泣いても笑ってもそうなるのなりゃとりあえず泣くより笑っとけ。体内水分は失わずにすむ、と言ったのはどいつだっけ? 多分、昔うちに一夜泊まっていった旅の剣士だったと思う。昔から客人が多かったその中でも、あの剣士の話が一番に面白かったから。
 んで笑って向かう準決勝。なんという観客の顔にも呆然とした色が見える。静かでいいけどなんとなくいやな予感はした。ろくでもねえ嵐の前の静けさって言うか。静まりかえったそのさまが奇妙な焦燥を煽る。
 しかしまあその不安を他に広めるわけにはまさかいかないので、レタスと嬢ちゃんが見送ってガキどもは舞台に赴く。視線を走らした先のお相手さんは、うーん、馬鹿の一つ覚えにでけえのばっか。低いパスばかり練習させといてよかった。
 問題は低いパスはそう長い距離を飛ばないんだが、もともとそこは子どもと大人の違いでガキどもはどうしても飛距離をそんなに出せないから問題はない。いや飛距離を出せないというのは問題だが、それは仕方ない。ギャップの強さとハンデを利点へと変換させる術も全てには適応させられない。後はただ根性と意気込みの違いだけだ。
 天気のいい大会日の空の下、ガキどもが駆け回る。今も昔も同じ、路地裏で見えた表情で様子で。
 情けないくらい、俺もやりたかったんだな、って思った。いやガキじゃなくなったちょいと前にそれをぽつっとこぼしたら仲間内で少しだけつきあってくれたことはあったんだが。
 確かに楽しくて夢中になってやったけれど、終わって息を切らしたその後で気持ちに小さな穴が開いた。楽しかったことに偽りはなくても、昔から目に焼きついていた街のがきどもがやっていたものほど、輝いているようには思えなかった。
 その時のことを思い出して、それから同時に答えを見つけた。体格も持久力も不利なのに、なんでこいつら強いか分かったぞ。これは遊びだ。遊びだ。遊びに関しちゃ生まれつき天才のガキ達には誰も叶わねえ。
「レザーさん」
 こっそり声をひそめてファイバーが言った。
「ファイバー、もう少し大きくなったら絶対やるの」
「おう、やっとけ」
 俺も小さく応えた。言って少しだけ悔しかった。
 動く奴らは大空に放たれた鳥みたいに水を得た魚みたいに、その場所でなによりも気持ち良さそうに。
 周りの盛り上がりを他所に俺と嬢ちゃんは勝敗の如何より試合だけを見てた。だって奴らがもう気にしてないからな。どうして俺達が気にしてやれよう。真上の太陽は全てを白く焼いて目を細めてファイバーが
「ずーっと続けば、いいのにね」
 ファイバーはファイバーだな、と思う台詞だ。いや侮れんからもっとでかい意味があるのかもしれん。
 シスターがいてヘイズルがいてブラックベリ、シルバー、ピプキン、ホリー、ブルーベル、連中全てがいて一緒に孤児院で暮らしてる、それがずっと続けばいいって意味なのかもしれん。それはどうあがいても無理だから今が大切で。
 気付けば試合は終わっていた。勝ったのか負けたのか、とんと分からないままファイバーが行こう、と言って立ち上がる。控え室から覆うものがないフィールドに立つとそりゃ日差しが眩しくて、全てが真っ白になって焼きついて。
 光の下で奴らも勝ち負けなんか気にしていないように火照った顔で息を切らして汗が光る肌で気持ち良さそうに目を細めていた。
 駆け寄ると奴らが笑う。白い歯が見える。にっとつりあがる口元が見える。つたう汗が見える。
 それで多分、その叫びは、敵側の誰かから来た。

「詐欺をしやがった!」

 焼きついた世界が一瞬で崩れ落ちた。たたきつけられたガラスみたいに無残に。
「こいつらは詐欺をした。試合中ずっとだ!!」
 両手を振り回して、辺りに訴える。全てに訴える。それが禍々しい、悪意の影に見えた。


「始まった」
 予定調和の出来事をつぶやくように、彼の囁きは小さかった。けれどその響きは届いたようにすぐ横に腰掛けたエルの肩がびくりと震えた。
 轟々と沸き立つ周りにたいして彼らの間だけ、その激動が伝わることはないのかアシュレイは冷たく指を組む。
「さっきの話の続きでもするか」
「・・・・・・・・・・」
「お前は周りの奴らがなんとも思ってないことに怒るが、俺から言わせればお前の方が重罪だね。「ナニカ」を思っていてそれで何もしない方が」
 そこで悠然と赤銀の髪の青年は、辺りを嘲笑すら含む眼差しでぐるりと見回し
「こいつらは豚だ。自分で考えることをしない。豚だ。レザーなら盛大に怒るだろうが、俺から言わせりゃ怒る価値もないんだよ。豚には何を言っても無駄でぶうぶう吼えるだけだ。豚だからな。そんな奴らに期待する奴も豚並みの脳みそだ。」
 端整な顔立ちは相当にぶっそうで侮辱的な言葉を口にして、そこでアシュレイは一つ柄ではないのにな、と思いながら震える町長秘書を見やった。
「馬鹿はほっとけ。他人に期待なんかするな。自分でやれ。お前が、庇ってやれ。お前だけが心から庇えるんだろ。ならお前がやれ」
 一瞬の完全な停止の後に、震える手がゆっくりと動いてひじかけを掴んだ。頼りない手は刹那、そこをぎゅっと力を入れて握り、やがて細い身体がゆるゆると立ち上がって幽鬼のように客席の列から横の階段へと出た。
 階段を一歩下りたその瞬間に、突然雷鳴に打たれたように生気がなかった身体が跳ねて、後は一目散にその階段を駆け下りていく。
 馬鹿なことをしたか、とかすかに自分に呆れてアシュレイは罵声が響く中でゆっくりと背もたれに身を沈め
「レザー、お前がさっさと出てこないからお前のすることを俺がしなきゃいけないんだぞ」
 ぼやくように言ってから、頭の後ろで手を組んだ。
「さあて、俺はどうするかね」
 呟いた瞬間だった。背後から辺りの罵声の大合唱とは畑が違う大声が背後から響いた。
「アシュレイ・ストーン!」
 その金切り声に、その場所だけ罵声が止まり、周囲の人間が何事かという目で見つめる。アシュレイは振り向いてそこに立っている男を見つめた。少しだけ見覚えがある。確か噴水に沈めた顔だ。
「今度こそ逃がさねえぞっ!! その命は諦めろ!」
 ひゅう、と口笛を吹いて、赤銀の髪の青年は相手に向かい爽やかに笑いかけた。「いいところに来た」
 そして椅子から立ち上がり、ぐ、と握った拳を挑発的にかかげる。
「よし、つきあってやるよ。派手な殴り合いになるぞ。豚どもを巻き込んだ」
 言葉と同時にすでに拳が出ている。派手に見せかけてその実一撃で決まらぬように手加減して男を殴り飛ばしながらアシュレイ・ストーンは高らかに楽しげに声を放った。
「目立てばレザーが俺に気付いてくれるしな!」


 それから起こったことはまさに雪崩のようで。
 叫び声に呼応して相手チームの全員がそうだ、そうだと口々に叫びだした。呆然としていた客席から瞬間、火山のようにそれが吹き出て轟々と罵声と中傷と憎悪の塊が凄まじい勢いで飛び込んでくる。
「―――っ」
 ガシャン、と近くで瓶が割れる音がした。見るとピプキンの前に飛び出したヘイズルが抑えた額から一筋の血が流れて、その足元に瓶の破片が粉々になって転がっていた。
 それを見てファイバーがひっ、と喉奥から声を出す。ガシャンガシャンと音がして次々にそれは放り込まれる。断片。急いで駆け寄ってくるシスターの姿。食って掛かるブラックベリーとシルバー、呆然と立ち竦むホリーとブルーベルに、脅えて泣きそうに血を流すヘイズルを見上げるピプキンに、それでも必死に庇うように動くヘイズル。罵声。困惑。――俺をぎゅっと握るファイバーの震える手。
 全部が砕けて。そして白くなった。何も聞こえなくなった世界で俺は獣じみた轟きをあげた。
「いいかげんにしやがれてめえらっ!!」
 頭の中に、吐き気がするほどの怒りがあった。悔しさがあった。人間が嫌になるほどの、絶望があった。
「ざけんじゃねえよっ! お前らは何も見えてないのかっ! それだけ目え開いときながら今までの試合で何も見えなかったのかっ! そんなに自分の価値観で人を傷つけられるかっ!!そんなにお前らは―――何も変われねえのかよっ!!!」


「レザーさんっ!!」
 誰のものとも分からないが会場全体に巨大に響き渡り、肌が痺れるような凄まじさで全てを止めた声が響いた瞬間、客席の真中で土鍋を抱いた少女が立ち上がった。そしてその細い身体が少し屈められた、と思った刹那、その姿がかき消える。
「――へ?」
 彼女の傍にいた数人の観客が間の抜けた声をあげる中で、ひとっとびの跳躍で客席から階段へと移った少女は着地すると同時に碗形のドーム一杯に響いた声目指して駆け出した。


「レザーっ!?」
 全く別の場所からも同じ叫びがあがってちょうど男の顎を殴り飛ばしたその時に、赤銀の青年は慌てて振り向いた。
 どうと何人かの悲鳴と共に倒れこむ、それまで苛烈な殴り合いをしていた男には一瞥もくれずに、前の席の背もたれに手をついてじっと目を凝らすものの、遠いフィールドにその姿は見い出せずに、舌打ちして駆け出したが我も我もと連なる人々の強固な壁がその足を阻んだ。
「くそっ」
 小さく毒づいて赤銀の髪の青年は人々を押しのけて前に進み始めた。


 力の限り怒鳴り散らした後も、俺の意識は俄かに戻らない。そんな呆けた白色の世界の中でふと
「レザーさんっ!」
 聞き覚えがある声がした、と思った瞬間に客席から冗談のような跳躍を見せて一つの影がフィールドに降り立ち、すぐにそれが大きくなった。白い髪に白い肌――は大急ぎで駆けつけてきたせいか綺麗に紅潮してその手には何故だが茶色い土鍋。――?――、ともあれ繊細な顔立ちの中の赤い瞳の力は忘れようと思ってもなかなか忘れられない――
「メイ――」
「きゃーっ! レザーさん大丈夫ですか痛んでませんか葉っぱがしなってませんかどこか食べられていませんか半分くらい身体がなくなってませんかムシにたかられて穴があいていませんか保存が悪くて鮮度が落ちてませんか腐ってませんか萎びてませんか味が落ちてませんかーっ!」
 走る途中で持っていた土鍋をばっと思い切り良く横に放り捨て自由になったその白い手で、ファイバーからさっと奪い取り手の中で猛烈に転がされて、なんかものすごく味に関してのことのみをまくしたてられたような気がする。
 メイスはしばらく、いつもの早口もかくやというまでに苛烈に叫んでいたが、やがて感極まったような声をあげてぎゅっと俺を抱きしめた。
「そうですこの匂いですっ、芳醇な香りっ! この締り具合! この葉の張りと瑞々しさ!! レザーさん以外ありません!!――ああっ! もう、もう私! レザーさんなら食べかけでもいいですっ!!」
「おいっ!」
「さあっ! 再会の一口っ!」
「まてええええっ!!」
 情熱的な叫びを辺りに放った可愛らしい口がくわりと開いた。やべえこいつ目の色変わってるっ! なんてこと思う暇もなく悲鳴をあげた俺だが不意にさっと迫りくるメイスの手から取り戻された。絶妙のタイミングで久方ぶりに再会した相方の魔の手から俺を救出してくれたのは――
「ダメっ!」
 ファイバーだ。俺を隠すようにぎゅっと抱き込んで身体を横に向け、小さな顔だけを真っ向から向けて厳しい目でメイスを睨みつける。
「レザーさんは、ファイバーのなの!」
 一瞬、目標を見失ったメイスはファイバーを見て、きっと目をつりあげた。
「そのようなことを勝手に主張したからと言って事実になると思ったら大間違いですよあなたは先有権という言葉を知らないのですか? あなたのずーっと前からレザーさんを所有していたのですから私には権利があります!」
「俺は俺のもんだろっ!」
「レザーさんはファイバーのっ!」
 とりあえず正統だろう俺の訴えを間に挟んで完全無視して二人の嬢ちゃん達はにらみ合う。間に火花が散った。そんな場合でもねえしどんな場合でも根本的に間違ったやり取りだったが。
 メイスは憤懣やる方ないという風に自らの主張を突きつけるよう手を広げて
「ずーっと前からレザーさんは私のものなんです! 私にだけ食べる権利も持つ権利もあるんですっ!」
「ねえよ」
「レザーさんはファイバーのなのっ!」
「だから俺は俺のもんだって言ってんだろっ!」
 なんか飛び入りもそろって混乱をきたしていたその場だが、ひゅっと突然横合いから飛んできた瓶がメイスに当たりかけた。それをメイスが咄嗟に避け、瓶が地面にたたきつけられ割れた音に、呪縛がとけるよう我に返る。
 そこでさっとヘイズルが二人の間に割ってはいって、ただ一心に俺に目をやり
「レザーさんっ、もててる場合じゃないですよっ!」
「お前俺に喧嘩売ってんのかっ!」
 切羽詰ってもなめたこと抜かすヘイズルに怒鳴りつつも、確かにその通りだ。さっきの俺の声にわずかに収まったが、しきる相手がいないせいか再び物は投げ込まれる、非難は集中する。
 ああくそ。
「メイス!」
「なんですか? 私だけに食べる権利があるレザーさん」
「そんなレザーはどこにもいねえ」
 ファイバーを意識してか刺々しく言ったメイスの声にとりあえず反論しつつ
「この事態。なんとかならないか。目くらましとか勢いを収める魔法とかないか」
 そこでメイスは初めて辺りに気付いたように顔をしかめた。耳の良すぎるメイスにこれはきついかもしれん。
「確かにうるさいですね」
「だろ? 暴動になる前になんとか止めてくれ」
「知りませんよ。そんな方法」
「そこをなんとか」
「ない袖はふれぬ、という言葉の意味が私の返答と――」つげなく振り切っていたメイスは、そこでふと何かに気付いたように背後を見下ろした。そこにはさっきメイスが放り出した、投げ出されても割れずにちょこんと置かれたようにある土鍋。なんだあれ?
 メイスはその鍋にじっと視線を注いで
「レザーさん、これが収まりそうなら何が起こってもいいですか?」
「・・・・・・・・程度は?」
「死人は出ません」
「よし。それでいい」
 迷ってる暇はなかった。俺の即答にメイスは鍋がちょこんと置かれたところまで戻ると、その場にひょいとしゃがみ込み、数度不思議な呪を紡ぐ。
「ん、ではちょっと下がっていた方がいいですー」
 振り向いて言った言葉にヘイズルがとりあえず飛来する物を避けながら、皆を下がらせて俺はファイバーの手から飛び出した。
「レザーさんっ!」
 後ろでファイバーが呼んでいるが、とりあえずメイスの元へと転がる。ころころと傍まで転がっていくと
「レザーさん、危ないかもしれませんよー。何が起こるかわかりませんし」
 何かの封印を手順を踏んで解除しながら、メイスがこちらを振り向かずに言った。
「お前こそ、危ないんじゃないのか?」
「なにしろお師匠様のためにろくでもないことに関しては別につけたくもないのですが結果的に耐性がありますからねー。多分大丈夫でしょう」
「なら、俺も大丈夫だ」
 メイスの片手が伸びて持ち上げられた。いつもひんやりしているメイスの手だ。懐かしい感触だった。
「美味しさが、損なわれないようにしてくださいね」
 にっこりと笑ってメイスが言った。・・・・・・・・言いたいことは分かるが、久々のそれは記憶より鋭利で到底笑えない・・・・・・・・俺、結構過酷な状況で生きてたっけなそういえば。
 メイスの左手が軽く土鍋に剥がした札にかかり
「なにしろお師匠様の置き土産ですから」
「あ? なん――・・・・・」
 だって、と続ける間もなくべりっと躊躇いなく、メイスの手が札をひっぺがした瞬間、その札を左手に俺を右手に持ったまま大きくメイスが後方へ跳び去った。一息でほとんどファイバー達のところまで跳んだ跳躍力。おそるべし。
 鍋の方は何か冗談でもあるように最初は何の変化も見せなかった。しかしなぜか、なぜだか、鍋は一つぴょんと垂直に六分の一リーロルほどの高さまで跳ねた。跳ねて蓋が飛び上がり、開いた瞬間。
 ぶはあっ、
 とその中から凄まじい量の煙が飛び出した。
 鍋の内積オーバーとかそういうレベルの比じゃない。息を呑む間もなく入道雲のような形とスケールのでかさで煙は俺達に迫り即座にその中に飲み込み辺りは包まれた。
 視界の完全な白濁に、俺は舌打ちする。
 なんとか視界を取り戻そうとしても、俺を持ったメイスの手がかすかに見えるだけ。いや煙というよりはそれは霧のようだった。息もできる、喉や目を傷めるわけでなく、少し湿ってそして限りなく濃い。
「メイス・・・・・・っ」
「はいー」
 了解しているのかメイスが片手で手を掲げ、唇が呪を零した。俺を持ってない右手の五本の指先が全て皮膚の内側からともされたように青い光を帯びた。凛と光る、自然の持つ色合いではない光だった。
 無造作にメイスが細い手首をしならせてぶんっと片手を振ると、それはその指の先からもなくなった。そして平に一つの、広がる大きな光が現れ――瞬間、突風が俺の全身を叩いた。
 面食らった間にメイスが掲げた右手から物凄い風が生まれて、辺りの重い霧を追いやっていく。すぐにファイバー、ヘイズル、とがきどもの姿が吹き飛んでいく霧の中から生まれていく。
 そして煙は急速にまとまり固まり、上昇気流に乗るようにざーっと空へとあがっていった。
 そのまま散ると思われたそれはけれど、空で奇妙な動きを示し始めた。
 もくもくもくと煙が円を描いた。今度はむくむくむくとそれが横に広がって一つの輪郭を描き出す。もくもくもくと続いてでかい目にベージュ(つまり雲の色)の上着を輪郭が生み出した。空をキャンパスとして使って煙は絵の具となりそこに絵を描いていた。
 描かれたのは、子どものたわいない落書きのようにどこかはっちゃけていて、あはあはとしまらん感じに口を大きく開いている辺りが馬鹿っぽい、髪の長い少女・・・・・・・もしかせんでもあれは、と思った俺の思考を読んだように絵の頬の輪郭から煙が飛び出て、しゅるしゅると回転して自分の軌跡を器用に消すと、今度は「←」というマークを描かれた絵の少女の右斜め頭上に書き出し、尖った先の部分は当然描いたばかりの人物をさす。そんで棒の先にそれからでかい文字が綴られた。
『ばかうさぎ』
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 それだけで煙は収まらずに、その人物像の横にもくもくと流れて完全円形ではないが丸っこい空に描かれたメイス(…)の頭くらいのそれを再び描き出す。
 もくもくと煙が伸びてその上にまた「←」が描き煙は書いた。『間抜けレタス』
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 ・・・・・・・・・・・・・・・周りの奴らも起こった奇怪な出来事になんだなんだと見上げてぽかんと口をあいている。目の前に、空一杯に広がるのはばかうさぎと書かれたしまらん感じの嬢ちゃんと間抜けレタスと書かれたちょっとでこぼこした輪郭の丸。
「――なあ、メイス」
 俺は静かに、静かに、呼びかけた。
「はい、なんでしょうか、レザーさん」
 メイスもいやに落ち着いて感情のこもらない声で応える。
「俺はあのボケを泣きが入るまで殴り倒す」
「ええ、お手伝いしますよ。」
 呟いてメイスはすたすた歩いて行き、ぽかんと間抜けに蓋を開いたままの土鍋を思い切り遥か彼方へ蹴っ飛ばした。よく飛んで飛んだ先の地面でがしゃんと土鍋はきりよく真っ二つに割れた。
「さあっ! もう決着つけるなら勝手につけてくださいっ! 私達はあの――っ」なんとも珍しくメイスがその口調を途切れさせた。怒りのあまりにあの毒舌が出ないメイスなんて始めてみた。メイスは憤懣やるかたないというように続けた。「最低っお師匠さまを追いかけなければいけないんですからっ!!」
 振り向いてぽかんとしたままの奴らに八つ当たりのよう怒鳴り散らす。するとメイスの声にこたえたというわけでもないだろうが、いささか静まったグラウンドの上、ぽっかりと空いた入場口から一人の男が駆けて来た。
 綺麗に梳った髪型は乱れてよほど急いでやってきたのかぜえはあと肩で息していたが、その瞳は断固とした決意に彩られてやがて真中まで駆けてくると、ここの放送に使われている音声増幅器を構えた。こいつ、あの、エルとかいう奴だ。一瞬、奴は息を深く吸って瞳を閉じてそして開いた。
「皆さんっ! 厳正なる協議の結果、先ほどの試合の勝利はこのチームだと認定されました。不正はいっさいなされておりません! 私は町長秘書のエル・アライラーと申します。これ以上、罪もなければ不正もない子供たちに野次を飛ばし物を飛ばす非人道的な真似をやめてください。役所の自警団の処罰の対象にもなります」
 少しの間、会場が静まりやがてどこからか瓶がくるくると飛んできて叩きつけられて割れた。
「ふざけんなっ!」
「いたって大真面目です。」
 迎え撃つ冷たい一言に、勢いは続かなかった。
「あなた方は彼らを有害、不正といいます。ならばその根拠と事象を羅列してください」
「そこのガキどもが三丁目の小火騒ぎ起こした雑貨屋の放火の犯人だぞ!」
 一人の呼び声にそうだそうだ、俺も聞いたぞ、と次々に声があがる。一度引いた波が再び荒々しい風を受けて何事もなかったように押し寄せてくるのを、けれど兄ちゃんは冷たい視線で見据えて
「そのことに関しての調査報告があります。犯人の名はルクライヤ・ロッソ。すでに捕まり、獄中の人物です。前科二件の小悪党で、罪の軽減のために自白もしています。彼のことはすでに役所から発表があったにも関わらず多くの人々が孤児院の仕業だと勘違いしている。裁判は朱の月の二十七日に行われる予定です」
 一瞬の沈黙があった。これだけ大勢の人間が作り出した沈黙というのは大きかった。風が、変わる――?
 やがて今度は全然別の方向から
「ま、まだある! 前崩れて怪我人出した屋台の釘を抜いたのが」
「その事件は目撃者の言により、灰色の服を着た焦げ茶色の髪の四十代程の男であり似顔絵も役所の印を押して発行しております。その事件も犯人が孤児院の子ども達との勘違いが広まったせいで、証言者が少なくて困っているところです。本当に事件解決を望むならばご協力お願いいたします」
 次々と出るわ出るわ、呆れるくらいの量の容疑を兄ちゃんは理路整然とさばいていく。こんなもん、だいぶ前からかなり綿密に調査してなければ出来やしない。出された全てをさばききってまさにぐうの音も出なくなった民衆の前で町長秘書はやがて一つ息を吐いて言った。
「これで気が済んだでしょうか。今から通告することは、市町全体の意です。無辜の町民の身を権利を守るために私達はあるのです。事実無根の人々を言葉や暴力で虐げる行為はこの街の住民であるならばやめていただきます。次回から罰則の対象になります」
 それから町長秘書はくるりと背をむいて帰ろうとしたが、ふと思い出したように
「ちなみにこの大会に置いて不正はいっさい発見できず認められるものではありませんでした。その訴えは却下されます。それでも何か根拠があり不服な者は後日裁判所に申請してください。ただし、名誉毀損の罪になることもありますがね」
 それだけ言って町長秘書はこっちに向かって歩いてきた。影に入ったところで、シスターがそっと駆け寄る。
「エル」
 その時の奴の顔は少々見物だった。照れて罰がわるそうながきどもとそっくりの表情で頬を染めてシスターを見て、けれど急に取り繕い、それから仕事がありますから、とそそくさときびすを返した。その後ろから胸に手をあてて、ゆっくりとシスターが深く優しい声を発した。
「エル、ありがとう」
「べ、別に、私は職務を果たしただけです」
 動揺を見せながらも素っ気なく婆ちゃんを振り払った先で、兄ちゃんはふと目の前にいた人物に気付いて目を瞬かせた。ファイバーとヘイズルが並んで立ってそこで二人はにっこりと笑った。
「ありがと」
「ありがとうございます。エル兄さん」
 そこでまた頬を赤くして
「ですから、私は職務を果たし――」
 そこまで言ったところで、突然背後からその腕、腰、肩にいっせいに残りのガキどもからの愛情がこもったタックルを喰らって体勢を崩し、それ以上の型にはまった文句はうわっという言葉にかき消された。
それぞれ両肩にブラックベリーとシルバー、両腕にブルーベルとホリー、腰にはぎゅうとピプキンが抱きついている。五人は自分が見つけた箇所をぎゅうぎゅうと占め、あるいはぽかぽかと親愛をこめて殴りながら
「ありがとう!」
「いいとこあんじゃん!」
「兄ちゃん! ごめん、悪口言った!!」
「ブラックベリより百倍はいい奴だ!」
「シルバーより千倍はいい奴だっ!!」
 喚きたてるガキどもにまみれて、冷徹な顔も完全に崩れ去ってあわあわと強く振り払えもせずにまとわりついている。
 それは今までのことを全部ちゃらにしてやってもいいか、と思えるくらいなかなか見ものな光景だった。その前にシスターが立った。全ての子どもに向ける母のように微笑む。
「エル」
 最後にはあんちゃんも観念したようだった。ガキどもに引きずられてしがみつかれて真っ赤になって俯きながら
「こ、・・・・・・・・今度、視察に行かせて頂きますよ。役所側として。施設として改善されるべき点が多くありそうですからね」
 その光景を首をかしげて見ながらやがてメイスは手の中の俺に聞いた。
「レザーさん、私がいない間、一体なにをなさっていたのですか?」
 俺は簡潔に答えた。
「色々」
 そう呟いてまだ何か言いたげなメイスの顔を見上げたとき、ふとフィールドの方からやたら血走った声が響いてここまで届いた。
「レザー!」
 ぎくりと思わず震える。メイスもフィールドを見やる。響く声に結構本気の殺気がこもってる。やべえ。知らねえ奴には笑い上戸の馬鹿のようにも思えるが、あいつは怒らせると結構に厄介な――
「何か理由があって俺に会えないって言うなら、せめて一ヵ月後のエフラファ、忘れるなよ!」
 レザー、と直もアシュレイが呼ぶ声がするが、さすがに答えられない。・・・・・・・・・一ヵ月後? エフラファ?
 ・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・
「―――ああっ!」
 俺は思わずでかい声をあげた。シスター、兄ちゃん、ガキどもの視線がこっちに向いた。慌てて意識して口をきかないようにしながら、どっと汗(でないがっ)が吹き出してくるように身体が冷たくなった。
 物の見事に。
 そりゃもうきっぱりさっぱりと。わりいアシュレイ。

 すっかり忘れてた・・・・


 風はなかった。無風の空気が熱でよどみ、太陽の下での影は足元に短く丸く縮んでいる。けれどその影の主はまるで風に吹かれたようにふと立ち止まり、足を半歩分後ろに引いて身体を反転させ、そちらを見た。
 空を威勢良く飛ぶ鳥が一リーロルもいかぬ一瞬きの間に、街道のその姿は己が身体が作り出した影と共に跡形もなくかき消えていた。街道には他に人目はなかったが、それでも葉を広げる野の緑は降り注ぐ光はさえずる鳥は、平常に突如起こったその異変を大慌てでもみ消し誤魔化すように白々しく誰もいぬ街道の風景を広げた。
 後のことなど知ったことではないというように、彼らを置き去りにして消滅した姿は街道の脇にそびえる松の枝に再生していた。
 その折にも手入れが行き届いていないのか、艶のないばさばさした黒髪は一筋もなびかずに落ち着いて肩にかかり、一際高い位置に横にのびるくねった枝は子どもの体重も支えるのは不可能だが、そのかかる重みにしなる様子も見せずに平然と伸びていて、そこに立つローブの下からのぞく旅用の革靴に包まれた足も細く面積が足りない不安定な足場に一つとしてぐらりと揺れることなく静止している。
 遠い東の空に、白い雲で描かれた形がこの高さからなら見て取れた。
 情緒的というにはおかしい程に正確にその雲は遥かな空に円形と少女のしまりない顔が描かれる。
 それを見つめる主の手前に存在する枝から伸びる松葉の細い影がその頬にかかり、光と影の文様を作り出す。
 ひとしきり彼方の空を眺めやり、やがてその頬がふっと笑った。

 
 静かなその界隈は薄暗くあまり人気がない。その隅にぽつりとそびえる教会にだけは目にすれば誰もが目元を和ませるような人の温かい灯火があり、窓越しにそのぬくもりを伝えていた。
 夜の中を音もなく歩み寄る人影は一瞬、それに眼を奪われたように足を止めてやがて再開し、明かりがつく二階の窓を首が痛くなるまで見上げないでもいい適度な位置で止まると、地面に転がっていた石ころを拾いあげ見事な狙いで窓に投げつけた。
 薄い窓だが、強さも程よく加減しているのか乱暴に割れることなく、震わして音を告げる。明かりを背にして黒く窓にうつる小さな人影が気付いたらしく、窓を開けて見下ろし、そして大きく息を呑む音と共に窓から取って返し、その一室は俄かに騒ぎ出した。
 全開に開いた窓枠にぶつかるようにして、黒髪の少女が落ちる直前まで身を乗り出して食い入るようにこちらを見て
「レザーさんっ!!」
「よお」
 その後ろからそう大きくはない窓になんとか場所を確保して、窓枠にかじりつく少女の横から、すっと一人大人びた少年が顔を出した。彼は隣の少女が夢中になりすぎて落ちないように肩に手を添えてこちらを見る。
「レザーさん、行っちゃうの・・・・・・・・?」
 すでにえぐえぐと泣いている少女に、人影は少し困ったように首を揺らして
「――ああ。やらなきゃいけないことがあるからな」
「いかないで」
 少女の涙混じり声が響いて、また困ったようにごめん、と声がした。
「ファイバー」
 隣の少年が言い聞かせるように彼女をゆすると、少女はしばらく大きな黒い瞳に涙をいっぱいにためていたが、やがて泣き声と同じくかん高く夜空にゆいんと響く声で
「ファイバーいい子にしてるから! いい子にしてるからまた来て。また来てレザーさんのお嫁さんにして!」
 その叫びに人影はにわかに焦ったように頭をかいて、けれどそれでも真摯に
「必ずまた来る。それから、嫁がどうのこうのは先のことはわかんないから断定はできないけど、考えておく!」
「絶対にね・・・・・っ」
「ああ、カリスクの名にかけて、絶対だ。」
 窓枠にかじりついてその大きな瞳から、大粒の涙を後から後からこぼす少女を気遣うように頭を撫でる、横に立った少年はやがてこちらを向いて張りのある声で
「レザーさん、お達者で。色々と本当にありがとうございました。僕も、あなたに負けないようがんばります!」
 その身体の手前からにょきっと雨の後の竹の子のように残りの小さな頭が押し合いへし合いして、その果てに競り合いに勝ったのか突き出された二つの頭の主の、どことなくその勝気そうな頬が似ている二人はちょうど正反対の手をあげて振り
「今度来たら俺がシルバーを余裕で抜かすタイムちゃんと計ってくれよ!」
「今度来たら俺がブラックベリをけちょんけちょんに負かすタイムちゃんと計ってくれよ!」
「分かった。きちんとな」
 次の瞬間にわっと口を広げた二人が、下から沼に引きずられたように仲良く同時に沈んで、かわりにぴょんと三つの頭が飛び出て手を振る。
「レザーさーん! 萎びないよう気をつけてね!」
「これから暑くなるし、霧吹き持って行く!?」
「魔導師さん可愛いけどなんか気をつけてねー!」
「おっ、お前らなあっ!」
 人影が怒鳴ると、その先でどっと無邪気な子どもの笑い声があがった。するとこちらも分かっているのか、青年もまた参ったように笑う。
 しばらく笑い声が溢れて、それから家の影がその身にかかって、遠目にはもやもやとした一つの影にしか見えぬ彼が、じっと見つめてくるのに気付いて窓枠の中の子供たちも笑うことをやめた。
「しっかりやれよ。シスターの手伝いをしてな」
「うんっ・・・・・!」
 彼は決して長居はせずに、それが別れだと言うように、手を振りやがてきびすを返す一瞬に、ふと何かに気付いたように身体を戻した。
 一階の教会のドアの入り口にいつの間にか細い身体をした老シスターが立っていた。彼女は何も言わずにこちらを見て微笑んでそしてやがて深々と身を折って頭を下げた。
 それに人影もまたゆっくりと笑ったようだ。そこから真摯で飾らぬ青年の声が漏れる。
「さようなら。お元気で」
 しんとその時だけは静まり返った夜の中で彼がきびすを返す。子ども達が泣き声とも歓声ともつかぬ声でその背を送った。
「元気でね! また来てね!」
「ありがとう! 本当にありがとう!」
 やがてその人影が、家々の隙間へと消えていっても、枯れるまでにその声は夜の中に吐き出され続けた。


 とんとんと階段をあがっていけば、その部屋で子ども達の多くは皆ベッドに突っ伏し、床に座り込むなりして、それぞれそれぞれなりの方法で泣いていた。それを慰めているヘイズルの瞳にも涙が見える。多くの喜びをもたらしてくれた出会いは、多くの悲しみをもたらす別れをも同時に生み出す。
 己が今までの生の中で、それをよく知っていた彼女は近付くと子ども達がいっせいに泣きついてくる。その一人一人の頭を優しく心を込めて撫でると、ふとおかしいことに気付いた。いつもは真っ先に泣きついてくる黒髪の一番年少の少女がいなかったのだ。
 目をやると黒髪の少女はベッドの端にちょこんと腰掛けて、前は花瓶がおいてあったがシルバーとブラックベリが喧嘩騒ぎをおこした際に割ってしまい、今は何も置かれていない棚をぼんやりと見ていて、その脇にヘイズルも寄り添うように静かに立っていた。
 縋りつく子ども達をそれぞれを軽く抱きしめて、肩を叩いて安心させてから、彼女の元へと歩を詰める。
「ファイバー」
 呼びかけると、彼女はこちらを向いた。黒く大きな瞳があまりに無垢にこちらを見上げて薄く開いた唇がぽつんと一言だけを紡いだ。
「行っちゃった」
「行ってしまったわ」
 頷くと、俯いた先で涙がこぼれて小さな膝にシミを作る。その彼女を抱き上げて自分はベッドに腰掛け、小さな身体を膝にのせて背中から包むように
「でも、また来るわ。あの方は必ず」
「本当?」
「ええ。必ず」
「どうしてシスターは言い切れるの?」
「あの方が誓ったからよ。高潔な騎士の、その誓いは破られないわ」
 見上げてくる瞳に嘘のない言葉で答えると、ふと周りでまだぐずっていたシルバーが
「騎士?」
「レザーさんは魔術師さんのつ・・・・・・・じゃなくて、お供と言ってましたけど」
 ヘイズルもきょとんとして言うと、シスターは全ての子どもたちの視線を受けて首を横に振り
「いえ、あの方は騎士よ。それも多分、正式な聖騎士だわ。」
「ど、どうして、シスターは言い切れるの?」
「レザーさん聖騎士なのか? カリスクと一緒で?」
「そう、そのカリスク。あの方は言ったでしょう? 「カリスクの名にかけて」と。あれは聖騎士だけが使う誓約の方法。決して破ることはない、身命をかけた誓い。聖騎士はその名を拝命される時に、剣と志にかけて、一人の偉人の名を決めるの。心に決めた尊敬すべき先人を。その名を汚さぬように、いつでも恥じることなく誇れる自らであるように。」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
 涙もやんだように子ども達は揃って顔を見回した。落ち着きなくホリーがシルバーをつつき
「どういうこと?」
「俺が知るかよ」
 子ども達が揃って首をかしげたところでふと、先ほどまで人一倍大泣きしていたピプキンがおずおずと
「・・・・・・・・レザーさんって、カリスクだったんじゃないのかな」
 言った途端に全員の視線が集まってピプキンは顔を真っ赤にしたが、ヘイズルが元気付けるように肩を抱いて
「僕らのカリスクであることには違いないね。僕らの竜を倒してくれた。――もちろん、僕らだって手伝ったからカリスクの仲間ってことになるけどね」
 その言葉には異論がなかったようで、また少し奇妙な沈黙が続いた後で、ふとシルバーが頬をかきながら
「俺、カリスクでなくてもレザーさんでもいいかな、なるの」
「あっ、てめえ! 抜け駆けすんなよっ!」
「なにが抜け駆けだよっ! 先に言い出したもん勝ちに――」
 いつもの言い合いになりかけたそこにつと違う声が参戦した。
「駄目だよ。」
 そちらを見ると、唖然として振り向き見上げるピプキンの後ろでヘイズルがにっこり笑う。
「レザーさんは、僕がなるんだもの」
 その顔をファイバーを抱いたシスターが見てあら、と何かに気付いたように目を動かす。
「ずるいっ!」
「ヘイズルずるい!」
「ずるくないよ。一番僕が先に言ったから」
 そこでもめだした三人の間に突然シスターの膝から元気よく飛び降りた少女が、両手を広げて飛び込んだ。
「ファイバー、レザーさんのお嫁さん!」
 それを引き金にほとんど塊のようになって興奮した子ども達が叫びだす。それにシスターはあらあらと笑ってそれから満ち足りた気分で窓の外を向いた。
 闇で満ちる夜の中に浮かぶただ一つの希望のよう。大地に白い眼差しを投げかけるその月の姿は、我が子を抱きとめるために腕を広げた聖母のように見えた。



 エピローグ


 一夜宿屋で過ごした後の、太陽はよく晴れていた。営業時間が来て開いたばかりのどうやら昨日の件で色々とあったのか忙しそうな役所の中で聞いた情報に飛び上がって、急いで駆けていくメイスの白い髪が後ろに流される。
「急げっ、メイス」
「あのですねー、レザーさん、レザーさんのためにこうして急いでいるのにその言い草はなんですか」
「今日を逃したら後、一週間ねえんだろ」
「ですから、それは全てレザーさんの都合というものでしょう。だいたい海なんて不確定な代物を旅していくうさぎなんて聞いたこともないにも関わらず、レザーさんのご希望に従ってこの行為には一方的なレザーさんのみの利益であり私の行動理由は親切心だけという言わば無償の奉仕にたいしていたわりの言葉一つなく命令口調ですます辺りがお師匠様を連想させてとっても気分を害します」
「あー悪かった。急いでくれ」
「レザーさん、しばらく見ないうちになんだか態度が横柄になってきていませんか? お師匠さまと会ったのは一度きりだというのに人間というものは段々と毒が回るように類似してくるのでしょうかね。ああ全く質の悪いものほどしぶとくしつこく更なる災厄を呼ぶのですから人類史上最悪の病原菌ですよお師匠様は」
 多分お前に似てきたんだと思うぞ俺は、との言葉はとりあえず船に乗るまでは噤んでおこうと思った。
 颯爽と風を切って走るメイスに抱かれて、横合いにあの水浴びをした噴水が今日もまた水を噴き上げる光景が流れていく。がきどもと帰った石畳の道筋を一路に走るメイスの俊足の甲斐もあってか民家が途絶えてやがて波止場が見えてきた。海の近くの端にはガキどもとの練習場の空き地がぽつんと今は無人で見えた。
 またあいつらはあそこでストローボールをやるかな、と急がせておきながら思い出に浸った確かにちょっとそれは不謹慎だった俺は、メイスの問いかけ「レザーさん、それでどの船でしたっけ?」に答えるのが一拍遅れた。
「青い旗をかかげてる船だ」
 俺とメイスが立ち止まって多くの船が浮かぶ船着場の、さらに多くの人が行き交いする中でじっと目を凝らす。見つけたのは同時だと思った。左端の一角に海色をした旗が風にはためいている。
「あれですね」
「だな。急ごう、交渉してたらすぐに出航時刻になる」
「はいはい」
 メイスがひらひらと人の波を縫ってそちらに駆けて行く。一人の水夫が船の前に立っていて、その前でしばらく話していた茶色のでっかい鞄を盛った旅行者達がその船乗りに金を払ってから指示され船に向かっている。
 船員が自分の前の開いた空白を見つけて声を張り上げる。
「エフラファ行きのウーンド・ウォート号、まもなく出発だっ!」
「はいっ!」
 メイスが素早くその前に駆けつけるのと、その反対側から歩をつめた影がさっと落ちたのはほぼ同時だった。肩が相手にぶつかって重さでは負けるメイスがよろめいた。相手にとってはそれは軽い衝撃でしかなかったようにこちらを向いて
「悪い」
 手の中で一緒によろめいていた俺が響いた声に硬直する。メイスも覚えていたようだった。手があったら頭を抱えたい。頭があったらの話でもあるんだが。
 見事なまでに俺の考えが足りなかった。そうだよ、なんでこいつが港町にいたのか。そんで今から一ヶ月でエフラファに行こうとするなら。同じ海路しかないじゃないか!
 迂闊さにぐらぐらしてるこちらに関わらず、相変わらず最小限の荷物しかもたない癖は健在なのか、旅行者とは思えないような軽いナプザックを利き腕とは反対側の右肩にかけたアシュレイは気安い表情でこちら――というかメイスを見下ろして
「大丈夫か?」
「え、ええ。はいっ」
 さすがにメイスの声が跳ね上がると、目の前の水夫は
「お二人さん、この船に乗車客か?」
「ああ」
「・・・・・・・・・ええっとー」
 明瞭に答えたアシュレイとはうってかわり曖昧にメイスが呟いて俺を見下ろした。
 やめてくれ。
 心底祈ったが言葉には出せない。そこで水夫が割ってはいるようにして
「あいにくだがな、もう乗船は一人分しかできないんだ。エフラファ行きは今、混雑してるから」
「そりゃ困る」
 相変わらず台詞の割にはあまり困っていないようにけろりとしたアシュレイの声を聞きながら、メイスの手の中で目には見えないほどにかすかに揺れて全身全霊で訴えると
「私はいいです。ちょっとこの船はあいにく日和が悪いというかご縁が悪いというかなんとも言いがたいのですが色々と事情があるので」
「遠慮してるのか?」
 アシュレイの問いかけにびびる俺とは違いメイスは結構上手い言い訳で切り抜けた。
「いいえ。そのですねー、私には実はもう一人連れがいまして結局どちらかしかのれないわけですから」
「ああ、そりゃしかたねえな。じゃあ兄さん、百ミニな」
「ボロ舟にずいぶんふんだくるな」
「失敬な。こちとら造船五年以内の代物だぜ。今はエフラファ行きの需要高いんだから、うちは相当に良心的にやってるよ」
 軽いやり取りをしながらアシュレイがちゃりんと硬貨を渡してそれからメイスをひょいと見た。見下ろす角度にあると赤銀の髪が少し目にかかるように流れた。
「悪いな」
「いえいえー、どうぞごゆっくり」
 メイスは笑顔で手を振り、アシュレイが渡し板に軽く足をかけ、そしてもう一度こちらを向いた。ぎくりとした。アシュレイの視線が明らかにメイスの手の中の俺に注がれていたからだ。
「変なことを聞くけどな、女の間じゃそういう風にレタスを持って歩くのが流行ってるのか? 最近」
「さ、さあー。私は私の大切な非常食ですから持っているだけですが」
「非常食?」
 きょとんと呟いてそれからアシュレイは、次の瞬間ナプザックを少し肩から浮かせて大きく笑った。触れれば切れるような鋭利な顔つきをした奴だが、笑うと子どものような顔になる。うーん、しかしこれはまだツボには入ってないな。こいつの時と場所と状況を考えない笑い上戸ぶりには昔から苦労のし通しだった。
 アシュレイはくっくっくっと笑って、目尻に浮かんだ涙を小指で払うと
「それだけ大切そうに抱えてるってことは、よっぽどうまいレタスなんだろな」
「それはもう他に比べるものなどこの世にはありませんねっ!」
 断言せんでいい。
 心で唱えるとその返答にまた笑いながらアシュレイが渡し板を登りきって手すりの影に姿を消した。ほっとそこで息を吐き出す。あー。心臓に悪い。
 そこでぽつんと残されたメイスと俺に、頭をかきかき水夫が親切そうに
「嬢ちゃんも間合いが悪かったな。他の船紹介してやりてえが、エフラファ行きは他にはなあ。――っと。そういや、直にじゃないからちと手間がかかるかもしれんが、エフラファのある同じリド地方のサンドルフォード行きの船があるぞ」
「どの船ですか?」
「えっとな」
 親切な船乗りは身を少し乗り出して、よく焼けて硬い指で指し示し
「あの船が見えるか。赤い旗かかげてる、そう、金の鯨の奴。あれが確か今日からサンドルフォード行きだ。客船じゃあないが、客もとるはずだ。駄目もとで言ってみたらどうだ?」
「ありがとうございます」
 形式的だが、形式はしっかり覚えているため、メイスはそつなく頭をさげてきびすを返した。歩きながら小声で
「どうしますか? レザーさん」
「それしかねえだろ。一週間待ってたら間に合わねえ。サンドルフォードなら確かに近い」
「なんなのですか? 一体。一ヶ月後にエフラファに行かなきゃいけないって。」
「色々あるんだ。船に乗ったら話してやる」
 歩いているうちにだいぶ端に言われた通りの船があったが、さっきの船より一回り小さく確かにこれが旅客用の船ではないのは一目瞭然だった。メイスにその違いはよく分からないのかすたすたと歩いていって伸びている渡し板に乗った。
 すると四角にあいた荷物を取り出す入り口から一人の船乗りがにょっとその巨体を出して・・・・・・・
 出して・・・・・・・・
「ん? なんだ、あんた」
「あのですねー、こちらの船がサンドルフォードに行く船だと聞いたんですがー」
「乗船希望者か?」
「はいー」
「こんな嬢ちゃん一人で珍しいな、待ってろ」
 がんがんと今でも思い出せば耳に響く、人を勝手にアニキ呼ばわりした声でそう言うと、あのスリアラーとか言う奴がくるりときびすを返す。
 やがてそこからターバンを巻いたあの細目の野郎が出てきた。
「いいだろう。旅客船ではないから、待遇は期待しないで欲しいが、値段は格安だ」
 もうどうしようもできずに、暑い太陽の日差しが振り注いで、白い波が砕ける藍色の海が輝いて、カモメは少し灰色の翼を広げて飛ぶ水色の空の下、これからエフラファにたどり着くまでの困難さを思って、俺は小さく眩暈を覚えた。



 <土鍋と過去とスポ根ドラマっ!>完。


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