。選手の控え室につながる広間のようだ。周りは揃いもそろってでかいのばかりでそんな中、シスターと俺(レタス)とガキどものメンバーはそれは目を引いた。
 痛い視線が乱反射するそこを抜けながら、船乗り達とやらせておいてよかったとこっそり安堵した。半リーロルの高さから飛び降りたなら、四分の一リーロルの高さから飛び降りるのはそう怖くない。そういうことだ。
 シスターに受け付けをしてもらっている間、指示されたチームごとに個別の控え室に進む俺達の前に、ふとそれまで選手の何人かに引きとめられてなにやら説明をしていた一人の兄ちゃんがこちらに気付いて小走りで寄ってきた。
 ストローボールの、参加者じゃない。それは一目で分かる。まだ若く背は高いが、身体は柳の幹のようにほっそりとしていて華奢というまではいかないが、体力労働者のものではない。
 ちょっとばかり神経質そうに彷徨う切れ長の目に、尖った顎のライン、決して重たい筋肉はついていない薄い胸板、日焼けしていずにまだ白みを残した肌は炙ったようによく焼けた参加者の中で一際異質で、まさに力より知恵といったインテリの風体に、腕には役所の者であることを示す腕章をつけていた。
「本当に、来るとはな」
 苦々しげに呟いた言葉には、不穏なものが漂って。ちらりと離れた受け付けのカウンターで物を書いているシスターに目を走らせる。ガキどもの様子からして見覚えがある相手ではないようだ。シスターの知り合いか? あまりいい感じはしないのだが。
「恥をかきたくなければ今すぐ帰れ。これは忠告だぞ」
「あなた、誰ですか」
 ヘイズルが皆を庇うように進み出た。茶色の瞳に警戒心が満たされていて、突然の訪問者にも気後れすることはない。
「誰でもいいだろう」
 不快そうに呟く。これは好印象を与えなかったようで、他のガキどもにもむっとしたものが漂った。
「場違いだということぐらい、子どもの頭でも分かるだろう。こんなところまでのこのことやって来て」
「場違いはお前だっ!」
 シルバーとブラックべリの声がそろった。残りのガキどもは一瞬、虚をつかれ慌てて二人を見やったが張り合う相手と声が合わさったことにも気付かぬようにそろって憤慨して男を睨んでいる。
「俺達は練習したんだ。ずっとずーっと朝から晩まで毎日な! お前なんかなんにもしらないくせに」
「そうだっ、お前なんかできないくらいしたんだっ!」
 そのかしましいガキどもの声の中でも聞いた事のない二重奏は、正直なとこ悪くなかった。お前ら試合までそれ持続させてくれ。
 ファイバーがヘイズルの後ろからぴょこっと出てきた。つと揺るぐことのない大きな黒い瞳がじっと向けられると、多少のやましさや後ろめたさがある者は誰でも気後れすると思う。ファイバーは静かに見据えてそれで毅然と言った。
「ファイバー、知ってるもん。皆がどれだけ頑張ったか。あなたより、知ってるもん」
 つたない言葉でもどれも正論だった。目の前のこの男どうも馬鹿ではないようで全てを飲み込んで渋い顔をした。
「じゃあ、勝手にしろ。あんなシスターにのせられて、こんなところまでノコノコと来て、ご苦労なことだな」
 カッ、と全部のスイッチが一気に入ったのが分かった。どんな温厚な奴でも触れちゃいけないものがある。自分の中で許せない許しちゃいけないものがある。飲み下せなくて吐き出すものがある。
 ガキどもにとっちゃ、それは多分何があってもその腕で温かく迎えてくれるあの気のいい婆ちゃんシスターなんだろ。で、婆ちゃんは俺にとっても。
「黙れ」
 ことさら大きく俺は呟いたわけじゃないが、そいつの顔がさっと青ざめる。誰の耳にも届いたようでさっきまでは誰もかも好き勝手にがなっていた喧騒の中、両脇の波がさっと引いていった。見えぬ(いや見えてるがな)主の声に戸惑ったように目を彷徨わせる。
「エル」
 驚いたように呟いてシスターが駆け寄ってくる。インテリ兄ちゃんはその姿にひるんで一歩下がる。
「この子達が、どうかしましたか」
 すると今度は苦しそうに顔を歪めて黄銅色の髪の兄ちゃんは
「何も。来賓の扱いがありますから失礼します」
「エル」
 向けた背がまた一つびくりと止まる。シスターは笑ってがきどもの肩を包み、誇るように手を広げて
「この子達の頑張りを、あなたも見ていてね」
「仕事がありますから」
 逃げて答えは返さなかった。去っていく奴を敵愾心も露に見つめながら
「シスター、あれ誰?」
 すると婆ちゃんは笑って
「エル、と言って昔孤児院にいたあなた達のお兄さんよ。とても頭のいい子だったわ」
 驚きはでかくぽかんと口を広げて皆シスターの顔を穴が空くほどに見つめ、それからいっせいに声をあげた。
「本当かっ!? あんな奴が?」
「やなこと言われたんだよ、ひどかったよっ!」
 けれどそれを聞くうちに婆ちゃんが淋しそうな顔をするので声は静まった。
「・・・・・・・・・エルも、大変なのでしょう。たとえ大人になっても独りで生きることは辛いことですから」
 するとその言葉にガキどもも神妙な顔をする。独り、か。確かにその言葉は孤児院の婆ちゃんにもガキどもにも決して知らない言葉じゃないんだろう。
 独り。気軽で自由な冒険者にも時たま付きまとう。耐えられれば全てが大丈夫ってわけでもないもんだから。
 そこで婆ちゃんは気を取り直したように笑って
「さあ、みんな、行きましょう。ヘイズル、ファイバー、ピプキン、ブラックベリ、シルバー、ブルーベル、ホリー、これでみんな。ここにいるみんなで頑張るのよ」
 次々に紡がれるシスターの柔らかな声を聞きながら、自分の名前が呼ばれるたびにはい、と嬉しそうに返事をするガキどももの中にいながら、レタスも限りなく、かつてなく孤独だなあ、ってちょっと黄昏れた。
 ・・・・・・・・・・・・・・


 綺麗に慣らされた、どこにいってもちょっと見ないような柔らかな少し赤茶けた土色が広がり、その外に大きく円をかくように緑色の芝が囲んでいる。ストローボール用に目に痛いばかりの白線が引かれて正式な大会に相応しい場は、元々子どもの遊び出のスポーツには少し似つかわしくないような気がした。
 暗い通路を通って明るい太陽の下、そこに一歩足を踏み入れた瞬間にぐわんと銅鑼をかき鳴らしたような声が飛んできた。
 あまりのダミ声とがなり声の集結ぶりに、ほら色でもあれだ全部の色を混ぜてしまえば結果的には真っ黒になってしまうように、最初は何がなんだかよく分からないただ騒音でしかなかったが、その全部が罵声と誹謗と嘲笑だった。
 汚くて汚くて仕方ない言葉の集まりに、じわじわと煮え来るようなものが胸のうちから沸いてくる。
 悪意ってのはいてえんだよ。いてえんだよ。お前らみたいに踊らされる馬鹿が放つすかすかのものでも。いてえんだよ。気軽に放つお前らにとっちゃ何百万分の一もその痛さをしらねえだろうがな。
 右の端から突然また声の波が生じた。帰れ、帰れ、とコールが始まってる。幼稚って言葉が最高の侮辱の意味を宿したようなもんだな。
「手を」
 ふと声がした。唇をきっと噛みうつむいて地面を見ながら歩いていたガキどもが見やる。ヘイズルだった。ヘイズルは罵声の中でかすかに笑って
「手を繋いでいこうよ。みんなで。少し痛かったら繋いだ手をぎゅっと握るんだ。そしたら痛がってるのがわかる。一人じゃないって分かるから」
 言って両脇のファイバーとピプキンの手を掴んだ。ブルーベルとホリーが嬉しげな顔をして繋ぐとピプキンの横に寄っていってその手を繋げる。残ったシルバーとブラックべリは互いに互いをじっと睨み合っていたがやがてシルバーの方がへら、と笑って手を差し出し
「お前臆病だから繋いだ相手ぎゅーって締め上げる気だろ。他の奴らは気の毒だからな、被害者になってやるぜ」
「夜中に白いシーツが飛んできただけで泣き喚いたお前にとっちゃもうぎゅうぎゅう締め上げるだろうからとってやるよ」
 言った瞬間、握られた手が同時にくわっと膨れ上がって双方の顔が痛みと闘争心ににいっと笑いあう。
「試合前に手をしびれさせてたら怒るぞ」
 言うとふんっと顔はそらした。さっき見せたタッグは跡形もなく、相変わらずだが、まあ一度くらい声がそろったところで、変わるわけはないかもしれんが。いや、気持ちがぴったり一緒というところではさっきと同じか?
 ファイバーが笑った。
「ピクニックみたい」
 この嬢ちゃんには叶わない。
 それでも罵声は尽きなく流れていたけれど、ふと一角でちょっと響きが違う声があがった。
「ガキ捕まえてうだうだうるせえんだよってめえらっ!! それが大の大人がすることかよっ!!」
 思わず顔を見合わせると、フィールドに近い前の方の西側の客席に、見慣れた顔――というか体躯と格好が見える。
「船乗りさんたち」
 ファイバーが嬉しげな顔をした。叫んだのはあの俺が絶対殴ってやると硬く決めた兄貴男――確か名前はスリアラー。間中に設置された入り口を抜けて階段をちょうど下りてきているところなのか、そこからぞろぞろと他の船乗りたちの姿も見える。中にはあのターバン男もいた。
「嬢ちゃん達! 非番なんで数連れて応援きたぜっ!」
「がんばれよっ、もう優勝しちまえっ!!」
 さすがに風吹き荒れて波の音がざあざあとうるさい、嵐の海の中で声を張り上げて連絡を取り合う船乗り達のそれは馬鹿でかい。
 しかも周り全部が罵声の中で相当なこと言っているので、生半可なやつでは喧嘩を売られてしまうが、さすがに屈強な船乗り達に喧嘩をうるほど血の気が多いやつはまだいないらしい。そこいらの区画が静かになった。
 それを見て取って俺は心の底で少しがっかりした。
 ちっ。これじゃあ。
 なにがあっても殴ってやろうって決めたのに、殴れないじゃねえか。

 
 細く繊細な白い髪もその罵声に煽れてはためいているようだった。
 その付近にいる全ての人間が席も意味をなさずに立ち上がり、口汚く声をはりあげののしり手を振り回す
ことによりその場に溢れた音は、鉄なべをおたまでぐわんぐわんやるように反響し、耳がおかしくなるような有様だった。けれど誰もそれを不快には思っていないように、煽る集団ヒステリーにも似た熱狂の中で力の限りわめいている。
 椅子に腰掛けた白い髪の少女は心底憂鬱げに両耳に手をあてていたが、ふと肩をぐいと掴まれてそちらを向くと見知らぬ男の赤ら顔があった。
「おい、嬢ちゃんも座ってないで一緒に立って怒鳴れよ。くそぎたねえあいつらなんか、とっとと追い出しちまおうぜ」
 興奮によって上ずった声で話しかけてきた男の方を、今度は自分の意思をもって真っ直ぐに向きなおり、メイスはにっこり笑いかけた。端整な顔に浮かんだ花のような微笑みに男が面食らうと小さな唇が呪を紡ぎ、少女を中心に円心上にさっと見えぬ風が辺りに広まった。その風が駆け抜けていったそこから、不意に音かひたりと止み、静寂が落ちる。
 けれど人々の無数の口が閉じたのではなく、音が聞こえなくなっても人々はしばらくぱくぱくと口を動かしていたが、自分達が一切の音を発していないことにやっと気付いてさあっと青ざめて滑稽なほどうろたえた顔を見合わせ再び口をぱくぱくとやり始めた。
 メイスは憮然と静かな大混乱が起こる場で再び椅子に腰掛けた。立ち上がる人々の背に阻まれて大会のフィールドは一向に見られなかったが、別に試合を見に来たわけではないので気にはならなかった。不快そうに頬杖をつき
「かしましいのですよ。私はレザーさんの噂を聞きに来たのであってあなた方のくだらない意味のない言葉を聞きに来たのではありません」


 その場で一番に騒いでいた男の膝が突然に崩れて前にばったりと倒れた。今まさに空の空き瓶を投げつけようと立ち上がった男の首がぐきっと曲がった。所々に軽い打撲や捻挫を負ってうめきその異変で罵声が中断する。しかし、人々の目がどうにか捕らえたのは風に揺れる赤銀の髪の残像だけだ。
 エル・アライラーはなんでもないような顔をしてその席へとひょいと戻ってきた男にしかめた目を向けた。
「どこへお行きに?」
「なに。レザーがいるような気がしてそこいらを少しめぐってた」
 涼しい顔で言うその顔に横合いから噛み付いてやりたいといささか動物的な衝動を覚える。
「ずいぶんとここいら一体が静かになったようですが」
「ああ」小さく笑って緑の瞳を獣のように無邪気な冷酷さでひらめかす。「耳障りな騒音は、耳を塞いで手を使えなくなるより元を止める質でね」
「・・・・・・・・・・・」
「それより、とっとと警備員に治めさせたらどうだ? これじゃその大会とやらが始まらない、それこそあんたの仕事だと思うが」
「もう指示はしました」
「あっそう」
 赤銀の髪の青年は頭の後ろで手を組み適当に呟いて、入り口の前に小さい姿をさらす彼らを満足そうに見やる。
 あのシスターに、さすがにシスターに育て上げられただけあって骨がありそうな面構えの子ども達、それを収めた緑色の瞳が満足したように細まった。
 ――ただ一つ、さっと見えた黒髪の少女がなぜあんなに大事そうに丸い一個のレタスを持っているのかは謎だったのだが。


 何故だかしらないが、最初と比べると格段に周りの声がうるさくなくなった。船乗り達だけで静まったとも思えないんだが。大会関係者のラベルを腕にはめている奴らが駆け回っているからあれのおかげだろうか。なにはともあれ話しやすくなったので。
 選手への説明を受けるとかで保護者のシスターが去って行ったのを見計らって集合をかけた。
「よーし、お前ら泣いても笑っても来ちまったら、とりあえず笑え。そっちの方がいい。俺はほんとの意味での無理は一度も言ってない。やれるだけやりゃあそれでいい。」真剣に聞き入るがきどもの顔を見回して言った。
「勝てるだけ、勝て」
「うん」
 と誰より早くファイバーが頷き、それに一歩遅れて他の奴らが声をあげる。お前らほんといつも元気でいいもんだ。
 そこでさっきまでひそひそと言い合っていた周りが静かになっているのに気付く。
 レタスに顔を寄せ合って頷き会話してるガキどもの集団。ちょっと不気味だったかもしれん。


 つーわけで大会が始まったわけだが、はっきり言って初回対戦相手。
 へぼい。
 舐められているな、という配られたトーナメント票で分かる。夜中の街で収集してきた情報から照らし合わせてみてもとことん雑魚を宛てられたもんだ。こりゃ。
 ま、初戦の緊張を差し引けば良かったかもしんねえ。しかしなんだかあっという間に終わったというか、いつの間にか終わっていたというか、いや、俺も感慨深い初勝利、じっくり見たかったんだけどさ――
「レザーさんレザーさんっ! 入った入った入ったヘイズルがね、ねえ、あっ! ねえ! ねえ!とられた! でもとりかえした!とったっ、とったよっ!!」
 興奮し手の中でぶんぶん俺を持った手を振り回すファイバーのシェイクでそれどころじゃなかった。やっと監督として認められたシスターが入ってくれなかったら俺はマジでやばかったかもしれん・・・・・・・・
 ストローボール自体はそう長い試合ではない。でなきゃ一日でトーナメントなんて真似はできん。そんでその短さで隙をついて面食らわせてうやむやで勝利を掻っ攫うことも可能なわけだ。
 汗たらしたがきどもが歓喜に顔を輝かせてわっと駆け戻ってきて俺とシスターを取り囲む。――しかしお前ら、なぜシスターにはまとわりつくだけで俺はかまわず押し潰すんだ?
 と、少し疑問に思いながらも、熱狂に支配された時は焼け付くように短い。
 二回戦。
 馬鹿だった。
 全員が伸ばした髪をくくったどっかのなんたらサロンの徒とかいうチーム名で、まあいかにも金持ちのぼんぼん集団という薄っぺらい気品がぺらぺらと風に剥がれ薄れて張り付いているような人種だった。
 それなりに選び抜いてきたのだろう、どれもなかなかの背は高かったが痩せていた。ついでに応援団もいた。これまた金持ちそうなドレス姿の姉ちゃん達が、他の客より一際高い客席から頭が痛くなるような黄色い声援を飛ばしていた。
 その迫力と異様な雰囲気には他の客も引いていて、今まで常に流れていた野次や罵声もぴたりとやんだ。しかしなんだかこのきんきん声をずっと聞かなきゃならんとなると、罵声の方がまだマシなんじゃないかと俺は不覚にも思ってしまい、悪いと思ったがそれぞれ嫌そうに顔をしかめて耳を塞いでいたがきどもの心情も似たり寄ったりだったようだ。
 まあそんなわけで一目見て頭悪そうだ、と俺は思った相手だったが、入ってきたときから薄ら笑いを浮かべていて、やがて多分リーダーなんだろう、中の一人が進みだしてきて、フィールドの真中で気取った調子で手を払い、スポーツマンシップに乗っ取って子ども相手に試合はできない。どうしてもするというなら、三人で相手をしようといってきた。
 馬鹿じゃねえか。
 戦いに置いて相手がちびだからって防具はずしてどうするよ。しかし、まあ存外世間にこの手の類は多い。何か間違った認識によって自分を盲信し、他者に哀れみを与えて他人に誇るっていう。
 ガキどももさすがになんだこいつらという顔をして、中でも血の気が多いシルバー、ブラックベリすらも、もう怒るよりも呆れ果てたという顔で何か言いたげにあいつらを指し示し、こちらを見てきたので俺は一言言った。
「馬鹿はほっとけ」
 試合は、あー、きっと騎士学校時代のカリスクにもこういう相手は大量にいたんだろうなあ、と俺がぼんやり思っているうちに終わった。圧勝。当たり前だろ。
 ぴらぴらの気品の主達は一瞬呆然とした後に、てっきりがなりたてるかと思ったがなぜだかにこやかに握手を求めてきた。ははは負けてしまったな、と参った、強いなあ君たち、と紡ぐ笑顔は引きつって。
 あれだ。子ども相手に本気で試合なんてできないから、勝たせてあげた、というポーズをとりたかったようだ。
 あまりの白々しさと試合内容に、多分本当は姉ちゃん達もわかってんじゃないかと思うんだが、黄色い声集団から歓声と褒め言葉が雨あられと注がれて馬鹿どもはそちらに手を振った。
 あっさりと負かしまくったガキどもは、もう怒るよりも呆れ果てたという顔で何か言いたげにそいつらを指し示し、こちらを見てきたので俺は一言言った。
「馬鹿はほっとけ」
 三回戦。ここに来て初めて苦戦だった。二戦目を見ていたのか奴らに油断がなかったせいだ。さっきの馬鹿どもは言うまでもないが、油断ってのが大きな落とし穴であることに気付いている奴は案外少ない。
 特にこういう勝負は致命的だ。人間って奴は慢心するだけでどれだけ弱くなることか。しかも油断や慢心は強さが連れてくるって言うんだからなんだかね。
 仕方ねえのでファイバーにシスターを少し連れ出してもらう。どうやったかと言うとファイバーは素直に頷いて名残惜しそうだったがシスターに向かって「トイレに行きたい!」と大音量で言ったんだ。――すまん、それは俺がちょっと恥ずかしかった。
 まあ何はともあれ声をだしてもそう見咎められる者もいなくなったので張り上げて
「きりきり行け! ピプキンっ、切り込め、フォーメーションD」
 それは別に俺が格好をつけてつけた名前じゃないぞ。相手チームにどんな体勢か聞かれても悟られないようにだな。
 俺の声に作戦のかなめのピプキンがハッとした。本当にガキどもの中で誰が一番に化けたかって? 普段はおどおどして大人しいこいつだよ。
 ブラックベリをダミーにして、敵を誘導した瞬間にシルバーがマークが外れたピプキンに投げる。背丈の差はどうしようもない。高く投げれば当たり前だがどれだけ飛び上がっても奪われちまう。
 ならとる方法は一つ。低く投げるんだよ。ストローボールは偶然以外、足でボールを蹴ったらペナルティだ。でかい奴にとっちゃ膝曲げたくれえじゃ届かない。屈んでボールをとるってのは案外難しい。特に高いボールを競ってきた相手にはな。
 ボールにぶつかるようにピプキンが低いそれを鳩尾に抱き込んで、前に塞がる巨体に向かった。それを前にすると異常なほど小さく見えるピプキンの身体が横に動く。左右に抜かれるかと警戒した相手がざっと長い足を開いて――
「いまだっ!」
 ピプキンが一瞬の躊躇いもなく両手でボールを抱きこんで全力で前の地面に身を投げる。小さな身体がアルマジロのように地面に丸まって、次の瞬間男の股下を一回転して潜り抜けたピプキンがしゅたっと素早く身を起こし、もはや阻む者のいない広い世界へと走っていった。背後にはすり抜けられるように突破された男が身を無理矢理振り向かせてバランスを崩しうわっと声があがっている。
「よっしゃあっ!!」
 この技にはさっきまで野次でうるさかった会場もさすがに静まって。
 その中に鋭い笛の音が響く。試合終了の笛が鳴った。


「お前ら、すげえじゃねえか!」
 昼休みを利用して控え室にぞろぞろやってきた船乗り達がでかい声を張り上げる。
「ありがと!」
 まだ興奮が残っているのか、頬を火照らせてガキどもが抱きついて船乗り達もそれを高々とあげる。微笑ましい光景に迷惑そうに見ていた他の選手達もちょっと毒気を抜かれたようだ。
 うーん、こいつら、意外に子ども好きのようだ。港にガキを残して海に出てる連中も多いって聞くしな。わいわいと賑わうその中から外れて、とりあえずベンチに座ったレタスは黙っている。・・・・・・・寂しくなんかないぞ!
「もう優勝だな、優勝だな!」
 我が事のように喜んでるのはあのスリアラーとかいう奴で・・・・・・・・ああ特にこいつは殴りたかったが
「兄貴も喜んでるだろ! 来てないのか!?」
 ・・・・・・・やっぱり殴ってやろうか。つーか、アニキってレタスと呼ばれるくらいこー、こめかみにくるな。
 そこでシスターが戻ってきて、清楚な婆ちゃんに照れたように船乗り達がおっかなびっくり挨拶して、シスターがにこやかに対応する。やっぱこの婆ちゃん、もてるな。
「後三つ、三つで勝てるの!」
 スリアラーの尋ねを聞いていないファイバーがとにかくおおはしゃぎでまくしたてる。ふとその言葉に
「三つ?」
 とあのターバン男が不審そうに声をあげた。
「そうですよ。次にCブロックからあがってきた人達とやって」
 ヘイズルの声に細い目がさらに細まって
「確かそこは辞退したと聞いたが」
「え?」
「試合には勝ったが、怪我人が控えの人数を越えたとかで」
「あ、それは俺も聞いた」
 ありえないくらいに高く担ぎ上げられて青ざめて震えてるピプキンをすとんと降ろした船乗りの中のもう一人が言った。
「・・・・・・・・・・・・・・」
 ・・・・・・・・ってことは。
「不戦勝。お前達の勝ちだ」
 思いも寄らない言葉にガキどもが顔をつき合わせる。ぴんと来てなさそうなので、後で言っとこう。実力主義がどこまでも徹底すればするほどに。
 運は実力だ。


 席に戻ると、汗をかく町長とアシュレイがなにやら言葉を交わしていた。奇異な光景に眉をひそめると、町長はこちらを向いてぎくりとしたようにきびすを返し、逆にあのいけ好かない冒険者はこちらを見て薄く笑って席へと戻った。ゆったりと腰掛けて唐突に猫がネズミをいたぶるように彼は刃を仕掛けた。
「お前、孤児院の出なんだってな。あいつらと同じ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 瞳に入る全てが色褪せたそこで先ほどの町長の様子を思い出す。あの太い首もない町長の根元をきゅっと締めたい衝動に襲われた。けれどそれを飲み下して隣に腰掛ける。
「それで?」
「別に」
 動揺した風でもなくアシュレイは平然と流す。その対応にかっ、と心の中心が焼けた。
「孤児のあいつらが、ああなるのも。――仕方のないことなんだ。あんな扱いをされるのも」
 その言葉にアシュレイは顔をしかめて
「おい。別に聞いちゃいねえんだから、うじうじ後悔しそうなこと横で呟くなよ。辛気臭え」
 けれど虚ろな瞳をした青年は反応がなく続ける。
「ここに来たって、どこに這い上がったってそうだ。いつもそれが付きまとう。孤児孤児孤児。ろくな出をしていない、そんなものばかりだ」
 呟きは吐かれるごとに性急に熱を帯びたものになり、色白の青年の瞳に一縷の今までにないどこか切迫してぎらぎらと不穏に輝く光が浮かんだ。
「そうさ――人はこんなにも醜い。あんな子ども達を寄ってたかって罵って虐げて蔑んで彼らは一片の罪の意識も感じていない。感じようともしない。感じぬ自分になんの疑問も持たない。その理由はなんだ。その思いあがりはなんだ。あの子ども達は悪の権化なのか。だから蔑めるのか。お下がりの服ばかりを着て親に捨てられて死なれて育った、あんな子ども達を悪の権化にできるのか。彼らを罵り虐げるそんな自分たちには見い出せないものを、彼らには見い出せるというのか、馬鹿げてる!」
 熱い塊を吐き出して肩で息を切らす青年を、アシュレイは冷たく見やって肘掛に肘をつき掌に顔をのせた。
「レザーだったら殴るなり怒鳴るなりするだろうが、俺はもうくだらなすぎて殴る気も怒鳴る気もしないな。そういう、お前はどうなんだよ。孤児を蔑んでいる? ああ、お前が一番蔑んでいるんだよ。あいつらを。あいつらの中の自分を蔑んでる。俺は孤児じゃねえからお前の気持ちも重みも知らねえし。無理に分かったふりもしねえ。ただ、お前も見苦しくてみっともない。被害者面で非難するのが醜悪なくらいわな。ああ、お前は孤児で孤児院出身でひねてきたよ。いつまでもみっともねえままだ。分かってるんだろう。分かっているからそうまでみっともなくいつまでもそれを重荷にしてるんだ。お前は分かってるんだ。自分が、自分こそが誰よりもどいつよりもあいつらに最低なことをしていること」
「あんたになにが分かる! 分かるわけないだろう! 冒険者のように何も背負っていないものなどに!」
「ああ、俺達は何も背負っちゃいないぜ。ならお前も冒険者になればいいのさ。何も剣を持って夜盗だなんだのぶっ倒せって言ってるんじゃない。背負ったものをただ投げ出せばいいだけだ。簡単だろ?」
 ひらひらと手を振って青年は喉奥で笑い、いつもどこかに挑戦する意志を含んだ冴えた氷のような瞳で見据えた。
「投げ出す痛みを味わう度胸はあるのか?」
 その迫力が背後にそびえたものを決して愚鈍ではないエルへと伝えた。一つ震えるエルの前で、けれど赤銀の髪の青年は特にそれにしがみつくでもなく顔をそらし
「別にそんな度胸がなくたって、背負って歩く力があるならそれでいい。だけどどちらが楽な生き方だなんて決めつけるなよ。頭の良さを気取っていても」



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