今日も晴天だ。いい船日和だ。太陽は熱く、頭上高く飛び交うかもめは青い空を白い翼でたたいている。
 今日も晴天だ。いい船日和だ。船内を休む間もなく動き回り働く、船乗りたちの威勢のよい掛け声のアクセントが心地よい。
 死ぬにはいい日だ。しかし生きるにはもっといい日だ。俺は死にたくない。
 今日も晴天だ。いい船日和だ。
 メイスは舳先で限界で、俺の命もぎりぎりだ。
 え? なんでって? ははは。聞くなよ。
 説明不足で悪いが、俺はもう現実なんて見たくもない。



 俺の名前はレザー・カルシス。最近、とみに自分の名前を意識して生きているようになった。
 昔のまだ青く、いや今の状態みたいな青さでなく、まあいろんな意味で俺が若かった頃は、若さ故に気取り不貞腐れて名前なんざどーでもいいと思っていたが、そんなことは断じてないと最近かみ締めている。
 なんでって言えば名前ってのは証明なんだよ。その人間の俺という人間は、名前があって始めて俺は俺として他に認識され、共有される。俺の、人間の俺は、レザー・カルシスという名前を持ってはじめて俺は俺でありうる。人間の俺はレザー・カルシスなので俺はその名前を邪険に扱うことはやめた。
 俺のいる場所は、船の上だ。前回、港町ウォーターシップダウンを旅立ち、エフラファへと向かうために近くのサンドルフォードに行く最中の。
 この航路は、すっげーなりゆき上仕方なく決めたことだが、当初の予定通りにエフラファ直行便に乗っていたら俺の命はすでになかったかもしれん。
 このサンドルフォード行きのよう海岸沿いに進路をとり一週間に一度くらいは荷物の積み下ろしなどの用でちょくちょく港に寄る船でなく、あんな長い長いほとんど港に寄らない航海では間違いなく、メイスの理性はぶっ飛んでいた。
 俺の横で舳先にぐたりと身体を投げ出して、ぼそぼそと口の中で低くつぶやき続けているメイスは、船乗り達には船酔いだと思われていることだろう。
 最初は実はそうだった。乗って二、三日、メイスは船酔いをしていた。
 この船というものは、はたから考えて見ている以上にすげえ揺れる。まあ例えば俺を、用意されたくそ狭い寝室の床にぽんと置けば、その揺れは一目瞭然。一秒も留まることなく右へ左へ転がりまくりだ。畜生。
 人間の感覚に合わせて言えば、平地に立っていると突然行く手がすげえ傾度の坂になる。慌てて体重を移動させようとした瞬間、来た道が今度は盛り上がり坂になって、そうして人はなすすべもなくすっころがるって感じのようなことがおきる。人間っていいな、それでも転がっていかないんだから。丸くないっていいな。
 つーわけで、船に乗ったのはこれが正真正銘、生まれて初めてというメイスは、当然のごとく陸で暮らしている限り、まず味わうことはないようなその揺れに遭遇して船酔いした。
 ひどい奴なら半死人みたいな顔つきで転がりぴくりともしなかったり、胃の中のものをげえげえと吐き出したりするが、メイスはやはり作りが人間とは少々違うのか、はたまた反則で(いや別に使ってもいいんだが)なにかの魔法でも使ったのか、船酔い自体はそんなにひどくなく、白い顔が少し青ざめてだいたい大人しく座っていたが、たまに甲板に風にあたりにきたりするくらいの元気はあった。けれどなんだその間、これはすげえ重要なことだが、メイスにはあんまり食欲がなかったんだ。
 今思えばその数日間はなんと平和で穏やかだった日々か。俺も転がったが。
 しかし適応能力が高いメイスは二、三日で復活した。復活して当然のごとく飢えた。
 飢えた。
 ここで突然だが、壊血病という病気がある。少し前に一世を風靡した、というと言い方が変だが、流行に流行って各国の海軍・船乗り達を大いに悩ませた海の奇病だ。
 船に長いこと乗っていると、歯肉からの出血・全身倦怠・衰弱などを引き起こす。原因は不明。下手をすれば死にも至る、船にかかわる奴には笑ってすませられない難病だったが、近年、それの原因がわかってきた。
 長い航海の間、船の中での食事はどうしても保存食になる。早い話が干し肉とかパンとかチーズとか、ヤギや牛を乗せていれば乳も飲めるがまあそんなところ。食い物はだいたい塩漬け。陸の食生活と決定的に違うところ、航海ではすぐしなびてしまう生野菜なんか置けなかったわけだ。
 そしてそれの欠乏が、壊血病につながったとのこと。
 野菜食わなくても雑食で、色々と食べていける人間だからの盲点だったと言えよう。そしてつまり航海途中の船の上という場所は、それだけ野菜が手に入りにくい、ふつーお目にかからないものだということだ。それが分かる前に、壊血病で死んだ奴らよ冥福を祈る。
 そこでふっと気持ちよく吹き続けていた風が変わり、それにのって隣のメイスがぼそぼそと言い続けている、たいそう陰鬱で腹底から冷えてきそうな声が聞こえてきた。 
「ニンジン、コマツナ、ハクサイ、ゴボウ、キャベツ、レタス……レタス……」
 壊血病で死んだ奴らよ冥福を祈る。
 だけど俺もすぐそっちに逝きそうだ。
 野菜食わなくては生きていけないのが隣にいる。メイスだ。
 そして俺、レザー・カルシスは人間の男の冒険者のレザー・カルシスはレザー・カルシスは。
 俺は今、レタスだ。



「待て、待てッ待てちょっと待てメイスーっ!!!!!」
 レタスだったが、船乗り達にも聞こえたかもしれんが、俺はもはやいっさいに頓着せずに放てる限りの大声をあげていた。
 可愛らしい顔がありえない間近に迫り、その口がくわりと開けば白さが眩しい並んだ小さな歯が見える。白い髪が覆いかぶさるように毛先がちらちら俺をかすめ、降り注ぐ赤い目は少し虚ろだ。
「いやお前が俺を食いたいのは一番最初から知ってるがほら俺食ったら実験体とかコルネリアスとか追うの駄目になるだろっ、なっ、目先の利益より長期的な益だろっ、なっ、お前は元のうさぎに戻るんだろっ!!」
 俺の悲鳴が混じった懇願にふとメイスは顔をあげて困ったように、しかし諦めのついたような顔で頬に手をあてて
「確かに私も残念ですー。レザーさんと出会ってからまあ楽しくもやれましたが別にレザーさんがいない頃もなんとかなっていましたから」
「勝手に自己完結させるなっ頼むからっ」
 俺の存在意義をあっさり切り捨てた、正気で本気な分だけメイスは凄くやばくみえた。あああターゲットだ絶対ターゲットだ野原の雑草はなんでうさぎに食われるかもしれんと知っていてまだ悠長に動くことなく生えているのか。根があるからか。
 がくがくと動揺して訳がわからんこと考えてる俺をがっしりと両手で掴み、メイスはさらりと白い髪を揺らして
「色々とお世話になりました、レザーさんとの旅は楽しかったです」
「過去形にするなっ!」
「大丈夫。レザーさんのことは私の舌と胃で決して忘れません」
 せめて頭とか心とかで覚えて欲しい。うめきと絶叫と悲鳴を一緒くたにまぜてこねたような声を出しながら、絶望という文字を考える。あああああ着々と喰おうとする気満々だこいつっ。
 メイスはすでに食べることを決めたための余裕か、さきほどの切羽詰った様子はなくほろりとした様子を見せて俺を撫でて
「ああ、こうしてごちそうを前にしていると、レザーさんと紡いだ数々の思い出が走馬灯のように」
「いやまわさなくていいからこう過去だけで懐かしむんじゃなくてこれからも新しい思い出を作っていこうぜ、なっ、なっ、なんかこう一緒に生きていきたいとかそう生命ある方向でいやまじで頼むからっ」
 俺がまだこういう意味じゃなく青かった頃は、生命なんていつ捨ててもいいとか燃えてた時期あったよなあ馬鹿だったなあ、いやあの頃でもこういう意味で生命捨てろって言われたら抵抗したかなあ。生命かけた犠牲精神なんかくそくらえだ。
 必死の奥底でなんとなく黄昏る俺の前でメイスは安心させるように笑い
「ご心配なく。レザーさんは私の中でいつまでも生きていますよ。」そこで確信犯的につと口調を変え声が低くマジになった。「栄養として」
「いやっ消化されるからっ!!」
「消化の時間もありますし別れは長引くと辛くなるものだと古来から言われてるようですからそろそろ」
 もはや俺の言うことはなんも聞かずに赤い口がくわりと開く。小さな可愛らしいその口が、ぞっと俺を恐怖に叩き落す。
「いや俺はもっと別れを惜しみたいぶっちゃけ物凄い勢いで別れたくないっうわ食うなっ、お願いだから喰うなっ喰うなーっ!!!」
 必死にメイスの手から逃れようとするが、白い手ががっしりと掴んで離さない。いやだ本気でいやだ泣きたいが泣けねえしいやだっ
 俺の心の底から懇願をさらりと流して、メイスがキスでもせがむように嬉しげに顔を近づけてきた。赤い口だ。綺麗に並んだ貝殻みたいな白い歯が少し見える。女の口がこんなに恐ろしく見えたことはない。この口が喰う。どうやって喰われるんだ。一瞬、幻聴でばりっと剥がれる音がしてぱりぱりとしなる音をして喰われていく自分の姿が――って自分の想像でもレタスかよっ!!
「いただきまーす」
「メイスーっ!!!!!!!」
 弾む声に迫る赤い口にあげた俺の絶叫に不意に横合いのドアが開いた。心臓があったら破裂してしまいそうなほど動揺していた俺はメイスの顔が離れてあがったことで、ようやく少し意識が戻ってそっちをちらっと見た。
 見た顔がそこにあった。ウォーターシップダウンでちょっと因縁があり、まあ殴りそびれた間柄という奴だろうか。スリアラーという船乗りが、小さな瓶を片手にこちらを用心深そうに探っていた。
「何用でしょうか」
 メインディッシュ(泣けてくる……)を、今まさに喰おうとしたところで邪魔されたメイスは、むっとしたようにスリアラーを見つめたが、スリアラーの方はメイスの不機嫌さなどに気付いた様子はなく、目渡す広さもないような壁にベッドがついただけのくそ狭い部屋を注意深く見回した。
 何を探しているかはだいたい予想はついたがしかし俺はレタス。視線は素通りする。やがて探し出すことを断念したスリアラーが
「なあお客さんよ、さっきここから男の声ががんがん聞こえていたような気がするんだが」
 ああ、めっちゃくちゃ喚いていたよ、俺が。
「この部屋のどこにそんな男がいるように見えますか」
 メイスは平然としたもんだ。確かにこのくそ狭い部屋ではメイスのちまっとした身体でもやたら窮屈そうに見える。もう一人の人間が入れるような、ましてや隠れられるようなスペースは到底ない。
 しかしあれは俺の命がかかった悲鳴だ。さすがに波の音、聞き間違い、とあっさり判断できないのか、スリアラーは少し迷った末に、耳と目の両者の判断では後者に軍配があがったのか
「そうだな。まだ男連れ込むには嬢ちゃんは早いな」
 とどこかすっきりしない様子でわりいと謝った後、
「これ、酔い止めの薬だ。風がなくて進みはおせえが、あと一晩くれえで次の港に着くからがんばりな」
 瓶を渡してきびすを返した。瓶の中にはどろどろの沼色の液体が揺れている。
 普通は食用ではない幾種類かの海草と陸の薬草を混ぜ合わせたもので、船乗りに伝わる船酔い秘伝の薬だ。俺も飲んだことがある。すげえ効くがすげえ苦い。
 船酔いをしている(と思われている)メイスに気を使ってこれをもってきたのか。意外に細かな気配りができる奴だな、と少し思うと部屋から出ていきがけに頭をかきながらそいつは
「兄貴の声がしたと思ったんだが、兄貴を慕うあまりの幻聴って奴か……」
 てめえ俺の声覚えてたのかいやそういう結論にいかれるのも悪いが虫唾が走る。
 レタスなので鳥肌はたたないものの俺が少し葉を振るわせた。そして俺を抱えているメイスがその動作を目にしているのをすっかり忘れていた。
 パタンとドアが閉まり、そして足音が去っていくまでの一瞬の沈黙。
「――邪魔が入ってしまいましたが」
 メイスの、声。そして間近に迫る息遣い。ぞっと精神が虫にたかられたように冷える。
 しかし、思わぬ介入で少しだけ体勢を変えることができた。俺は自分になるだけ平静を保つよう言い聞かせた。これからは口一つだ。動けない以上、レタスな以上、さっきの出来事で風向きを変えて命を死守するしかない。
「いや。俺が声出せばまたあいつがくる。今度は黙らんぞ俺は。あいつの目の前でもばんばんしゃべってやる」
「そんなことしたら見世物小屋行きですよ」
「海の上での船乗りは信心深いからな、喰ったり捨てたりしたら呪ってやるってわめけばどうにかなるかもしれん」
「そんな不確定で希望的観測に頼った道を選んでどうするのですか、一歩間違えれば見世物小屋行きですよ」
「お前に食われる道選ぶくらいなら見世物小屋行った方が万倍マシだっ!!」
 思わず本音が出た。しかしあんまり真っ向から対立するのもいい手ではないと思い、俺はなるべく宥める方向で
「な、さっきの奴の言葉を思い出せよ、もうすぐ港に着くんだろ。もうすぐ港に着くってことはあれだろ、野菜食べ放題、お前もうなんでも好きなだけいっくらでも喰っていいんだぞそらもう見たらいやになるくらい浴びるほど。俺はなにも不可能なほどの無理をお前に強いちゃいないぞ」
「……」
 メイスの瞳が少し考え込むように揺れた。
「食べ放題、ですか」
「そうだっ!」
 あ、やべ。思わず勢い込んで食いついてしまった。駆け引きがなっちゃいねえな。
 メイスはしばらく考え込んでいたが、やがてにっこりと笑って
「そうですね。分かりました、レザーさんは食べないでおきます」
 俺にとっては注がれるその笑みが天使のように見えた。けれど赤い目はいまだにちょっと俺を物欲しげな色を宿して眺めながら
「だってレザーさんはいつでも新鮮にもつのですから、非常食としてもう少しとっておいた方が合理的ですよね。かわりに今だけしか新鮮でない野菜を食べる方がいい。先見の明という奴ですね」
 うまく行って嬉しいが、ちょっと涙が出そうになったのはなぜだろう……



 風が少なく、穏やかな海だった。帆は物足りなさそうに垂れて速度は欠伸がでるほど微々たるものだが、波が優しく揺れる音が子守唄のようでついついと眠りに引き込まれる。暗い海は静かに脈動を繰り返して、月明かりが青白い艶を黒い表面に浮かばせた。
「ってわけなんだよ、ラブスカトル」
 話し終えた後のスリアラーは、どこまでもすっきりとしない顔をしていた。からりと竹を割ったように単純明確な性質を持つ男故に、はっきりと白黒がつかない物事にどうにも居心地が悪いのだろう。
「お前だけじゃない。あの客は他の連中も大なり小なりの疑惑を持っている。――が、そうまではっきりと別人の声を聞いたというのはお前が始めてだな」
「けど、あんな狭い部屋に人間かくまうなんて無理だろ。密航者って手も考えたがよ」
「今回はまだ長い航海ではないが、不確定要素を持ち込むのはまずい」
 だが、と言い切り
「害はない、と思う」
 静かに呟いたラブスカトルにスリアラーは少し意表を突かれたように
「なんか根拠でもあるのか?」
「ない。今のところは」
 よほどの凪でもなければ、船の上が静止していることはありえない。絶えず緩やかな揺れを繰り返す甲板を歩み、ラブスカトルは手すりへと背をかけた。
 そのまま考え込むように、細い目をさらに細めて空を見上げる。空の海もまた凄まじい星空をばらまいていた。その星を見つめながらラブスカトルは
「ただ、聞いたことがある」
「なんだ?」
「少女の、白い魔導師の話だ。赤い瞳に白い髪を持つ少女と聞く。名は知らないが」
「そ、それなら俺も聞いたことがあるぞっ、盗賊倒したり人救いやってるって言う……」
 言葉の割にはスリアラーの顔が歪んだ。
「魔導師かよ……」
 その迷信深さも手伝って船乗りは魔を操る者全般を意味もなく嫌う性質がある。
 特に最近になってようやく薄れてきたものの、長年こびりついたものの残り香はしぶといものなのか、船に女を乗せることへのかすかな抵抗も手伝って、たとえそれがもたらすものは善だとしても女魔導師という存在は、この男もすんなりと受け入れがたいようだった。
「まだ、決まったわけではない。無責任に広めるなよ」
「でもよ、もしそうだったらたまんねえよ。気付く奴だって出てくるだろ。次の港で降ろした方が」
 ラブスカトルが、とりあえず意見を払いのけるよう手を振った。その物憂げな態度に、スリアラーは彼は彼なりに考え答えを出そうとしているのだと気付き、彼の思考の邪魔をせぬ方が良いと判断してきびすを返しかけた。
 が、ふと躊躇いが足を動かさせることを拒み、やがて鼻の下を落ちつかなげにこすり
「あのよ……ちょっと、これは他の奴にはいえなかったんだがよ」
「なんだ?」
「その、俺の聞き間違いかもしれねえが、あの、聞こえた声、そのな、聞き覚えがあったような気がすんだ」
 ラブスカトルが空から視線をスリアラーへと戻した。
「誰だ?」
 スリアラーは再び躊躇い、自分が馬鹿なことを口にしていると彼も半ば悟っているためか、歯切れが悪く
「――兄貴の声、だって聞いた時、咄嗟に思ったんだよ」
 一笑されるかと思ったスリアラーの予測に対して、ターバンを頭に巻きつけた細目の男は笑わなかった。かすかに右頬をゆがめると、細い目が妙な具合につりあがった。
「あいつか。」
「いや、いくらなんでもここいらは俺の取り違えだとは思う、ああ」
 まともに受け入れられて、逆に申し訳なくなったようにスリアラーが否定へと傾く。他の船乗り達に負けぬほどの筋骨隆々としたその巨体が今は小さく見えた。
「わりいな、変なこと言っちまった。俺、見張りに戻るわ」
 そそくさと背を向けたスリアラーへとそれ以上は追及せずに、再び星空を見上げて思考を広げる。月は下弦の月だったが、半分以上膨れてまだ情緒を感じさせるほどに細くなってはいなかった。
 目を閉じれば波の音が聞こえる。ちゃぷちゃぷと液体が揺れる特徴的な音は意識を区別せずにどこまでも奥深くまで染み込んでくるようだった。
 時が凝る世界の中でしばらく思索を試みながらも、結局に身のある収穫を得られず、ラブスカトルは預けていた手すりから離れて、船室に戻るかと揺れる甲板を踏み出した。
 そしてふと自然に船室の影に隠れて今までは見えなかった、向こう側の手すりに誰かが腰掛けているのが見えた。
 人影は全く無防備な体勢で、その手すりに片足をあげてもう片足を甲板につき、海を見下ろしていた。
 ぐらりと一つ大きく揺れれば海にすぐに落ちてしまいそうなそれにも関わらず、その人影はごく自然に身体の力を抜き、不思議なことに愚かさを悟っているはずのラブスカトルの目にも不安定な体勢を保つ人影が危ういようには思えなかった。
 星がばらまかれ、月もまた煌々と照らす。けれど船室の影にすっぽりと収まって、影の中に人方のさらに濃い影を残すだけで、依然として全容は見えなかった。それもあの港でゆっくりと歩み出てきた姿をすぐに思い起こさせた。
「波に星は映ると思うか?」
 まるでごく自然にするりと声がした。その言葉から、ただ一つの確信を覚える。スリアラーの耳は確かだ。
 影の首筋から一つにくくられた髪が揺れた。人影はまた手すりの先の海へと視線を落としたらしい。そして問いかけへの答えはこちらに期待せずに自らで放った。
「映らない。船乗りが空見てて、海の異変に気付かなけりゃ笑われるぜ」
 視線を外さないままに、ラブスカトルは位置を移動させて脇へと寄った。そして警戒をとかぬままに暗き海へと目を落として、細い目に鋭いものがよぎる。
 そこからのラブスカトルの行動は素早く、梁についた見張り台への連絡管を引っつかんで口を近づけた。
「見張りっ! 何をしてるっ、貴様は目を閉じたまま見張りを続けられる芸当ができるとでも思ってるのかっ!」
 張りのある声で怒鳴りつけると、寝起き直前の慌てて飛び上がったような無様な声がした。やはり眠りこけていたらしい。
 怒声の半ばは自分にも向けられていた。いくら今は交代ではなく見張る義務はラブスカトルにないとしても、一介の船乗りが海の異変を素人に教えられては堪ったものではない。
 見張りがようやくぎょっとしたようにカンカンと鐘を鳴らした。夜の海に響くそれに、今まで静まり返っていた船室から慌てたときにたてる騒がしい足音が聞こえてきた。先ほどに着くと言っていたが、もう見張りの任は交代したのだろう、船室から真っ先に姿を見せたのはスリアラーだった。
「どうしたっ」
「下を見ろ」
 それだけ言い放たれた船乗り達が、われ先にと手すりへとしがみつき下をのぞいて、一様にあっと声をあげた。暗く静まった海が、その様子を異様に一変させていた。
 とにかくに異様であった。夜の中に広がる葉の上に溜まる闇のよう、濡れる海にぼんやりと青く浮かび上がる幻想的な光が現れ、ふらふらと波の中を浮いていた。それも一つや二つの数ではない。
 普段生活する分には到底そのような色合いは目にすることがない、そのはっきりとしてどこか毒々しい不自然な青い光は無限とも思える海の中を、見渡す限りびっしりと敷き詰められていて、しかも続々といまだにその数を増しているようだ。
 それが生み出す光は束となり、一つ一つの光量は弱くともあまりの多さに覗き込んだ船乗り達の顔を青白く照らし出すほどに膨れ上がっていた。
 ラブスカトルは、脇で小さく息を呑む音があがったのに気付いた。見ると、スリアラーが厳しい顔でじっとある一点を見つめている。その視線の先をたどり、すぐに対象を見つけた。どやどやとあがってきては覗き込む船乗り達の中に、騒ぎに気を引かれたのか白い髪の少女が顔を見せていた。
 彼女は少し視線をあたりに彷徨わせ、こちらを見ているラブスカトルとスリアラーに目が合うと、妥当だと思ったのかラブスカトルに小走りに近づいてきた。
「なにごとですかー?」
「イカだ」
 スリアラーが何かを言う前に、ラブスカトルは口早に答えた。簡潔な答えに、少女は面食らったように印象的な赤い瞳を少し細めて
「イカ……ですか?」
「ああ。センコウイカという種類のイカだ。身体に発光器を持っていて、光を放つ習性がある」
 普通の少女とは一風変わった落ち着きを持っていて、船の上で起こる何事にもたいした興味を見せなかった少女も、さすがに少し心を引かれたように、揺れる甲板に歩きにくそうにしながら手すりに寄って下を覗き込んだ。青白い光がのぞく少女の顔を不気味に下から照らす。
 けれど、屈強な船乗りでも知らぬ者が始めてみればひどく狼狽する、圧倒的なセンコウイカの大群もそうまで少女の気を長く引いてはいられないのか、彼女はすぐに顔をあげ
「それで、なぜこんなつまらない軟体動物ごときで私が安眠を妨害されるような騒ぎに発展しなければいけないのですか?」
 少女のその横柄な口調と内容は、確かに一般人が無責任に想像する、大魔導師のそれと一致する。他にも身分の高い少女のものともとれるが、慇懃なその丁寧さはどこか上流階級の人間と相容れぬものがあるような気がした。
 確かにただの少女ではないな、と思いながらラブスカトルは、何か言いたげに少女をじっと見つめるスリアラーを目で刺して
「イカ自体は脅威はない。喰えばうまいくらいだ。ただこいつらが大挙して、光出すとき。それは、」
 そこまで口にしてふとラブスカトルは先ほどのことを思い出して、言葉半ばで辺りを見回したが、走り回る同僚達の隙間、あの手すりの場所に人影はすでになかった。
 それまで揺りかごのように穏やかだった、海上にびゅうと強い横風が吹いた。その横風がどこからか雲を吹き飛ばしてきたのか月が陰った。ライバルが消えたせいか、暗い海の中の青白い光がいっせいにその強度を増す。
「お前のせいか?」
 はっとして視線を戻した。スリアラーがどこか脅えたように少女に尋ねていた。
「これは、お前のせいか?」
「なにがですか?」
 少女はあまり打ち解けてはいないものの、本当に分からないように聞いてきた。その表情にこの少女は無実なのかもしれない、とラブスカトルは少し思ったが、スリアラーはなおも海を大きく指し示し
「このことだよ」
 幸いに他の船乗り達は、走り回りやがて来る事態に備えて、これらのやりとりを聞いているものは一人としていない。少女は不愉快そうに眉根を寄せて
「つまらない軟体動物がこのように無意味に集まって習性として光っていることがどうして私の仕業と結びつくのかあなたの思考回路は全く理解不能です。行動を起こすにはそれに伴う動機が必要であり動機が湧くには自らへの利になることが存在しなければなりません。この軟体動物が集まり光ることがいったい私の何の益になるのか私には到底思いつかないのであなたにお聞きしたいくらいですよー私にはこうして騒がれて眠っていたところを起こされたという不利益が一つ生じたことしか思いつきませんね」
 一部に妙な語尾の延ばしがあったが、全体として息もつかせぬ早口だった。
 スリアラーは唖然としていたが、少女の言うことは正論で、そして前提としての事象が一度も姿を見せぬ限り、彼女はこれから先の出来事を全く感知していないようだった。
「仕事に戻れ、スリアラー」
 背中を叩くと気が抜けたようにスリアラーがかけていった。悲鳴のように自分を呼ぶ声にラブスカトルは顔をあげ、少女をちらりと見ると「船室に戻っていろ。イカと一緒に泳ぐ意志がないならな。」と言いきびすを返し様告げた。
 その指示に少女は迷惑そうに髪をかきあげて
「一体なんなのですか? いい大人がこのような光る軟体動物一つに大騒ぎを起こして」
「このセンコウイカが大挙する時、それは」
 風が張り倒すような勢いで横から吹いて、咄嗟にラブスカトルは再びきびすを返し無防備に立つ少女のそばに駆け寄ると、その細い腰を片手で引っつかみ、あいた片方の手で手近な柱にくくりつけたロープを掴んで身体を固定する。
「なっ……」
 荷物のように担ぎ上げられた、唐突なこちらの行動に、少女が何か声をあげるよりはやく、大きな波が一つ、船の横っ腹に真正面からあたり、どーんと音がして船体は大きく横に傾いた。無防備な体勢でいた船員達が甲板に転がる。
 そして傾いた反動で再び船が反対の方向へと大きく傾き、転がる船乗り達は死に物狂いで伸ばされたロープを掴んだ。
 わずか数秒で戦場と化した傾く甲板で、こんな少女をかばっておける余裕は何一つもない。有無を言わせずに少女を引きずり、船室に押し込めて、ラブスカトルはそのドアを鼻先で閉じる寸前に言った。
「嵐の前触れだ」



 振動と狂乱と気分の悪さと、転がりまくりの夜だった。
 いや転がっているというよりかは、飛び交っていると言った方が早いだろうか。メイスが捕まえといてくれなけりゃバウンドだ。ピンボールだ。壁床天井全部を使って。
 荒れた時の中の船の揺れというのは、乗ったことがないものにとっては想像をはるかにぶっちぎる。なんだろう、あれかな。
 こう、誰かがひょいと船を持ち上げて力の限り上へ下へ前へ後ろへ右へ左へ、一回転以外のありとあらゆる振り方をしたようなもんだ。これで息がつけたらすでに人間じゃねえ。
 俺もメイスも人間ではない(俺は今のところはだッ)が、それでもどうしようもなかった。
 一人で慌てて揺れる中を、船室へと戻ってきたメイスは(俺は一足先、月が隠れる前に部屋に戻ってた)最初の方は自分を浮かせる術を使っていたが、狭い船室がぐわぐわ揺れる中で身体を浮かせれば当然に、頭か身体かとりあえずどっかを壁か天井か床かに強打される。
 メイスは頭だったらしく、即行で衝突して抱えてちょっとうめいていた。珍しい姿だったが、その間俺は天井と壁を交互にぐわんぐわんバウンドしていたのでじっくり拝見するような余裕は到底なかった。
「最初にっ、船乗った時もあのイカの大群がっ、きやが、ってよ」
 レタスはあいにく舌がないので、こうまで飛び交いながら話しても舌を噛むことはない。すげえ些細な利点だが。
 メイスはもう何も言わずにベッドにしがみついている。少しだけ緩やかになった隙をついて、必死に手を伸ばして俺を捕まえてくれたおかげで、レタスピンボールはなんとか終わった。メイスの手の中でさっきまで味わう余裕もなかった痛みがじんわりと広がった。
「死に……そうです……」
 メイスは俺を抱きかかえながら息も絶え絶えに言う。メイスの口からこんな弱気な言葉が出てきたのは初めてだった。しかしそれも無理はない。
 ベッドの端にしがみついていても、身体は浮いたり叩きつけられたり容赦なく、体力も消耗すれば痛い思いもする。
 真っ青な顔をしたメイスに、すまない気持ちが強くなる。
 よく考えれば完全に俺の事情につき合わせて、メイスを乗らなくてもいい船に乗せてこんな目に遭わせているわけだ。つまり俺のせいだ。
 せめてさっきまで戻っていたように、月が出ていたままならば少しはかばってやれたのになと思いながらかばわれる身は虚しい。
 メイスは大きく肩で息をつきながら歯を食いしばるようにベッドにしがみついた。
「私はレザーさんを食べるまで死ねないのに……!」
 いや。
 よく考えたら別にかばわなくてもいいかもしれん。少し前は本気で食われかけたし俺。
 自分と他人の関係のように、ごちゃごちゃぐらぐらばんばんと、考えながら揺れながらバウンドしながら、そんな夜でも明けるもんだ。
 夜と共に嵐は去ったというほど劇的なタイミングではなかったが、夜半すぎから少しずつ少しずつ波が引くように荒れ狂う風の音が小さくなっていき、振動が遠慮がちなものへとなっていく。
 その頃になると精根尽き果てて、安堵のため息を漏らす余裕もなく、メイスは物も言わずにようやく放り出されなくなったベッドにぐったりと横になった。俺もいいかげんに疲れてベッドの下で息をつく。転がりすぎて頭がよく働かない。
 あの嵐であまり流されていなければ、今日中には港につけるって話だ。それまで休憩しておいてもいいだろう。眠る直前に疲れた頭に、船の手すりから見下ろした青いあの光がちらついた。
 嵐だけなら、まだいいんだが……



 しゃくしゃくぱりぱりと大層歯切れのよい、印象的な音が響く。
 もう店に行ってドレッシング抜きのサラダを頼む、というのもまどろっこしいのか野菜市場に突入し、お前それどうやって持って帰るんだというほどに目に付くものは手当たり次第に買いまくったメイスはご機嫌だった。
 港町、ナットハンガー。
 嵐の夜を抜けて息も絶え絶えに、船に積んでる荷替えとなにより船乗り達の休息もかねて立ち寄ったこの港町は、さすがに先のウォーターシップダウンほどには栄えてもいないし大規模でもない。
 それでも小さい港は小さい港なりにきちんと存在意義があり、それを持つ者も分かっているのか隅々まで気持ちよく整備されていて、嵐を抜けきって疲れ果てた船乗り達に手間をとらせないだけの設備と配慮は重ねそなえていた。
 嵐を乗り切った船乗り達の苦労に比べれば、俺とメイスの苦労なんて苦労だって言った瞬間に殴り飛ばされるかもしれん。
 なにしろあの風と波の中で、互いの身体を太いロープできつくしばって仕事に奔走していた強者だ。船乗りや海賊がもっとも強いってのも、あんな嵐を体験すると納得がいく。そんなあいつら相手に俺も結構無謀な真似したもんだな。
 が、そんなこたあ、一眠りすれば嵐の後遺症も見られずに回復したメイスにとっては知ったことではないのか、揺れない地面に足をつくやいなやお目当ての市場めがけてその俊足を見せた。
 女の買い物には付き合うな、と昔誰かに言われたが、メイスにとっては人間世界に入って何一つも分からない状態で、買い物、商売というやり取りが最も理解するのに難解だったようだ。
 俺と出会う前には表面上はそれができるようになって(なにしろ俺はメイスに買われた)一応代価を払って品物を受け取っているが、こいつが本当に売り買い、流通の義を理解しているのかはあやしい。
 そもそも、そういう概念を人間全て(とまではいいきれんがいろんな文化があるし)に共通のものとして植え付けることが、メイスにとっては驚嘆に値する出来事だったらしい。そう考えると人間社会って組織立ってるよな。
 なにはともあれ、無意味に金はあった。
 それを惜しげもなく(本当になんにも惜しくないんだろうな)ばらまいて、メイスは買い占めた野菜の山から、まず丸いキャベツを手にとった。
 かぷりと食いつくと、そのまま犬食いと言っていいのか丸食いと言っていいのか、ほらあれだ人間なら切ったスイカやとうもろこしにかぶりつくように、しゃくしゃくぱりぱりぱりとキャベツはみるみる体積が消えていき、満月のような丸は昨夜少しだけ出ていた月ほどの半円形になり、それが三日月になり、そして最後に新月になった。
 メイスは立派なキャベツを丸々一個ぺろりとたいらげて、買いあさった野菜を嬉しげに次と物色し始めた。可愛らしい顔は晴れやかで、無我夢中で貪っている。
 欠食児童。
 メイスのそんな有様にそんな単語が浮かんで、俺はころころと用心して詰まれた野菜の山と一緒にされないように距離をとった。次に人参にかかっていたメイスはふとこちらを向いてふわあと春風のような晴れやかな笑顔を向ける。
「生きてるってすばらしいですね、レザーさん」
 なんでこう自覚のない悪意のないその分だけ限りなく質の悪い奴ほど、笑顔はさらに爽やかできらきらしてるもんなんだろう。
 確かにその通り、生きていることはすばらしいので、俺はもう半リーロル、メイスから離れるために転がった。



 死んで打ち上げられた魚にたかる海鳥の声だけが聞こえて、人っ子一人見えない嵐の後の浜辺はなんともいえない寂寥感が漂っていた。淑女には嫌われがちな浜風は、メイスの白い髪をぱさぱさとさらっていく。
 細かい砂が無数に敷き詰められて、踏みしめる足を沈ませる砂浜は昨夜の嵐の後遺症に、どこかの沈没船の破片、割れた瓶、貝殻、後は判別できん訳がわからんゴミがあちこちにばらまかれ波に取り残されて、白い砂の上で乾いていた。
「やっぱり、結構な嵐だったらしいですねー」
「いや、そーでもないだろ。船も沈まなかったしな」
 ちらちらとそれらを眺めながら、メイスの手に抱かれて砂浜を歩く。
 ひとしきりメイスは生を謳歌し、俺も生を実感し、なんとか片がついたのでここ数日、ようやくメイスの傍にいて味わいつづけてきた緊張感を緩めることができた。
「船というものは人間が考え出した中でも最悪の移動手段ですね。百害あって一利なし、まるでお師匠様のような代物ですよ。あんなものを考え出すとはやはり人間の知識は浅はかです」
「現在ある方法じゃあ一番早くて普通はいけねえ場所にも船ならいけるんだよ。人間が考え出した移動手段ではいまんとこ一番大規模で偉大な奴だぞ。あんなくそぼけと一緒にされると立つ瀬がねえよ」
 よっぽどに飢餓と嵐がこたえたのか、メイスにしては珍しく論理的でない発言だった。その理は分かったのかむーとしてメイスが少し歩くのを早める。俺はそれを引き止める。
「なんですかー」
 不機嫌な声を少し宥めて波が寄せる浜へと近寄った。メイスはその指示に不思議そうに
「レザーさん、そのように海がお好きでしたか?」
「ちょっと、気になることがあんだよな」
「なにがです?」
「イカだよ」
 自分の食料ではないので、メイスはまたかというように嫌な顔をして
「それがどうしました? あの無節操な光の軟体動物がいないからまた嵐が来るんですか?」
「いや、嵐ならいいんだがな……」
 昨夜、というか今日、一眠りの前に思ったことを再び繰り返す。
「あのセンコウイカがああいう風に大挙したら、嵐が来るのは船乗りなら誰でも承知してる。だが、あんな短時間で嵐が治まることは珍しい。――ここからは、どうも冒険者の領域な気がするな」
「……」
 メイスは奇妙なことを聞いたような、なんともいえない顔をして、しばらく考え込むように上を向きそれからああ、と納得の声をあげた。
「そういえばレザーさん、元冒険者でしたね。すっかり忘れてましたよ」
 ちょっと傷ついたことをプライドで隠す。いやもうないけどさ、あんまりプライドも。でも元じゃないやいまだれっきとした冒険者だ俺は。
「昔、文献で読んだことがあるだけだから、あんまり確かなことは言えんがどうも気になるんだよな。イカ、すぐ終わる嵐、そして終わった後に」
「後に?」
「メイス、この浜辺見て何か気付かないか?」
「?」
 メイスは様々なものが散らばった浜辺を見て首をかしげた。答えはさっきからこればっかりだなと思いながら俺は口にした。
「イカだよ。あんだけ海を埋め尽くしてたイカが一匹もあがってないだろ」
「海流の変化じゃないですか?」
「ならここにはなんも打ちあがってないさ。引き返したんだ。」
 センコウイカの大量発生、すぐ終わる嵐、引き返すイカ、港町。
 呟いて胸にある予感に問い掛ける。ただの危惧か? 思い過ごしか? はたまたあまり辿り着いては欲しくないが本当か。
 歩くメイスと手に抱かれた俺に、海からぶわっと生暖かい風が吹き付けてきた。
 メイスの白い髪が膨らんで攫われる。その後ろに小さな港町がある。それをちょっと眺めた。あそこにも住んでいる奴がいて世界にしている奴がいる。当たり前のことだけど。
 備えあれば憂いなし、転ばぬ先の杖、面倒なことに嫌がる気持ちに鞭打つ言葉だこりゃ。
 かすかにため息をついて、俺は俺を不思議そうに見下ろすメイスを見上げて言った。
「メイス、ちょっと耳かせ」

 

   薄暗い酒場の暗さのおかげで傷や汚れが目立たないテーブルに、暗いこの中でも黄金色に揺れる特産のヤイ麦ビールのジョッキが叩きつけられた。
 一息で半分ほど飲み干したスリアラーは隣で静かにこちらは細いグラスに入った酒を持つラブスカトルに問い掛ける。
「結局に、あの嬢ちゃんは違うってことか?」
「さあ、どうだろうな」
 素っ気無い呟きが不満のようにスリアラーは身を乗り出す。この男の仕草はいつもどこか少年臭さが残っていた。
「ともあれ、あの嵐を呼び寄せることは確かにあの少女にとって利益があったとは思えないな」
「面白がる、それだけで充分魔女の動機にはなるだろ」
「あれが面白がっているように見えたなら、お前が見張りの任につくことは金輪際ないぞ」
 スリアラーは行き詰まったように頭をがしがしとかいて酒に手を伸ばす。ぐいと一口のみ乾すと顎と口の間にわずかな白い泡が残った。ラブスカトルも一口、グラスから飲んだ。
「まだ、何も起こってはいやしない」
「起こってからじゃ遅いだろっ」
「そう、その論理だ。四百年前に、蔓延り大地に夥しい血を流したのは。」
 ふとくるりと、傍らに置かれた陶器のコップに適当に突っ込まれていたさじをとり、その先を隣の男の眼前に突きつけた。
 事を理解できずにその先を思わずじっと見つめてしまうスリアラーに、ターバンを巻いた男はかすかに口元を歪めて、
「魔術師の大空白時代。赤眼の宴、とも言うな。捕らえられた魔術師の目を生きたままくりぬいて鳥に食わせた。血に濡れた目玉の山が大地に出来た」
 言葉と同時に、眼前に突きつけられたさじが、すうっと滑らかに回された。その動作が暗示するものにスリアラーはさすがに血の気が引いたよう
「な、なにも処刑とかそういう血生臭え話じゃねえよ。ただちょっと」
「あの時代も初めはそれだったかもしれんぞ。血生臭いような話ではなく、可愛らしい嫉妬、風にそよぐようなわずかな不安。それでも火種だ。火薬を爆発させるには充分な。先の港でもそんなことがあったのを忘れたか。」
 虐げられていた、それでも明るく笑う子供達の姿を思い出したのか、うぐと詰まるスリアラーにラブスカトルは立ち上がった。
「航海にそんな疑惑は一欠けらも持ち込むものじゃないと、お前もよく知っているだろう。スリアラー。排斥の時代は終わった。疑わしいというだけで全てを殺した時代はな」
 背を向けるターバンを巻いた男に、スリアラーは一瞬テーブルの上の自分のジョッキとその背を見比べて慌ててジョッキを飲み干すと、空いたジョッキと共に金をカウンターに叩きつけてその後を追った。
「悪かった。ラブスカトル」
「別に謝られるようなことじゃない。それよりお前も、他の連中のよう、骨休みに行ったらどうだ?」
「酒喰らうのも花街行くのも気分じゃねえよ。」
 縛り首にされるパフォーマンスに、首を両手でしめて目をぎょろぎょろさせてみると、ラブスカトルが夜の中では到底見分けられないほど、ほんのかすかに笑った。
 すると不意に横の通りから軽い足音が聞こえてきて、艶やかなその肌もやすらかなその髪も、ひらりと日が暮れた夜の中でことさらに白い、ちょうど話題の主であるあの少女が現れた。彼女はこちらに気付いて小走りに駆け寄ってくる。
「こんばんは、お二方」
 にこやかに声をかけられて、態度の軟化と今までのことにスリアラーは鼻白んだ様子を見せたが、ラブスカトルの細いそれでは、いささかわかりにくい目配せにおずおずと踏み出して
「よお、嬢ちゃん。宿がとれなかったのか? 夜中に一人で歩いてるとあぶねえぜ」
「自分の身ぐらい守れなければ一人旅はしていられませんよ」
 それから赤い瞳が無遠慮に自分の前に立つ二人を眺めて、
「ちょうどあなた方は、特に定まった用もなく無駄に時間を浪費しているように見えるので、私についてきてもらえますか?」
「は?」
「御二方に用があるそうですよ、私の連れは」
 にこやかに続けて白い髪の少女は
「では私についてきてくださいね」
「ちょ、ちょっと待てよ。なんの説明もなくいきなり、んなこと……」
「説明はできますよ、けれどどうせここで私が懇切丁寧に説明したところで常識という人類共通の虚像に縛られて思い切りなく自らの範疇以外にあるものにはろくな理解力を示さない平均レベルの人間の知識しかない愚かなあなた方には分かるわけもなく無用な混乱を招くだけなのでこのように差し迫ったときには全くの時間の無駄でしかないそのような手続きは省かせていただきますがよろしいですね」
「……」
 思わずスリアラーは横にいるラブスカトルに声をひそめる力もなく
「……なんかもう、とりかえしのつかないほど嫌われているのは、俺のせいか?」
「……」
 ふと風向きがかわり、生暖かい風が鼻先をくすぐった。夜の中、その白い髪がぼんやりと灯篭のように浮かび上がる、少女は途端に嫌そうな顔をして寒さを感じるように肩を身震いさせ、
「あー、ひどい匂いですー。息が詰まりそう」
「匂い?」
 きょとんとして問いかけたスリアラーの横で、ラブスカトルは反射的に鼻に意識を集めるが、少女が言うような強い香はどこにもなかった。それを見て取ったのか少女は鼻をつまんで
「進化の過程であまりに自らの感覚を鈍感にさせすぎたあなた方にはまだ分からないでしょうが、レザーさんの言うことはあながち取り越し苦労に終わらないかもしれませんね、これは」
「兄貴っ!?」
 途端に餌を放り投げられた魚のよう、スリアラーが凄まじい勢いで歩を詰めた。
「レザーの兄貴かっ!?」
「私の知っている方はあなたに兄貴呼ばわりされるような方ではございませんが、まあレザーさんですよ今のところはつまらないことに人間の男の」
 妙な言い方をした少女に確信を得たのか、スリアラーは感激か感動のあまりぶるぶると腕を震わせ
「兄貴が俺を呼んでるのかっ、お、おおれも行くっ」
「だからついてきてくださいと言ってるでしょう」
「まてスリアラー」
「あなたも」
 ほとんど冷静な判断がくだせないほどに、すっかり舞い上がったスリアラーを、思わず止めようとしたラブスカトルは、その途中で声をかけられた白い髪の少女に目を向けた。
「あなたにはあなたなりに価値を見出している常識、日常を保ちたいならついてくるべきですよ。判断せぬことが最悪の判断になることが往々としてありますからね。まあどうしても足を動かしたくないというなら私は引っ張っていくことはできませんがー」
「俺は行くぞっ!」
「はいはい」
 少女はきびすを返した。白い髪がさあっと夜に舞った。スリアラーが尻尾を振る犬のようにそれに続く。
 咄嗟に動けずに一瞬、夜の中で取り残される。まだ十日前ほどに、こんな夜道にふらりと現れ風のように動いた人影が、頭の隅の方にちらついた。そして名乗った記憶の中の名前を、少女が口にしたことで、その存在が過去から今へと変わることもすんなりと受け入れがたかった。
 理解することを不快に思う感情と共に歯がゆさは口元でかみ殺し、闇の中でラブスカトルは、糸のような目をうっすらと開き、仕方なく少女の後を追った。



 船着場の簡易にひょろりと伸びた見張り台にいたその人影の、こちらを見た第一声はうげ、としたうめきだった。
「メイス……よりにもよってこの人選かよ」
「適当な船乗りを呼んでこいと言われたレザーさんの言は果たしましたよ。ところで、レザーさんの言、どうも本当みたいですね。さっきからぷんぷん嫌なにおいがしますよ」
 その言葉に影が大きく動いてこちらに向き直る。
「するのか? どんな匂いだ」
「生臭い……腐臭というのですかね、なんとも言いがたい悪臭ですよ。こっちにくるともっときつくなりました」
「やな予感ほど当たるって本当かもな」
 嘆く節々に気取りのない気安さが見える。この少女の連れというのも、偽りではないと分かる程度には、わずかなやり取りで二人がかなり互いの存在に慣れていることを思わせた。
 夜の中で目を凝らしても依然として、見張り台につるされたランプから逃れて、その上に屋根の影がかかり男の顔はよく見えない。
「あ、あ、あっ」突然に隣のスリアラーが喚いた。つるされたランプが照らす不十分な灯りの下でもその頬が少年のように真っ赤になっているのが分かる。「兄貴っ!」
 その声を受けて人影は実に嫌そうに組んだ腕をほどき、自分の立つ位置に軽く手招きをした。
「話したいことがある。」
「なっ、なんですかっ!」
「いや、そっちのターバンの兄ちゃんがきてくれねえか」
 うなだれるスリアラーの横で指名されたラブスカトルが近寄るが、近くによってしても肩のところでぶらりと屋根からさげられた光が途切れて、その上の頭は見えない。ただ一つに束ねられた背に届くまでの青い髪が、左肩から伸びているのが分かった。
「どこ見てんだ」
 言い草に思わずラブスカトルが視線をそらした先、腕がすっと伸びて闇が溜まる海の方を指差した。
「証拠はそろっても信じたくないもんだが、見えてきた。」
 何を言っているのか分からないが、何もないように見える海から何故か目が離せなかった。新月の夜の海は見事なまでに闇一色に塗りつぶされて、そこから波の音が生まれていく。様々な逸話を呼ぶそれとは異なり、月が照らし出すこの夜はまだ波の表面が見えてそうまで得体の知れない空間ではなかった。
 ふと、
 ラブスカトルは月の青白い光ではない、何かを目にしたような気がした。一瞬は、波が揺らした光かと思うそれは、けれど疑惑を増殖させるように途端に姿を現実の領域にまで強めた。
 それは光だった。青く、けれど自然が作り出すほのかで優美なそれとは違い、ちかちかと瞬く不気味なもののように映る。その色合いには見覚えがあった。口にはしなかったが、もう少し目を凝らす。
「古い文献がある。もう滅んじまったエリアール国の海軍の記録書だ。通称、ティールの書。昨日起こったあれの大量発生。一夜で静まる嵐。そして浜辺に姿を見せない「奴ら」。強烈な生臭い匂い。当時は最強を誇った海軍を一夜にして壊滅させた」
「な、なに言ってんだ? 兄貴」
 不審に思ったスリアラーが寄ってきて、波間の一点を睨みつけて動かないラブスカトルに習い顔を向ける。海の彼方に生まれる青い光を見つけて
「ありゃ……センコウイカ?」
「そうだが違う。」
 鋭い声を放った瞬間、ざわっと夜の海から風が吹き付けてきた。一瞬、息がつまるほどに生々しいえげつなさが溢れた匂いだった。
 メイスはこうまでくると耐えられないように顔を風からそむけ、不意をつかれたスリアラーがおおげさにのけぞり、ラブスカトルは手すりを強く掴んだ。じっとりと掴んだその手が汗で濡れていた。背中にも、汗がつたっていた。
「まさか……」
 呟きに応えるように視線の先で波が一つ跳ねた。衝撃はもはや悪臭には留まらなかった。たった一つの動作で深い渦が幾つも生まれていた。そこから悪夢のようにはっきりと、月が照らす海上にその姿を現した。
 ラブスカトルのように、恐ろしい悪夢を予期していない、スリアラーには一瞬やはりそれが何かはわからなかったようだ。おおよそに冗談のような、姿だった。
 柔らかで滑らかであったはずの海上に、不恰好なオブジェのごとく奇妙な突起が突き出ていた。月は鮮明にそれを、あたかも舞台の上の主役であるよう端整に映し出していた。
 木の根やヘビの尾のような形に、背後には闇が流れ裏返ってこちらに見せ付けられた側面には丸い吸盤が幾つもついていた。それが海の中に屹立し、やがてぐおんとくねらせて海を叩くように騒々しく沈み、白い波が生まれた。
 スリアラーもここに来てはっきりと、押し寄せる恐怖と共にその正体を悟ったようだ。ラブスカトルはからからに乾いていた喉に唾を飲み下した。今やびゅうびゅうと風に乗って吹き付ける耐えがたいこの匂いのせいで、ひどい味がした。
「何度生涯を繰り返しても、滅多にお目にすることはできない……」
 手すりから離してぬるりと滑る拳を握った。名を呟くことは恐怖を具現化することだ。まだ幻想ですまされるそれを現実にすることだ。
 けれどに幻想の中で殺されては堪ったものではないというように、二人の船乗りは、サーガや御伽噺には当然のように存在し誰もがその存在を知りながら幻想へと片付ける、その名をはっきりと呟いた。
「クラーケン……」


 結構によく知られているクラーケンという、この名称は本当は一つの存在に定まったものではなく、巨大な海の化け物を総称してそう言うらしい。中には竜を示すことだってあるようだ。
 だがサーガや一部の伝説の影響もあるんだろうが、一般的には今ちょうど波間に揺れているようなああいうモンスターに分類される巨大なイカやタコを示す。
 半ば伝説に近いティールの書では(なにしろ海軍はそのクラーケンの襲撃で壊滅しちまったわけだから真相は誰にもわからない)、その全長は千リーロルにも及ぶというとんでもない記録が残されている。が、吟遊詩人の語るサーガや、それをモチーフに描かれた絵画の中には、さすがにそうまで巨体では勇者や英雄も倒すどころかまともに戦うことすら難しいと分かっているためか、いくぶんか縮小されて表されている。
 今海から刻々と近づいている姿をざっと見たところ、それは概ね正しかったようだ。まあいくらなんでも千リーロルってのはもう人がどうこうする問題じゃねえ。天変地異として考えるしかない。
 船乗りを選択したことは正しかった。奴らには仲間が嘘をつくか本当を言うかをはっきりと悟っているためか、血相変えて駆け出していったスリアラーとあの船の乗組員がきちんと役目を果たしてうまく広めたんだろう。
 見張り台から見える町は、もう静かな様子など一片も残していない。あちこちにぱっぱっと光が灯り、危険を告げる汽笛や鐘が狂ったように鳴らされている。ここからでは小さく見える住人たちが手を取り合って丘の方へと逃げていくのが見て取れる。早く逃げてくれよ。
 なにはともかく住人を無事なところまで逃げださせるのが最優先だ。馬鹿でかいと言っても所詮相手はイカ。陸をどこまでも追ってこられるわけではない。
「あれは、凄まじい速さで近づいている。ここもすぐに危なくなるぞ」
「だろうな。」
 一人残ったラブスカトルとか言うターバンの兄ちゃんが呟いた。狼狽の色は隠せずとも声には理性がある。
 さすがだな、とちょっと感心する。あんなのが突然海の向こうから姿を現してたら並の度胸ではこうは落ち着いていられない。スリアラーとかいうあの兄貴野郎は顔にでやすいから危険を実感として他人に伝えるにはもってこいなのかもな。
「あんたもそろそろ下がっとけ。」
「お前は」
「俺は冒険者だからな」
 呟いてふと俺は思いついてメイスの方を見た。
「元じゃねえぞ」
「今は、と付け足せばいいのではないですか?」
 微妙に笑いを含んだその表情がすげえありありと何かを語っていた…
「まさか倒す気か?」
「まさか。」
 さすがにそうまで言われて思わず苦笑が漏れて、肩をすくめた。
「お帰り願うんだよ。意志の疎通は難しそうだが、まあやるだけやってみる。モンスターの対応は冒険者の仕事だからな」
「狂ってる。いいかげんにしろ。」
 厳しい言い草だが確かに正論ではあるので、反論はしなかった。
「今なら、住人は逃げられるだろう。」
「まあ人間はなんとかなるさ。だけど船やら町やらは逃げられないだろ。あのイカ、何をしにくるかは知らないが、来るだけで全部がエリアール海軍と同じようにぶっ壊されちまう」
 生命守るのが最優先。それはいつだってそうだ。生きててなんぼのもんだ。だけどその後に刹那的に助かっても、生活を維持する場所や物がなければ結局に難儀は大きい。守れるなら、なるべく守るべきだ。大変だけどさ。
 一歩先だけを見て今の生を忘れればそれは目もあてられないが、明日があるならしんどくても、もう一歩先も見とかなきゃな。
 俺は海に目をやった。海の先で、蠢く化け物の余波で、すぐ下に広がる船着場へと次第に広がる波紋のように、大きめの波が押し寄せてきて船がぐらぐらと揺れだしている。もう、あまり時間はなかった。
 メイスに先に行くように指差すと、メイスはちらりとターバン兄ちゃんの方を見て素直にはしごを二、三段下ると後は手抜きをしてぴょんと飛び降りた。
 小さな姿が闇の中に吸い込まれて、木の板で作られた渡り場にたんと軽く着地した音が聞こえた。ターバン兄ちゃんには見えないからいいようなもんを……
 俺も降りるための手すりに手をかける前に、ターバンの兄ちゃんの細い目を見返した。理解の色はやっぱりその中になかった。いいさ。そういう仕事を選んだのは俺だ。
「できるだけはやる。仕事だからな。あんたの船に乗ってるんでね、壊されると俺としても困るんだよ」



 町の狂乱はすでにたてる人々が大方去ったせいか治まっていた。静かな夜が戻るかわりに静か過ぎる夜が舞い降りて、永遠の静寂を紡ぐ無人の街にはあちこちに、人々が避難する際に手放し転がった松明が小さな焚き火を作っていた。その灯火がまた避難の混乱の際に落として残していった、様々な人々の持ち物を照らしている。
 その町の道の真中で、ぽつりと立っていたその人影の背後で荒々しく駆ける音がした。気付くとぐいっと肩を捕まれて息を切らしたスリアラーがそこに立っていた。
「おいっ、ラブスカトルっ、なにぼけっとしてんだよっ!」
「呆けてはいない」
 すぐに答えが返ってきたことに、逆にスリアラーの顔が訝しげになる。
「逃げるぞ。もう町の連中は丘に逃げた。あのイカ野郎、もうだいぶ間近まで迫ってるのにお前らが来ないから……」
 そこまで言ってスリアラーがはっとして辺りを見回すが、無人の町は寒々しく生の気配はほかになかった。
「兄貴とあの嬢ちゃんはどこだ?」
 その言葉にラブスカトルの目に不快そうな色が宿る。
「なあっ、おい、どこに行ったんだ?」
 不安にかられて揺さぶるスリアラーにラブスカトルは細い目を向けて
「船のことをどう思う?」
 唐突に出た問いにスリアラーが一瞬きょとんとした。「船?」
「そう、俺達の船だ。今のままでは確実にあのクラーケンに壊されることが分かっている船だ。腐っても船乗りだ。船をなくしてはなにもできない」
「なにいってんだよっ! 仕方ねえだろっ、あのイカの足を見ただろ、お前。」
「その通りだ。」
 突然の手のひらを返したような肯定に、やはり勢いを挫かれたスリアラーの手をはらい、頭にターバンを巻いた男は
「船の持ち主の俺達ですらそうだ。なのにまったく無関係な奴が守るという」
「兄貴がっ!?」
「レザー・カルシス。名を聞かなかったことが信じられんな。こんな大ばか者は世界中にその馬鹿さ加減が響いているはずだ」
 言うなりラブスカトルがきびすを返して港へと駆け出す。スリアラーはぎょっとして
「そっちじゃねえよっ、どこ行くんだっ」
「お前の大好きな、あの馬鹿のところだ」
 夜気を切り裂いて船着場に行くと、そのすぐ入り口に、松明をもって一人で立っていた白い髪の少女がこちらに気付いて振向いた。
「なにか御用でしょうか?」
「あの男はどこだ?」
「いい立ち位置を探しているそうですよ。あれが来る方向を計算しながら」
 そこで連れなく顔を逸らし、目の前に積み上げられた、油が染み込んだ布を先端に巻きつけた松明を拾い上げて少女は何をする気なのか、一人で使うには多すぎるそれらに持っていた松明から一つずつ火をつけて、火がつきはじめたそれを桶にいれて転がさぬようにした。
「本気でやる気なのか」
「やるでしょうね。レザーさんはこういう手間暇をかけた冗談を言う人ではないですよ」
 作業の合い間に平然と言う相手に、じりとラブスカトルの腹の中に焦燥に似たものが沸いた。
「お前は、それでいいのか?」
 その問いかけにゆっくりと少女は振り向く。赤々と灯された光に照らされて、端整な美しさはどこか禍々しさを帯びた。赤い瞳がふっと笑った。光が高さを変えて少女を照らす。スリアラーが思わず唸るような声をあげた。
 少女が背後とした闇の中に松明がひとりでに浮かび上がる。松明達は彼女を取り巻いて浮かび辺りの暗がりをその明るさで削り取り、少女のための舞台をこしらえるように彼女の姿を照らし出す。まさに効果として狙うなら、これ以上魔女らしい状況はない。
 それでも笑う少女はどこかこちらが悔しく思えるほどに、揺るがぬ何かを持っているようだった。
「まあ気まぐれですがね。レザーさんがやりたいと言うのですから、やらしてあげればいいじゃないですか」
「ま、魔術か?」
 傍らのスリアラーの問いかけに少女は何気なく頷き
「そうですよ? 松明はあのイカみたいにひとりでに燃えもしなければ浮かびあがりもしませんよ」
「やっぱりお前、あのニーチェやカナンの魔術師なのか?」
「そういう誇張はなされてますねー。あんな七面倒な真似を介入するほど以前の私は暇でも酔狂でもありませんでしたが、他人の分までそれを背負う人間の相手をすることに私もいいかげんに慣れたのですよ。あの最低という言葉が具現化するならばあれ以上に生きとしいけるものの中で当てはまるものはないという考えるだけで極上の野菜の味もまずくなるという心理面に最悪の打撃を与えるお師匠さまの相手よりは幾分かマシですしね」
「メイスっ!」
 呼び声と共に少女は振り向いた。その方向から、もはや耐えがたいすっぱい匂いをたたえた風が吹き付けて、夜の中に浮かんだ松明を揺らした。
 そんな不快な風の中を人影が駆けて来る。松明の光が届かぬ場所で人影は一瞬立ち止まり、ラブスカトルとスリアラーを見た。
「お前ら、まだいたのか?」
「あ、兄貴っ」
「さっさと逃げろ。真っ直ぐには逃げるな。風が吹き付ける方向から逃げろって言われている。メイス、お前もそうだ。いいか、やったらすぐだ」
「どうする気だ」
「説明してる暇さえあればしてやっても良かったよ。」
 手早い動作できびすを返す、くくった一つの青い髪とマントが翻った。そこでスリアラーもようやく事がわかったのか真っ青になり
「兄貴っ、勝てっこねえってっ! あのでかさみたろ」
「でかい相手には慣れてる」
 瞬時に波がうねって船着場に激しくぶつかり、白い泡を散らした。港自体が大きくぐらりと揺れて、深き海底からゆっくりとそれが確実に近づいてくることが絶望的なまでにはっきりと分かった。
 何も言わずに人影が走り出す。少女が小さく口元で何か唱えた途端、松明が照らす夜の中にさらにむくりと幾つもの影が舞った。見慣れたその形にすぐに正体が分かる。蓋をされた樽だった。
 たっと土を蹴る音がした。横を見ると少女の姿が消えている。松明の光は依然として空にあり、それが照らす全てが現実味をなくしていた。
「ここじゃ、駄目じゃないですかー」
 不満そうな少女の声が響いた辺りを、咄嗟に見回すと、宙に浮いた松明が影を作り出して、傍らの漁船の倉庫の屋根に小さなその影があった。一瞬にしてその上までどのように移ったのか、見当もつかなかった。
 ずしん、とまた海からの脅威が近づく音がひとしきり大きく響き、彼らの足元を揺らした。けれど、屋根の上の少女は、恐れなど欠片もないように無造作にその屋根を蹴る。
 小さな身体は闇に舞い、まるで体重がないようにすぐ傍に軽やかに着地すると、人影が去って行った方向に駆け出した。その背後に空に浮かんだ松明と樽が追う。
 今度は考えもなく、その後をラブスカトルは追っていた。危険はもはや感知する気もなかった。耳で目で全身でどっと汗が吹き出るような威圧感を受けていた。スリアラーも今度は何も言わずに続いた。
 少女のしなやかな足は凄まじい速さで見えなくなり、かろうじて夜の中に孤独に浮かび上がる松明の灯りでどこに向かったのか分かった。
 少女は船着場の隙間を駆け抜けて、どの船よりも遠く、一番海に接して邪魔のない一隻のラブスカトル達の二倍はありそうな帆船の甲板へと飛び乗った。
 背後を追いかけてくる船乗り達の存在には気付いているようだったが、少女は素早く張った帆の横柱を飛び跳ねてどんな器用な船乗りでも、到底追いつけぬ速さで見張り台まで飛び上がる。
 すでに眼前に闇に青白く光る姿は迫っていた。そこから吹き付ける風の生臭さに、当に鼻は麻痺している。
 すぐさま少女は詠唱へと入った。胸の前で互いの平を向かい合わせるようにして近づけた手から、光が生まれる。青い光は不思議なことに前方に迫る巨大な化け物が身体から放つものとよく似ていた。
 闇の中、少女の白い髪がふわりと浮かび上がり、生まれた光はすでに腕のうちに治まらず、空へと向けた手の平にのしかかるほど巨大になり、それは夜の中の太陽のよう、鮮烈に辺りにほとばしり、焼けついた昼のように辺りを煌々と照らした。
「なっ、なんだあっ!?」
 スリアラーがあげた狼狽の声に、まだいたのかという風に、少女が甲板を見下ろした。
「レザーさんに教えていただいたのですがね、イカをおびき寄せるにはこういう漁をするそうですよ」
 少女は言い放ち、その光に照らされた前方からざばあっと海水を陸に押し上げて、貪欲な心を表すようにどれもゆうに二十リーロル(約五十メートル)はありそうな幾多もの触手が海上に現れて、好き勝手にのたうつ。
 余計なことにまじまじと、少女が生み出した青白い光がそれを克明に照らし出した。想像を絶する大蛇が暴れているように、その光景は闇がまだ隠していた実際の恐怖をつきつけてくる。
 まだ頭部は見えはしなかった。蠢く無数に思える光る足だけが真っ直ぐに伸びたかと思うと縮んで、一直線に抱えた光めがけて寄ってくる。その巨大な動きの余波がまともにやってきて、ぐらぐらと揺れていた船は嵐にもてあそばれた時のように耐えがたい振動に包まれた。
 見張り台の上の少女は閉口したように顔をしかめて、物も言わずに掲げた手の平を前方に向けると、光の塊は松明や樽のようにすっと彼女の手から離れて、船着場のすぐ近くの海上へと進んだ。行方を息を呑んで見送り、そして戻すと見張り台の上、少女の姿がない。
 先ほどのようにまた一瞬で消えたのかとラブスカトルが目をこらすと、見張り台の手すりうちに小さな影があった。今度はただ単に彼女は仕事がすんで振り落とされぬよう、手すりのうちに身を潜めたらしい。
 揺れる船の上は、もはや彼らが船乗りでもなければ一秒で無様に転がってしまいそうに無理に寄せられる波に翻弄されている。風が吹き付ける。松明は消えてしまわないか、少し思う。
「……っ!」
 突然、何も言わずにどんっとスリアラーの手が、ラブスカトルの肩を強く叩いた。こづきながらその視線は一点を目指して動かない。
 彼の言いたいことは探すまでもなく目に飛び込んできた。
 十何リーロルと離れていない海上に、足が隆々と突き立っていた。船の下に押し寄せたセンコウイカと同じよう、内側に発光器を備えているのか光を帯びている。
 悪夢のようなそれはまるで下手なオブジェのよう無機質で、光を放つその触手の鳥肌が立つほどの吸盤が並ぶ内側以外は、影に彩られた様は硬質に見えた。
 止まっているように見えたのは、ごく一瞬だが意識の中では永遠に近い。瞬時に、振りかざされたそれは鞭のようにしなって風を叩き、そして激しい衝撃と共に理解が飛ぶ。
 ただ激しさがあり、それに張り飛ばされそうだった。それがもはや音なのか衝撃なのか判別できないままに、感覚の遮断の中で心臓の音だけが克明だった。生きていることが逆に恐ろしかった。
 気付くとラブスカトルは波が蠢いて狂おしく揺れる甲板の上で這いつくばっていた。すぐそばに同じように転がっているスリアラーの存在だけをなんとか確かめる。
 自らの鼓動しか聞き取らぬ、聾したかと思った耳に、ようやく他の音が戻ってくる。どんな嵐でもありえないほどの揺れも幾分かは弱まった。
 恐るべき一撃はその船ではなく、すぐ横の何もない海上を叩いたのだ。見せ付けられた、威力は明白だった。その一撃で、この船は粉々に砕け散る。
 この恐るべき海の化け物は、生きている嵐と相違はなかった。船乗りならば誰もが知っている。嵐に逆らっても打ち勝つことはできない。生き延びるのは、その慈悲と自らの運に縋るしかない。
 けれど、それ以上追い撃つ海の巨大イカの一撃はなかった。恐怖も畏怖もそしてそれに打ち勝つ勇も頭から失われて、ただただ呆然と顔をあげて見据える。
 辺りは、気が狂うほどに明るかった。何も見落とさない、見落とせない世界の中で、触手が伸びていた。光を求めて海から幾手ものぬめりと照らされた巨大な腕が姿を現していた。そして吐き気を催すことに、姿も半ば露となっていた。悪魔のような巨大な影を背後に沿えて、光球にたかる巨大なイカの姿が冗談のごとく目の前にある。
 形は、その造りは、やはり普段掌にのせるほどの、あの軟体動物とそう変わりはない。なのに大きさが違う。それだけが、どこまでこの造形を醜悪に見せるのか。
 ふと、上空で誰かが呟いた。歌声ではないが抑揚がリズムをとり、何もかもが滅茶苦茶に彩られたここで、意味も分からぬままに綺麗な響きだとラブスカトルが思った。
「嬢ちゃんっ! あぶねえっ」
 叫んだ声にようやく隣にスリアラーが同じように立っているのに気付く。再び少女が見張り台の上に立っていた。背後から浮かんだ影がすうっと舞い出る。あの樽だった。
 なんの変哲もない樽が、光球とそれにたかる山のごとき化け物へと近づく。
「なにをするつもりだ」
 ラブスカトルの意志とは別に、声は妙に落ち着いていた。その響きが耳朶をうって心が静まる。夜の中に、少女が大きく呼びかける。
「レザーさんっ!」
 ふと風を切る音がした。瞬間に、樽の一つに妙な突起が出来ているのに気付いた。そこから水滴が吹き出てくる。
「レザーさんっ、それだけじゃ足りませんよ」
「しかたねえだろ、投げナイフじゃたかが知れてる」
 姿を消した男の声がどこからともなく響く。言いながらもすとんすとんと闇を切ってクラーケンが灯す光と、少女が生み出した光が、相殺することなく交じり合い昼とも朝とも違う明るさが満たす世界へと、投げナイフが到来して樽へと刺さる。その腕は確かだった。
 直感のように頭をよぎったものに、ラブスカトルはふと辺りを見回して、船室へと飛び込んだ。
 光が天井板に邪魔をされてさしこめず、薄暗いその中で無我夢中で探る。幸いに平均的な船のつくりと変わらずに、武器庫はすぐに見つけられた。そこから一対の弓と矢筒を引っつかむと、階段を駆け上がる。
 再び甲板に飛び出して巨大イカの姿をまず見た。うっとりと恐ろしい姿が光に何本もの触手を伸ばして表面を撫でまわしている。クラーケン自身はそれを海中に引きずり込みたいようだが、辺りを照らすその光球はおぞましい腕に包まれながらも平然と空に浮いていた。
 スリアラーの姿が見えなかったが、構わずに矢をつがえ弓を引き絞る。明るさは充分だった。
 樽には幾つものナイフが刺さり、そこから勢いよくけれど穴が小さいためか量は多くない、光に黒く映える液体が噴出して光球に貪りつくイカへと注いでいる。矢尻を掴んだ手を迷いなく離した。
 夜を一直線に飛ぶ、矢は見事にナイフがささる樽へと命中した。運良く一部の板が剥がれてナイフよりも中に入った液体を撒き散らした。
「おや」
 少女が呟いてこちらを見下ろした。白い髪がぶらりと前に流れた。「まだいらしたんですか」
 答えるより早く、びんっとさらに鋭い風を切る音と共に、夜空に不自然に浮かんだ樽にラブスカトルの放ったそれより数倍は巨大な矢が命中した。
 その一撃は耐えがたかったようで、樽は木っ端微塵に粉砕し、中に詰まっていた液体は、いっせいに気持ちが悪いほどに白いクラーケンの身体へと降り注ぎ、その表面でゆらりと光った。
 首を返すと、スリアラーが帆先にいて、そこに据えられたボーガンを構えていた。
 純粋に感心したように男の声が響く。
「いい腕だな」
「あれはうちの狙撃手だからな」
「兄貴っ、俺役に立ってるかっ」
 喜色混じる雄叫びに苦笑が返った。姿の見えぬ男はナイフが投げられた高さから考えて、おそらく向かい合う隣船の見張り台にいるのだろう。
「渡りに船だ。手伝ってもらうか。メイス、次だ」
 ふわっと次の樽が浮上した瞬間に、ナイフと矢とボーガンは瞬時にそれを打ち抜いた。
 このこと自体は単純作業に近かったが、五つ目の樽を打ち抜いたとき、ふとラブスカトルは、海の怪物が自らに降り注ぐ、黒い雨にも気付かず夢中でたかる、光球が放つ光が弱くなったような気がした。けれど、恐怖が迷いこむより先に、見張り台の上から少女が
「ついでにこれに火をつけてくださいませんか? 消えてしまいましてね」
 彼女が光球を生み出すまで、辺りを照らしていた松明が甲板に転がった。灯されていた火は風で吹き飛ばされたらしく、湿ってはいなかった。
 確かに初めから樽と同じく空に浮かんでいたのだが、激しく毒々しい青い光に焼かれて、すっかりその存在を忘れていた。ラブスカトルが言われるままにふところから、火打石を取り出す。
 彼が役目を果たそうと腰をかがめた瞬間、辺りがまた少し薄闇を取り戻した。今度は気のせいではなく、明らかに光球の威力が弱まっている。
 かすかに汗が湧いた。ぎこちない手が数度の失敗を繰り返す。光がまた弱くなった。まだ手元から火花は生まれても油に飛ばなかった。スリアラーも駆け寄ってきてひざまずくと、かちかちとせわしくなく自らの火打石を鳴らし始めた。しかし似たり寄ったりの手つきだ。
「まだですか?」
 答えるよりも行動が先だった。なにより返答で生まれるやもしれない息や唾で、せっかくの火花を散らしては目もあてられない。
 焦る彼らを嘲笑うよう、一度弱まれば、魔力で生まれた空の固まりが光を失っていくのは早かった。刻々と弱くなる光に不安と焦燥が雪のように舞い降りる。
 目を向けていなくとも、今や光球が海の魔物自身が放つ光よりも弱くなっていることは明白だった。それまで夢中でからんでいた足がずるり、と動く水音がする。汗が吹き出る。
 カチっ、と確実な音がしてスリアラーの手から生まれた火花が、松明の先にくくりつけられた布に染み込んだ油に引火して、たちまち一塊の炎となった。
 ラブスカトルは手を伸ばして、他の松明をかきあつめそこに唯一火がついた一本の松明へと近づけた。確実な炎を近づければ油を染み込ませた布にはすぐに、ぱっ、と先ほどの光球とは色合いが違う火の明かりが辺りを削り、そしてクラーケンの足が放つ光とは交じり合わずに互いを相殺した。
 ふと背後から、なにを言っているかは聞き取れないが、あの男の叫びが聞こえたような気がした。光を灯し勝利の喜色を浮かべたスリアラーは瞬間に、凍りついたようにラブスカトルの背後を見つめた。二人の船乗りから一リーロルも離れていない場所にクラーケンの瞳があった。
 彼らが必死に作業に取り掛かっている間に、光が薄れるにつれてあれほど熱烈にかまっていた光球に興味をみるみるなくしていったその巨体は移動して、船着場の桟橋に身体を乗り上げ、彼らが乗っている船の横にぴったりとその醜悪な柔らかさを持つ身体を寄せていたのだ。
 悪夢や冗談の中にしか存在しないと錯覚しがちな、馬鹿らしい近さにあるそれは、悠に彼らの頭一つ分もありそうなほどに、巨大な瞳だった。黒目がちな見事なまで丸い、その感情のないただ見つめるだけの瞳が彼らを、より言えば新たに灯された松明へと向けていた。
「――!」
 スリアラーが、悲鳴をあげなかったのか、あげられなかったのか、分からないままに巨大な怪物は無造作に、まるで目の前を飛ぶ蝶に手を伸ばす幼子のような無邪気さで、一本の足を振るおうと翳した。その影が全身に降りかかり、逃げ場がないことを悟る。
 瞬時の覚悟を決めた耳に、夜を切り裂く幾筋もの音がした。ふとクラーケンは動きをとめ、振り上げていた足を引いて身体の向きを変える。クラーケンの放つ光に照らされる、海上に見覚えのある船があった。そして甲板に見覚えのある人々が乗っていた。
「お前達っ」
 船を操る以外には、ほとんどの船乗り達がそれぞれ飛び道具を手にしている。クラーケンの背に幾つもの矢が刺さっていた。それによって一撃を喰らわずにすんだのだ。船上から誰かの声が聞こえた。一番に声がよく通るホークビットのものだった。
「お前ら馬鹿じゃねえかっ、姿がみえねえと思ったらなに戦ってんだよっ」
「船ごとくるお前らが馬鹿だっ」
 珍しくスリアラーが正論を怒鳴り返す。その合い間をついて灯された松明が舞い上がり、それを目にした船乗り達がどよめいた。
 見張り台の上で少女は手を広げていた。そして松明は巨大なその身体の、上空の四方に広がり、火の粉を散らしてぬめぬめとした身体にぶつかった。
 海上に山のように盛り上がったその身体にぱっと火が走った。感覚は極めて鈍いのか、クラーケンは燃えながらしばらく動かずに、自らが放つ光の色合いがなぜ変わったのか不思議そうに考えているよう、燃える足を目の前に翳してゆらゆらと無意味に揺らしている。クラーケンの巨体を焼く炎が辺りの闇を削った。
「あ、あれ、油だったのか……」
 分からぬままに、樽落しに参加していたスリアラーが間の抜けた声で呟いた。状況に似合わぬ呑気な呟きであったが、それほど、船の上の船乗り達も危機や異常な状況をつかの間忘れて呆然としてしまうほどに、燃えながらぴくりともせぬ巨大イカの姿は異様だった。
 油で濡れた全身を炎はよく走り、そして先ほどまで伝説ではその匂いで数多の魚を呼び寄せるという、全身から放っていた生臭い匂いが風と共に微妙に変わった。後になれば完全なほらふき話となるが、咄嗟にその匂いに幾人かの船乗り達の舌に唾が広がった。
 そして観衆が思わずぼんやりと眺めてしまう、巨大でそして鈍き海の怪物の咆哮は突然だった。黙って火に包まれていた、その生々しい巨体にどのような転機があったのかは分からないが、自らを包む業火に激しい怒りを抱いたよう、ぶわりと膨れ上がったような幻覚と共にその巨体が空に向かって突き立ち、四方に滅茶苦茶に十の足が伸びてなぎ払う。
 それは海上で無防備な船乗り達の船には届かなかったが、ラブスカトル達が乗っていた船の、何千年の時を経た見事な一本杉をそのまま使う帆柱が、ひしゃげるように横になぎ倒された。
「メイスっ!」
 幸いにも倒れる方向に立っていなかったが、それでも帆柱をへし折られて揺れ動く甲板の上で、ラブスカトルとスリアラーは初めて、闇から飛ぶその声に焦燥の響きが含まれているのを耳にした。
 そして一つの事実が脳裏に走る。夜のしじまに響いたその名を持つ少女は、帆柱に設置される見張り台へと立っていたのだ。
 声の主への義務のように、咄嗟にひどい揺れの中で辺りを見回す。すると、タッ、とやはり軽い音がして、夜の中に白い髪を舞わせた少女がラブスカトルのすぐ眼前に軽やかに降り立った。
「平気ですー」
 一体全体どうして彼女が平気であるのか、その理由は分からぬままに安堵する。厳しく有無を言わせぬ声が飛んだ。
「下がってろっ、その船から三人とも下りろ」
 海の怪物はようやくにその炎から逃れる方法を悟って突然に船着場にかけていた足を素早く戻して、全身で海へともぐった。
 その膨大な体積に耐えられずに桟橋へと大波が押し寄せて、船乗り達を乗せた海上の船はあやうく横倒しになりかけて、指示どおりに逃げかけていたラブスカトル達も危うく飲み込まれそうになった。
 少女とスリアラーと共に、咄嗟に手近な船へと飛び移って、難を乗り切り視線を走らせる。仲間の船乗り達もなんとか乗り切ったようで、彼らの船はまだ無事に海上に浮いていた。
 それを確かめてようやくに息をつき、ラブスカトルは海水とも汗ともつかぬものに濡れた顎を拳で拭った。クラーケンがもぐった海が不気味に光っていた。
「どうするつもりだ?」
「さあ。私がしろと言われたのはここまでです」
 問いかけられた少女は肩をすくめてそれだけを言う。たいした猶予を与えてくれないままに、光る海水が盛り上がる。巨大な波紋が何重も生まれる、光がまた近くなる。
「兄貴っ!?」
 不意にスリアラーが叫んだ。メイスとラブスカトルがそのただならぬ叫びに視線を向けた。横にせり出した細いマストの横柱を、人影が駆けていた。
 その横柱には、人が立てるほどの幅はないことはない。けれどたとえそれが陸においてあったとしても、そのように無造作に走れる場所ではない。まして今はクラーケンの動きで止められた船は木の葉のように揺れるのだ。
 けれどその綱渡りを人影は無造作にこなしていた。走り去るその背後で、黒いマントがはためく。クラーケンの浮上より一歩制して、横柱の先に辿り着いた人影は勢いのままに空に身を踊らした。
 さすがにその動きには、隣の少女も小さく息を呑む音がした。空に身を投げた身体は、きちんと足を下にして右手に握られた剣を構える。人影の意図を察して思わずラブスカトルは怒鳴りつけていた。
「命がいらないのかっ!」
 すでに浮上してきていた、傷つけられてさらに気分の悪いものへと変貌した裸身と、落下する人影が重なった。
 空も飛べぬ、ただ落ちるだけの運命などからりと忘れたよう、まるで無造作に空でその人影は、細いクラーケンの胴体に己が剣を落下の勢いのままに長剣の根元まで深々と突き刺していた。
 落下の重みで刺さった剣は一度その勢いを止めたが、彼自身の体重により今度はすうっと嘘のように縦に落下の軌跡と共にクラーケンの胴体を切っていく。
 この直接的な攻撃には、さすがの鈍感さを誇る海の怪物もすぐ気付いたように、悲鳴の変わりに十の足を痙攣させ手当たり次第に振り回した。
 自らに迫るその凶器に気付いた人影は咄嗟に掴んだ剣の柄を蹴り飛ばし、密着していたクラーケンの胴体を離れるため背後へと大きく飛ぶ。
 着地時点にはうまく桟橋があり、人影が海へと落下することはなかったが、先ほど太いマストを一撃でなぎ倒した足が、横合いから風を切って襲来し桟橋ごとその付近にある全てのものを破壊した。一足早く飛びのいていなければ、間違いなく全身の骨がばらばらになって圧死している。
 怒り狂ったクラーケンは今や先ほどの、彼らなど眼中にないように光球にうっとりとしがみついていたときとは違い、その無機質な分だけ恐怖を煽る黒い瞳ではっきりと分不相応に自らに苦痛をもたらしたその人影を見据え定めていた。
 巨体がぐぐ、と大きく動き、全ての意識を集中させて十の足が人影へと殺到する。対して人影は、いまだクラーケンの胴体に突き刺さった剣が示すように空手だった。どの瞳が見ても同じ結末を予想させる状況に、スリアラーが悲鳴をあげる。
「兄貴っ」
 ラブスカトルは咄嗟にまだ掴んで持っていた弓に矢をつがえて放った。わずかに遅れて船上の他の仲間達も次々に逆の方向から矢を射た。矢は刺さったが、それは全く激情の怪物にとっては微々たるもののようだった。あのような長剣が真正面から深々と刺さって切り裂いても、その動きをわずかに鈍らしただけなのだから無理もない。
 死刑台へと足をかけていても、まるで軽業師のよう、長身でありながらその人影の動きはわずかな風にも揺られる柳の葉のように軽やかだった。それを目にして船上で感嘆と驚嘆の声があがる。
 人影はほとんど神技に近い身のこなしで、十の足の襲来を一つの身体で避けていたが、無差別なクラーケンの攻撃についには足をつけるべき桟橋がほとんど壊滅しかけて、その隙をつかれて一本の足がしゅるりと身体にまきついた。動きを封じられればどのような剣士も術がない。
「レザーさんっ!」
 その光景に白い髪の少女が突如、飛び出した。「嬢ちゃんっ」とスリアラーが声をあげる。ラブスカトルは一瞬揺らいだが雲を掴むようにわずかな希望で、人影を掴む足の根元へと矢を射込んでみるが、全く効果はなかった。
 獲物を捕まえて海の怪物はご満悦になったようだ。ゆっくりと仰向けになるようにその巨体が傾いていき、細長い胴体の下にある口がきちきちと蠢いているが見えた。
 不意に壊れかけた桟橋を駆けていた少女は、言いようのない怒りにかられたようにそこで立ち止まり、自身の身体の何十倍の大きさを誇るクラーケンをびしっと指をさし
「そこっ、何を私の許可なくして勝手に食そうとしてるのですかっ、レザーさんは私のものですっ!」
「違うっ!」
 すかさず飛んだ返事に、場違いな余裕が見えたような気がした。少なくとも声は出せるのだ。ぎりぎりと締め付ける海の怪物の足にまかれながら、影がかすかにもがいたと思った瞬間、奇跡のようにその足の締め付けから自身を解放させていた。
 けれど奇跡を待つような悠長な真似を男はしたわけではない。その左手には小さなナイフがあった。厳しい締め付けの中で、隠し持っていたそれをなんとか身をひねって隙間を作り出し、自らを拘束する怪物の足へと突き立てたのだ。
 自由になった瞬間に、人影はそのナイフを捨てるように前方へと投げつけて、右手が柄へと手をかけた。男はよく見ればもう一本の剣を下げていた。素早く抜き払った刀身が海の怪物自身が照らす光に跳ね返り白く輝く。
 様々に器用な真似を重ねながらも、男は生粋の剣士のようだった。刀身を手にした瞬間、化け物を前にしてひるむことのなかった身体に、さらなる力が溢れたように見えた。真っ向から伸ばされてきた恐るべき暴力を秘めた腕を、かすかに身を横に引いて剣を下から振り上げる。
 先ほどのように落下や体重をかけられる状況ではない。恐らく力ではなく、触手にそっと刃を添えて猛烈に伸びてくるそれ自身の勢いの力で、自滅へと追い込んだのだろう。足の先が竹を割るように綺麗に二つに分かれた。分かれた片方は青い光を放つ吸盤のついた内側で、もう片方は何もなくただその輪郭の背を描く半分の足だった。
 クラーケンが怯みその足を引いた瞬間、蠢き辺りのものをなぎ倒す足達が作った空間に空白ができた。ただの一瞬も男は躊躇わずに引いた足を追うように駆ける。
 海の怪物もすかさず形勢をたて直そうと、その巨体をぐるりと回した瞬間、左の目にぱあんっと先ほど空に浮き、彼の怪物を虜にした光球と大きさを別とするだけで全く同じものが炸裂して巨体が揺らめき動きが止まる。光が飛んできた先に少女が立っていた。
 男はそれを立ち止まり確かめるような愚かな真似はせず、一直線に先ほどに彼自身が切り裂いてぐったりと横たわる足を踏み台として蹴り、伸びた胴体と比べれば比較的、低い位置にある瞳の間近へと駆け上がった。
「まあ、とりあえず」
 そこに辿り着き吸盤にうまく足をかけて立つ、男は息一つ切らさずに呟いて、剣の柄に両手を合わせる。
「お前に食われる、義理はないね」
 ぐっと男の身体が全身で力を放出する際の硬直を示した。今度こそクラーケンが致命傷を喰らった反応として全身を震わせた。黒く瞬くことはないその巨大な瞳に深々とその剣は刺さっていた。
 憐れな化け物はさらに暴れ狂うかと思われたが、いっさいの力が抜けたようにだらんと足を投げ出して、そのままぶくぶくと泡を生みながら海に沈んでいく。船乗り達のほとんどが息をつめ、固唾を飲んでその様子を見送っていた。やがて嵐が過ぎ去った時と同じよう、呆然とした状況を残して全ては去った。
 男はしばらく海を覗き込んでいたが、やがて深きへと潜ってぼやけた光が沖合いへと去っていくのを見届け、ようやく海に背を向ける。それから軽く首を左右に数度曲げて、口の中で何気なく呟いた。
「疲れた」



 一夜明けると、朝の光と共に来たのは膨大な歓待の嵐だった。町を救い、船を救い、モンスターを倒した奇跡に、白い髪の名の知れた少女と勇敢な船乗り一同に雨あられと降り注ぐ、感謝と賛辞に街全体が沸いていた。
 引き止め呼び止める手は数多で、少し心が揺らげば何週間でも開かれる宴の中でずるずると滞在してしまいそうな、その熱狂にけれど船乗りとしての意識が高いのか、商売の約束があると振り払い予定通りに出航の準備に取り掛かった。
 おおいに残念がった人々は、それでも総出でその準備へと力を尽くしてくれている。船乗り達が運ぶはずの荷物も強固に言い張り押しのけて我が我がと先を争い運んでいる、その様を甲板から見下ろし、ラブスカトルは一つ嘆息した。
 そして横に立つ白い髪の少女へと目を向けた。
「本当に、いいのか?」
「いいというより本人が嫌だと言っているのですから仕方ないでしょう。」
「名を売るのは好きではない、と言った。船も救った。意のままにするだけの恩はある。しかしこんな横取りのような真似をさせられるのは気分が悪い」
 いつの間にか仕立てられた位置は不当だと、かすかに力を貸したことで全くの不当ではないにしろ、賛美ならば感謝ならば誰よりも受けるはずの人間一人だけが、誰の口にも上がらなかった。
「仕方ありませんよ。そういう人なのですから。私だって嫌なんですよ、またレザーさんのしたことを勝手に被せられるのは」
 実際に彼女も、この先さらに響くようになるだろう己が名に、うんざりとしているようだった。確かに今回の船乗り達が抱いた疑惑などを考える限り、名が知れるというのも決していい面ばかりではないようだ。
 もっともにその処理に不満を抱いたスリアラーは、けれど相手に諭されてそれが何かまた違ったつぼに入ってしまったのか、感激のあまりに心酔はさらに深まったようだ。一生兄貴についていく、と拳を握り締め誓った言葉を聞けば、あの男は嫌な顔をするだろう。
 そこまで思いふと、ラブスカトルは男の顔を一度も見ていないことに気付いた。どの記憶を掘り返しても闇や影の中で疾風のように動いた男は、その姿をさらすことがなかった。
 腕を組んでラブスカトルは、少しばかりの苛立ちと共に言葉を吐いた。
「理解しがたい男だ。」
「そうですねー。」
「冒険者といったが、確かにそうだな。気狂い稼業だ。とても真似できん」
「別に冒険者全般があのような人ではないと思いますが」
「あってはたまらん。あんな命知らずな馬鹿が何人もいてみろ。」そこまで話して、背後で一人に呼ばれてラブスカトルはすぐ行く、と答えを放って少女の隣から辞した。
 細い肩に不思議な白髪に赤い瞳のこの少女を、一人にさせておくことに不安はなかった。あの一夜が明けたからには、甲板に立つ少女の正体をこの船の誰もが知っていても、決してもう騒がれ、不安に思われることはないだろう、と確信があった。
 結局に悪夢のような一夜の一騒動の後、残ったのは戸惑う評判と、そしてこの少女へ向けられた疑惑の払拭だ。評判は時期に薄れるだろう。なにしろ自分達はあんな馬鹿げた冒険者などではない。「真っ当な」船乗りなのだから。
 だから残るのは、少女の件だけだ。ほんの微々たる、些細な結果に、少しだけ愉快な気持ちになり、振り向いてかすかに唇に笑みを浮かべてラブスカトルは少女に言った。
「怖いもの知らずという馬鹿げた言葉は、あの男のためにあるのだろうな」
 彼にしては最大級のその賛美を、本人に伝える気はターバンをまいた男にはさらさらなかった。



 なんつーか、一面に野菜だった。
 多くの船乗り達はむろんくれるというもんは、あんまりこだわらずに受け取っていたが、メイスが遠慮なんて気持ちを知るはずもなく、大量に礼の生野菜を貰っていた。いや、別にいいんだけどさ、それくらい貰ってもばちがあたらんほどにはみんなやるこたあやったし。
 しかしこう鮮やかな野菜の中に埋もれていると……なんつーか……いやなんだろ。
 トタトタと他の船乗り達にはたてられない軽い足音が聞こえて、狭い部屋にメイスが入ってきた。今は崩れ落ちそうな野菜の山の横に俺は転がっている。メイスは俺を拾い上げて、
「レザーさん、もうすぐ出航ですって」
「そうか」
 手近な机へと置いてくれた。思わずその動作にほっとする。そうだよな。あの時の航海とは違う。こんだけ大量な野菜が今はあんだ。俺はまだまだ大丈夫だ。きっと。多分。
 メイスは嬉しげに早速、積み上げられた野菜の一番上に手を伸ばした。瑞々しいレタスだった。なるべく俺は見ないようにしたが、音はどうしても聞こえてしまう。
 ばりっと勢い良く葉が剥がされる音がする。次にレタスの芯の部分を噛み砕くぱりぱりとしなる音。少し前に食われそうになった時の想像がいやおうなく頭をよぎる。
 黙りこくった俺に不審に思ったのかメイスがひょいと顔を出した。その手には食べられているレタス。ほとんど無意識にさわさわと俺が震える。すると葉っぱも揺れる。
 すると俺の眼前のメイスは、ふっとどこか大人びたように笑って
「あまりそう美味しさを見せ付けないでくださいよー、食べたくなるじゃないですか」
 そう言って笑うので、俺もすげえ無理をして乾いた笑いをのせて調子を合わせた。冗談として流さなければ。命にかかわるぞ。
 メイスは冗談ですまさない気満々の、熱っぽい視線でじーっとなめるように俺を見て、それからほうと悩ましげなため息をつき
「レザーさんって、罪なレタスですねえ」
 がんばって笑おう。砂漠よりも乾いたって。
 蒼ざめ震えだしたい身体を必死に抑えて俺は自分に言い聞かせる。


 ――こ、怖がったら負けだっ!


 こんな狭い密室でメイスと二人っきりの、めくるめく恐怖の航海が、一刻も早く一秒も早く終わってくれることだけを、俺はとっくに信じてない神様にでも祈った。



 <イカ光る夜>完


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